第2.5話「まだらの着物、あるいは夏休みのエピローグ」

「ああ、どうしてこんなに退屈なんだ、御器所ごきそ君?」

 不老ふろう翔太郎しょうたろうはぼくのベッドの上で、天井に向かって吐き出した。

「ぼくに八つ当たりしたってしかたないんだけど、っていうか、ぼくは勉強中なんだけど。っていうかさ、そもそも、なんで不老はぼくの部屋に居座ってるのよ?」

 不老はこれ見よがしに、ぼくのベッドの上で大口を開けてあくびをした。

「退屈は知性に対する大いなる罪だよ。偉大な頭脳を日々の雑事で消耗させる、許しがたき害悪さ」

 不老翔太郎は、その長くて細い両腕と両脚を延ばした。

「不老は気楽でいいよなあ。ぼくは中学入試のために勉強しなきゃいけないんだよ」

「はっ、きみの心はなんて不自由なんだろうね、御器所君!」

 どういうわけかここ数日、不老翔太郎はぼくの家に入り浸っている。「フラン姫失踪事件」が解決しても、少しものんびりした様子を見せなかった。たえず「事件」を欲しがって、眼をギラつかせているようだった。

 まるで病気だ。「事件中毒」の患者じゃないか。さすがのぼくも、こんな不老翔太郎の姿には、少し気持ちが引いてしまう。

「ねえ不老、そんなに頭を使いたいんだったら、夏休みの宿題でもしてみたらどう?」

 ぼくが言うと、不老翔太郎はまるでアルファ・ケンタウリから来た異星人と遭遇したかのような目線をぼくに向けた。

「宿題だって? まさかきみが、僕の脳をすり減らす側に加担しようとはね! 哀しいことを言わないでくれたまえ」

 不老の「くれたまえ」にはもう飽き飽きだ。小学六年生が使う言葉じゃない。もちろんそれを口に出しては言わないけれど。

「だったら、何か頭を使う趣味を見つけたらどう? 詰め将棋とか、ほら、よくお年寄りがやってるじゃん、『数独』とか」

 ぼくが言うやいなや、不老翔太郎の両眼がさらにぎょっとした様子で見開かれた。

「あ、えーと、なんでもない。忘れて、今のはナシね」

 ぼくは慌てて不老に背中を向けて、問題集へ目線を落とした。

 ぼくの背中に向かって、不老の言葉が投げつけられる。

「御器所君、きみと知りあってもう四ヶ月近くになるんだね。なのにまだ僕を理解してくれていないなんて、哀しいな」

「不老のことは、わかってるつもりだけど」

 確かに、四月の始業式ではじめて不老翔太郎という男と出会って、もうすぐ夏休みが終わろうとしている。思っていたよりも長い間、不老翔太郎とつきあっているんだな、と思うと、ちょっとびっくりする。

 六年生の夏休みが、もう終わる。

 え? ちょっと待て。あらためてぼくは驚いてしまう。

 時間が過ぎるのが早すぎないか?

 五年生のときは、こんなにあっという間に夏休みが終わらなかった気がする。四年生のときは、いや三年生のときには、もっと夏休みは長かったはずだ。一年生の頃なんて、一ヶ月以上の夏休みには終わりがない気分だった。

 時空間がゆがんでいる? 何か大きな穴の中に吸い込まれそうな気持ちになってしまう。ちょっと怖いくらいだ。

「ねえ御器所君、僕は考える機械だ。謎を解く機械なんだよ。事件によって僕は生かされているんだ。事件がない一日なんて耐え難いよ」

「そんなこと言っても、ぼくにはぼくでやらなきゃいけないがあるんだよ」

 ぼくは頭をがりがりとかきむしって、デスクの上の算数の問題集に目線を戻した。

 先日、父さんから進学を勧められた私立中学がぼくの心のなかではどんどん魅力的になって存在感を増していた。

 全寮制の私立中学校だから、不安もいっぱいある。けれど、このままふつうに地元の公立中学校に進学して、ぼくはちゃんとやっていけるんだろうか? そちらのほうがもっと大きな不安だ。

 ぼくは〈御器所組〉組長の長男だ。世の中では「反社会的勢力」と呼ばれるのが、ぼくの家だ。

 担任の萱場かやば千種ちぐさ先生は、やさしくぼくを受け入れてくれる。けれど、地元の中学校で御器所ごきそはじめという名前の生徒が、ふつうの——『カタギ』の生徒と一緒にやっていけるんだろうか?

 不老はまたもぼくのベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。

「なんて小学生とは不自由で、つまらない生き方なんだろう。こんなくだらない雑事に大切な時間を浪費しなければならないなんてね」

「不老だって小学生じゃん!」

 何度この言葉を不老に向かって放ったことだろう。

「きみはよくこんなに平和で凡庸な日常に我慢できるね。かわいそうに。同情を禁じ得ないな」

「じゃあ、さぞや不老は今まで充実した夏休みを過ごしてきたんだろうね」

 ぼくは不老に背中を向けて皮肉を投げつけた。シャープペンシルを手に取ってノートを見下ろした。

 わけのわからない数字の羅列がぼくを見返してくる。

 そのとき、不意に不老翔太郎が、喉の奥でくっくっと笑い声を漏らした。

「夏休みといえば、思い出したよ、御器所君。きみに『屋根裏のオオネズミ事件』の話をしたことあったっけ?」

「えっ? オオネズミ? ど、どんな事件?」

 ぼくはシャープペンシルを取り落した。振り返ると、不老は平然として続けた。

「ほかにもいくつか、きみには話していない事件があるよ。今日みたいな暑い日だったな。暑さで溶けたバターにパセリが沈んだ深さから真相に気づいた『尾頭橋おとうばし家の恐ろしい事件』についても、まだ話したことはなかったね」

「えっ? えっ? バター? 何それ?」

 ぼくは身を乗り出した。

 不老翔太郎という男が、ぼくの知らないときにぼくの知らない事件を解決している。ぼくの知らない不老翔太郎がいるということに、ぼくは悔しい気分になってしまった。

 不老はやたらと細長い両腕を延ばして「うーん」と言いながら伸びをした。すると、何かに気づいたかのように、不意に指をぱちんと鳴らした。気持ちいいくらいの音だった。

「そうだ、『まだらの着物』事件こそ、御器所君に話しておくべきだったね」

「まだ事件があるの? まだらの着物も干物も紐も聞いたことがないよ」

 不老はぼくのベッドの上にあぐらをかき、満面の笑みで天井を見上げた。

「僕がはじめて体験した『事件』さ」

「えっ? 不老の『最初の事件』? どんなの?」

「あれは、僕が小学三年生のときだ」

「へえ、不老にも三年生の頃があったなんて意外だなあ」

 ぼくは皮肉交じりに言ったけれど、不老は部屋の冷房よりも冷ややかな視線をぼくに向けた。

「三年前には当然、僕もきみもは三年生じゃないか。そんな算数ができないようじゃ、中学受験なんか夢のまた夢じゃないのかい、御器所君?」

「あー、今のはスルーしてもらっていいよ。無視してよ。で、不老がはじめて探偵として推理した事件ってどんなの?」

 ぼくは目の前の算数の問題などすっかり忘れ、不老に向かって身を乗り出していた。

「僕がこの街に引っ越してくる前、小学三年生の頃、同じクラスには——ちょうど御器所君、きみみたいな友人、星崎ほしざき雄之介ゆうのすけ君がいた」

 ぼくは耳を疑った。

「ほんとうに? 不老に友人なんかいたの? ぼく以外に?」

 聞き捨てならない。不老翔太郎という男が、ぼくの知らないところでクラスメイトと友人になっていたなんて、まったく信じがたい。

 ぼく以外に誰が、こんな風変わりな男と仲良くできる?

「そんなに驚くことはないじゃないか。とにかくその星崎君とそのお姉さんこそが、僕の推理の才能を最初に見出してくれたんだよ」

「ほんとかねえ」

 ぼくは実に不満だった。不老は右の眉をあげて、にやりと笑みを見せた。


 三年前に僕が住んでいた街では、夏休みの「ラジオ体操」がどういうわけか、やたらと盛んだった(と、不老翔太郎は話し始めた)。

 毎朝十数人で公園に集まって、いっせいに体操する意味が、僕にはまったく理解できなかった。星崎雄之介君も同様だった。だから僕たち二人はラジオ体操に参加することなく、二人で公園の周りの住宅地を散策するのが夏休みの朝の日課になっていた。

 ただの変哲のない住宅地であっても、見ようによっては面白い謎が隠れているものだ。玄関脇に置かれた自転車から家族構成を推理したり、庭に飾られている陶器製の小人の人形の種類と数の法則性を考えたり、あちこちに住み着いている野良猫のグループの縄張りや行動を追跡したり、考えるべきことがらはいくらでもあるように思えた。

 しかし夏休みも後半になると、およそすべての謎を解きつくして把握してしまった。もっとも時間がかかったのが、野良猫の行動観察だった。が、それもついにはどの猫がいつどこにいるのか、論理的に予測できるようになってしまった。

「ああ、退屈だ!」

 夏休みもあと一週間ほどで終わるという日の朝だった。ラジオ体操が終わって子どもたちがいなくなった公園に戻り、僕と星崎雄之介君はブランコに並んで腰かけていた。

「もう謎や不思議はないのかな? 頭を使わないとおかしくなりそうだ」

「でも翔ちゃん、夏休みの宿題ならあるじゃん」

「それは謎じゃないし、不思議でもない」

 三年前にも今日と同じことを星崎君と話していた。

 そのとき、声をかけてくる人がいた。

「ふーん、そんなに退屈だったら、この謎を解いてみてよ」

 歩み寄ってきたのは、星崎君のお姉さんのすみれさんだった。朝のジョギングを終えたばかりで、Tシャツに短パン姿だった。菫さんは当時、高校二年生だった。スポーツ万能で成績優秀、そのとき住んでいた街でトップの高校に通っていて、陸上部で短距離の選手だった。髪はショートカットで、男の子っぽく見える。実際、星崎君とお姉さんは姉弟ではなく、兄弟と間違えられることが多かったそうだ。

「どんな謎ですか?」

「翔太郎君にわかるかな?」

 挑戦するように菫さんは言った。

「謎の布のこと」

 と菫さんが言うと、。あきれた声で星崎君が口を挟んだ。

「またその話? お姉ちゃんはすごく気にしてるけど、そんなに不思議なことかなあ?」

「何もわかってないね。あんたは見るだけでちゃんと観察してないから、理解できないんだよ」

 そのときに菫さんが言った言葉は、僕の心に深く鋭く響いた。「見る」ことと「観察する」ことは違う。はじめて気づかされた。

「『謎の布』とは、どんな事件なんですか?」

「翔太郎君、ちゃんと興味を持ってくれるんだね! うれしいな。わたしが通ってる高校の近くにマンションがあってね、いつも通学に使ってるバス停と学校のちょうど間にある新しいマンションなんだけど、その一階の左端の部屋がヘンだったんだよ」

「どんなふうに?」

 僕が尋ねると、菫さんはうれしそうに答えた。

「翔太郎君は知りたい? 今まで誰に話しても——雄之介にも——みんな誰一人興味を持ってくれなかったんだよ?」

「とても好奇心を刺激されます」

「わあ、ほんとに? そのマンションのベランダに、布が干してあるの。毎日毎日、ベランダに干してある」

「なぜそれが『謎』なんですか?」

 拍子抜けしてしまった僕は訊ねた。

「いい? そのおうちではね、毎日毎日、その布が干されている。晴れの日も曇りの日も、雨の日さえ」

「雨の日に『干す』とは語義矛盾ですね」

「難しい言葉知ってるんだねえ!」

 菫さんは眼を見開いて大笑いしたが、それは僕に対する賞賛だと受け止めた。その当時の僕は、ふつうの小学三年生とは異質な生徒だったのかもしれない。

「そこが『謎』だし『ミステリー』じゃない? 雨なのに、わざわざベランダに布を干してるんだよ」

 菫さんが言うと、星崎君が割り込んだ。

「だから前にも言ったじゃん。洗濯して干してたら、たまたま雨が降ってきたんだってば。よくあることじゃん」

「違うよ。朝から雨が降りそうな日だったし、しかも午後から降水確率100%だってわかってる日なのに、朝から布を干していたんだよ。そして実際に夕方に雨にずぶ濡れになってるのを、わたしは学校帰りにちゃんと目撃してるんだから!」

「お姉ちゃん、前にも言ったじゃん。その家の人って、天気予報をチェックしてないんだよ。しょっちゅう雨に降られちゃう、めちゃめちゃ運が悪い人なんだよ、きっと」

 星崎君が口をとがらせた。菫さんは肩をすくめるようにして、僕に問いかけた。

「翔太郎君、どう思う? ほんっとに雄之介って鈍感だよね」

「まだ僕にも『謎』かどうか判断できません。けれど、一つだけ奇妙なことに気づきました」

「えっ、何?」

 菫さんがうれしそうに身を乗り出した。

「さっきからずっと『布』と言ってますよね」

「え? 言ってたっけ?」

「ふつう、ベランダに干してあるものを表現するなら『シーツ』とか『毛布』とか『タオル』とか、具体的な名詞で言うはずです。なのに抽象的な『布』という単語を使った。きっと菫さんにも干してあったものが何だったのか、わからなかったんですね」

「へえ、びっくり! どうしてわかったの? 翔太郎君って、名探偵みたい!」

 そのとき菫さんの口から「名探偵」という言葉を聞いて、はじめて僕ははっとさせられた。僕には平均的な人並みよりも多少推理する能力が優れているかもしれないと、気づかされた。

「どのような布だったんですか?」

「テーブルクロスくらいの大きさだったけれど、あれはテーブルクロスじゃないわね。布の端が切りっぱなしになってた。生地屋さんから買ってきたままの布地なんじゃないかなあ。柄は、たぶん植物の模様だと思う。白地に、緑の葉っぱと黄色い花の柄があしらわれていた。けれど色あせていて、あちこち染みもできていて、全体がまだらになってる」

「現場を見に行きましょう」

 そのときの僕たちの行動は早かった。まだ朝食をっていないというのに、三人してバス停に走っていた。そして、菫さんが目撃した謎の布が干されているマンションへと向かった。

 バスが走る大通りから三ブロック歩いたところに建つ新築の七階建てマンションだった。一戸の広さから考えて、おそらく単身者向けのワンルーム・マンションだろう。

 そしてやはり、一階の左端の部屋のベランダには、布が干されていた。

「日に焼けて、全体に黄色く変色していますが、安物の生地ではないですね。絹です」

「えっ? 絹ってことは、シルク?」

 菫さんが眼を見開いた。

「横に織りの線が見えます。おそらくはでしょう」

「は?」

 星崎君が声を漏らす。

「『は』じゃない。『ろ』だよ」

 僕は星崎君に言った。菫さんが、感嘆の声を上げた。

「じゃあ、あれって着物を作る用の布なんだ。でも、ヘンだよね。そんな高級品を雨に濡らして台無しにしちゃうなんて……」

 菫さんの言うとおりだった。まともな人間なら、決して安価ではない絹の絽の生地を天日に雑に干したりしない。まして雨に濡らすことなど、ありえない。

 と、そのときだった。僕たちが観察しているベランダのガラス戸が引き開けられた。決して悪いことをしているわけではなかったけれど、僕たちは反射的に逃げるようにマンションの前から離れて、向かいの民家の脇へと走って移動して、様子をうかがった。

 ベランダに現れたのは、おそらく二十代半ばと思われる女性だった。

「わたし、勝手におじさんだと想像してたな」

 菫さんも、住人の姿を見るのははじめてだった。

 女性は、これから出かけるのか、白いブラウス姿ですでにお化粧もしていた。髪は明るい茶色でショートカット、ネイルも派手に塗られているのが見て取れた。ベランダの奥の方に干されていたタオルを数枚片付けると、そのまま室内へと戻った。まだらの布には触れようともしなかった。

「やっぱりね……今日は午後から降水確率が四十パーセント。タオルだけ取り込むなんて、ヘンでしょ」

 菫さんはスマートフォンの画面を見ながら言った。

「あっ、出てくるよ!」

 星崎君の言葉に、僕たちは身構えた。

 マンションのエントランスから、女性が姿を現した。肩から大きめのトートバッグを提げている。

「ふつうのOLさんにしてはおしゃれだなあ」

 星崎君が言うと、菫さんがすかさず付け加えた。

「わたしの見たところ、あの女の職業はアパレル系か、美容師ね。カタギの会社員じゃない」

 実に自信ありげだった。アパレルと美容師が「カタギ」ではないのかは、疑問だったが。

「どうする、翔ちゃん、追う?」

 星崎君がそう言い出す前に、僕は女性のあとを追って駆け出していた。

 それは、僕にとってのはじめての尾行だった。

 予想していたほど難しくはなかった。早足で七、八分ほどの距離にあるバス停で、女性に追いついた。ちょうどバスが到着するところだった。が、女性は僕を一瞥たりともしなかった。

 そう。彼女を尾行しているのは僕だけだった。星崎君と、お姉さんの菫さんは間に合わなかったのだ。実は、それは僕にとって狙ったとおりだった。なぜなら、そのときの僕は菫さんのポケットから、交通ICカードをくすねていたからだ。ポケットに入っていた小銭はもう使ってしまっていたから。

 バスに乗って五つ目の停留所、私鉄の駅前で女性は降りた。それから私鉄に乗り換えた。僕も同じ車両に乗り込んだが、まったく気づかれなかった。まさか小学三年生に尾行されているなんて、夢にも思っていなかったのだろう。

 私鉄で四駅目に、女性は降りた。その間、すぐ隣の吊り革に摑まっている僕を、彼女はまったく一顧だにしなかった。

 そのときの経験は、ほんとうに僕にとって示唆的だった。尾行者にとって何が必要なのか、どうすれば目立たない存在になれるのか、どこに立ち、どんな姿勢をし、どこにお目線を向ければいいのか、さまざまなことを考えるきっかけになった。その経験は、ずっと生きている。今でも日々精進している最中だ。

 女性が入ったのは、オフィス街に建つ十二階建ての新しいビルだった。僕は、少し遅れてからエントランスをくぐった。エレベーター・ホールへ向かうと、四機のうち、一機だけ動いているエレベーターが今まさに六階に停止するのが確認できた。壁に貼られた金属製の表示版によると、このビルの六階に入っているテナントは〈デザイン事務所AURORA〉と〈日刊石材産業新聞社〉の二社だった。

 二者択一であれば、当然、女性の職場はデザイン事務所に違いない。そう僕は考えた。

 遅れて到着したエレベーターに乗り込み、六階へ上がった。すぐ右手にデザイン事務所はあった。エントランスのすりガラスの周囲は、ピンクとパープルを基調にした花びらの装飾が施されていた。僕はおしゃれなすりガラスのドアに耳を当てたが、ただ事務的な会話が聞こえてきただった。それ以上の情報を得ることはできなかった。小学三年生がどう頑張ったところで、デザイン事務所〈AURORA〉の内部に潜入することはできなかった。

 結局、二時間ほど後に公園に戻ると、手持ち無沙汰な様子で星崎君と菫さんがベンチでアイスキャンディをなめていた。空にはいつの間にか雲が厚く垂れ込めていた。天気予報は的中しそうだ。

 僕が掏り盗った交通ICカードを返すと、菫さんはさすがに僕にぎょっとした目線を向けた。けれど、それ以上何も言わなかったのが、僕にとってはありがたいことだった。

「さあ翔ちゃん、推理は?」

 星崎君が退屈そうに訊ねた。

「デザイン事務所〈AURORA〉を検索してください」

 僕が菫さんに言うと、菫さんはすかさずスマートフォンを取り出し、タッチパネルの上にすばやく指先を走らせた。

 すぐにデザイン事務所〈AURORA〉の公式サイトが見つかった。つい数年前に設立されたばかりの新しい会社であることがわかった。おもに広告デザインや店舗のディスプレイなどを請け負っていた。

 画面に表示されたウェブサイトの「WORKS」という文字を指先でタップした瞬間、菫さんが声を上げた。

「これじゃん!」

 それは、とある雑貨店の内装の写真だった。昨年の秋にデザイン事務所〈AURORA〉が担当した案件だった。その壁を装飾しているのは、古びた布だった。マンションのベランダに掛けられていた布によく似ていた。

「どういうこと? 全然わかんない。説明してよ、翔ちゃん!」

 星崎君がすがるように言った。

「あの女の人は、洗濯した布を干していたんじゃない。わざと雨の日にベランダの手すりに布を掛けていたんだよ」

「ええっ? なんで?」

「きれいにするためじゃないんだ。逆だった」

「どういう意味?」

「汚すために、干してしていたんだよ」

「汚す? なんでわざわざ?」

「その写真に見えるよね? 店舗の内装のために、あえて汚した加工を施した布——それも和服を作るための生地を使うのが、〈AURORA〉ならではの内装なんだよ。自然に日に焼かれ、雨にさらされて色あせて、ほつれた風合いに染まった布——そんな布を、あのベランダで作っている最中なんだよ。そう考えるのが、もっとも論理的な結論だね」

 僕が推理を披露すると、星崎菫さんは両眼を大きく見開いた。

「すごいよ、翔太郎君! じゃあ、きっと何か月か経ったら〈AURORA〉の公式サイトにあの黄色い花の布を使った写真が掲載されるんだね。雄之介、同じ小学三年生でも、翔太郎君はあんたとは出来が全然違うなあ!」

 菫さんの言葉に、星崎君は口をとがらせた。

「うるさいなあ、翔ちゃんは特別なの! そうそう、翔ちゃん、将来は私立探偵になったらいいよ! きっと名探偵になれるよ! そのときは、ぼくが事件の記録係になってあげる」

 僕の人生で、これほど称賛されたことはなかった。そして、そのときに僕ははじめて、自ら持ち得た論理的思考力、推理力を実感した。それだけじゃない。その能力は、誰かのために活用すべきではないのか。

 僕はその日、大きな使命を背負わされたのを痛感した。


 ——と、不老翔太郎は話し終えた。

「ふーん、それが不老の『最初の事件』だったんだね。でも、なんかうれしくなさそうだね」

 不老は、そこで静かにため息を付いた。

「僕の推理が間違っていたからさ。まったく根本から間違っていた」「へ? あ、違ったっけ。『ろ』?」

「きみまで真似しなくていい」

 不老翔太郎は冷ややかな目線をぼくに突き刺した。

「布を意図的に汚すためにベランダに掛けていたことは正しかったよ。が、それ以外の僕の推理はすべて過ちだった。未熟だったとはいえ、今の僕なら決してこんな結論に安易に飛びついたりはしなかったはずさ」

「どこが間違いだったの?」

「すべてさ!」

 不老は眉間に皺を寄せて、天井を仰いだ。

「ああ、僕は信じがたいほど愚かだったんだよ、御器所君! マンションの女性は——清水しみず優奈ゆうなさんという名前だったけれど——デザイン事務所勤務ではなかった。いや、そもそもあのマンションの住人ですらなかったんだ。信じられないだろう? 僕はあまりにも初歩的すぎる場でつまずいてしまったんだ」

「えっ? じゃあ不老の推理、全然ダメじゃん!」

 ぼくはついつい得意げになって、声を上げた。

「ああ、いくらでも非難してくれて結構。確かにまったくダメだった。申し開きできないよ」

 不老はあまりにも本気で落ち込んだ様子だった。ぼくは逆に慌ててしまう。

「まあ、不老もまだ三年生だったんだし……」

「当時の僕は彼女の外見だけで、職業はデザイナーだと信じて疑わなかった。しかし、違った。彼女は〈AURORA〉の社員ではなかった。彼女は、同じフロアの〈日刊石材産業新聞社〉勤務だったんだ。僕は愚かにも、先入観からその選択肢を最初から排除してしまったんだ。それに、あのマンションは、清水優奈さんの恋人が借りている部屋だった。僕は、客観的、具体的な証拠は皆無なのに決めつけてしまったんだよ。なんて愚かしい過ちを犯してしまったんだろう!」

「布はお店の壁のために汚してなかったってこと? それじゃあ、何のために値段の高い布をわざわざ汚してたの?」

 ぼくが訊くと、不老翔太郎は肩をすくめて言い放った。

「ゾンビだ」

 ぼくは耳を疑った。

「ん? ゾ、ゾ、ゾ、ゾンビって言った?」

 ぼくが両眼を白黒させると、不老翔太郎は口元で小さく笑った。

「おさらいしよう。ベランダに掛けられていたのは、着物を仕立てるためのの生地だった。図柄は女郎花おみなえし。それを日に当て、風雨にさらしてエイジングしていた。ならば、先入観を排除して考えれば、その目的は実に実にシンプルじゃないか、御器所君?」

「まったくわかんないよ」

「当然、汚れてまだらになった着物を作るために決まってるじゃないか!」

「へ? ろ? 『まだらの着物』?」

「そうさ。ではなぜ『まだらの着物』を作らなければならない? その答えも簡単だ。その着物を着る必要があるからさ。そんな場といえば、きわめて限定される。映画やドラマ、あるいは演劇の衣裳か。さもなければ——八月の終わりに準備中だったんだから、必要になるのは秋だろうね。その時期に、特殊な衣裳を着る場面といえば……」

「あ、そっか! ハロウィン!」

 ぼくは思わず立ち上がった。不老はぴくりと右の眉を上げ、にっこりと笑った。

「そう、あのマンションで布を干していた清水優奈さんは、普段は〈日刊石材産業新聞社〉に勤務するかたわら、実は有名なコスプレイヤーだったんだ。インターネット上でも有名な人だったんだよ。彼女は二ヶ月後のハロウィンに向けて、準備をしていた。テーマは御器所君にもわかるね?」

「あー、ゾンビか! 江戸時代に現れたゾンビのコスプレだったんだね?」

 不老翔太郎は満面の笑みでうなずいた。

「まさしくそうさ。その年の雑誌やネット記事にも、清水優奈さんのコスプレは掲載されるほどだったよ。ぼろぼろになったまだらの着物をまとい、灰色の顔をして口の周囲を血みどろにした、江戸の町娘のゾンビのコスプレだ。決して気分のいいものじゃなかったけれどね」

 不老翔太郎はわざとらしく肩をすくめた。

「でも不老、いったいいつ自分の推理が間違ってるって気づいたの?」

「僕が自慢げに間違った推理を披瀝したその翌日だよ。実は、僕は自分の推理に自信を持てていたわけではなかったんだ。だから翌朝、僕は一人であのマンションへ行って、〈日刊石材産業新聞社〉へ出勤する途中の清水優奈さんに直接質問をぶつけたんだ。彼女は笑いながら、真相をすべて僕に話してくれたよ。今思い出しても、顔から汗が噴き出そうだ」

 すると不意に不老は、壁の向こうのどこか遠くを見るような面持ちになった。

「清水優奈さんは、その年のハロウィンに開催されるコスプレ・イヴェントに僕と星崎君、菫さんを招待してくれた。けれど、一緒に行くことは叶わなかったよ」

 不老翔太郎は、ぼくが聞いたことのないような沈んだ声を漏らした。

「えっ? どうして? 喧嘩でもしたの?」

 不老は静かにかぶりを振った。

「星崎雄之介君と菫さんは、二学期が始まると間もなく、ほかの街に引っ越すことになったんだ。理由は僕も知らない。あまりにも急なことだったから、僕は二人にちゃんとお別れの挨拶をすることはできなかった」

 ぼくは不意に胸元を突かれたような気分になってしまった。かける言葉を思いつけない。

「だから『まだらの着物』事件は、星崎君とともに経験した最初にして最後の事件だ」

「それから……星崎君や菫さんには会えてないの?」

 不老は静かにうなずくと、ぼくのベッドの上にあおむけに倒れ込んだ。天井を見上げたまま、つぶやく。

「謎を解く喜びと、その困難さを痛いほど味わった経験だよ。とてもちっぽけな事件ではあったけれど、あの経験が僕を変えてくれた。あのあとに僕もいくつかの『事件』を解決することはあったよ。けれど、星崎君が僕の事件を記録してくれることはなかった。とても残念だよ」

 思いの外大きな不老翔太郎のため息が、ぼくの耳に刺さった。

「でもぼくが……」

 ぼくは言葉を飲み込んだ。

 ぼくがいるじゃないか——そんな台詞が出かかったけれど、口に出すことはできなかった。代わりに口から出たのは、まったく自分でも思いがけない台詞だった。

「ぼくも、星崎君と会ってみたかったな」

「その日が来るかもしれないね。きっと、きみたちは気があうよ」

 不老翔太郎は、口の端だけで「くくっ」と笑った。


 不老翔太郎のその言葉がそれからほどなくして、あまりにも意外な形で実現するなんて、そのときのぼくには想像できるはずもなかった。

 まさか星崎雄之介君と菫さん姉弟のために、ぼくと不老翔太郎が大きな事件に巻き込まれることになるなんて、いったい誰に予想できただろう?


「まだらの着物、あるいは夏休みのエピローグ」完

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不老翔太郎の乱調 美尾籠ロウ @meiteido

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