第7話 第二章 暗闇の中の公園

 四宮町には四宮公園というほとんど寂れた公園が町内のほぼ中心にあった。その公園には神社もあり、町内の名前から察することができるように、四柱の神が祀られていた。主神は八幡だった。磯崎巌老人や、市川弥助はこの町内に居を構えていた。診療所のある田中町と隣り町内であることも触れている。四宮公園は辻から一段、高いところに構えられ、その周囲を金木犀(きんもくせい)や躑躅(つつじ)などで囲まれており、外界からの視界を完全に遮蔽されていた。この目立たない公園で坂内朝美はある男と待ち合わせをしていた。時間は夜の十一時を回り、公園には街灯らしきものも見当たらず、いよいよ暗闇は陰気な公園に重い帳を落としていた。朝美は目立たないように、暗い色の浴衣を着用していた。公園の端にはベンチが設けられていて、朝美はそこに座っていた。やがてその男は公園を訪れた。公園の入り口には質素な鳥居が構えられていたが、男は鳥居をくぐるときに人影がないか念入りに確認した。それがないと分かると、ようやく鳥居をくぐり、朝美の座るベンチまで足を運んだ。  

男は「待たせたか?」と尋ねた。朝美は「いいえ」と答えた。

朝美は腰を浮かせかけたが、男は「そのままでいい」と言った。

「身体の調子はどうだい?」続けて男は尋ねた。

「身体は大丈夫です」

「顔色が優れないようだけれど?」

「ええ」と朝美は思わし気に答えた。「あなたがご存知かどうか分かりませんが、今日、若先生が戻って参りました」

「ああ、私も知っている。それが何か?」

「若先生は優秀な観察眼をお持ちです。わたくしの顔色を窺っておいででした」朝美は地面に視線を落とした。「もう隠せないかもしれません。ましてや子どもが産まれてしまえば――」

「お前は何も心配することはない」男は朝美の言葉尻を制して言った。「お産が終わるまでの辛抱だ。幸いにもお前のお腹からは、もう臨月だというのに、妊娠していることが全くと言って良いほど分からない。お前の妊娠を知っているのは、私とお前だけだ」

「でも、若先生の眼はごまかせませんよ」

「何度も言わせないでくれ。お前は心配するな。まだ手段は残っている……」男は語尾を曖昧にして神経質そうに、喉の奥で笑い、口元を歪めた。

「手段ですって?」朝美はつぶやいて男の顔を恐る恐る見上げた。

 朝美は「まさか!」と小さく叫び、ベンチから不意に立ち上がった。朝美は一歩、あとずさった。すると男は朝美に一歩近寄り、不気味に歪んだ笑みを浮かべた。男は「お前の妊娠がもっと早い段階で分かっていれば、こんなことにならずに済んだのになぁ」。言った。朝美は再び「ふざけないでください!」と小さく叫んだ。「黙れ、売女(ばいた)! 人だ」。男は咄嗟に言うと、息を殺した。辻から祭り囃子(はやし)を唄う酔っ払いの声が公園の前を遮ってゆく。やがてその声は遠く聴こえなくなった。

「クソが!」男は吐き捨てた。「何故、私までびくびくしなければならない」

 朝美は神経質に震えていた。「……しを」。朝美は何やらつぶやいた。「――わたくしを売女と呼んだことを撤回してください!」。朝美は低い声で、しかしはっきりと聞こえる声で言った。男はじろりと朝美を見た。男は「何だと?」と鋭く重く言った。

 朝美は「誰が売女なものですか!」とついに叫んだ。「わたくしは確かにあなたと不義を犯しましたが、決して売女ではありません!」。すると男は「声を抑えろ、このバカ者が!」。鋭く低い声で言った。朝美は少し声を落とし「いいですか、わたくしがその気になれば、このことを公表することだってできるのですよ。あなたの運命だってわたくしが握っているのです。思い違いをなさらないでください」と囁きながら鋭く言った。男は舌打ちし、「忌々しい女め」と呻くように言った。

 それからしばらく沈黙の時間が訪れた。男は紙巻きたばこを取り出し、酷くせっかちに吸い始めた。それを三回吸った後に、男はたばこを地面に叩き付け、足で揉み消した。男はベンチに腰かけると、右のこめかみを右手で押さえながら、足を組んだ。五分としないうちに男は再び腰を上げ、今度はベンチの周りをゆっくりと歩き回った。朝美はそれら一連の行動が酷く神経質に思われた。

「やはり」と口を開いたのは男だった。「その子どもは殺す」

 朝美はぎくりとした。朝美は蔑(さげす)んだ目で男を睨んだ。

「あなたは本気でそのようなことを仰っているんですか?」

「私が冗談を言うと思うかね?」

朝美は「何て、おぞましき考え」。震えながらつぶやいた。「でも、わたくしはこの子を守ります」。断固とした調子で言った。男は朝美を見下し、「正平くんが満州から戻ってきたら、どうする?」と尋ねた。朝美は「そ、それは……」と言葉に詰まった。男は極めて冷静に「あの男は不義を決して許さない。お前は殺されるよ、確実に」。予言するかのように言った。朝美は再びぎくりとした。朝美にも思い当たる節があった。正平なら、不義が露見した時点で、朝美をただでは済まさないだろう。あるいは男の言うように、殴り殺されてしまうかもしれない。

「愛妻家」という言葉がこの時代にあっただろうか。しかし正平の朝美に対する感情はまさにそれだった。正平は週に三、四度ほど身辺に起こったことを日記として認(したた)めていたが、その日記の中でも朝美への愛情が随所に見受けられていた。満州で「女を買いに行かないか?」と炭鉱仲間から声をかけられたことがあった。そのとき正平はほとんど激昂して、その妻に対する裏切りをそそのかした炭鉱仲間を殴り飛ばしたのだった。日記に曰く、正平の日記の最後は必ず、朝美が不憫で仕方がない、朝美が心配だ、朝美はどうしているだろう、だいたいこれらの言葉で締めくくられていた。

 朝美はそんな事件や事情があったとは知らなかったが、正平の性格を最も知り抜いていた。知り抜いていればこそ、恐怖を覚えた。

「あなたの考えは正気の沙汰とは思えません」朝美は言った。

「ああ、狂っているさ。お前の妊娠が発覚したときからな」

「あなたは本当に赤ちゃんを?」

「いいか、良く聞け。今日でこの不毛な議論は終わりだ。お前は私の言いなりになっていればいいんだ。お前は私に赤ん坊を託すだけでいいんだ。託すだけ、たったそれだけで何もかもがすべて、終わる。お前はお前を苦しめる一切から解放される」

「すべて、終わる……」

 朝美はつぶやくと倉皇とした顔をした。朝美は妊娠が発覚してから(朝美は四ヶ月目にして妊娠が発覚した)の六ヶ月という間、ほとんど身も細るような心労に悩まされていた。様々な不幸が脳裏に過っては、消えていった。それがすべて帳消しになるとしたなら、あるいは……、とも考えた。

「あなたは」と朝美は言った。「小さな命は命ではないと?」

「愚問な。子どもは親の都合によって、生きもするし、死にもする。そんな常識をいちいち尋ねないでくれ」

 親の都合で学校にも行けずに、働かなければならない子どもたちがいた。幼いうちから水夫として漁船に乗り込まされる子どもたちがいた。彼らは俗に「飯炊き」と呼ばれていた。過酷な労働から、入水自殺を図る子どもたちが続出した。海から子どものどざえもんがあがることは、そう珍しくはなかった。また日本は世界でも有数の石炭の産出国だった。子どもたちは光の遠く届かない、炭鉱で働き、太陽から見放された生活を送った。

 朝美は考えていた。この子に明るい未来を。しかし日本は敗戦と貧困の極みで生きていたし、明るい未来を夢見ることは遠く叶わない。敗戦がもたらせたもの。それは憂いではなく、安堵感だった。空襲を恐れずに済む日々。泥沼のような貧乏からの脱出。飢えという切実な現状の打破。皮肉にも戦争に敗れることによって、それらはすべて満たされるのであった。



 男はまるで朝美の考えていることを見透かしたように、不気味に口元を歪ませ、微笑した。男は「良く考えろ」と言った。「生まれてきたとて、その子は生きる術を持たない。お前も一度、子を喪っているのだから分かるだろう?」。男は朝美の肩に手を添え、耳元で囁いた。朝美はびくりとした。

「簡単なことさ」男は囁いた。「子どもが産まれたら、私に差し出すだけでいい」

 朝美にはそれが悪魔の囁きに聞こえた。

「正平くんが戻ったらどうする?」男は続けた。

 朝美の口は震えていた。何かを喋ろうとしたが、歯が合わなかった。

「蒙古兵というのは実に残忍でねぇ」男は朝美の背後に回って、その髪の毛を触りながら耳元で囁いた。「昔、蒙古帝国時代、ロシアを制圧したときに、白人美人の妊婦の腹をかっさばいて、胎児を無理やり取り出したんだそうだ。そしてその胎児を父親や家族が見ている前で、宙に放り投げ、槍で串刺しにして愉悦したそうだよ。奴ら、殺しにかけてはもはや至高と言えるくらいの、芸術的な殺し方を発明していたのさ。それだけじゃあない。妊婦の膣に無理やり手を突っ込んで、胎児の頭を鷲掴むと、まるで大根を引っこ抜くように妊婦の腹の中から胎児を取り出すんだそうだ。そしてその胎児を母親や家族の見ている前で、調理して食ってしまうという。赤子の肉は柔らかくて、実に美味なんだそうだ。そこには殺戮の精神と嗜好があるだけさ。何故ならば日本人の頭ではとうてい考えもつかないことを、遊牧民族たちはやってのける。動物を殺すことに慣れ過ぎているのだよ。奴らにとっちゃ、白人美人も毛皮を剥がされる羊も、皆一緒なのさ。ちなみに奴らは考えることは悪魔的なのに、奴らは奴らの悪魔をひどく、恐れていてね、蒙古人は自分の子の名に、悪魔に目を付けられないように、ひどく下品な名前を付けるそうだよ。例えば『馬の糞』だとか、『臭い臓物』みたいな名さ。日本人が人を食ったなどという話はまず聞かないけれど、秀吉の鳥取城攻めのときと、天明の大飢饉のときは人を食う者が現れたと聞くよ。本当に食えるものがなくなったときと、倫理の荒廃が同時に人間の中で重なり合ったとき、人は、人を喰うのだよ。さてお前の子は食う側か、食われる側か?」

「何を仰いたいのです!」朝美は叫んだ。

「生憎、私は紳士でね。そんな残忍な殺戮を決して許しはしない。殺すときは、苦痛を感じぬように、スマートに殺す」

「あなたはぐちゃぐちゃに歪んでいます」朝美は声を絞り出した。「日本人ならば、産まれてきたばかりの赤ちゃんを殺そうなどとは絶対に考えません。そんなことを話すことすらも憚れるくらいです。子どもはこの国の宝なのですから」

「ふん、世迷言を」男は吐き捨てた。「それじゃあ、飯塚家の紀見子さんはどうだ? まだ初潮も迎えていないのに、東京へ出され、男を取っていたじゃないか。なけなしの金を握って、スカーフで顔を隠すように生活していたじゃないか。お前も一歩間違えば、紀見子さんのようになっていたんじゃないか? 榊原さんに出会わなければ」

 朝美は涙が溢れ出してきた。

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