第4話

 住宅に帰った幸作は、旅装も解かず、まず仏壇に向かってお祈りした。紫色の線香にマッチで火を点すと、一縷の煙がすっと立ち上り、そしてふっと消えた。仏壇に置かれた過去帳には幸作の母の名が記されていた。幸作の母は彼が幼い頃に結核を患い、大正十三年に亡くなっていた。享年二十八歳という若さだった。コッホによって結核菌が発見されたのは、十九世紀も後半になってからだが、それに対して有効なワクチンの開発はもう半世紀を待たなければならなかった。良太郎は夫として、あるいは医師として妻の死を重く受け止めた。「救ってやれずに申し訳なかった」。幸作は記憶に覚束なかっただろうが、理子が眼にした良太郎の涙は、先にも後にも、これが初めてであり、最後だった。良太郎は後妻も娶らず、男手一つで、理子と幸作を育て上げ、しつけに関しては恐ろしく厳しかった。そうすることで亡き妻への贖罪をしていたのかもしれない。

良太郎は結核療法の論文には可能な限り目を通し、アカデミーでも結核療法に関する臨床医としては名を広く知られていた。小さな村の、一医師にも拘わらず、結核患者がわざわざこの村を訪れることもあったくらいだった。患者たちは冷厳な良太郎を敬いもしたし、信頼もした。良太郎は権威を毛嫌いしているのに、皮肉なことに彼は極めて威厳のある医師だったのである。しかし結核患者が村にくることに、村民は少なからず顔色を曇らせた。結核は言わずと知れた、日本の死亡率第一位の国民病だったし、伝染病でもあり、不治の病だと誰もが認知していたからだ。

良太郎の教育はときに苛烈を極めることもあった。子どもをしつけるにはまず恐怖という愛情を与えればよいと考えていた。幸作は幼い頃(五歳くらいだったと思う)、正座して本を読まされていた。幸作は不意に欠伸(あくび)を漏らした。するとその様子を見ていた良太郎は「驕(おご)ったか、幸作!」と一喝し、いきなり幸作を蹴り飛ばしたのである。それから幸作を納屋の中に連れて行き、施錠し監禁した。納屋の中には天窓があり、そこから微かな光が差し込んでいた。全体的に埃っぽかった。その中で幸作は本を朗読し、読み終えると納屋から出してもらった。幸作はそのとき、土下座して「ありがとうございました」と言わなければならなかった。良太郎は勉学の道とはすべからく日本国のために存在し、それ以外の如何なる勉学も認めなかった。その勉学を怠った幸作は、良太郎からすれば日本国に不忠の者であり、あるいは非国民であり、またあるいは血税を貪る寄生虫のように映るのかも分からなかった。

言わずもがな、理子と幸作は良太郎を畏れ、敬った。口よりも先に拳が出る良太郎だったが、その拳には確かに愛情みたいなものが宿っていた。そんな良太郎がひどく滑稽な役回りを演じる年中行事がある。節分である。彼はほとんど内職的に作り上げた(良太郎は子どもたちを驚かせることを楽しみとしていた)、一見の価値ある鬼の面を被り、身体に墨を塗ってふんどし一丁で子どもたちに襲いかかる。理子と幸作は「鬼は外、鬼は外」と発狂したように絶叫しながら良太郎に豆をぶつけた。良太郎は散々、豆をぶつけられた挙句(これがなかなか痛いのだという)、無様に極寒の外へ逃げてゆく。このとき、子どもたちは鬼に向かって、どんな無礼な言葉を口にしても良かった。それで後になって良太郎が怒ることは一度としてなかった。

 母が亡くなっているため、日下家はほのぼのとした明るい家庭とは違っていた。規律と風紀が支配する冷厳な家庭だった。しかし理子と幸作はひねくれずにその青春時代を送ったし(理子は家事を切り盛りするしっかり者だったし、幸作は根が大人しく悪戯するような子どもではなかった)、理子を村でも有数の名士である、大久保家に嫁がせ、幸作は良太郎と同じ医道を歩むことになり、彼の無二の親友の娘と娶(めあ)わせた。

 幸作が軍務に就くに当たり、良太郎と茶子は、狭い家の中に二人で過ごした。幸作と茶子は結婚し、その数ヶ月も経たないうちに彼は軍務に就き、茶子はこの家で幸作と過ごした時間よりも、良太郎と過ごした時間の方がいささか長いのだった。良太郎の口数の少なさや、日下家を取り巻く雰囲気は、茶子がこれまで味わってきた家庭の雰囲気とはずいぶん趣を異にしていた。良太郎は口数が恐ろしく少なく、彼は必要最低限の言葉しか操れないことを、茶子はすぐに見極めた。良太郎は日常生活において単語を二十語ほど扱えれば、生活に困らない男だった。例えるなら、彼が「ごはん」と言えば、飯を食べる、あるいは腹が減っていることを意味していた。諸事が万事、こんな具合で、彼の身辺はいつでもさっぱりしていて、余分なものがなかった。

 良太郎は考えていた。縁あって同じ屋根の下で茶子と寝食を共にしているが、我ながら自分と一緒に生活をするなら息も詰まるにちがいない。良太郎は諧謔的ではなかったものの、このことに関してだけは、苦笑を漏らした。

 しかし茶子は知っていた。良太郎が最低限口にする言葉は、すべて茶子を気遣った言葉であることを。茶子はそれだけで嬉しかったし、良太郎を尊敬もした。日下家ではいつの間にか気配りを密にする雰囲気ができ上がっていた。

 日下診療所には当直の医師や看護師がいなかった。診療所のすぐ隣りが日下家の住宅になっているので、時間外の急患は日下家の住宅にかけ込む。入院患者も具合が悪くなると自らの足で、あるいは付き添いの家族が日下宅に良太郎を呼びにくる。実際にある末期癌の患者の容態が急変し、彼はほとんど這いつくばって良太郎を呼びに日下宅までやってきた。人間気を張り詰めていればちょっとやそっとのことでは死にはしない。しかしその患者は良太郎が応接すると、安堵したのか、力尽きたように、ぐったりと良太郎に寄りかかると、そのままぽっくり逝ってしまった。

 深夜であれ早朝であれ、日下宅の門が叩かれると、まず応接するのは他ならぬ茶子であった。良太郎は日々の過酷な業務から、朝まで泥のように眠る。その良太郎を起こすべきか、患者に朝まで待ってもらうかを判断するのはいつの間にか茶子の仕事になっていた。良太郎から頼まれたのではなく、茶子はあるいは自発的にそれを行っていた。茶子はいつの間にか視診する能力を備わっていた。茶子は患者を少し診ると、その人物が「もつ」か、「もたないか」を判断することができるようになっていたのである。しかしどんなに眠りを妨げられようとも、翌朝には良太郎の寝覚めを待ち、朝食はいつも用意されていた。夜は良太郎の帰りを待ち、夜食を用意していた。風呂も沸かさなければならない。なので、就寝はいつも良太郎よりも遅かった。茶子はそんな生活に不満を漏らしたことはなかった。そもそも不満など感じてはいないようだった。男やもめで生活してきた良太郎からすれば、茶子ほどありがたい嫁はなかった。幸作は本当にいい嫁をもらった。花村はいい娘を育てた。良太郎は思った。良太郎はそんな茶子に「休んでくれても構わんのだよ」。声をかけたことがあった。しかし茶子は翌日になっても良太郎の目覚めを待ち、遅い帰宅に備えているのだった。



 ここで理子の嫁ぎ先の大久保家についても幾らか項を裂かなければならない。

 理子の嫁ぎ先の大久保家は諏訪町というところにある。諏訪町には小高い丘があり、そこに御鎮守である諏訪神社を戴いている。主神は建(たけ)御名方(みなかた)神であり、長野の諏訪大社から分祀された神霊である。祭りともなれば諏訪町を貫く沿道は露店で埋められ、俄かに活気の出る町内だった。大久保家は諏訪様の丘のすぐ麓に居を構えていた。大久保家の当代は正毅(まさたけ)であり、その一人息子が理子の夫、遼介である。正毅とその妻、トヨは従兄妹同士であった。どういった経緯で彼らが結婚する運びになったのかは分からないが、恐らく、家格に見合った結婚を選んだ結果なのだろう。正毅とトヨの間には三人の子があったが、近親相姦の故なのか(遺伝学上は否定される)、二人の子どもは相次いで夭逝し、結果的に成人したのは遼介だけだった。その遼介も、決して身体が強いとは言えず、両親からの愛情を一身に受けて成長した。現在、遼介は村議会議員を務める正毅の斡旋で、地元の小学校高等科で教鞭を振るっている。正毅が村議会議員になってずいぶん久しかったが、彼の名誉欲は村長の座を狙っていた。現在、村長を務めているのは新山喜(にいやまき)助(すけ)という、うだつの上がらない政治家だったが、正毅と喜助は極めて仲が悪かった。正毅は後援会を設け、彼の政治的発言力は日増しに募っていたが、喜助はそれを快くは思っていなかった。ただ喜助は祭りの良き擁護者であり、この時世の中で祭りを企画、もとい断行したのは彼の力に頼るところが大きかった。

 理子と遼介の結婚は、正毅が望んだことであった。理子は村でも有数の医家の令嬢であるし、その日下家と親戚になれれば、何かと都合がいいにちがいない。正毅の政治的打算が働いていた。往時、遼介は地元の中学校を卒業すると、東京の大学に進学していた。大学卒業後も遼介は一年ほど東京で生活し、噂によると放蕩生活を送っていたらしい。その遼介がある日、突如として村に戻ってきた。すると遼介と理子との間に、縁談話が持ち上がった。良太郎は権力みたいなものを毛嫌いしている雰囲気があり、正毅の政治的打算もすぐに見破った。つまり、そんなところへ娘を嫁に出すのに反対の姿勢だった。しかも政治なんて煩わしいものに関わっている暇など良太郎にはなかった。しかし田舎娘だった理子が、えらく遼介を気に入ってしまった。遼介の持つ雰囲気や仕草の一つずつが、モダンで都会的で、洗練されたように映ったのであった。かくして正毅の政治的野心と理子の情熱とによって、縁談話はとんとん拍子で進み、良太郎もその縁談を認めざるを得なくなった。

 ところで理子は遼介との披露宴の席で、酒を勧められるがまま飲み続け、強かに酔っ払い、抜き難い醜態をさらしたことがあった。その席で理子はまだ知己も温まっていない、姑のトヨに絡み付いたのであった。理子に人を見下す癖や、傾向はないが、そのときばかりは人の顔が動物に見えて仕方がなかった。酒膳の鯛の刺身を口に運ぶ幸作の姿はふてぶてしい野良猫に見えたし、黙々と酒を飲む良太郎の姿は、蜂蜜を舐める熊の姿に見えるといった具合だった。そこで理子はトヨの前まで歩み寄ると「お義母さん、そんなおサルさんみたいな顔をしていないで、もっと笑ってくださいな」。言い放ったのである。そればかりか理子はトヨの前でまるで猿回しでもするみたいに、とうとう「えっさ、えっさ、えっさほいさっさ♪」と高らかに「お猿のかごや」を歌い出したのであった。理子はえらくごきげんだったが、トヨが不愉快極まりなかったのは言うまでもない。しかしトヨは笑顔を絶やすことはなく(目は笑っていなかった)、良太郎に対して「元気の良い、朗らかな娘さんで……」などと言っていたが、披露宴の席の間、ずっと彼女の顔は赤いままだった。この一件を以て、理子とトヨの関係は凍てついた。

 トヨは理子に対して悪質な厭味を言うようになったり、嫌がらせをするようになったりした。つまり俗に言う嫁いびりというやつだ。「はしたない」。露骨ではなかったが、そんな風な意味を持つ言葉を何度もかけられた。トヨは分家といえども歴とした名士の令嬢なのであった。トヨは教養があるだけに、その悪態も陰湿なものであった。トヨは家事などのささやかなことでもつい理子に悪態をつく日々が続いていた。もっとも理子は幼い頃から日下家の家事を切り盛りしていたため、何か決定的な手落ちがあったというのではなかった。日下家と大久保家の家事の仕方が異なっていただけだった。

 例えば家庭の味一つとっても日下家の好みと、大久保家の好みは違っていた。日下家では薄味の料理を好んだが、大久保家はその逆だった。トヨはまた厭味を含んだ笑顔を浮かべると(理子はぞっとした)、「日下先生は毎日、精進料理でも食べていたのかしら?」と言った。それからトヨは「これからお料理を覚えていけばいいのです」。教える気がないのにも拘わらず言い放った。

 気弱な女性ならば、あるいは何かしらの精神病を発病していたのかも分からなかった。その点、理子は恵まれていて、彼女はかなり気丈な女性だった。「診療所のお嬢ちゃん」といえば、誰もが知っている。理子のことだ。母がいないため、幼い頃から理子が陰に陽に診療所を支えていたことは誰もが知っていた。

 また彼女は気立ても良く、世間からの評判もすこぶる良かった。政治家をしている正毅からすれば、こんなにありがたい縁談は少し類例を見ないと言うべきだった。なので、正毅は理子を甘やかしていた。理子の救いは同じ家庭の中に、理子の良き擁護者となってくれた正毅がいたことに尽きる。もっともこの時代の嫁いびりは伝染病のようなもので、何処の家庭でもそれは行われ、その嫁も、姑になると嫁いびりをするといった具合だった。理子と遼介の間に子どもができないことを別とすれば、大久保家は誰もが羨む家庭だったにちがいない。

 トヨは理子に子ができないことを少なからず不満に感じていた(トヨは遼介が不能者であるという疑念を一度も持たなかった)。それを嫁いびりすることによって鬱憤をぶちまけていた。理子はそうして足かけ六年にも及ぶ、陰湿な嫁いびりに耐えた。ところがある主婦仲間(陽子という人だった)は長い間子どもができなかったのに、諏訪様に願かけたところ、子どもを授かった、と遡ること一年前に耳にした。理子は半信半疑で諏訪様に願かけたところ、待望の子を授かることになった。それ以来、理子はいよいよ神仏の加護を熱烈に信奉するようになった。理子は諏訪様に向かって、「ああ、これで悪質な嫁いびりも少なくなります」と柏手(かしわで)を高く打ち鳴らすと、厚く礼を述べた。実際に瞼を閉じれば色鮮やかに蘇る嫁いびりの数々も、理子のお腹の中に小さな命が宿ると、見る影をひそめた。しかし、トヨの理子に対する嫁いびりは徹底して無視を決め込むという形で顕現したのであった。その態度に辟易した理子は出産までまだ間があるものの、里帰り出産を心に誓い、この頃から日下診療所、もとい自宅で寝泊まりするようになったのである。



     

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