祖父のあこぎな裏稼業

コオリノ

第1話「入れ壷」

北アルプスから覗く陽の光に当てられ、心なしか、庭の緑がどことなくぐったりとしている。


「今の私みたいね……」


暑いからではない。都会暮らしに慣れていた私にとっては、ここ飛騨高山の夏は快適だ。


といっても、ここに越してきてまだ一週間の身だが。


東京にある女子高を卒業した私は、長年教員という職を歩んできた、両親の推薦する大学を蹴り、昔から行きたかった飛騨にある美大へと進学した。


強引に押し切った手前もあり、一人暮らしの出費を親にお願いする事もできず、困っていた私に手を差し伸べてくれたのは、飛騨高山で寺の住職をしている母方の祖父だった。


幼い頃、数年だけここで一緒に暮らしていた事があるのだが、何分幼かったせいか、その頃の記憶はほとんど抜け落ちていて、正直初めは一緒に暮らしていけるか不安に思っていた。


が、そんな気苦労は最初の一週間で消し飛ぶ事となった。


と言うのも、祖父は寺の住職という身で、さぞ規律正しい生活をしているのだろうと思いきや、これが生臭坊主を絵に描いたような人物だったからだ。


境内や庭の掃除はお弟子さん達が行い、朝食が出来上がる頃にのそのそと起きてきたかと思えば、やれ「豆腐の味噌汁がいい」だの、「海苔は有明産のものが良い」などとのたまう始末。


もちろん朝の読経すら挙げている姿など、この一週間一度も見た事がない。


あれでよく住職が務まるもんだと、首を捻る毎日だ。



まあ寺というものは、そもそも世襲によるものがほとんどらしく、代が替わればこうも変わってゆくものなのかもしれない。


それでもこうやって住まわせてもらっているのだから文句は言えまいと、自分に言い聞かせていた一週間目の今日、事態は急変した。


朝、何気なく庭先を散歩していた時の事だ。


いつもは閉まっていた祖父の部屋の雨戸が開かれており、中の様子が外から伺えた。


祖父以外の誰かがいる。


女性だ。弟子の方ではない。


反射的に身をかがめ部屋に視線を向けると、五十代半ば程になる女性が、何やら布の様な物を、祖父に渡しているのが見えた。


祖父がそれを手に受け取った瞬間、布が僅かにずれ落ち、見覚えのある紙の札束が見て取れた。


そう、文字通りのお札だ。あの束だと二百万程あるのではないか?


目を細め、草葉から少し身を乗り出した時だった。


「あっ」


思わず声が漏れる。


祖父と目が合ってしまった、ばっちりと。


「ちっ」


祖父は舌打ちしながら、すぐさま襖を乱暴に閉めてしまった。


見てはいけないものを見た……。


いたたまれずその場を後にし、今現在、こうして首をもたげた緑の草花を、呆然と眺めているというわけだ。


とりあえず部屋に戻ろう。


肩を落とし、きびすを返した時だった。


「おい、香桜(かぐら)」


背後から私を呼び止める声、祖父だ。


気まずくはあるが、無視をするわけにはいかない。

それにさっきのは何かちゃんとした理由があるのかも……。


「さ、さっきのはあれでしょ?檀家だっけ?法事か何かのお、お礼とかでしょ?」


「はぁ、やっぱり見てたか」



祖父はそう言ってため息をつきながら首を振って見せた。


「まあ俺の噂なんかほっといってもいつかは耳にするだろうから、教えといてやる」


「う、噂?」


「ああ、この辺りは顔見知りばかりだ、嫌でも耳にするさ……大体、今日び寺なんてそうそう儲かるもんでもないんだよ、今の御時世じゃな」


「ど、どういう事?」


「お前が言うように寺ってもんは、大抵は檀家っていう、言わば信者のお布施によって成り立つもんさ。葬祭関係なんかでな。けれど時代の流れか、年寄りがどんどんくたばっちまうせいで、その檀家の数も年々減ってきてる。肝心な墓守も……知ってるか?最近の奴等はスマホのアプリで墓を建てるらしいぞ。全く呆れたもんだ」


祖父は馬鹿にしたような口調でそこまで言い切ると、小さく咳払いをした後、再び口を開いた。


「ともかくだ、このままじゃ葬儀屋に中抜きくらっていいように扱われるか、黙ってうちを廃寺にするしかない、そこで俺は考えたのさ、霊げんいやちご、もとい霊げんあらたかってやつをな」


「霊験……あらたか?」


「ああ、世の中悩みを抱えてる奴は大勢いる。大抵の奴は現実って奴を見据えて、しっかり地べたに根を下ろして生きている。けれど、中にはそんな現実と向き合えない哀れな奴らもいるのさ。さっき俺の部屋で見たろ?あのババアもそうさ」


「ば、ババアって……」


祖父の暴言に思わず声が上擦る。


幼い頃の記憶が抜け落ちているとはいえ、自分の祖父がこんなに品に欠ける人物だったとは……軽いショックを受けていた私を無視し、祖父は話を続けた。


「あのババアはな、旦那に先立たれて、残された姑と二人で暮らしてたんだが、これが絵に描いたような仲の悪さでな。家の事や遺産の事もあるから、籍を抜かずに我慢して一緒に暮らしてたらしいんだが、それでも辛いと俺に相談していたのさ。でだ、霊験あらたかな俺は、仏のお告げを賜ったと、あのババアに、もう少し我慢して暮らせば、きっと仏の道は開かれるって言ってやったのさ。まあ種を明かせば、その姑の主治医と俺は麻雀仲間でな、借金チャラにする代わりに、その姑の個人情報を頂いてたってわけよ。そしたらその姑さん、末期癌だって言うじゃねえか、それを聴いて今回の件を閃いたってわけさ」


「そ、その姑さんは?」


「死んだよ、おとといの夜にぽっくりとな。もちろん、供養は俺がしてやった。墓も一番高いやつ御購入済みだ。で、さっきの金ってわけだ」


「そ、それって……」


詐欺、という言葉が喉まで出掛かったが、口に出す事はできなかった。


詐欺ではない……しいていうなら、人の弱みにつけこんだあこぎな商売だ。


代わりにと言わんばかりに、私は侮蔑を含んだ目で祖父を睨み付けた。


「まあ他にも色々とあるがな、とりあえずこれが俺の裏家業って奴だ。おかげで黒い噂も立つが、これが逆に良い宣伝になってな、業績は上々だ、はははっ」


生臭坊主の方がまだ可愛げがある。


そう思いながら思わず拳を強く握った時だった。


「なあ香桜、お前、後でちょっと付き合え」


「えっ……?」


「なあに、大事な孫を取って食いやしねえよ。ただで面倒みてやってんだ、ちょいとばっかし頼みたい事があるだけだ。後で呼びに行くから部屋で待ってろ」


祖父はそう言い残すと、私の返事も待たずに、欠伸をしながら寺の中へと戻って行ってしまった。


「何なの……あれ」


失望、軽蔑、諦め、様々な喪失感に、もはや何を言えばいいのか。


飛騨の小京都と呼ばれる、この町に吹く爽やかな夏風も、今は陰鬱な気持ちでしか感じられない。


熱い空気がじっとりと全身を包んでいた。


槍ヶ岳から射す初夏の陽光に顔をしかめながら、、私は暗澹(あんたん)たる気分のまま、部屋へと戻った。




お弟子さん達と朝食を済ませた私は、約束通り部屋へと戻った。


三十分程たった頃だろうか。


──コンコン


「いいか……?」


祖父の声だ。


「どうぞ……」


短く返事を返すと、扉が開き、祖父が部屋の中に入ってきた。


「今時の若い女の部屋……って感じでもねえな」


言いながら、祖父は私の部屋を見回した。

すると壁に飾っていた一枚の絵に、祖父の目がピタリと止まった。


「何?まだ何か言い足りないわけ?」


皮肉っぽく言うと祖父はハっとしてこちらに振り返った。


「あ、いや、この絵、まだ持ってたんだな」


「そりゃまあ、これは私の大事な絵だし」


そう、この額縁に飾った絵は、私の大切な宝物だ。


私がまだ幼かった、当時七歳の頃に、このお寺で幼馴染の女の子、月愛(つきな)ちゃんの絵を描いた時の物だ。


私が唯一この寺で覚えている記憶の一つでもある。


月愛ちゃんとの出会いがあって、私は絵を描く楽しさを知った。

言わば私の原点だと言っても過言ではない。


「月愛ちゃん、元気かな……」


ふと、思わず呟いた。


確か両親の仕事の都合で引っ越したと記憶している。


そういえば、あの頃は月愛ちゃんがいなくなったと言って毎日泣いていた気がする。


ふと蘇った記憶に感傷していると、


「おい、時間がない、行くぞ」


「えっ?」


気がつくと、部屋の外に祖父が立って、こちらを冷めた目で見ている。


そのまま顎をしゃくって見せ、祖父はさっさと廊下の先に向かって歩いて行ってしまった。


私はもう一度月愛ちゃんの絵に視線を移した後、慌てて祖父の後を追った。




廊下をしばらく進み、やがて祖父の部屋へと辿り着いた。


中へ案内されると、祖父は周囲を確認するように見回した後、徐に口を開いた。


「今、客が来ててな……話したろ?あれの依頼者ってやつだ」


「依頼者?それって、もしかして今朝話してた裏家業ってやつの?」


祖父は黙って頷く。


「わ、私に手伝えって?」


「ばか、でかい声出すな!別に何もしなくていい、お前はただ黙って頷いてりゃいいんだ」


「いやよ、何で私がそんな事、」


「ここを出てまた一人暮らしでも始めるか?お前も身をもって知っただろ?この辺りの事情ってやつを」


祖父の言葉に、私は思わず押し黙ってしまった。


確かにこの辺りの時給は安く、正直大学に通いながらバイトを掛け持ちしてやっていくには限界がある。


まあ私の根性が足りないだけかもしれないが、少なくともそれで窮地に陥っていたところを、祖父に助けてもらったのは事実だ。


「お前さんはただ奥さんと同じ部屋にいてくれればいい、旦那とは話がついてるしな」


「奥さん……?」


「ああ、今回依頼してきた男の奥さんだ」


そう言って、祖父は今回の依頼の内容を、私に語り始めた。


祖父の話によるとこうだ。


依頼者は会社員の男性Cさん、四十歳。奥さんのK子さんは三十歳で、結婚して二人とも五年目になるそうだ。


海外赴任が増え、Cさんの仕事が忙しくなったのが一年ほど前から。


その時から奥さんの様子がおかしくなっていったとの事らしい。


真夜中、突然大きな声で喚きだし近所から警察を呼ばれたり、突然自分の手首に噛み付き、病院で何針も縫ったりだの、とにかく奇行が目立つようになった。


精神科などにも見せたがありきたりの診断しかされず、処方された薬もまったく効果をみせなかったという。


方々の手を尽くしたが解決の糸口が見つけられず、知り合いを頼りに、この寺を紹介されたという。


「いきなり、首絞めてきたりとか……しない?」


そう聞くと祖父は、


「俺は直ぐ隣の部屋にいる、ほれ、これ耳にはめとけ」


「何これ?」


「見て分からんのか?ぶるーとぅーすってやつだ。指示はこれで出す」


「知ってるわよこれぐらい」


何で年老いた寺の住職がこんな物、と言いたいとこだがやめておいた。


私は言われた通り耳にブルートゥースをはめると、再び歩き出した祖父の後に続いた。


やがて奥の部屋に通されると、眼鏡を掛けたインテリ風の男が、部屋の中で身構えていた。


「この女性が……例の?」


眼鏡の中年男性は、祖父にそう言うと私に軽く頭を下げ、再び祖父の方に振り返った。


どうやら話に聞いていたCさんという男性らしい。


それより、例のって?


問いだたそうとする私を、祖父は目で威嚇しながら、


「ええ、そうです。早速始めましょう」


と、Cさんに向かって言うと、


「ちょ、ちょっと」


半ば強引に私を、隣の部屋へと押しやった。


仕方無しに襖を開け足を踏み入れる。


昼間だというのにとても薄暗く、それにかなり蒸し暑い。


中を見回すと、奥に女性が一人、座布団の上に正座をしている姿が確認できた。


件(くだん)の奥さんK子さんのようだ。


私は慌てて一礼すると、向かい側に設けられた座布団に腰を下ろした。


後ろの襖が閉じられ、中はかろうじてK子さんの衣服が確認できる程度の明かりとなった。


それにしても暑い……蒸し風呂のようだ。


K子さんは平気なのだろうか……?


視線をK子さんに向けた。


黒のワンピースドレスに、ベージュのカーディガンをはおっている。


どこか虚ろな目の下には、これでもかといわんばかりの大きなマスクを着けている。


ノースリーブ一枚の私でさえ、この暑さだというのに……。


「あ、あの……大丈夫……ですか?」


思わず声を掛けると、


「は、はい……」


と、何とも弱々しい返事が返ってきた。


しかもよく見てみると、額からかなりの汗がにじみ出ている。


髪に付着した汗が、畳につたい落ちてポタポタと音を立てた。


どうやらここに来る前からだいぶこの部屋で待たされていたようだ。


「ええと、上着を脱がれては……?」


そう言ってみたが、K子さんは嫌々をするようにして首を振る。


どうしたものかと考えてふと気がついた。


この異様な暑さで、私の額にも汗が滲んでいたのだ。


「ちょっちょっとこの部屋暑すぎない?これじゃ、」


と、耳元のブルートゥースに、そこまで言いかけた時だった。


──ドサッ


えっ?


K子さんだ。


畳に突っ伏すようにして倒れこんでいる。


まずい。


私は咄嗟にK子さんを抱きかかえ、上着を脱がせ畳の上に寝かせた。


『どうした?』


耳元から祖父の声が聞こえた。


『直ぐに来て、K子さんが!』


私がそう言うと、


──ガラッ


襖が勢いよく開かれ、隣の部屋から祖父が走り寄ってきた。


その剣幕に圧倒されていると、祖父は何も言わずK子さんの体を舐め回すように見出した。


「なっ、何してんのこんな時に!?」


祖父の肩を掴みそう言った時だった。


「あ、あんた達一体K子に何を!?」


Cさんだ。異様な様子に気づき部屋に入ってきた。


「ち、違うんです!暑さのせいでK子さんが倒れて今救護を、」


「暑さだと?ん?な、何だこの部屋は?」


Cさんも気がついたらしく、部屋の温度に驚いている。


「いやあすまんすまん、わしとした事が、エアコンのスイッチを間違えて暖房にしとったようだ」


突然、祖父が聞こえよがしな言い方で言った。


「ふ、ふざけるな!何なんだあんたらは、もういい、K子、帰るぞ!」


Cさんは祖父に腹を立てたのか、まだぐったりしたK子さんの腕を無理やり引き起こした。


強引に起こされたK子さんは、頭を抑えながらそれでも自力で立とうとした、その時だ。


「まあ待ちなさいな、出て行くのは、この痣の事を教えてからにしてほしいものですな……」


「な、何だと……?」


祖父の言葉に、Cさんの顔色が明かに変わった。


Cさんの腕の力が抜けたのか、K子さんの体がするすると崩れ落ちそうになり、私は急いでその体を抱き支えた。


そして、そこでようやく、祖父の言っている言葉の意味に気がついた。


K子さんの体のあちこちに、明かに内出血と思われる青痣が、いくつもできていたのだ。


「こ、これって殴られた後?もしかして、DVってやつじゃ……」


恐る恐るそう口に出し、K子さんのマスクを剥がすと、やはり口元にも同じ青痣があり、痛々しそうな唇の切り傷が残っていた。


「ち、違う!そ、それはK子が自傷行為でやったんだ!!」


Cさんが、さっきとはまるで人が変わったかのように顔を険しくさせ、叫ぶように言った。


「ほほう……痣は背中にもありますな、あんな場所、一体どうやって自分で殴ったんでしょうかね……?」


「ぐっ……!?」


祖父の返しの言葉に、Cさんは言葉をつぐむ。


「香桜、狐憑きって知ってるか?」


「え?あ、うん、聞いた事は……ある」


祖父の言葉に、私は頷いて見せた。


「昔から、狐ってのはよく女に取り憑くもんだ。だがそれは別に狐が悪さをしているわけじゃない。悪さしているのは人間さ。今でこそ少なくはなったが、昔は女の立場ってのはめっぽう弱かった。今じゃ人権だの差別だのと言えるが、昔はそんな都合の良い言葉、なかったからな」


そこまで言って、祖父は持っていたペットボトルの水を、K子さんの口へと運びながら、再び口を開く。


「誰も守っちゃくれねえ、他所から嫁いだ女は、所詮結婚しようが余所者だ。そうやって気が狂う程に差別され続けたんだ。だったら、自分から狂うしかないよな?そう、女は自分で狂う振りをするしか、生きる術がなかったんだ……」


「じゃ、じゃあK子さんの奇行って……そう言えば、何でK子さんが暴力を受けているって分かってたの……?」


「まあ事前に依頼者の事は調べるたちなんだよ。それに、こんな暑さの中、日焼け対策にしちゃちと大げさだったんでな、ちょいとかまかけさせてもらったのさ。うちの霊媒師と二人っきりにさせないと祓えるものも祓えないってな。男だと何かと警戒されちまうから、お前に頼んだってわけだ」


聞き終え、私は祖父の観察眼に呆気にとられながら、Cさんを見た。


余程のショックと苛立ちからか、顔は青ざめ、握った拳はワナワナと震えている。


「さて、すぐに弟子達を呼ん……ん?」


そこまで言いかけていた、祖父の顔色が変わった。


何かに気づき、驚いた顔だ。


視線はK子さんに向けられている。


「な、何、どうした、」


言いながら私もK子さんを見て、その先の言葉を失ってしまった。


目が……ない。


「ひっ!」


思わず私は体を仰け反らせた。


目がないわけではない。正確には、目が真っ黒だったのだ。


まるで目玉を繰り抜かれたかのように、そこには空虚な闇が広がっていた。


「お、お祖父ちゃん、な、何これ!?」


言った瞬間、祖父の体は恐ろしいほどの力で跳ね飛ばされていた。


襖の柱が折れ、祖父の体ごと隣の部屋へと激しく転がった。


「よ、寄るな!」


声に振り返ると、立ち上がったK子さんが、ゆっくりとCさんの方へ歩み寄っていた。


そして片方の手を真っ直ぐCさんに伸ばそうとしている。


私は思わず、その手を反射的にすがり付く様に掴んでしまった。


「K子さん!だめ!!」


言った瞬間、私は自分の行動を後悔した。


K子さんの腕が、私の首元を掴み締め上げたのだ。


喉を強く圧迫され何も言えず、激痛に顔をしかめる。


息ができない私は、両手で必死にK子さんの腕を掴むがビクともしない。


それどころか体力を奪われ、抵抗する力も消えかけた時だった。


一瞬、喉が大きく開く感覚がした。


痛みが消え、同時にK子さんの腕の力が緩んだ。


開放されたと思った。


だが違う、体がいう事をきかない。


勝手に動く私の口は、そのまま何かを吸い上げる様にして、大きく開いた。


何かが口から入ってくる。


その感覚に吐き気と眩暈を感じ今にも倒れそうになったが、なぜか体は不思議な力で支えられているようだった。


そして次の瞬間、私は信じられないものを目の当たりにした。


K子さんの体全体から、どす黒い黒煙の様なものが現れ、それが次々に私の口の中に吸い込まれていったのだ。


首を振って嫌々をしようにも、体がいう事をきかない。


やがて黒煙を纏っていたK子さんの体は、ぐにゃりと力を失くし、その場に倒れこんだ。


あの黒煙も、微塵の欠片も見当たらない。


「あっ……」


体が、動く……。


さっきまで勝手に開いた口も体も、今は自由が効く。


恐る恐る倒れたK子さんに目をやるが、さっきみたいな異常はなさそうだった。


「いてててっ……ああ参った。こっちは年寄りだぞまったく」


声に振り向くと、祖父が眉間にしわを寄せ、体のあちこちを痛そうに押さえながら、こっちに歩いてきた。


「だ、大丈夫……?」


そう声を掛けると、


「まあな、それよりお前は?」


言われて気が付いた。


「そ、そうだ!いいいい今の何!?何だったの!?」


「ああ、まあ落ち着け、今のは入れ壷ってやつだ……」


「い、入れ壷?」


「ああ。西行法師って知ってるか?教科書で一度は目にした事ぐらいあるだろ。その西行が高野山で修行していた時の話だ。修行中、余りの人恋いしさに耐えられなくなり、鬼の外法を真似て、野にあった人骨で反魂法を行ったという。ようは骨から人を産み出そうとしたって事だな」


「ひ、人を?そ、それ本気で言ってるの?」


「そんな顔すんなって。まあ聞け。反魂法で骨は人の身を手に入れた。が、それは人としては不十分で、心はおろか喋る事もままならなかったんだ。西行は自分の過ちに気がつき、二度とこんな真似はすまいと、その後は仏道を極めるため精進したらしい、めでたしめでたし」


「ちょ、ちょっと、だから何な、」


「しかし、この話には続きがある」


私の抗議を遮る様にして、祖父は話を続けた。


「ある日、都に噂が広がった。人を襲う魔物が出るってな。そいつは人を襲っては体の一部を奪っていった。多くの者がその魔物を追いかけたが、最後まで見つける事はできなかったらしい。西行から反魂法の話を聞いていた、当時の公卿(くぎょう)伏見中納言(ふしみちゅうなごん)源師仲(みなもとのもろなか)は、もしやと思い部下にその魔物を捜させた。そして年月が立ち、とある女の術師の噂を耳にした。人知を超えた力、人の邪気、悪い気を吸い取り、タダで病を治してくれる女の術師がいる、とな。噂を知った源師仲はその女を探し回り、そしてようやくその女と出会った。源師仲は女に言ったそうだ。お前はもしや、西行の反魂法で蘇った者か?そのような力を振るい、なぜ旅して周っているのかと。すると女はこう答えた、人の心を得るためだ、奪う事では得られないから、と言い残し、女は霞の如く姿を消したそうだ……」


そこまで祖父の話を聞いて、私は呆然としていた。


反魂法?女術師?


そんなファンタジーな作り話を……。


そこまで思いながらも、私は俯いてしまった。


じゃあ、さっき見たあれは何だったのか……。



「あの黒煙は……?」


そう尋ねると、祖父は少し考えた後に口を開いた。


「俺も祖父さんから聞いた話は、それが入れ壷と云われる術だって事までだ、後はしらん。だが、こうも考えられる。もし、その女が本当に心を手に入れたとしたら、そいつの血が、脈々と受け継がれて、今でも残っていたとしたら、あるいは……」


そこまで言って、祖父は冷たい目で私を見た。


まるで人間ではないものを見るような、蔑むような目で……。


「な、何なんだ、何だ今のはっ!?」


腰を抜かしてしまったのか、Cさんが畳に尻餅を着いた格好で喚くように言った。


「見た通りですよ旦那。そうそうさっきも言ったが、ちょいと調べさせてもらいましたがね、あんたの母親、あんたが学生の頃に自殺したそうじゃないか」


祖父がCさんを見下ろしながら言った。


「なっ?そ、それがどうした?」


「あんたの親父さん、地元では愛されてた立派な議員だったらしいけど、家ではどうも、あんたの母親には当たりが強かったらしいな」


「それと今回の事と何が関係ある!?母は弱かった、そ、それだけだ!」


「なるほど、じゃあK子さんも弱かった……だから殴ってもいいと?フン、あんたの母親とK子さんには、立派な因果関係があるじゃないか」


「何っ?因果関係だと?一体何の因果……ま、まさかさっきの出来事は……!?」


そこまで言ってCさんは信じられないといった顔で押し黙った。


つまり祖父は、自殺したCさんの母親が、今回のK子さんの奇行の原因だったと言いたいのだろうか……?


「あ、そうそう、さっきK子さんの体を見た時、こっそり写メを一枚撮らせてもらったよ、K子さんの体の痣をね」


い、いつの間に……。


「何だと!?そ、それをどうするつもりだ?」


ハッとしてCさんは顔を上げた。


その顔を見て、祖父はニヤリと口を歪めてみせた。


「今回の依頼料、高くつきましたなあ、とりあえず土地もいくつかお持ちのようだ、どれか担保にでもしてもらいますかな」


その言葉に、Cさんは肩をがっくりと落として、それ以上は何も言わなくなってしまった。


祖父はその場できびすを返し、雨戸を開け廊下に出た。


「弟子達を呼んでくる」


そう言残し境内の方へ歩いて行く。


残された私は倒れたままのK子さんを抱き起こした。


するとK子さんはうっすらと目を開けて、私に小さな声でこう言った。


「お義母さんは……消えたんですか?」


「ええ……多分、そうだと思います」


そう言うと、K子さんは緩やかに顔をほころばせた。




あの一騒動から二週間が立った。


祖父の生臭坊主っぷりは相変わらずだが、それでもここ最近は機嫌が良いみたいだ。


おそらくあの事件で、Cさんから多額の依頼料でもせしめたに違いない。


少し可哀想ではあるが、同情する気には一切なれなかった。


自分の奥さんに、あれだけ酷い事をしてきたのだから、当然の報いだと私は思っている。


「さてと」


大学の課題を済ませ、一息ついた私はテレビのリモコンに手を伸ばした。


『では次のニュースです。昨夜、○○都○○市のマンションで、男性の遺体が発見されました。男性はこのマンションに住むCさんと見られ、』


「え?」


テレビから聞こえた名前に、私は小さな声を漏らした。


『Cさんの妻であるK子さんの通報により、駆けつけた警察によって発見されました。遺体には数箇所の刺し傷があり、発見当時、Cさんは既に死亡していたとの事です。警察の発表によると、妻のK子さんが犯行を全面的に認めており、現行犯逮捕し署で詳しく取調べを行っているそうです。なお、近所に住む男性の証言によると、この数ヶ月、K子さんは精神的に不安定で、色々とトラブルを起こしていたらしく、通院もしていたとの事です。現在、詳しい事情を』


「何……これ」


テレビの電源を切り、静まり返った部屋で一人呟いた。


立ち上がるが、思わず立ち眩みがした。


スマホを手に取ると、ネットを開き、Cさんの名前を検索に掛けた。


「嘘でしょ……」


ズキンと、頭の内側から殴られたような痛みが走る。


「行かなきゃ……」


ぼそりと言って、私は部屋を出た。


何で?


何で?


何で!?


頭の中で何度も繰り返す。


あの時、K子さんは私にこう言った。


”お義母さんは……消えたんですか?”と。


そして微笑んでいた。


あの笑顔は、ようやくお義母さんから開放されたから?


いや、もしかして……。


あれこれと悩み考えているうちに、私は祖父の部屋の前に辿り着いた。


無言のまま襖に手を掛け、乱暴に開く。


祖父は驚く様子もなく、手に持った新聞に目を通し座椅子に腰掛けていた。


こちらに振り向きもせず、


「何か用か?」


とだけ呟き、湯飲みのお茶に口をつけた。


「テレビのニュース……Cさん、亡くなったって」


「ああ、知ってる」


「K子さんに殺されたって」


「らしいな」


私の言葉に、祖父は淡々と返事を返すだけ。


だが、次の言葉に、祖父はようやく私の方に振り向いた。


「取り憑いてたのって、お義母さんじゃなかったんでしょ」


数秒黙った後、祖父が重い口を開いた。


「どこでそれを……?」


その言葉に、私は黙って祖父にスマホを見せた。


そこには、Cさんの死亡を知らせるニュースと、Cさんの母親についてのニュースが、紐付けられていた。


記事にはこう書かれている。


”亡くなったCさんの母親は、当時夫だったCさんの父親を包丁で殺害後、自らも命を絶った。今回の事件により、皮肉にもCさんは父親と同じ運命を辿る事となり、ネット上でも、何かの呪いじゃないかと噂されている”、と。


「たく、便利な世の中ってのも考えもんだぜ」


記事を見ながら、吐き捨てるように祖父は言った。


「K子さんに取り憑いていたのは、Cさんの母親じゃくて、Cさんのお父さんだったんじゃないの?そして……」


そこまで言いかけて、私はあの時の事を思い返した。


口の中に吸い込まれる黒煙、K子さんのあの笑みの正体を……。


「K子さんに取り憑いたCさんのお父さんは……お父さんは、K子さんの狂気を止めようとしていた。Cさんを、K子さんの狂気から守ろうとした。違う?」


私は思ったままの事を、祖父にぶつけた。胸の中に、こびりつく様などす黒い感情と共に。


「だとしたら何だ?」


氷のように冷たい祖父の視線が、私を睨みつけてきた。


その目には何の感情すらも読み取れない、深い闇が広がっているようにも見えた。


「K子さん……ここに来る前に精神病院に通ってた……」


「統合失調症だったらしいぞ、おまけに夫からのDVだ。俺が撮った写メも、もう渡してるしな。うまくいけば数年で、いや、下手すりゃ執行猶予がつくかもな」


祖父の話に、私は言葉を失った。


「まさか依頼主が二人とはな。いやはや、あの奥さんには恐れ入ったよ。Cさんからは土地の担保も預かったまんまだし、K子さんからはたんまり報酬をもらった、濡れ手に粟とはこの事だ」


「警察だって馬鹿じゃない、それだけのお金が動いてるんだから、きっとお祖父ちゃんだって」


「警察が俺に何の用だって?お払いをしましたか?悪霊が取り憑いていましたかって?はっ、話したとこでどうなる?お前が悪霊を吸い込んだと話すか?誰も信じねえよ」


愕然とした。


この人は、本当に私の祖父なのか……?


いや、そもそも人なのか?


目の前の祖父が今、私の目にまるで違ったものに見えた。


得体の知れない、怪物のような……。


「そう言えば、まだお前に礼をしてなかったな。ご褒美に良い事を教えてやるよ」


「えっ……?」


「お前が大好きだった月愛ちゃんって子、あれは月愛って名前じゃねえよ」


「な、何急に、どういう事?」


「お前の名前、ご先祖様から頂いたって、聞いた事あるか?」


以前、母に聞かされた事はある。


私は祖父に黙って頷いた。


「月愛か……ふん、月愛って名前はかぐら、とも読めるだろ」


「あっ」


確かに、祖父の言うとおり、月はかぐと読み、愛はらと読める。


私の名前だ……いや、ご先祖様の……名前。


でもそんな、あの子は、月愛(つきな)ちゃんは、あの時蔵の中で教えてくれた。


描いた絵を見せた時、あんなに嬉しそうな顔をして……私に名前を……。


「お前、いつも庭の蔵の中で絵を描いてただろ?あの蔵な、けっこう歴史的価値のある物もあるから、鍵は厳重にしてあるんだ。重い南京錠の鍵を、扉の真ん中と上にも取り付けてある。当時のお前じゃどうやっても開けられやしねえはずだ。なのになぜか鍵は外されていて、お前がいつも蔵の中で一人絵を描いてやがった。だいたいあんな真っ暗闇の中でどうやって絵を描くんだ?」


畳み掛けられるような祖父の発言に、私は今にもその場で崩れ落ちそうな気分だった。


あれは、あの記憶は……一体。


「ま、いいさ。ところで、お前に一つ聞きたい事がある……」


祖父の言葉にハッとして我に返り顔を上げた。


「入れ壷……ど、どんな気分だった……?あれが使えたって事はお前もしや……!?」


そう迫るような勢いで聞いてきた祖父の様子は、どこか異常だった。


今まで見せた事もないような笑み、爛々と目を輝かせ、まるで自分が持っていない物を大人にせがむ子供の様に……。


私の知らない祖父の顔が、そこにあった。いや、誰も知らない顔なのかもしれない。


この人は、一体……。


戸惑う私の様子に気がついたのか、祖父は気まずそうな、そしてどこか哀しそうな目をし、顔を背けた。


「す、すまん何でもない……もう、寝ろ」


祖父はそう言うと立ち上がり、私の顔を見ずに襖をそっと閉めた。




そこからは記憶が曖昧だった。


気がつくと、私は裸足のまま庭に佇んでいた。


くちなしの花が、月明かりに青白く浮かんでいる。


見上げると、槍ヶ岳の端に浮かぶ月が、まるで凍っているように見えた。


冷たい月……。


夏は始まりを告げたばかりだというのに、私の心は深い井戸の底のように、冷たくなっていた。


そして月の光さえ届かない闇が、どこまでも広がっていた。


月を覆い隠そうとする、あの群雲の様に。


夜空を見上げる私の顔に、暗い影が、落ちた……。

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