第9話

 麻布の路地端にその赤ちょうちんはあった。十二月の風は冷たく、屋台からはもうもうとした湯気が立ち上っていた。そこは五十代と思わしき店主の親父が一人で経営しているしがない屋台だった。男はビールを注文した。朝美は熱燗の日本酒を注文した。お通しはクジラ汁だった。脂がぎとぎとに滲み出ていて、じゃがいもと瓜が入っていた。

「それじゃあ、乾杯といこうか、お隣りさん」

 グラスと猪口がこんと鳴り合う。

「私は大学で物理学を専攻していてね」と男は言った。「相対性理論や量子論なんかは、人類を飛躍的に進歩させるに相違ないよ」

「わたくしに学問の話はちょっと……」

「学問の話なんてするつもりはないね」男は肩を竦(すく)めた。「ただ、物理学によって、この世界は大きく引っくり返るんだ。神が七日間で創造した世界の神秘に、人類は二十世紀という時間がかかったものの、ついにそれへ手をかけたんだ。常識が覆るぞ」

「なんだか楽しそうですね」

「そりゃあそうさ。神を丸裸にできるんだぜ! 相対性理論や量子論は、人類の歴史、軍事、医療、もちろん科学の諸分野において、世界の謎とされるもの、すべての神秘を解き明かす鍵になるんだ」

「謎があるからこそ人間は人間らしく、悩んだり、考えたりするんじゃないかしら。すべてが合理的に組み合った世界にきっと人間の居場所はないと思いますわ。機械だらけの世界なんて、居心地が悪そうですね。機械が働いてくれるならば、人間は労働を機械に奪われますわ。でも労働がないことは本当に人間にとって幸福なことなのかしら。機械だらけの世界の中で、人間は唯一残る矛盾した生き物ではないかしら」

「そうかな? あなたは珍しい考えの持ち主なんだな。今や世界はすべて合理的科学によって、構造が塗り替えられようとしている時期に、合理性を嫌うとはね。先に行われたパリ万博は科学の叡智を証明して見せて、誰もがスモールフューチャーを予感した。そして合理的社会構造によって、この世の中から飢えがなくなり、戦争もなくなる世界が訪れるんだ。飢えや戦争がなくなるメカニズムもまた科学の力によって解明されていくんだよ。いいかい、世界の人々が富みを享受できるそんな世の中になるんだ。もう一部の先進国のみが飽食を貪る時代を終わらせなければならない」

 男はビールというまだ日本では聞き慣れない飲み物を飲んでいる。杯も重なってきた。他方、朝美は男から酌を受けながら、熱燗の日本酒を飲んでいた。顔が仄かに赤くなり身体は火照っていた。飲み慣れていないせいもあるだろう。

「人類の歩む一歩一歩の歩幅が着実に広くなっている」と男は言った。「産業革命以来飛躍的に人類は進化している。日本はかつて農本主義だったが、一度、資本主義の荒波に身を投じたならば、もう元へは戻れない。必死で働き続け、金になるような価値ある物を生産し、消費していかなければならないんだ。この永遠のサイクルからは、もう逃れられないだろう」

 朝美は故郷の田園風景を思い出してみる。

 その農村の風景がやがて都市化し、でこぼこのビルの陰影を刻むようになるのか、この東京のように。麻布の路地端に冷たく乾いた風が通り抜けた。

「大不況がこの日本を覆っている」と男は続けた。「農村の貧窮は凄まじい。今は国防費に割かれる予算を縮減して、内政政策を推し進めなくてはならないというのに、っち、あの分からず屋どもが」

「何かあったのですか?」

「何もないから忌々しいんだよ」

「少し、お酒の飲み過ぎじゃありませんの?」

 男は朝美の目をじっと見据えた。

「今日はあなたの部屋に泊めていただきたい、いいね?」

 男はそう言うと、朝美の肩に手を回した。

 朝美は心臓が飛び出してしまいそうになった。朝美の硬直を男はすぐさま察した。

「柿崎さん」と彼は言った。「あなたの意見を聞かせてほしい。日本はこれからどうなってゆくのか? こんな会話はナンセンスだと思うかい? あなたの理想や、これからの日本がどんな形になれば良いか、聞かせてくれないか」

「そんな、わたくしに政見なんてあるはずがないわ」

「でも、理想はあるでしょう。理想は即ち政治なのさ」

 男は朝美の肩から手を離した。手を離せば、言葉も放たれてゆくものだ。その男の態度を受けて、朝美の身体もすっと柔らかくなった。

「理想と言われましても、私には分かりません。ただ子どもたちが幸せに暮らせる国ならば日本の未来は明るいんじゃないかしら」

「子どもたちがねぇ?」彼は言った。「しかし、まずこの大不況を何とかしなければ、日本は近いうちに必ず、再び戦争に突入するよ」

 朝美は「また戦争ですか?」と俯いた。日露戦争は今や伝説と化していた。それに登場する英雄たちは、日本国内において神格化さえされていた。

「日本には戦争をしたくて堪らない人間と、何が何でも戦争を回避したい人間が勢力争いを繰り広げている。あなたはどちらの立場に立っているのかな?」

「わたくしには分かりません」

「でも日本がどうなるのか、現在は女性も論陣を張っている。婦人参政権を獲得するためにね。あなただって、榊原さんと一緒にいるのならば、少しくらい考えているだろう? さぁ、誰も聞いていない、酔った勢いだと思って」

「……日本は」と朝美はつぶやくように答えた。「大正期に左翼派が政権を大きく主導しました。諸手を挙げた欧化政策、その結果として大正デモクラシーが起こり、金欲主義者の跋扈は目に余るほどでした。しかし欧化政策を左翼系議員たちが推し進めた、その反動的結果として、有史以来、未曾有の大不況が起こり、左翼派では政権の維持が覚束ないことを悟り、日本は右翼化していっているように思います。わたくしの考えでは、これから日本は欧米化するようなことはなく、ひたすら国粋、右翼化してゆくのだろうと考えています。日本の民主主義はもはや失墜したのも同然でしょう。普選法の獲得により治安維持法が制定されましたが、これは軍国主義を助長させる第一段階とわたくしは考えています。軍国主義一色の帝国になろうとしているのが昨今の傾向だと思います。そして久布白落実さんたちが頑張っている婦人参政権が実現する日は、残念ながらまだ遠い先にあると考えております。女性は戦争をしたりしませんから」

 朝美は言うと顔を真っ赤に染めた。出過ぎたこと言ったのかもしれないわ。ほとんどが世間で言われていることの受け売りだったが、朝美個人の私見をそこに多少反映していた。男はこめかみに手を当て考えるような仕草をした。

 男は再び朝美の肩に手をそっと回した。優しい微笑が顔に表れていた。男は確かに酔っていたが、その顔から理性みたいなものが消えることはなかった。

「私はあなたの部屋に泊るが、決して厭らしいことはしない。おバカさん」男は朝美を小ばかにしたように言った。

 朝美はくすくす笑った。学問のないことを見破られたわ。

男は二本目のビールの栓を抜き、「私はね、神学もちょっと齧っていてね。日本の宗教論と欧米の宗教論の差異をまとめた論文なんかも出しているんだよ」。言った。「日本の宗教論はちょっとばかしオリジナルでね、これが欧米の絶対神が聞いたら、ちょっとびっくりするだろうよ!」。

 男は悪戯っぽく笑う。

「神仏混淆なんて欧米人が聞いたら、とんでもない!」と男は大袈裟な身振りを交えて言った。「垂迹(すいじゃく)なんて実に日本人らしい考え方じゃないか。それが今度は廃仏毀釈に代わってゆくんだぜ。実にユニークじゃないか」

 男は肩を揺らして笑う。

「まぁ、そんなことより、今日の私の女神様に乾杯だ」

「いいですよ」と朝美は顔を赤くして言った。

「何が?」

「わたくしの部屋に泊ってもいいですよ」

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