短編「Hubert」
朶稲 晴
【創作小話/Hubert】
たしかに、彼女はわたしの光だった。
彼女がいなければ、その声でわたしの名を呼んだり、その指でわたしの背をなぞらなければ、わたしは生きていくことさえできなかったに違いない。
植物が水と土と光を必要とするように、わたしには彼女が必要だったのだ。
午後のたっぷりとした日光を受け止めて花が咲いている。濃緑の葉はいきいきとして薫る風すら命をもっているかのようだった。庭の主である彼女はちょうど薔薇の剪定をしているところだった。
はちみつ色の細い髪を固く結い上げ、露になったその白いうなじから目をそらせないままに挨拶をする。
「来たよ。」
「あら。いらっしゃい」
彼女と短い会話をするだけで、わたしはこの窮屈な世界でようやっと呼吸ができた。わたしは酸素ではなく彼女の声を肺に取り込んで、体内に巡らせるのだ。彼女の声が、わたしの体を形作っていた。
「あがって。絵を見せて。」
「うん。」
前掛けについた葉くずや土をほろい落として優雅な動作で立ち上がる。そのあとについて小さいが品のいい家のなかにあがり、彼女の寝室に入った。
わたしはたびたび彼女の寝室で上着を脱いだ。そこにやましさはないといえば嘘になるが、容易に想像できるであろう男女の仲のような不埒なことはまったくなくて、ただわたしは彼女に背を向け上着を脱ぎ、わたしの背中に入っている絵を彼女は白魚のような指でなぞるのがたまにあった。
わたしの背の絵の上を這う彼女の熱を持った指。光線でできたかのような温度を持ったその指が輪郭をなぞる度、胸のうちに秘めるこの気持ちを見透かされるのではないかと不安になる。太陽光に当てられた氷が徐々に溶けだすように、彼女という光に熱せられてわたしの固く凍てついた欲望がにじみでてしまうのではないかと不安になった。
「ヒューバート。」
すこし鼻にかかる甘い声。ぽたり、とシーツに水滴が落ちる音がする。その薄い青がかかったグレーの瞳にきっと、涙がたたえられているのだろう。
「ヒューバート。」
絵のふちをたどっていた指がいきおいを失い、震える。
「ヒューバート……。」
わたしだけにそそげばいいのに、わたしの光は振り向いてさえくれない誰かにすら平等に降る。
背に刻まれる絵は、欧州で入れられたありふれたものだった。これがあったからわたしは祖国へ帰ってからも英雄として迎えられることはなかったし、疎まれた。だが、彼女だけは。
わたしの背の絵に、彼女は誰をみていたのだろう。ときおり紡がれる「ヒューバート」という名前はわたしのものではない。友人だろうか。親類だろうか。恋人だろうか。遠い地に残してきた太陽であろうことは確かだ。
彼女はわたしの光だった。だがわたしは彼女の光ではないだろう。
それでも、太陽の光ではなかったかもしれないが、彼女の心に巣食う闇を照らす裸電球くらいの光にはなれたかもしれないと、わたしの背に這う指の熱さと、絵に注がれるあたたかな灰色の視線に思うのだ。
ヒューバート。光輝く者。
わたしは君がうらやましい。
短編「Hubert」 朶稲 晴 @Kahamame
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