第八話 最後の時
彼は目覚めた。ここはどこだ? 常に死と隣り合わせで生きて来たのに、死んだとき、その後のことは考えたことがなかった。
自分は陸地にいる。でも川辺じゃない。近くに池がある。自分が置かれた状況がまるで理解できない。
「ご覧ください。ついに人食いワニの捕獲に成功しました。まだ詳しく調査していませんがこのワニは農夫を一人食い殺しており…」
人間はいつか見た黒い四角の道具を自分に向けている。気が付けば多くの人間に囲まれている。
「この野郎!」
人間の内の一人に石を投げられた。石は彼の頭に当たった。さほども痛くない。いや痛みは感じない。他のことを考えているからだ。
周りを歩いてみた。割と広いスペースに自分はいる。壁がある。高くて登ることができない。
次に池に入ってみる。深い。後ろ脚が辛うじて届く。潜ってみる。池の底は触ったことのない物質でできている。
これで彼はやっとわかった。彼は生け捕りにされたのだ。そして人間たちの見世物にされているのだ。
人間が肉を放り込んだ。これを食えと? ならば食べよう。ちょうど腹が減っている。肉にかぶりつく。すると人間たちから歓声が上がる。
さらに肉が追加される。それも平らげる。また歓声が上がる。
彼は混乱した。人間にとって、彼は殺すべき相手ではないのだろうか? でも殺さない。生かしておく。世話もされる。時代が変わり、殺すべき対象ではなくなったのか? 彼は理解に苦しんだ。
結局答えは出なかった。
ある夜。彼は寝ていた。だが人の声がして起きた。
「本当にコイツを?」
「ああ。是非とも」
「高齢だぞ。いつ老衰で死ぬかわからない。金の無駄だ」
「そんなのどうでもいい。客はインパクトのあるものを求めている。コイツは何人食ったんだ?」
「少なくとも一人は食べたな。そんな人殺しを日本に?」
「人はいつだって過激なものを求めているのさ」
男は紙をもう一人の男に見せた。
「この値段で。文句があるなら売らないぞ」
「…少々高いが予算内だ。買った」
「ようし、売った」
次の日彼は餌の肉に違和感を感じた。いつもより肉の量が多いのだ。普段はこの半分ぐらいなのだが。だが彼は食べた。
満腹になると眠くなってきた。いつも以上の眠気が彼を襲った。
また気が付くと今度は檻の中にいた。檻が一定の間隔で揺れる。酔いそうだ。でも口を開けない。ワイヤーで口は閉ざされている。彼は自分が運ばれていることに気が付いた。
どのぐらいの時間が経っただろうか。太陽が無いのでわからない。だが揺れは治まった。目的地に着いたようだ。彼の入っている檻が船から運び出された。
今度はトラックに運び込まれる。不規則な揺れが彼を襲う。また酔いそうだった。急に発進したり止まったりを何時間か繰り返す。
トラックの扉が開けられた。檻に入れられたまま彼はある動物園に運び込まれた。
檻の中から外の景色が見える。凄いところだ。ライオンがいる。カバがいる。シマウマがいる。角が生えた動物がいる。首の長い動物がいる。鼻の長い動物がいる。他にも見たことのない、様々な動物がいる。故郷では考えられない光景だ。
彼はその動物園の、ある建物に運び込まれた。ハ虫類館である。彼に与えられたスペースは移動する前より狭かったが、もうそんなに動き回ることは無いので気にしなかった。
ここに来た当初は人間たちがいっぱい彼の元を訪れた。ナイル川の人食いワニ。人を呼ぶのに十分すぎる謳い文句。小さな機械を向け、光らせる人が多かった。中には自分の絵を描いている人間もいた。
やがて人間も数が減ってきた。見飽きたのだろうか? 少なくとも彼は、人間のことを見飽きていた。
ここでは決まった日に必ず餌がもらえる。飢えに苦しむことはもうない。与えられた肉をパクリと一口。これだけで満足だ。
ある時彼は、故郷の仲間たちのことを考えていた。
群れはどうなっただろうか?
パートナーは新たな雄を迎え入れたのだろうか?
新たに子供はできただろうか?
共食いはしてないだろうか?
人間に手は出していないだろうか?
飢えに苦しんでいないだろうか?
心配事が多すぎる。ここにいては、それらは全てわからない。なら気にしないことにした。群れの仲間だって自分は死んでいると思っているだろう。お互い様だ。
たまに行儀の悪い客がいる。彼のコーナーのガラスを叩くのだ。この音は非常にうるさい。客は恐らく、自分に動いて欲しいのだろう。しかし彼も年を取った。そんなに動きたくないのだ。ジッとしている。
すると客はまた、ガラスを叩くのだ。あまりにもしつこいので、口を大きく開けて突進する。
これに客は必ずビックリする。すると、もう他のコーナーにいってしまう。すぐ他に行くのなら、起こさないで欲しい。彼は思った。
ある時彼は、自分の体が思うように動かないことに気が付いた。若い頃はもっと機敏に動けたのに、最近はのっそりとしか歩けない。水の中に潜っていられる時間も短い。
彼は見たことが無かったのでわからなかった。寿命を。近づいていたのだ、彼の心臓が止まる時が。
彼は水の中に入った。食事の前に水に浸かる習慣になっていたからだ。だが、中々陸に上がれない。数分かけてやっと陸地に上がった。そして飼育員が彼の目の前に餌の肉を置く。
しかし彼は見向きもしない。見かねた飼育員が餌を動かしてみる。だが反応しない。
「腹減ってないのかもなあ」
人間が言う。そうではない。実はお腹ペコペコだ。
「せっかくこの時間に合わせて来たのに。そんなのあり?」
「しょうがないだろう竜吾。クラハーケンだって気分屋さんだ」
違う。彼が餌を食べない、というより食べれない理由がある。彼にはもう力が残っていないのだ。さっき陸地に上がる時、最後の力を使ってしまった。もう口を開けることもできない。
段々と人が減ってくる。だが二人は最後まで彼の元にいた。
「頑張れよクラハーケン! 人を食い殺してきたそのアゴを今使わないでどうするんだ!」
人間が叫んだ。その叫び声は彼も聞いた。彼には人間が何を言っているかわからないが、餌に食いつけと言っていると思った。
最後にそれに応えてみせよう。少し前進した。あと少し、ほんのちょっと口を開けば食べることができる。
急に眠くなってきた。彼は目を閉じた。眠りにつくのだ。誰にも起こされない、長い長い眠りに。
不思議な体験 The Mysterious Experience 杜都醍醐 @moritodaigo1994
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