第12話 第三章 訪問

 幸作が起床したのは五時前だった。幸作の隣りではまだ茶子が静かに眠っていた。幸作は茶子を起こさないように、床から起き上がると、そのまま縁側を伝い、庭へ出た。外はうっすらと東雲(しののめ)色の気配がしていた。爽やかな朝だった。小鳥たちの囀(さえず)りが何処からともなく聞こえてくる。幸作が大きく伸びをすると、背後から「おはようございます」という声が聞こえた。茶子だった。幸作は「茶子さん、おはようございます。起こしてしまいましたか?」。尋ねた。すると「いいえ」と茶子は首を横に振って言った。左右に垂れ下がった眼はまだ少し眠そうだった。「わたくしもそろそろ起きなければならなかったもので」と言って、にっこり笑った。

 本日は親戚や知人の家に挨拶回りをする予定になっていた。茶子の作ってくれた朝食を食べ、一通り新聞に目を通した。ダグラス・マッカーサー元帥がついに三日後の八月三十日に日本へ上陸するという見出しが大きく出ていた。日本はついに被占領地となるのだ。幸作は新聞を折り畳んで、座卓の上に置いた。

 朝食の準備や片付け、洗濯や掃除を、茶子が終えたのは八時頃になっていた。茶子に少し休んでもらい、九時頃に幸作は茶子と一緒に家を出た。田中町には幸作の日下家を大本家として、五世帯ほどの日下家(分家)が生活していた。本日は祭りが絶頂を迎える日である。幸作は挨拶回りに出かけはしたものの、祭りのために留守宅になっている家がほとんどだった。太陽は絶好調だった。行き交う人々の足が七、八あった。それらは諏訪町に向かっているようだった。彼らは茶色の袢(はん)纏(てん)を着用していた。祭りではこの袢纏を着用していなければ、神輿に触れることも叶わない。神輿は昨日の夜から集落を練り歩き、それを受け継ぎながら、今夜、諏訪町にある、諏訪神社へと奉納される。今年は祭りの担い手が少なくて困っているのだという。若手が不足している町内では、もう還暦を迎えたような爺さんたちが結集して、わずか十五人ほどの小数精鋭で、次の町内まで神輿を根性で担ぎ切り、まさに男を見せた。

 田中町は人が疎らだった。そもそも田中町は土地の1/3くらいは農業用地だった。

「六助(屋号である)さんの家も留守のようですね」

 幸作は茶子に苦笑を見せた。幸作は「後は田六さんの家だけですね。誰かいらっしゃればいいんですけれど」と言った。

 田六(もちろん屋号だ)の家は、日下一族の大長老である大ばば様がいる。大ばば様とは日下家の三代前の日下典随(幸太郎)という人の四人兄妹の末っ子だった。嫁に行ったものの早くに夫に先立たれ(もっとも享年五十二歳だった)、その後は子どもたちも独り立ちし、都会暮らしを始め、義父母を看取ってから日下家へ出戻りしていた。それからばば様は良太郎の弟(秀(ひで)幸(ゆき))の家へ居座り、生活を営んでいた。本来ならば良太郎がばば様の面倒を見るのが筋だったが、良太郎は早くに妻に先立たれ、また日下診療所の過酷な業務があるため、秀幸がこの大ばば様を引き取ったのだった。ばば様はずいぶん偏屈者として知られ、息子たちとの折り合いも極めて悪かったという。息子たちは様々な理由を付けてばば様を引き取ることを拒否していた。ばば様はたいそう頭が切れたそうだが、最近は譫(たわ)言(ごと)を言うようになった。昔は実に恰幅の良い女性だったというが、歳を重ねるにつれ、干からびて皮がぶよぶよに垂れ下がっていた。足は萎えていたが、それでも歩けないほどではなく、諏訪様の急坂を上ることだってできた。ばば様は「もう歳を数えるのは止めちまったよ」などと言っていたが、一昨年白寿の祝いをしていた。しかし良太郎も、秀幸もばば様の実年齢を知らなかったというのが紛れもない実情だった。

 ばば様は突発性のヒステリーを起こすことがしばしばあった。好き嫌いの激しい偏食家で、キュウリは大嫌いだった。ばば様が特に好物としていたのは、白身魚の煮つけで、魚が手に入るとばば様が調合した秘伝のたれに漬けて、壺(つぼ)の中に蓄えていた。

 ある日の田六家の食卓は、米が少しばかりと、キュウリの漬物しかおかずがなかった。そこで秀幸の嫁はばば様に魚の煮つけを分けてもらうように頼み込んだ。

「ばば様、少しでいいから、魚を分けていただけないかしら?」

「いやだよう」ばば様は言った。

「でも、今晩はおかずがないのよ」

嫁はそう言うと、ばば様の壺に手をかけた。

 するとばば様は覆いかぶさるように壺にすがり付いた。

「年老いたからって、こんな仕打ちは酷過ぎる!」ばば様は凄まじく喚き立てた。「そりゃあ、あたしゃ、穀潰しさね! 老い先短くなってせめて好きなお魚さんをたらふく食べて、天国にいるおとっつぁんのお土産にしたいと思ってたのに、このお嫁さんは、あたしからお魚さんを取り上げようとするんだ!」

 その声を聞き付けて、秀幸もばば様の部屋に駆け付けた。

 事情を嫁から聞いた秀幸は、「ばば様、その魚の煮つけを少しでいいから分けてくれんかのう」と頼み込んだ。「家族がひもじい思いをするんですよ」。言った。

 するとばば様は「血を分けたお前まで、そんなことを言うのかい!」。稲妻のように叫んだ。「お前まで、この薄情なお嫁さんの肩を持つのかい! ああ、渡る世間にゃ鬼ばかりと言うが、身内にも鬼はひそんどった」。ばば様はついに絶叫した。「あたしゃ、もうこんな家からは出て行くからね。荷物をまとめて出て行くからねぇ! こんな家にいるくらいなら、野たれ死んだ方が、まだマシさ。捜したって無駄だからね。どうせ見つかりっこないんだから。あたしゃ、死ぬんだからね。もうこんな地獄とはおさらばさ! おとっつぁん、待っていてくだせぇまし!」。

 ばば様は風呂敷を取り出すと、それに壺を包んで、背負って出て行ってしまった。

 このときばかりは、秀幸もむかっ腹を立て、老婆の好きなようにさせた。日が沈みつつあった。……そして一時間が経過していた。秀幸は心配になり、老婆を捜すことにした。もしかすると他人の家に上がり込んで迷惑をかけているのかもしれない。

 しかし秀幸が玄関から出ると、ばば様は玄関から三十歩と歩かないところで、壺に抱きついておんおん泣き崩れていた。

「捜したって、無駄だって言ったのに!」ばば様は恐ろしくつんざくように叫んだ。そして秀幸を詰(なじ)った。「早くおとっつぁんのところに行かせてくだせぇまし、もう地獄だけは勘弁してくだせぇまし」

 ばば様は涙を迸(ほとばし)らせた。ばば様は壺を抱きながら、何やらぶつぶつ言っていたが、秀幸にはもちろん聞き取れなかった。恐らく何かの呪いの言葉だと思われた。

「このひとでなし!」ばば様は突然、叫んだ。「このひとでなしめ……」

 老婆は秀幸を恨めし気に睨んだ。

「悪かったよ、ばば様」と秀幸は言った。老婆の肩を優しく抱いた。「もう、お魚さんを取り上げたりしないから、さぁ、家に戻ろう」

「本当かい?」

 こうしてばば様は田六家へ無事に帰ることができた。



 幸作が田六家へ訪れたとき、このばば様が留守宅を預かっていて、台所に立ち、魚を煮漬けているところだった。老婆はふと幸作の姿に目を留めた。するとばば様は「おとっつぁん」とつぶやいて、菜箸をぽろりと落とした。ばば様は「ようやく、ようやく迎えにきてくれたんだねぇ」。うっとりとして言った。老婆はその場で四つん這いになると、幸作のいる玄関まで這いつくばってやってきて、幸作の手をひしと握った。ばば様の眼には涙が光って、顔中を走る皺に沿って涙が氾濫を起こしていた。「うう、うう」とばば様は呻き始めた。ばば様は決して認知症を患っているわけではなかった。幸作が「大ばば様、お久し振りです」。言うと、老婆は幸作にべっとり寄り添い、身体中を隅から隅まで、べたべたと触り始めた。「ええ、本当にお久し振り。あたしゃ四十年間もおとっつぁんがお迎えにきてくれることを、お待ち申しておりましたもの」。言った。老婆は不意に茶子に眼を留めた。「そのお方はだぁれ?」と語尾を妙に伸ばして言った。すると突然、大ばば様は「まさか!」と叫ぶと後ずさりした。幸作は彼女のことを「茶子さんですよ」と説明した。「私の妻ですよ」。

老婆は電撃にでも打たれたように、口をわなわなさせた。「おとっつぁん、そりゃああんまりだ。あたしは四十年間もおとっつぁんをお慕いしておりましたのに、まさか若い女を誑(たら)しこんでいたなんて!」。そう叫ぶとばば様はぶるぶると身体を震わせた。するとばば様は茶子に向かって「お前も良く、あたしの前に姿を現すことができたもんだねぇ! この売女め」。絶叫すると、突然、茶子に襲いかかった。驚いた幸作はすぐにばば様を押し留めた。老婆はこの世の中に存在する、あらゆる汚い言葉を駆使して、茶子を呪い倒した。幸作は「ばば様、私は良太郎の息子の幸作です」。叫んだ。「決して、おとっつぁんではありません。幸作です。昔、良く可愛がってくれたじゃないですか」。

 ばば様は幸作に抱き留められながらも、まるで機関銃のように極めて汚い言葉を連続して言い放つ有様だった。幸作は「茶子さん、少し外へ出ていてください」。言うと、茶子は戸惑いを隠せず、幸作を何度か振り返りながら、陰気臭い玄関(備え付けが悪かった)から外に出た。

 昼間の気配が濃厚に漂っていた。セミの鳴く声が四方から聞こえている。陰気臭い家屋の玄関で幸作とばば様は二人きりになった。ばば様は「おとっつぁん……」と鋭くつぶやいた。幸作は「私は幸作ですよ。ばば様のおとっつぁんではありません。ばば様のおとっつぁんはもうずいぶん前にお亡くなりになられています」。

ばば様はようやく幸作が幸作であることを認識した。「ああ、幸作さん、ご立派になられまして」。老婆は言うと、幸作の身体を触り、股間にまで手を伸ばした。「立派になられまして」と再び言った。老婆は「しばらくお顔を見かけなかったわねぇ」と言った。幸作は「はい、しばらく軍務で満州に赴いておりましたので」。言った。老婆に「それは九州の何処かかしら?」。尋ねられて幸作は「違います。もっと遠い場所です」と答えた。

「ばば様」と幸作は言った。「本日は叔父さんも、叔母さんも不在にしているようですから、また日を改めてこちらへお伺いさせていただこうと思います。今日は祭りです。ばば様も出かけてみては如何でしょうか? これは私からの満州の土産です」

そう言うと幸作はばば様にステッキ(杖)を渡した。老婆は猜疑心に凝り固まったような顔をして、「これをあたしにくれるのかい?」と尋ねた。「ええ」と幸作が答えると、ばば様は更に猜疑心に凝り固まったような顔をして「タダでかい?」。尋ねた。幸作は頷き「もちろんです」。答えた。すると老婆はよだれを垂らしながら、まるで天にも昇る心地で、狂喜した。「それでは」と幸作は言って、丁重に挨拶してから老婆の家を出た。

外では茶子が日傘を差しながら待っていた。田六家の中からはまだ気狂(きちが)いじみた奇声が外にまで漏れ聞こえてきていた。

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