第3話

   


 柱時計が午後四時の鐘を打ち鳴らし、幸作は聴診器を外した。無機質な備品が整然と並んだ診察室の中には、色がなかった。ただ、そこへクレマチスが飾られてあった。朝美が持ってきた青だ。晩夏の日差しは急速に衰え、カーテンを透けて、診察室の中により柔らかな陰影を落としていた。

 幸作は良太郎に改めて帰ってきたことを報告した。すると良太郎の眼はほんの少し涼しくなり、「良く帰ってきてくれた」と一言した。

良太郎はがちがちの日蓮宗の信徒だった。日蓮宗は他宗派を論破し、折伏させる傾向にあるが、良太郎は自分の子どもたちにすら、日蓮宗に帰依せよ、などと間違っても一言も言わなかった。しかし彼は法華経を暗唱することができ、ただでさえも重い彼の印象をより重たいものにした。

 しかしそんながちがちの日蓮宗の信徒であった良太郎は、ある事件を機に棄教することになる。

 満州事変である。

 良太郎は新聞で「満州某重大事件」の報を見ると、「日本帝国は……」と一言、口にし、それから真宗に改宗したのであった。それから良太郎はひたすら無量寿経を読み耽り、やはり暗唱するようになった。

 涼やかな目下で、良太郎は幸作が帰ってきたことを喜んでいるみたいだった。滅多に歯を覗かせて笑うことはなく、彼の笑顔は目尻が少し細くなる。

「最近は、凝ってたまらん」と良太郎は言った。

 彼は太い首をぐるりと回した。骨が鳴った。すると良太郎の眼は備品の棚の中に並んでいる診療録(カルテ)で留まった。「烏滸(おこ)がましくも私が……」。良太郎はつぶやいて言葉を濁した。幸作には良太郎が何を言いたいのか分かった。良太郎が「今日は手伝わせて悪かった」と口にし、椅子からのっそり腰を上げると、往診に行くための準備を始めた。

「私も往診を手伝いましょうか?」幸作は尋ねた。

 良太郎は作業の手を止めず黙々と準備をしている。これは「いや、けっこうだ」という良太郎の答えだった。やがて往診用の鞄を持って、彼は立ち上がった。

「父さん、帰ったら、肩を揉みましょう。たまには。久し振りに」

 すると良太郎は、幸作を振り返らずに「今日は早く帰る」。言い残して診察室を後にした。



 幸作も診察室から出ると、看護婦の坂内朝美と鉢合わせになった。

「若先生、お疲れ様です。これからお帰りですか?」

 幸作は「ええ」と言った。朝美は幸作の顔をちらちらと窺っている。「何か?」と幸作が尋ねると、朝美は「不躾な質問で申し訳ないのですが……」。言った。

「今、満州にいる方々はどうしているのでしょう?」

 満州では八月十八日、満州国皇帝溥儀(ふぎ)が太(たい)栗子(りっし)において、満州国の解散を宣し、満州国は崩壊した。溥儀はソ連軍によって十九日捕縛されていた。

「若先生ならば、そちらの事情に詳しいのではないかと思いまして」

 赤軍に抑留された可能性が一番、高いと思ったが、口に出すのは憚られた。

朝美は、「満州の炭鉱現場では落盤事故が相次いでいるそうです」。顔色を曇らせてつぶやいた。「それに満州はずいぶん冷え込むとも」。俯いた。

 正平は月に一、二度ばかり朝美に宛てた手紙を書き送っているという。

「私は軍務中、軍令で満州に滞在したことがあります」幸作は言った。「そのときに正平さんともお会いしましたけれど元気でしたよ」

「満州国は消滅したと、それって本当ですか?」

 幸作は顔をしかめ「本当です」と答えた。

「満州ではたくさんの日本人が住んでいるのに、国が消滅したなんて、信じることができないんです」

 国があっての国民なのか、国民あっての国なのか、幸作もよく分からない。いみじくも戦争によって、国家の概念は崩壊しつつある。戦争によって「家」が断絶することは珍しくはなかった。

「満州国は国際的に認められた国と、事情が異なるのです」

 日本は八月十四日を以て、ポツダム宣言を受諾し、玉音放送が流れた八月十五日を以て終戦を迎え、無条件降伏に応じた。無条件降伏とは去る四年前にハルノートに記載されていた通りの、「大陸での中華民国以外の政権を認めない」という条件を全面的に肯定したことになる。なので、傀儡国家であった満州国も、日本が併合した朝鮮も認められなかった。

 幸作は朝美にかける言葉に迷った。朝美の顔色は青白い。

「ところで、朝美さん」と幸作は言った。「顔色が優れないようですが、何処か身体の具合でも悪いのでしょうか?」

 朝美は訥々(とつとつ)と「いえ、そんなわけではありません」と言って、俯いた。

「今日は早くに上がって、休養した方がよろしい。私が仕事を代わりましょう」

 すると朝美は、「いえ、後は診療録の整理だけですので。お気遣いありがとうございます」。一言すると、足早に診察室の中に消えた。朝美は診察室の扉を閉めると、それに寄りかかった。「あの人が帰ってきたら、破滅だわ」。つぶやいた。



 日下家の住宅は診療所のすぐ隣りである。幸作が住宅に帰ろうとしたとき、よし乃が縁側に腰を下ろし、子どもたちに囲まれていた。子どもたちはトウモロコシを食べていた。よし乃が「挨拶しなさい」。言うと、子どもたちは口々に「若先生、お帰りなさい!」。弾けるように言った。幸作は「ただいま戻りました。皆さんも元気にしていたかな?」。口元を綻ばせると、「はーい」と威勢のいい声が跳ね返ってきた。よし乃の家の庭には花壇が設けられていて、四季折々の花々を楽しむことができる。しかし季節の変わり目は、つい彩に寂しくなり、この時期がまさにそうだった。ヒマワリが項垂れたまま色彩を欠き、ナデシコの花のつぼみが楕円型に膨らんでいた。

 よし乃は何やら用意されていた麻袋を持ち出し、担いだ。よし乃は「皆さんも手伝ってくださいな」。そう言うと子どもたちも麻袋を担いだ。垣根の上に力を合わせて麻袋を押し上げると、幸作がそれをひょいと受け取った。麻袋の中には丸々と太ったトウモロコシがたくさん詰められていた。「ありがとうございます、よし乃婆」と幸作は礼をした。よし乃は「八さんからいただいたんです」と説明した。八(はち)さんとは屋号のことで、八百屋を営んでいる主人のことだった。年中腹を毀(こわ)していることで悩み、よし乃の漢方薬を処方された結果、下痢が治まったという。村民は身体を毀すと、まずよし乃の家に行き、無料で漢方薬を処方してもらい、それでもダメなときは診療所を訪れるのだった。

 幸作がよし乃の温かな親切に接していると、住宅の縁側から女性が飛び出し、小走りにこちらへ向かってきた。女性は「幸ちゃん、お帰りなさい、無事だったのね!」と喚き散らした。幸作の身体を触り始め、壊れている箇所がないか探るようにまさぐった。乱入者は幸作の姉、理子(りこ)だ。

 理子は結婚して足かけ六年を数え、現在の姓を大久保(おおくぼ)という。大久保家は村でも有数の名家で舅の正毅(まさたけ)は村の村議会議員を務めていた。理子と夫遼(りょう)介(すけ)の間には、まだ子がなく、理子は村の御鎮守である諏訪様に何度も願かけに行っていた。

「姉さん、こちらにいらしていたんですか?」幸作は尋ねた。

 理子のお腹がぽっこり膨れているのを認めた。「姉さん、まさか!」。幸作は叫んだ。理子は「ええ、七ヶ月なの」とにこりとして言った。理子が受胎告知を受けたのは、遡ること六ヶ月ほど前である。日下診療所の診察室で、「おめでとう」と無愛想な良太郎に言われた。

 幸作も「おめでとうございます」と祝福する。「義兄さんや、おじさんたち、皆さんも元気ですか?」。尋ねると、理子は「ええ、皆、元気よ」。声を張った。「心配だったのは幸ちゃんのことだけよ。手紙もよこさないで、何をしていたの? 自分のお墓を掘っているって噂が聞こえたし、もぐりの医者だって、評判がすこぶる悪いみたいな話までこちらに届いているのよ」。

理子があまりにも大真面目に言うから、幸作は苦笑した。

「理子ちゃん」とよし乃が言った。「そんなに騒いだらお腹のややに障りますよ」

「お婆ちゃんがいれば、どんなお産も無事に決まってるわ」

 理子はよし乃が産婆をしてくれると初めから決めつけている。「お父さんよりも、信頼できますもの」。言った。「お婆ちゃんがこれまでに取り上げたお子さんは何人になるのかしらねぇ?」。

 よし乃婆の言葉を待たず理子は幸作に眼をやった。

「幸ちゃんも早く子を作って、落ち着きなさい。茶子さんはずっと寂しい思いをしていたんですもの」

 幸作が茶子(ちゃこ)と結婚したのはおよそ一年前だった。若い男性は皆、戦争に取られてしまい、女性が嫁ぎ先を見つけるのは困難を極めていた。適齢期の男性の下には、選り取り見取りの縁談話が舞い込んできたものだ。中には干支が二回りも違う男性の下に嫁いでゆく女性も決して珍しいことではなかった。幸作と茶子も見合い結婚だったが、彼らは幼いときから馴染みがあった。茶子の実家は佐渡で老舗の樽本を営む、有数の富裕層だった。茶子の父と、良太郎は医科専門学校時代に机を並べた学友で、親友でもあった。良太郎は卒業後、すぐに医の道を歩み始めることになるが、茶子の父は家の樽本を継ぐべき長男が海難事故によって亡くなってしまい、そこで次男だった彼は急遽樽本を継ぐことになった。医学の道は途中で諦めることになったものの、その知識によって薬膳酒を造ることに成功し、一財産を築くに至った。茶子の父と良太郎の友情は、その後もずっと続き、ある意味、幸作と茶子は結婚する運命(さだめ)にあった。彼らが幼い頃より、許嫁(いいなずけ)を意識させられていたのだった。

 縁側をすすすっと歩く音が聞こえる。姿を現せたのは茶子だった。質素な着物を着用していた。目が左右に垂れ下がり、唇が果実のように重い。笑うと靨(えくぼ)が浮き上がる。彼女は縁側から下駄を履き、幸作の前で「お帰りなさいませ」と深く頭を下げた。

「茶子さん、ただいま戻りました」幸作は言った。

 結婚してすぐに、幸作が軍医に志願したため、彼らの実質上の結婚生活は数ヶ月を数えるほどしかなかった。

「無事なようで、ようございました」茶子は再び深々と礼をした。

 ――君を待ってくれている人々がいるんだろう――今は亡き野田大尉の声が聞こえる気がした。

 縁側で立ち話と言うのも。幸作はよし乃からいただいた麻袋を持った。理子が「それは何?」と尋ねた。「まぁ、トウモロコシ、お婆ちゃん、いつもお世話になります」。理子は大きな瞳を輝かせた。茶子が「お婆さん、いつも、ありがとうございます」と続いて、軽く頭を下げる。つい先日も夏野菜やらをお裾分けしてもらったばかりなのであった。

 理子が「お婆ちゃんにお礼は言ったの?」。尋ねるので、幸作は「はい、先ほど」と答えた。それから理子はよし乃婆と子どもたちを振り返り、「また、すぐ幸ちゃんに挨拶させるようによこしますんで、ごきげんよう」。幸作の肘をごつんとつっついた。「あ、では、また、後ほど」。幸作は言った。理子は幸作の腕を取らんばかりになって、住宅に連れ込んだ。茶子はその後から静かに続いた。

 縁側に腰かけたよし乃は余波(なごり)と共にお茶を喫した。

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