第11話

 朝美は暗闇に沈む公園のベンチに腰かけていた。他方、男はベンチの周りを右往左往しながら、もう何本目かになる煙草を吸っていた。煙草も配給制だった。成人男子、一日六本までと決まっていた。

「なぁ、朝美」と男は昔を匂わす湿った声で言った。「こんな茶番はもう終わりにしようじゃないか。誰にも望まれないで生まれてくる子どものことも少しは考えるんだ」

「いいえ、少なくともわたくしはこの子の誕生を望んでいるのです」

 男は口奥で渇いた舌打ちを鳴らし、「人間とは忘れることのできる欠陥的頭脳を持っている」。言った。「人類の祖が禁断の果実を食う前の無知な脳の名残かもしれない。神は人間を忘れることのできるように造ったのだ。いいかい、朝美も忘れるんだ。それが朝美のためでもあり、同時にこの私のためでもあるのだよ」。すると男は不意に押し黙り、思わし気な顔をして、右のこめかみを指で押さえた。

 公園の中に不気味な沈黙が舞い降りていた。しばらくその沈黙は公園の隅から隅までを漂い支配していた。それはまるで吸い込まれてしまうかのような沈黙と闇だった。

 そして沈黙を破ったのは男だった。

「旧約聖書に記される、アダムとイヴの神話くらいは、さすがに朝美でも聞いたことがあるだろう」と男は言った。「創造の七日間で神が最後に創造した『人間』が、初めて神を裏切った物語であり、神が初めて人に呪いをかけた物語でもあり、そして人類が永遠の罰を背負うことになった物語さ。久遠の古より、未来永劫に渡って、人類が存続する限り、受けるべき最も残酷で、最も苦しい罰、それは『考える』ということなのだよ。人類は禁断の木の実を食した瞬間から『考える生き物』になった。まず他人を他人と認識するようになり、無花果(いちじく)の葉でその性器を隠すようになった。すかさず神の言葉がイヴを襲う。神はこう言った。『イヴよ、おまえはこれから先、夫によって支配され子どもを産む苦しみを知るだろう』と。神はイヴに子を産み落とすという、『生』の呪いを宿命付けた。それから神はアダムにこう言った。『アダムよ、おまえは一生自分で大地を耕し、働きつづけるのだ。そして最後は死んで土に還らなければならない』と。神はアダムに労働と寿命を与え、土に還すという、『死』の呪いをかけた。この宿命と呪いがどれだけの人間を苦しめ、困惑させ、狂わせてきたのか、朝美に想像できるか? そして物語はついに人間が人間を殺すという不幸を招き寄せた。それは人類が禁断の果実を食ったときから、そう遠くない未来で起こった。人類が最初に殺人を行ったのは、兄による弟殺しだった。カインはアベルを殺した。それもやはり『嫉妬』という欲望と、『考える』という呪いによって、カインはアベルを実に狡猾な経緯で殺している。人類はその胸の中に、果てるともなき渇望を抱くようになり、その渇きを欲望で潤すことを学んだ。その欲望を満たすために、人類は『考える』という業火に身を投げ入れ、あらゆる嗜好を弄び、その儚い愉悦のために人をも殺すことを厭わなくなった。そして人間はどのような状況で、どのように殺せば、渇きを潤すことができるのかを、やはり『考え』、そしてそのやり方を、歴史に刻み込んでいった。そしてついに人間は人間を殺すことに飽きた。人間は『考える』力によって、神が否定してきたもの、神が絶対に触れられたくなかった『神秘』に手をかけるようになった。それは『科学』だった。皮肉にも科学は人間の欲望を満たすために発展を続けた。渇いた心は置き去りにされ、物質文明が、この世界を塗り替えようとしている。そして神を頼らずとも、豊かに暮らせるようになったとき、神は人々の中から殺された」

 男はそこまで話すと深く深呼吸をした。

「何を仰いたいのです!」朝美は叫んだ。

 男はその質問には答えず不気味な微笑を浮かべていた。

「あなたは」と朝美はつぶやいた。「宗教の毒気に中てられて、気がおかしくなっています。あなたの冒涜には必ずや罰が下ります」

「冒涜?」と男は驚いた顔をした。「信心無き者に、どんな冒涜があると言うのか?」

「この人、本当に狂ってるわ」

「狂っているのは日本さ」男はぎらぎらした目で正面を見据えた。「先の戦争は狂っているとしか言いようがないじゃないか。さぁ、あの戦争で何人が死んだ? 第一次世界大戦では四千万人、第二次世界大戦では六千万人以上の命がこの世界から消えてなくなったと推計されている。これは神の神火をも嘲笑う人為的災いなのだよ。神が人間を殺すのと、人間が人間を殺すのは当然わけが違う。そして人間はついに神の力を凌駕した惨状を生み出すまでになった。先人たちは想像力の限りを尽くして、地獄絵図を描いて見せたが、現在の惨状はそれすらも生易しく感じるほどの地獄絵図を創り上げた。それは狂気。狂気の世界なのだよ。中でも、日本の狂気は傑出していてね、日本は狂気の上に狂気を上塗りして、戦争へと転がり落ちた。日本は中国との戦争が泥沼化しているときに、イギリス、オランダ、オーストラリアといった、名立たる国に宣戦布告し、挙句にはアメリカと戦争を始めた。まさかロンドンを陥落させ、アムステルダムを抜き、キャンベラまで戦線を広げて、ワシントンまで制圧できると考えていたのか? そんなバカな話はない。日本は狂っていた。その狂った国の中で、良識を叫んだ人々は、拷問と亡命、日本にいる場所はなく、いることさえ叶わなかった。お前も正平くんが、この国から如何にして追い出されたのかを、その両の眼でつぶさに見てきただろう」

 男は、「沖縄ではずいぶんひどい戦闘が繰り広げられた」。言った。「噂はこちらまで頻りと届いているが、米国人は沖縄の女性市民を次々と犯した。中には旦那と子どもの目の前で犯された婦人もいたらしい。これもある種の嗜好に他ならないが、それと同じことが、今度は日本中で繰り広げられるだろう。例えば女性教師を教え子の前で犯す、とか。この屈辱は生涯、いや歴史に忘れられることはない汚点となるだろう。沖縄の『ひめゆり部隊』は強大な国家権力によって、集団自決したのではない。米兵に凌辱される屈辱から逃れるために集団自決したのだよ」。そう言って、男は再び深い呼吸をした。

 もう何度目かになる、重くてどんよりとした空気が公園を包み込んでいた。男は始終、微笑を顔に浮かべていた。朝美は思い詰めた顔をし、震えていた。その震えを両の手でぐっと押さえつけていた。男の白磁色の肌がまるで死人のようだった。

「人間には二つの嗜好の型があってね」とやがて男は言った。右手の指で、右のこめかみを押さえた。「一つは殺人を好むという嗜好。もう一つは性交をするときの嗜好だ。一つは生命を奪う行為、そして一つは生命を与える行為、本来背反するはずの行為――、いや、背反するからこそ、そこには顕著に嗜好が現れるのかもしれない。私のこれまで知り合ってきた人間の実に99%はこのどちらかの型に嵌まっている人間だったのさ。殺人に関してはもはや何も言うまい。歴史というバンクの中には実に我々の想像力を凌駕した、猟奇殺人が貯えられていてね、特に戦争という行為は殺人と性交の二つの欲求が、恐ろしく率直な手段によって満たされるお誂え向きの舞台なのさ。朝美、お前も例外なく、性交に愉悦していただろう。大きくなった硬いペニスが欲しくて堪らなかったんだろう? お前が私のそれを犬のように欲しがったとき、あれはまさしく獣と同じだったじゃないか。お前は不倫をしているという嗜好を、自らのエクスタシーに変容させ、そしてついに失神し、失禁するほどのエクスタシーにまで辿り着いたんじゃないのか。今のお前ならば、私と交わることによって、それ以上の快楽を味わうことができる。お前は願わくは、正平くんの目の前で、この私に犯されてみたいという欲求を感じているのさ」

 朝美は顔を真っ赤にして、「やめてください」と怒鳴り、両手で顔を覆った。すると男はすかさず朝美の背後に回り、手を伸ばした。男は朝美の背後から腕を回し、動けないようにすると、逆の手を朝美の浴衣の裾に突っ込んだ、朝美の肉付いた太ももをこじ開けて、男は朝美の膣をまさぐり始めた。びくりとした朝美は「やめてください!」。激しく抵抗したが、彼女の膣はぐっしょりと濡れていた。男はそのまま朝美の生殖器を責め続けた。朝美は抵抗を諦め、ついに喘ぎ声をあげた。いつの間にか股も大きく広げ、もはや男の指の上下を止めることはなかった。朝美の吐息は乱れていた。そしてついに朝美はオルガスムスに達し、身体を引き攣らせた。朝美の浴衣はぐっしょりと濡れて、ベンチからは愛液がとろりと滴っていた。朝美は噴いていた。男は濡れた右手をおもむろに浴衣の裾から抜き出すと、ハンカチで拭き取り、蔑んだ目で、まだ息の上がっている朝美を見下ろした。そして神経質に笑った。男は朝美の正面に回り、首元をゆっくりと指の腹で撫でた。すると朝美の身体は再びびくりと反応した。

 男は「分かっただろう」と言った。「お前は私の言う通りにしていれば、快楽をさえ、ほしいままにできるのだ」。朝美は唇を噛み締めて、「はい……」と答えた。男は「分かったならよろしい」と言った。「お前は産まれた子どもを私に託すだけでいい。私は生憎だが、紳士だ。お前に子どもの亡骸を見せることはないだろう」。男は口元をぐにゃりと歪めた。「イヴは」と男は最後に言った。「蛇から誘惑されて禁断の果実を食したのだ。お前もまた神に呪われた存在だな」。

 男はそう言い放つと、公園を後にした。一人、公園に残された朝美は熱い身体の火照りを感じ、そして物思いに沈んでいた。あの人の言葉は優しかった。それが何で、あんなに惨い言葉に変わってしまったの? 朝美はさめざめと涙が出てきた。どうしてこんなことになってしまったの? 朝美は自分の心を激しく責め立てた。するとどうしようもない悲しみが込み上げてきて、誰にも気付かれないように、声を殺し、肩で泣いた。

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