第8話
朝美と彼が知り合ったのは、もう何年も前のことだった。男と朝美は東京で知り合いになった。
当時の朝美は東京で食うや食わずの、ひもじい生活を送っていた。手に職もなく乞食同然にまで身を窶(やつ)していた。身なりもまさに乞食と見紛うほどの汚らしい格好をし、いかにも田舎の農村から、都会に出てきたようなそんな雰囲気を服装や所作、言葉遣いなど、体中から発していた。住む場所も金もなく、朝美は途方に暮れた。靴磨きなどをして何とか糊口を凌ぎ、寝るときは最寄りの駅舎で寝た。風呂は人目を憚って、夜に隅田川の流れで垢を落とした(朝美は綺麗好きだった)。実家から持ってこられた物と言えば、裁縫道具と、ぼろきれにすらならない、みすぼらしい継ぎだらけの服だけだった。しかし当時の朝美は明るく、自分も人並みな生活がいつでもできることを希望としていた。たださすがの朝美もその日の食い扶持を稼ぎ、ほとんど路上で眠るような生活には辟易した。駅で寝ていると布施をしてくれる人もいたが、たいていは朝美の身体を買おうと近寄ってくる男性ばかりだった。
ときに東京駅はスカーフを頭に巻いた娼婦の群れたちが男たちを誘惑していた。そんな風景を見るのは、没落してはいたが、名家の令嬢として田舎で育った朝美の純朴な胸に耐えられない苦痛以外の何物でもなかった。
しかしそんな悩みを一遍に解決してしまえる方法が一つだけあることを朝美は知っていた。そう、女中である。住み込みで働かせてもらえるうえに、三食のメシにも困らない。自分には幼い弟妹が二人いて、子どもの扱いならば手慣れたものだ。
そんな折、ついに朝美を家政婦として雇用を検討してくれる人物が現れた。その人物、名を榊原満冶(さかきばらまんじ)という。榊原は新潟出身で、また朝美と同郷人(上越出身)だと言う。
榊原は上越を代表する商家の出身であったが、東京の帝國大学に進学し、卒業した後に一旦、上越に戻り、それからアメリカに留学したことのある、この時代にしては異色の人物であった。彼はアメリカで資本主義のなんたるかを学び、帰国後は事業を起こすに至るのだが、その後も中央との関係を密にし、株と不動産の転売で大儲けした人物である。従って政界との繋がりも濃く、その意見が政治に反映できるだけの影響力を持った硬骨派の財界人として広く知られていた。
また彼は海沿いの集落である、我が村に瀟洒(しょうしゃ)な別荘を持っていて、朝美の出身地を訊くと、たちまち家政婦に雇うことを決めてくれた。
朝美が家政婦として雇われたこの家こそ、男と朝美の最初の出会いだった。
榊原はアパートを四軒(もっと所有していたかもしれない)持っていた。このアパートは売買目的ではなく、ある社会貢献の意識から、榊原はこれらのアパートを所有していた。というのは、榊原は新潟から東京に出稼ぎに、あるいは留学しに来ている若者たちに、そのアパートを格安で間借りさせていたのだった。
榊原はたいそう日本美人とも言える、ぺちゃ鼻でお多福型の夫人を持ち、上は九歳から下は三歳になる、三人の子どもを授かっていた。朝美には家政婦として、奥向きの用事を一手に任せた。
戦争の足音は遠く、時代は昭和になって久しかった。まだ関東大震災の痛ましい爪痕が残ってはいたが、東京には大正モダンの色香が色褪せることもなく、残っている時代であった。榊原夫人は頻りとお茶会等を開いていたし、朝美を百貨店に連れて行き、人並みな洋服も買ってくれた。榊原家では十八時に夕食を終えると、朝美に暇を出した。朝美はというと、榊原の所有するアパートの一室を間借りして、そこで生計を立てていた。その部屋の隣に住んでいた人物こそ彼であった。
彼の生家(せいか)は新潟にあり、かなり裕福な家(江戸時代から脈々と続く名家の家柄でもあった)だと言う。彼の父と榊原は懇意の仲で、彼は地元の中学校を卒業すると、大学進学のために東京に出てきた。それから六年の長きを数えている。もっと広いアパートを借りるだけの経済力を持ちながらも、彼は榊原のアパートに住むことを親から強いられていた。
「くれぐれも間違いのないように見守っていただきたい」
彼の父は榊原にそう言って、息子を託したという。
彼の身なりはいつも清潔だった。まだ袴姿の学生の中にあって、彼はいつもスーツに身を包み、モダンな帽子を被っていた。彼はすでに大学課程を修業し、院生として大学の研究室に身を置いていた。
この研究室は彼にとって居心地が良かった。彼はプラグマティズムの持ち主だった。これは東京(こちら)に来てから、榊原の影響を受けたものらしい。彼は大学の研究室に身を置く傍ら、学生運動などにも身を投じていた。アメリカや欧州の圧力が日に日に強まる中で、日本はまさに反米、反英ムードが漂いを見せていた。そこで彼はまだ思想も覚束ない学生たちの先頭に立ち(煽動したのだ)、カトリック教会を襲撃し、放火する事件まで起こしたことがあるのだった。彼は政治紛争の種を自ら蒔いて、自ら育て、そして収穫した。
しかし彼はそんな過激な面ばかりを持っている単純な男ではなかった。彼についての噂はどれもこれも、暴力的で過激だったが、実際の彼はそんな噂とはまるで正反対の優男だった。青白い顔をし、如何にも腺病質みたいだった。
朝美の歳は彼の三つ下だった。朝美も彼についての怖い噂はたくさん聞いていた。しかし隣りの住人が紛れもない噂の張本人だとはちょっと信じられなかった。朝美は彼に話しかけるほどの勇気を持てずにいたが、彼は朝美とすれ違うと爽やかな挨拶を交えてくれた。その仕草は実に洗練されていて、如何にも東京の社交界にも慣れたような、そんな繊細な雰囲気があった。
その日も朝美は仕事を終えると、自分のアパートへ帰宅した。すると廊下の一隅で彼とばったり顔を合わせた。朝美は挨拶も漫ろにその場を会釈だけして通り過ぎようとした。
すると、「柿崎さん――」と男に呼び止められた。
柿崎(かきざき)というのは朝美の旧姓である。
「――これから銭湯に行こうと思うんだが、あなたも一緒にどうですか? もちろん混浴ではありませんよ」
男は如何にも気さくそうに朝美を誘っている。
噂の彼と、この男性は違うんじゃないかしら?
「さぁ、準備をしたら出かけようか」男は朝美の返事を待たず、にっこり言う。
朝美は断るのに窮していたが、突如としてこの男に激しい興味を覚えた。この白磁色の肌を持ち、血管さえ何かの模様のような、男の姿は、噂にある男の印象とかけ離れていた。彼はたちまち大学課程を卒業し、教会を襲撃したかと思いきや、今を彩る雑誌に論文が何度か掲載されていた。朝美には学がなかったが、突如としてこの男に異常な興味を抱いた。断る気でいたものの、朝美は銭湯に行くことにした。
「入浴道具を持って参りますから、少しだけお待ちください」
朝美はそう言うと足早に部屋の中に消えた。
部屋の中で一人になると、激しい動悸が彼女の胸を襲った。無論、二人で外出したことなんて一度もなかったし、こんな風に誘われたのも本日が初めてだった。彼と出かけ、会話を交えることによって、自分の運命に何かしらの変化が訪れるような、そんな期待と不安があった。例えば縁談。烏滸がましくも年頃の朝美はそんな考えも頭の中にちらついた。
五分とかからずに朝美は部屋から出てきた。荷物は着替えとバスタオルのみだった。男は褐色の紬を着用していた。
銭湯は二人の住んでいるアパートから十分と歩かないところにあった。ちなみに朝美や彼が間借りしている部屋には、小さいながらも風呂が各個室にあった。だが男はこの狭くカビ臭い風呂を使わずに、ほとんど毎日銭湯に通っていることを朝美は知っていた。
朝美はこの頃になると、もう都会の生活にもすっかり慣れてきていて、女中の仕事も自分にぴったりな仕事だと思っていた。収入はあるが、国元の両親へ向けてまとまった額を送金しなければいけないため、家計はやはり豊かではなかった。しかしそんな中でも朝美は、少しずつではあるが、預金をしていた。
男は「榊原さんは人徳者だよ」。銭湯に行く途上に言った。「榊原さんに救われた同郷人もたくさんいるんだ」。彼は屈託なく言った。
「実はわたくしもそんな一人なんです」と朝美は答えた。「口減らしのために、追い出されたのも同然で、職を求めて新潟から東京に出てきたんですが、東京の右も左も分からず、身寄りのないわたくしは、乞食にまで成り果てました」
「どうやって、榊原さんと知り合ったんだい?」
「恥ずかしながら、わたくしは靴磨きをしながら、その日の糊口を凌いでいたのです。そんなときにお客様として足を運んでくださったのが、ある企業の社長様でいらしたんです。その方が榊原様をご紹介してくださったのです」
「そうなのか。榊原さんはとにかく顔が広くてね、色々な企業の社長とも昵懇にしているし、貧乏な学生や出稼ぎ労働者にも理解を示していてね、それで特に同郷人のサークルなんかに頻繁に顔を出して、彼らの面倒を見てやっているんだ。仕事の斡旋はもとより、新興財閥などへの投資もしていてね、榊原さんと知り合えば、まず職に困るということはないんだよ」
銭湯に着くと、男は男湯の方へ吸い込まれ、朝美は女湯の入口に吸い込まれた。この時代はユニットバスというものがなかったから、銭湯は活気があったし、繁盛もしていた。日本は世界に稀なほど綺麗好きの風俗を持っている。恐らく『穢れ』というものを嫌うという、心裡(しんり)宗教が働いているためだと思われる。そんな綺麗好きな文化を持っているから、風呂や銭湯は栄えた。
やがて風呂から上がると、これまた男の提案で赤ちょうちんに寄って、一杯引っかけようという話になった。
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