第2話「宿儺」

山間から吹く風が、夜露に晒され涼やかな空気を届けてくれる。


「昼間はあんなに暑かったのに……やっぱり向こうとは違うな」


昼間の夏の暑さとは対照的に、夜の飛騨高山は涼しい。


盆地と聞いていたのでもっと蒸し暑いかと思っていたが、都会に比べればまだマシな方だ。


希望する大学のため、母方の祖父の家に居候する事になった私は今、岐阜県にある高山市に住んでいる。


歴史ある木造の商家などが立ち並ぶ風情ある古い町並が私のお気に入りだ。


住んでいる人達の人柄も良く、美大に通う私としてはとても相性の良い町だと言える、ただ一つだけは除いては……。


そう、それは私が住まう場所、お寺を営む祖父の事だ。


この祖父がまたとてつもなく物欲まみれの生臭坊主で、一癖も二癖もある人物なのである。


ある時、私はこの寺でとてつもなく現実とは思えない事件に巻き込まれた事があった。


世間一般的に言われる霊的な現象、人間の根底にある増悪、解放される殺意……未だ自分でもまとめる事ができない事件……だがその中でも一つハッキリしているのが、祖父のあこぎな裏稼業なのだ。


祖父のあこぎな裏稼業、第二話「宿儺」


─キキキキキキキッ


「おい香桜!」


ひぐらしの鳴き声を遮るように、苦虫を噛み潰した様な声が響く。


私が居候する、この寺の主である祖父の声だ。


「はぁい……!」


負けじと同じ口調で返事を返すと、境内の奥からドタドタといかにも不機嫌そうな足音が響いてきた。


いいから部屋に来いって事か……。


重い腰を上げ部屋を出ると、私はしん、と静まり返った境内の奥にある祖父の部屋へと向かった。


そういえば今日寺のお弟子さん達、皆出払ってていないんだっけ……だからこんなに静、


そう言いかけた時だった。


「なんっちゅうもん掘り当てたか分かってんのか!?」


境内に響き渡る怒鳴り声、祖父だ。


思わず早足に部屋へと向かった。

襖越しに大人二人分の影が見える。


来客?


「お祖父ちゃん?入るわよ?」


「おう香桜か、入れ……」


襖を開け祖父の部屋に入ると、そこには黒縁眼鏡に白髪を短く切りそろえた祖父の姿。

いつも不機嫌そうな顔だが今日は更にそれが増しているようにも見える。


そんな祖父の向かい側には見慣れぬガタイのいい男性が一人、蛇に睨まれたカエルのようにして姿勢を正した格好で座っていた。


もちろん蛇は祖父だ。


「失礼……します」


異様な雰囲気の中、私は会釈しつつ祖父から少し離れて隣に座った。


二人は私に見向きもせず押し黙ったまま。


縁側からせわしなく蝉の声が響く。


照りつけてくる夏の日差しに色取り取りの花たちも首(こうべ)を垂れるようにしてへたりこんでいる。


時折吹く涼やかな風が風鈴を揺らすが、凛とした音色もどこか重々しく感じてしまう。


そんな気まずい空気を断ち切ったのは、ガタイのいい見知らぬ男性だった。


「の、呪いは終わってなかった……ま、まだ続いてたんだ」


「ド阿呆!あんな呪いがそうやすやす解けるもんかよ、だからあれほど用心せえとお前にも、お前の親父にも言ったろうが!」


祖父の怒号に男性は慌てて口を噤(つぐ)み俯いてしまった。


「あ、あのう?」


そう言っておそるおそる片手を上げた。


「なんだ?」


不機嫌そうに祖父はそれに返事を返す。


「状況がさっぱり分からないんだけど……あと、なんで私がここに呼ばれたわけ?」


「ちっ……おいH、説明してやれ」


祖父の声にHと呼ばれた男性は戸惑うようにしてこちらを見てきた。


ってなんで私が舌打ちされなきゃいけないのか。


「心配すんな、こいつは俺の孫だ、この家業の事も全部話してある」


躊躇していたHさんは祖父の言葉に納得したのか、しばし沈黙したあと重い口を開いた。


「うちは先々代のころから、この土地で土木をやっていました。親父が跡を継いだ頃はこのあたり一帯の仕事はうちがほとんど仕切るくらい地元ではそこそこ大きな会社だったんです」


「だった?」


思わず口を挟むと、Hさんはそれに深く頷き返し再び話を続けた。


「親父の会社は潰れちまったんです、あんなもの……あんなものを掘り当てちまったからっ……!」


そこまで言ってから、Hさんはまたもや口を貝のように閉じてしまった。


俯いたまま、両ひざに置かれた拳が微かに震えている。


「あれは……まだまだ残暑の残る九月頃だったかな」


押し黙ってしまったHさんの代わりに、祖父が突如話し始めた。


「当時まだ若かったこいつと親父さんの手下どもが血相かえてやってきてな、親父が死んだ!親父が死んだってな」


「親父って、Hさんのお父様が?」


「ああ、職人気質で頑固者だったけどな、良い奴だった……死因は事故だ。町開発の一端で親父さんが地面にどでかい穴を掘っていた時でな、穴の中に何かあるってんで重機から降りてそいつを確かめに行った時だった、重機が一人でに転がり落ちてきて、そいつの下敷きになって帰らぬ人ってわけだ……」


「お気の毒に……その、さっきHさんも言ってたけど、掘り当ててしまった物っていうのが……?」


「ああ、親父さんが事故で亡くなった時に掘り当てちまったものだよ」


「違う!あれは事故なんかじゃない祟りだ!呪いだ!宿儺様の呪いだ!!」


突然、先ほどまであれだけうな垂れていたHさんが、今度は血相を変えて祖父と私を交互に見て言った。


一瞬にして静寂に包まれる室内、風鈴の音色が物悲しく鳴ったと同時に、Hさんはハッとして浮いた腰を下ろした。


「宿儺って……?」


祟り、呪い、前回それらの体験をこの寺で嫌というほど経験してしまった私は、その言葉に畏怖の念を抱きつつ困惑しながらも祖父に尋ねた。


「やれやれ……その名をまた口に出す日がやってこようとはな」


祖父は、足元に置いてあった電子タバコを手に取り口に含むと、大量の蒸気を宙に吹いた。


もくもくと立ち上る、白い蒸気が掻き消える様を見つめる祖父の目は、どこかやりきれない切なさを秘めているようにも見えた。


「宿儺……大和朝廷、仁徳天皇の御代、飛騨国 、出羽ヶ平(でわがひら)の山 より、一丈程もある一体両面にして四手両脚(よんてりょうきゃく)、甲冑を身にまとった鬼人が現れた。鬼人はその四本の腕を巧みに使い、一度に二張りの弓を射ることができ、またその足駿足にして、駆けることは馬よりも速かったという。鬼人は高沢山で悪事を働いていた邪龍を倒し、また飛騨の位山にて七儺(しちな)という悪鬼を天皇の命で見事討ち取った という」


「鬼人?龍って」


「荒唐無稽、お伽話の与太話ってか?まあ聞け。元々日本書紀や風土記には度々こうした異形の者が現れるもんだ。それは大抵時の権力者の敵対勢力として蔑視を込めた形容とも言える。鬼や龍、相手が強大であればあるほど、それを打倒した物には絶大な誉となる。宿儺もそれに漏れず、天皇の命により武振熊(たけのふるくま)が打ち取った飛騨の豪族だとも伝え聞く。のちに色々な尾ひれがついて、その形容と言い伝えにより、両面宿儺という異形の鬼人が生まれたんだろう」


「両面宿儺……それが掘り当てられたものとどういう関係があるわけ?」


「宿儺が鬼人かどうかは別として、一説には宿儺には不思議な力があったと聞く」


「不思議な力?」


「ああ、お前もよく知っているだろう」


「お前もって、なんで私がそんな……」


そこまで言いかけて私は口を閉じてしまった。


西行法師……日本書紀でも度々目にする有名な人物。この西行法師が、私がここ飛騨高山に移り住んだ直後、この寺で起こった最初の事件の発端だった。


とある夫婦に取り憑いたとされる悪霊を払うため、祖父が私の身の内に宿る不可解な力を紐解いた時に聞いた話だ。


西行が高野山で修行していた時、修行中、余りの人恋いしさに耐えられなくなり、鬼の外法を真似て、野にあった人骨で反魂法を行い、人ではない泥人形を生み出した。


心を持たない泥人形はやがて都の人々を襲い、人の体の一部を奪っていった。


しかし、奪うことだけでは人の心は得られないと知った泥人形は、やがて人の病を治すために姿を変え何処かへ旅立っていったという、人の心を手に入れるために。


そしてなぜか、その力の一部である、入壺という人の内に巣くう不浄なものを吸い取るという不思議な力が、私の中にあるという事を祖父は教えてくれた。


未だに自分でも信じられないし納得も言ってない事だが、祖父の言う不思議な力というのは、おそらくそれを指しているのだろう。


「飛騨にも数々の豪族がいたが、時の朝廷を脅かすほどの力を持っていた宿儺は、それと同等に民からの信頼も厚かった。しかし、権力者達はそれを許さず、宿儺討伐という流れになってしまったのだろう。宿儺亡き後、民は悲しみに暮れ、その亡骸を手厚く葬ったという。とまあここまではお涙頂戴の昔話だ、問題はここからさ」


話を続ける祖父の顔が、いや、その雰囲気そのものが変わった気がした。


その変化に気が付いたのか、俯き続けていたHさんも顔を上げ祖父の顔色をじっと伺っている。


「ここからは俺の親父、先代から聞いた話だ。宿儺亡き後、村で妙な事が起こり始めた、それが今回の事件に纏わる話だ……」


「今回の……村で起こった妙な事って?」


「異形の子供が産まれるようになったそうだ」


「異形……?」


「ああ、一つの体に両面の顔、四本の腕を持つ赤子だよ」


「そ、それってさっき言ってた両面宿儺っていうのと同じ……」


「姿形はな。恐らく今で言えば奇形児ってやつだろう。その村の一説にはこうあったらしい。人々から不浄なものを祓い、それを己が身に受け止めていた宿儺の遺体から不浄な気が漏れ、村の井戸を穢した。その井戸水が原因でこの様な事態を招いたのではと言われていたらしい。正に宿儺の呪いかもな。真意の程は分からんが……」


そう言うと、祖父はテーブルに置いてあった煙草を口にくわえ、マッチで火を灯した。


ユラユラと立ち上る白煙が、エアコンの風に煽られながら消えてゆく。


「ふう……さて、この話にはまだ続きがあってな、宿儺ってのは亡き後も村人に信仰されていたんだ。何てたって民を守る鬼神様だったんだからな。そしてそんな中で起きた宿儺の呪い……宿儺を信仰していた奴らはこう思っただろうな、これはお告げである、と……」


「お告げ?なんの?」


私が聞くと祖父は嫌味ったらしく笑って言った。


「そんなの決まってるじゃねえか、恨み、復讐だよ……」


「な、何でそんな!」


「死してなお呪いを放つ、それはもはや祟だ。では宿儺を信仰していた奴らは何を思う?宿儺は祟り神となってこの地を呪おうとしている。民を守り、朝廷と一人朽ちるまでその身を呈して戦った宿儺を、村人達はその怨念から救いたいに決まってるだろ。だったら、その怨念から解放するには手っ取り早く何をすればいい?」


祖父の目が色めき立つ。

僅かに興奮し息を荒らげ、まくし立てるように私達に口を開く。


「簡単さ、宿儺を殺した奴らを血祭りにあげればいい。宿儺の恨みを晴らせばいいんだ。勿論、村人共にそんな力はない。だったらどうする?他に手段は?力のない人間が最も手を出したくなる手法だ……そう、それこそが呪いだよ……」


そこまで言って祖父は口元に手を当てて笑いを押し殺す。


「くくく……村ではその日以来、産まれた奇形の子供達が次々に消えていったらしい……」


「消えていった……?」


「ああ……まあ村人共達も気付いてはいたんだろうさ、けれど誰も何も口は出さなかった。これは宿儺様の祟りなのだ、宿儺様の怨念がそうさせるのだと。やがて村で呪いは完成した。宿儺の呪いで産まれた奇形児を使ってな……」


「こ、子供を……呪いの道具に使ったの……?」


「そうだ……」


そこまで聞いて、私は気が付くと立ち上がり廊下を走っていた。

口元をハンカチで抑えながら。


暫く洗面所に篭った私は、顔を洗い落ち着きを取り戻したところで祖父の元へと戻った。


部屋の近くまで来ると、祖父がHさんと話している声が聞こえてくる。


「死んだのはお前の親父さんだけじゃねえんだ……関係してた奴らも次々に殺られた。役場の奴らも大騒ぎで、市の方とも話をつけるから何とかしてくれと、街中が大騒ぎだったんだぞ……そいつをまた掘り当てちまうとは……本当にお前ら揃いも揃って……」


また掘り当てる……?


障子を開け私は二人の間に割って入った。


「また掘り当てるってどういう事?」


二人にそう聞くと、祖父は軽くため息を吐き、Hさんは大きく肩を震わせ私の方を見た。


「お、俺も今土建屋をやっているんです……街の区画整理で受け持った場所を工事していたら、あ、あれを……親父が掘り当てちまったやつを……」


そう言ってHさんは庭先に目をやった。


窓から覗ける縁側に、青い風呂敷で包まれた大きな長方形の……箱?


ふと、一番初めにこの部屋を訪れた時の祖父の会話が頭を過った。


なんっちゅうもん掘り当てたか分かってるのか……。


まさかHさんが今日ここに来た理由って……。


「宿儺の……呪い……」


そう言って私の喉がごくりと鳴った。


「あの箱は時限爆弾みてえなもんだ……いつ呪いが発症するかも分からねえ。ただ一つ言えるのは、あれが発動すれば多くの人間が死ぬって事だ。俺の親父はあれを払い俺に燃やすように命じたが、少なくともその間にこいつの親父を含め関係者が五人も亡くなった」


「五人!?そんな……そんなの大事件じゃない!」


「ふん……呪いに証拠なんざねえ……表向きは事故や突然死、そんなものどこにでも転がってる事件だろ。まっ、死んだのが全員関係者、しかも短期間にまとめて五人って事を除けばだけどな……」


「そんな偶然……」


私がそう言いかけて、祖父がそれに被せるように口を開く。


「ねえよな……だから俺たちは必死こいて隠蔽したんだよ。当時の先代は役人にも顔が広かったし、町ぐるみで動いてやっとこさ落ち着かせる事ができた……なのに今度は馬鹿息子がアレを掘り当てちまうときた……はあぁ」


祖父は言って大きな溜息をつき、庭先に置かれた箱をきっと睨む。


「ちょ、ちょっと、この人だって掘り当てたくて掘り当ててしまったわけじゃ……」


さすがに言い過ぎだと思い私は祖父に口を挟んだ。


「ふん……そういやお前、前に嫁さんに子供連れて逃げられたらしいじゃねえか、会社も上手くいってねえみたいだし、それもこれも全部宿儺の呪いかおい?」


「そ、それは……」


Hさんはガタイのいい身体を縮こませ更に俯いてしまった。


「それとこれとは話が別でしょ!今はあの箱をどうするかが問題じゃないの?」


すかさず私が助け舟を出すと、祖父は何故か私を見てニヤリとして見せた。


「ふん、分かってるじゃねえか、だったら話は早いよな」


「えっ?何……?」


思わず聞き返すと、Hさんが顔を上げ私と祖父の顔を交互に見た。


「こいつの親父の時は先代がまだ居たから良かったが、今はその頼みの綱である先代ももうこの世に居ない。正直俺だけじゃこいつを扱うのは無理だ……」


「そ、そんな何とかならないんですか!?」


祖父の無理という言葉にHさんが強く反応を返した。


「慌てるな、俺には無理でも今はこいつが居る……なあ香桜?」


「なっ!わ、私!?」


「ああ、お前の入れ壺を使えばあるいわ……」


「い、入れ壺?」


Hさんが首をかしげ聞いてきたが私は苦笑いをこぼし誤魔化した。


「そ、そんな簡単にやれるものなの?何か聞いてたら凄い呪いみたいだし……」


「まあ何とかなるだろ……用意する。香桜、お前はそこに座れ」


「えっ、あっうん……」


私は祖父に言われるまま部屋の中央、Hさんに相対するようにして座り直した。


すると祖父はあの箱を重そうに抱えると、少しふらつきながら、私とHさんの前に置いた。

箱の中からはガラガラと何かが転がるような乾いた音が聞こえてくる。


「ふう……さてと、始めるぞ香桜」


「えっ?」


私の返事も待たず、祖父はそのまま部屋の灯りを落とすと、部屋の隅へと向かい腰を下ろし、私とHさんを睨むようにしてあぐらをかいている。


「急にやれって言われても……」


困った……。

祖父の言う入れ壺とは、前回の事件で私が使った得体の知れない力だ。

代々とこの血に受け継がれている力らしく、邪気、人の身に巣食う悪しき気を吸い取る術の一種だと祖父は言った。

何でもその事の発端は、あの西行法師からだと言うから、にわかには信じられない話。

しかし、私は前回の事件でその力の一端をこの目で見てしまったのだ。

信じようと信じまいと、受け入れるしかない事実だけが、私の身の内にある……。


「そういやH、お前何で嫁さんに逃げられたんだ?これか?」


そう言って祖父は下卑た笑みで小指を立てて見せた。


最悪だこのジジイ……。


「なっ、何で今そんな話を!あいつが出て行った理由なんて知りませんよ!お、おおかた男でもできたんじゃないんですか!?」


「ほう……だとしたら子供まで連れてったんだ、さぞかしお前さんより甲斐性のある野郎なんだろうな」


「ちょ、ちょっとお祖父ちゃん?」


さすがに目に余る。私は思わず振り向き祖父に抗議した。


「いいから、お前は箱に集中しろ!」


祖父が声を荒らげて言ってきた。


「なっ!?ふんっ……」


なぜ私が怒鳴られなければいけないのか、釈然としないない気持ちで私は箱に視線を向けた。


「そうそうH、お前の親父さんが使ってた昔の土場、あそこも区画整理の対象になってたんだな。あそこはお前の管轄じゃないのか?」


「えっ……ああ、あそこはうちの受け持ちです」


Hさんが少し強ばった顔で答えた。


「そうかそうか……だとしたら、お前さんが深夜あそこで何かしてたってのも頷ける話だよな」


「なっ……何を急に!?」


突然Hさんが声を荒らげて言った。

かなり動揺している様にも見える。


「ん?お前さんの管轄だ。深夜土場でお前が何してようと別にやましい事はねえだろ。近所迷惑になりさえしなけりゃよ」


「えっ……ええ、まぁ……」


「たとえば……死体を掘り返すとかな……」


「ひっ!?」


突如Hさんが短い悲鳴を挙げた。

その時だった。


「きゃっ!?」


突然、手をかざしていた箱から、黒い霧の様なものが私に向かって勢いよく流れ込んできた。

思わずその場で尻もちを着く。


「なななっ何だこれ!」


Hさんにも見えているのか、私の方を見て驚愕している。


「香桜!」


祖父が私の名前を強く叫んだ時だった。


『やめて……あなた……この子……だけでも……』


頭の中に響くか細い女性の声、そして目まぐるしく流れ込んでくる映像。


これは……Hさん?


怒り狂ったHさんの形相。

両手には大きな鉄の塊。

狂気の瞳には赤い緋が灯っている。


その視界の先にあるのは……あるのは……。


赤ちゃんを抱き抱えた泣き叫ぶ女性の姿。


瞬間、振り下ろされる鉄塊。

返り血がHさんの顔に振り返る。

それを拭おうともせず、繰り返し鉄塊を振り下ろすHさん。


「うわあぁぁっ!?」


気が付くと、私は叫び声を上げていた。

目頭が熱い。

鼻の奥がジンジンとする。

溢れる涙を拭うこともできず、私はその場で泣き崩れていた。


「何を見た……香桜……?」


祖父が、項垂れる私の背中に声を投げかけてきた。


私はそれに振り絞る声で答えた。


「Hさん……Hさんが女性と赤……赤ちゃんを……」


「や……やめろ!!」


遮るようにHさんが吠える。

それ以上口にするなと言わんばかりに。


が、私は口を閉じなかった。


「殺した……」


「やっぱりな……」


祖父がため息混じりにボソリと言った。


「知って……たの?」


顔だけを向け祖父に問いかけた。


「この馬鹿が来る前に、こいつんとこの奴らに片っ端から電話して聞いたよ。こいつがこれを掘り当てたって大騒ぎする前日の深夜に、一人で重機を使って何かしてたってな。他にもあるぜ?生まれた赤ん坊、誰にも見せてないって?普通産まれたら周りのもんに写真でも引っさげて自慢するもんだろ?それとも見せられない事情でもあったってえのか?ああっ?どうなんだHよっ!?」


最後は怒声に近かった。

祖父はそのままHさんを睨みつけたまま凝視している。


「き、奇形……」


か細く途切れそうな声でHさんが口を開く。


「聞こえねえよ!」


祖父の一括する声にHさんは肩を震わせ再び口を開く。


「産まれてきた子は奇形だったんだ!!お、俺は下ろせって言ったのにあいつは聞かなくて……無理やり家に連れて帰った挙句二人で育てようって……そ!そんなのできるわけがないだろ!俺の人生だぞ!?そんな、そんな先の見えない人生なんか……」


「だから殺したのか!?そして男と逃げたとほら吹いて埋めちまったってか!?挙句あそこが区画整理対象になっちまったもんだから掘り返して、あまつさえ処分に困ったんでそれを宿儺の箱に見立てて俺に処分させようと?舐めるのもいい加減にしろ小僧!!」


怒りに狂った形相で怒鳴り散らす祖父。

ここまで怒りに満ちた祖父は初めて見た。


「じ……自主……し……ます……」


そう言ってHさんは項垂れると、その場で嗚咽を漏らしながら泣き始めた。


「けったクソ悪い。てめえは人なんかじゃねえ。人の面被った獣だ。警察呼んでやる。後悔なら牢屋でやんな……」


祖父は捨て台詞を残し、部屋から去って行った。


暫くして、寺は慌しい空気に包まれた。


大勢の警察がやってきて、あれこれ事情を聞かれるはめになった。


鑑識とかいう人達があの件の箱を丁寧に調べあげ、箱を持ち去る前、祖父はその一人にこう尋ねたらしい。


「中身は……?」


「人骨ですがまだ新しいものかと……宿儺ではありません……」


そう祖父に言い残し、鑑識の人達はその場を去ったという。


街ぐるみで……祖父が言ったその言葉は本当のようだ。


めまぐるしい一日を終え、私は庭で夜空の星を眺めていたところ、祖父に呼び出しを受けた。


そこは本堂のある屋内。

蝋燭の灯りが、ぼんやりとした淡い光で部屋を照らしている。


揺らめく影が一つ。

部屋の中央には件の祖父の姿があった。


「何……?」


「着いてこい……」


そう言うと祖父は本堂に飾られた大きな仏像の背後に回り込み、何やら動かしている。


すると仏像の背後から重苦しい鉄の塊が大きな鈍い音を立てた。


「な、何なの?」


戸惑いつつ私も仏像の背後に回ると、そこには見た事もない隠し扉が存在していた。


「暗いから足元に気をつけろ」


振り返りもせず、祖父は慣れた足付きで地下に通じる階段を降り始める。


遅れまいと私も階段を降った。


降った先には南京錠が掛けられた重々しい扉があり、祖父は持っていた鍵でそれを開いた。


「こっちだ……」


祖父が中に足を踏み入れ奥へと進んで行く。


着いていこうと足を進めた時だった。


「何……これ……?」


「ふん……さすがだな。やはりお前やお前の母さんみてえな奴らは、これが直ぐに感じ取れるんだな……羨ましいこった」


母さん?なんで今母さんが話に出てくるの?


いや、それよりもなんだろうこの感覚。


重い。

体が。


何か上から押さえつけられているような。


そしてこの張り詰めた空気。

まるで肌を刺すような痛みに似た感覚。


それでも何とか足を前に踏み出し、立ち止まる祖父の背中に追いついた時、私の視界にあるものが映った。


それは……それは大きく、真っ黒な箱だった。


飾りっけもない、ただ一つ、箱に巻かれた大きなしめ縄を除いては……。


「何……これ……?」


発した声が上擦っていた。

いや、震えている?


気が付くと、口元からカチカチと歯音がなっている。


顎が痙攣し、首筋から足元まで肌が逆立つ。


見開いた目が、黒塗りの箱から離せない。


「宿儺の呪いだ……」


今、祖父はなんて言った……?


宿儺の呪い?


確か呪いは……箱は燃やしたと、祖父は言ってなかったか?


僅かに動いた目で祖父を見る。


恍惚とした笑みを浮かべ、血走った目で箱を見つめている。


「燃やすわけねえだろ……これは……これは俺のものだ……誰にも渡さねえ」


その一言に、私の視界が一瞬でフェイドアウトした。


祖父は……祖父は最初からHさんが持ってきた箱が偽物だと知っていたのだ。


本物を……ずっと隠し持っていたから……。


意識が遠のいていく。


暗がりに僅かな光が見える。


誰かいる。


着物を着た女の子……あれは昔……。


そう……昔、この寺の蔵で出会った少女、月愛(つきな)ちゃん……いや、私と同じ呼び名、香桜(かぐら)ちゃんだ……。


『香桜……私を……私を見つけて……』


その声に私は答えられなかった。


意識が沈んでゆく。


遠い微睡みの中、蔵で月愛(かぐら)ちゃんと絵を描いていた、あの頃の夢幻(ゆめまぼろし)の記憶。


溶け込むように混ざり合い、やがて全てが闇となり、私の意識はそこで途絶えた。










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祖父のあこぎな裏稼業 コオリノ @koorino

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