第四幕

 冬の曇りがちな昼下がり、舞台の中心に作られた丘の上には一本の葉の少なくなった松が立っている。丘の上から下まではところどころが禿げあがり、雑草が生えている部分と土が剥き出しになった部分の二つに分かれており、統一感がない。丘全体には時折強い風が吹き荒んでいる(音、またはなんらかの方法で葉を飛ばすなどの表現をしても良い)。

上手より、ゆったりとした足取りで、康成、艶子、三郎、美代が出てくる。艶子はぼんやりとした表情をする康成を乗せた車椅子を押しており、三郎と美代はいつでも手を貸せるよう、心配そうに見守っている。


 艶子 (丘の方を一瞥したあと、康成へと柔らかい視線を向ける)ここも冬になると随分と寂しくなりますわね。季節感があっていいのかもしれないけれど、ただ一本だけ残されているというのは、やはり心細いわ。

 康成 …………。

 艶子 ……(愛おしげに目を細めて)そう、そうなの。うふふ……。

 三郎 (艶子を気の毒気に見てから)そうですよね。俺はあまりここを通りませんけど、冬とはいえもう少し華やかでもいい気がしますよね。せめて、もう一本くらいど派手な木があっても。

 艶子 (微笑を浮かべて三郎を見て)実は、昔はこの丘の上にもう一本、松が立っていたんですよ。この町の住人の間では、寄り添うような姿をしているこの二本は、双子松なんていって、ちょっとは名が知れていたんですよ。

 三郎 ……その松は、今。

 艶子 (笑みを深めて)残念ながら……。

 康成 あはは、倒れてる倒れてる。あれだけ立派だったのに、雷が落ちて、ぼろぼろになって、立っていられなくなっちゃった。あははははは。

 艶子 (康成を一瞥してから)ということです。もう、何十年も前のことですから、それから、ずっと、この松は一人ぼっちですわ。

 美代 (三郎を軽く睨みつけてから、艶子の方へとぎこちない微笑みを見せる)そうなんですか。少しはこの町に居つけたと思いましたけど、まだまだ、知らないことが多いんですね、私達も。

 艶子 あら、別に恥じることなんてなにもないんですよ。(懐かしげな視線を松に投げかける)こんなこと知っている人は、段々と少なくなっていっているんですから。郷土史を一生懸命調べている地元の研究者さんなら別ですが、記憶というのは絶えず薄れていくものですから。その内、きっと跡形もなくなってしまうんじゃないですか。

 康成 ぼく、ぼくは、忘れないよ! (松を食い入るように見つめて)絶対に、いつまでも。一生!

 艶子 (康成の姿を悲しげに見つめながら)そうね。そう……あれたら、いいわね。

 康成 (不思議そうに小首を捻り)どうしたの、おばあちゃん? なんだか、悲しそうだけど。

 艶子 (目の辺りを押さえながら、笑みを作り)なんでも、なんでもないの。ただ私も、色々と懐かしく、なっちゃって(腕で顔を押さえる)。

 三郎 (美代を軽く睨んだあと、艶子と康成を見て)お二人の話を聞いてて、俺も生まれ故郷を思い出しましたよ。もっとも、ここ数年は帰ってないんですけどね。

 康成 (目を輝かせて)おじいちゃんの故郷って、どういうところなの?

 三郎 (少々寂しげな目をしそうになるのを無理矢理抑えこんだあと)ごくごく当たり前の田舎だよ。春は温かい土の匂いがして、夏は田圃から泥の匂いがして、秋は葉っぱの匂いがして、冬は冷たい土の匂いがする。そんなごくごく普通のところだよ。

 康成 あはは、すごいや。ぼくのいた町とほとんど一緒だ。

 三郎 ……そうかい。それでな、面白いところなんてちっともなかったはずなのに、思い出すと無性に行きたくなるんだよな。もう、そこは俺の行きたい場所ではないってわかっているはずなのに。

 康成 (小首を傾げる)なんで? 故郷はあるんでしょ。だったらいつでも行けるんでしょ。行きたければ行けばいいんじゃないの。

 三郎 (宙を仰いで、掌で顔を覆い)ああ……そうだな。そうしたいよな、本当に。

 康成 ……変なの。

 美代 (顔を歪ませてから、康成と三郎の間で視線を彷徨わせたあと)私も、帰りたくなってきましたよ。もっとも、私は二人とは違って、もう少し栄えた町の出身なんだけど(遠い目を宙に投げかけ)、何年か前には私が住んでいた頃の痕跡がほとんどなくなっていたし、今、行っても、懐かしさなんてほとんど感じられないかもしれない。

 艶子 ……きっと、大丈夫ですよ。たしかに形は変わってしまっているでしょうけれど、それは表面に出ている部分が塗り替わったというだけで、土台そのものは変わっていないんですから。最初は違和感があっても、その場に立っていれば、その内、あなたの中にある町が思い出されますよ、きっと。

 康成 あるんでしょ。町は、そこにあるんでしょ。だったら、ただ、行けばいいんだよ(言い終わったあと、けたたましい笑い声を上げる)。

 美代 (康成を悲しげに一瞥してから、艶子を見て)たしかに、土地自体には変わりがありませんよ。けど、町を作るのは人です。特に、私のいた町は住んでいる人の移り変わりが激しい場所でした。昔から住んでいる人がいないというわけではないんでしょうけど、それはごくごく少数です。そして、そんな人たちも年が経つにつれて減っていくのをみれば、昔、あった町の面影を見えなくなっていく……。

 艶子 (愛おしげな様子で目を細めてから、右手で胸を抑え)たしかに昔あったものは次第に忘れられていくものでしょう。けど、心に深く根を落として消えないなにかもあるんだなと私は信じています。生まれ故郷の記憶も、その一つだと思いますわ。

 美代 (歯を噛みしめながら)本当に、そう思いますか?

 艶子 (ゆっくりと瞳を開き、悲しげに微笑んで)ええ……そう、信じています。いいえ、信じたいのかもしれませんね。

 美代 私は、とてもじゃないけど……そんな風に信じられません。

 三郎 (動揺を露にし)おい、お前。

 美代 (三郎を無視し)いくら大切なことでも、いつかは薄れていくんですよ、きっと。それは人である以上、防ぎようがないものなんです。艶子さんはそのことが良くわかっているんじゃないですか(言ってから、康成を一瞥する)。

 康成 (無邪気に微笑んで)ねえねえ、そろそろお昼にしようよ。お腹、空いたよぉ。

 艶子 (穏やかな表情をしながら)たしかに多くの記憶は、そんな風に忘れ去られていくのでしょうね。けれど、それは表に出てきにくくなるというだけで、この中にしっかりとあるんですよ(そう告げてから、康成の胸を軽く撫でる)。

 康成 おばあちゃん、くすぐったいよ……

 艶子 あらあら、ごめんなさい。あなたがあまりにも可愛らしいから、つい、ね。

 康成 (頬を赤くしながら)そんなことよりも、お腹空いた!

 艶子 そうね。そろそろ、お昼にしましょうか。(三郎と美代を見て)どうです、ご一緒しませんか?

 康成 うん、一緒に食べよう。

 三郎 (曇った表情を浮かべる)そうですね……ご一緒させていただきましょうか。

 美代 (やや、不本意そうな表情をしながら)そういうことでしたら。

 艶子 (薄く微笑んで)今日のお昼ご飯も楽しくなりそうね。

 康成 うん。ぼく、ハンバーグがいい。

 艶子 (その言葉を耳にして、目を細め)そうだったわね。あなたは昔、ハンバーグをよく食べていたわね。いつの間にか、意地を張って食べなくなってしまったけれど、本当に、大好きだったわね。

 康成 (首を捻り)なにを言っているの? ぼくがハンバーグを好きじゃなかったことなんてないよ。

 艶子 ……ええ、そうね。とにかく、美味しいハンバーグを食べましょうか。


 艶子は穏やかな表情のまま子供のようにはしゃぐ康成の座った車椅子を押して下手の方へと向かっていく。三郎と美代はなにかを押し殺したような表情をしたまま、二人の後ろへと付いていく。ゆっくりとした歩みとともに四人は退場。

少し間を置いて、上手から会社の昼休みを過ごしている、金谷、溝口、岩城の三人が登場。落ち込みがちな溝口を金谷と岩城が励ましている。


 金谷 あんま気を落とすなって。思い詰め過ると身体に毒だぞ。

 岩城 そうそう。いつも通り笑っていてくれないとこっちも調子が出ないというかなんというか。

 溝口 ……(押し殺した声で)勝手なこと言わないでください……一人で落ちこむ時間くらいはいただけないんですか。

 金谷 (岩城と目くばせしてから)って、言ってもな。

 岩城 (金谷に目線を返して)溝口君は、自分の感情を隠そうとしないから、なんか気がかりがあるとやたらと目につくのよ。(猫のような笑みを作り)それで放っておいてみたいなことを言われてもね。

 溝口 (暗い顔をしたまま、金谷と岩城を見て)そうは言っても、どうしても感情が表に出ちゃうことだってあるじゃないですか。その上で、放っておいて欲しいってことだって……。

 金谷 俺らも余計だとは思うけどな、さすがに長々とそんな鬱々とした状態でいられるのは、こっちも気になるしお前の身体にも障るだろ。

 溝口 ……弱音ばっかりで申し訳ないですけど、もう少しだけこのままでいさせもらえませんか。仕事も、いつも通りとは言わないまでも、迷惑かけない範囲でこなさせていただきます。お見苦しいとは思いますがちゃんと元に戻りますので、もう少しだけ待って欲しいんです。

 岩城 ……私個人としてはそれでもかまわないんだけどね。溝口君の痛みっていうのは、溝口君だけのものだし、こっちがうだうだ言ったところで、整理なんかつかないだろうし。っていうか、君は、こういう自分の痛みに整理をつけないたちなんだっけ?

 溝口 よく知ってますね。どこかでお話ししましたっけ?

 岩城 まあ、ちょっとね。だから、私もこうしてぐだぐだと言ってみたところでたいしたことはできないと半ば諦めてかかっているところはあるわ。

 金谷 おい、岩城。

 岩城 (金谷に柔らかい視線を向けてから溝口の方へと視線を移す)それでも、溝口君が私達の後輩であるのには変わりないからね。こういう場で少しでも吐き出せば、少しはすっきりするんじゃないかって、余計なお節介がてらに思うわけよ。

 溝口 (呆れたように溜息を吐き)ご厚意は素直にありがたいと思います。けど、個人的な問題というのは、できる範囲だったら、自分で背負うべきだと思いますので。

 金谷 (溝口を見て)それで、今のお前は、その個人的な問題を自分一人で抱え込めているのか?

 溝口 ……そうしようとは思ってます。

 金谷 こうして外に感情が出てしまっている以上、俺にはそうは思えない。(岩城を指差し)俺やこいつだけが気付いているっていうんならまだしも、どうやら、部署全体がお前になにかあったと察しているみたいだしな。

 溝口 (やや俯いて)申し訳ありません。

 金谷 謝る必要はないって。抑えこめない強い感情があるってだけなんだからさ。俺らはあくまで、少しはガス抜きでもした方がいいんじゃないのか、って思ってるだけなんだし。

 岩城 私は一人でうだうだしているっていうのも別にいいと思うけどね。どうせ、溝口君にしか溝口君の痛みはわからないんだから。とはいっても、目につく以上は、できるだけ迷惑にならない範囲で勝手に色々と言わせてもらうけど。


 溝口は顔を伏せたまま立ち尽くす。金谷と岩城は静かに後輩の様子を見守る。程なくして、溝口はゆっくりと顔を上げる。


 溝口 (気が進まなそうな表情で)そこまで言われたのでしたら、ご厚意に甘えさせていただきます。けれど、できれば話を聞くだけで余計なことは言わないで欲しいです。

 金谷 ……努力しよう。

 岩城 聞いてみないことには即答しかねるわ。

 溝口 (苦笑いをして)お二人らしい答えですね。お世話になっている時から、そんな人間だっていうのは知っていたつもりではありましたけど……話といっても、口にしてみると、たいしたことじゃないんですよ。それに外側の部分は先輩も岩城さんも知っているでしょう?

 金谷 ああ。さわりだけは以前にお前が話してくれたし。

 岩城 もっと深いところを聞こうとするのは無粋かもしれないわね。こんなこと言うのは何だけど、今からでもやめていいのよ。

 溝口 (岩城に視線を送り)今から言うこともたいしたことじゃないですから、気にする必要はありませんよ。(少し、間を置いてから)今回の件っていうのは、俺からするとどうしようもないことなんですよ。自分の爺様っていうのはけっこうな年だし、なにが起こってもおかしくないとは覚悟していたつもりでしたし。けれど、最悪ではないと思っていた結果が思いのほか、堪えたといいますか。

 金谷 (顔を歪めて)お前のお祖父さんは……。

 溝口 はい。今はまるで子供みたいに楽しそうにしています。ただ、もう自分の知っている爺様ではないので、顔を突き合わせるたびに、こみあげてくるものをを抑えるのに必死ですが。

 金谷 ……そうか。

 溝口 そんなに悲しそうな顔をしないでくださいよ。余計、話しにくくなるじゃないですか。とはいえ、兆候はなくはなかったんですよ。数年前から、どことなくぼんやりすること多くはなっていたんです。定年になったあとも真面目ではっきりとした物言いをしていた人が、気が抜けたようになってしまっていた。そうなりはじめるのと前後して、この国を揺るがすあの出来事がありましたから、それに引きずられているのかなって思いながら見守っていたら、いつの間にか心が子供に帰っていたようで。

 岩城 …………。

 溝口 爺様ぐらいの年齢になると多かれ少なかれ、こういうことはあるらしいって頭では理解していたつもりだったんですけどね。今回、実感しましたけど、人間って当事者になるまで、どんな出来事も遠ざけて考えているんですよね。そりゃそうです。自分に降りかかるまでは、どんな出来事も、全て他人事なんですから。だから、あの人が自分の知らない誰かになっているのを見た時は、頭が真っ白になりかけました。婆様曰く、その時の俺はちゃんとした対応をしていたらしいですけど、正直、記憶はありません。あの時の衝撃は忘れていませんし、今のところ忘れる予定もないです。また、元の爺様に会えるといいな、と勝手に思ってしまいますけど、お医者様曰く、その確率は限りなく低いらしいですね。

 金谷 ……辛くても、お前はお祖父さんに会いに行くのか?

 溝口 ええ。なんだかんだ、遊びに行くと爺様は喜んでくれますし、少しでも手助けになれるんだったら、そんなに悪い気はしません。いまだに、自分の知らない無邪気な子供みたいな顔を見ると胸が痛みますけど。

 金谷 そんなに思うんだったら……。

 溝口 余計な口出しはできるだけしないでください。今、ちょっとだけ弱音を吐いたとはいえ、辛いだけというわけでもありませんし。それなりに楽しいんですよ、自分の知らない爺様の相手っていうのも。

 岩城 ……溝口君はさ。

 溝口 なんですか、あらたまって。答えられる範囲であれば答えようとは思いますけど。

 岩城 単刀直入に言うけど、今、どんな心境?

 溝口 ……そんなわかりきっていることを聞くんですか。

 岩城 私としては重要なのよ。嫌なら答えなくてもいいですよ。

 溝口 (眉に皺を寄せて、冷めたコーヒーを飲んだあとのような苦笑いをする)最悪ですよ。そして、この気分は多かれ少なかれ、ずっと続いていく類のものでしょうね。

 岩城 ずっと、か。そうね……わからないけど、そうなのかもしれない。

溝口 (丘の上に目を向けて、ぎこちなく微笑む)昔、爺様が言ってましたけど、あの木は爺さんが生まれる前から立っていたんだそうです。もっとも、爺様が子供の頃に、連れ合いともいえる隣に立っていた木は雷で焼けちゃったらしいですけど。木が心を持っているかどうかは知らないけど、もしも、持っていたとしたら、俺と同じような気分の真っただ中にいるのかもしれませんね。

 金谷 俺らと違って、木の寿命ってやつは長いからな。下手をしたら、何年も同じような気分の中でもがくことになるかもしれないな。

 溝口 ええ。そう考えれば、俺の気がかりなんて、ほんの短い時間のことでしかないのかもしれないですね。幸か不幸か、次第に薄れていくらしいっていう、おまけもついてますし。

 岩城 溝口君は、辛くてもずっと抱えていたいの?

 溝口 質問に質問を返すようですけど、岩城さんは好き好んで親しい人の思い出を忘れたいと思います。

 岩城 (軽く腕を組んで)うーん、思い出の中身にもよるけど、それが大切な人と育んだものだったら、できるだけ持っていたいかな。

 溝口 自分もそんなところですよ……だから、というのは言い訳ですが、しばらくしたら、元通りになれると思うので、それまで待っていてくれませんかね。

 金谷 (いたたまれないような表情をしながら)わかった。ただ、こっちはいつでも話しを聞くから、くれぐれも無理だけはするなよ。

 岩城 (小さく肩を竦めてから)気がかりではあるけど、溝口君はいくらでもお祖父さんのことを考えていてもいいと思うわ。何の助けにもならないかもしれないけど、気分転換くらいには付き合うから。

 溝口 ありがとう……ございます。


 やや沈みがちの溝口は、金谷と岩城について下手の方へと歩いていく。三人はゆっくりと退場。少しの間、風が吹き曝したあと、上手から、仁恵と新太が入場。

仁恵は腹を撫でながら穏やかな表情をしたままゆったりと歩いている。その後ろについていく新太は、顔を片手で押さえながら、後ろに付いていく。


 仁恵 (立ち止まって両肩を抱きながら)随分と寒くなったよね。けっこう、天気がいいからひなたぼっこにうってつけな日だって思っていたのに、外に出るだけでこんなに辛いだなんて。

 新太 だったら……止めるかい? 俺はかまわないけど。

 仁恵 せっかく、ここまで出てきたのにそれはないよ。それに、冬には冬で利点がないわけじゃないからね。

 新太 (やや呆れた様子で)どんな利点?

 仁恵 そうだね。たとえば虫が出ないとか、日差しが強すぎないとか、たまにひんやりとした空気が気持ち良いとか。あとは……

 新太 無理して捻りださなくてもいいんだよ。(小さく溜め息を吐いてから)とりあえず、冷え過ぎは身体に毒だし……(丘とその上に生えた松を一瞥してから)それに……

 仁恵 (柔らかく微笑んで)心配してくれなくても大丈夫だよ。今日はけっこう厚着してきているんだし。第一、こんなおひさまの光が気持ちいい日に丘に登らないなんていうのは、それこそ犯罪的だって。神様が許しても、私が許さないよ。

 新太 (気にかけるように仁恵を見てから)……わかったよ。その代わり、無理だったら無理だってすぐに言うんだよ。

 仁恵 (笑みを深めて)うん。


 新太が先導して丘を登りはじめる。その後ろに付いていく仁恵はこころなしか平地を進んでいる時よりも、歩みを緩めている。やがて、二人は丘の上に辿り着き、新太が下手寄りの木の根元に腰かける。仁恵もまた上手寄りに空いた木の根元に腰かける。


 仁恵 (やや強めに肩を抱く)当たり前だけど、立っている場所が平地より高くなったからもっと寒くなった気がする。

 新太 (呆れたような眼差しを仁恵に向けて)だったら、やっぱり、下にいた方が……

 仁恵 (ひらひらと手を振って)あくまでも比べたらって話で、極端に寒いって言ってるわけじゃないよ。それに(振っていた掌を軽く空へとかざして)本当に少しだけど太陽が近くなったんだから、日の光も温かい気がするし。

 新太 そう……それならいいけど。

 仁恵 そうそう。それにここは私のお気に入りの場所だからね……何日かにいっぺんは登らないと(言ってから、身体から力を抜いて、木の幹に背中を預けていく)。

 新太 (その横顔を見つめながら)今日は本を読まなくてもいいの?

 仁恵 ……うん。なんだか、温かいから、このままだらりとしてたいかなって。どうにも、そういう気にはなれないし。

 新太 ……そう、なんだ。

 仁恵 うん、そう(新太の肩に頭を乗せたまま、目を閉じる)。もうちょっと、このままでいいかなって。


 しばらくの間、二人はなにをするでもなく丘の上で座りこんだままでいる。強く冷たい風が何度か吹きつける度に、仁恵が微妙に表情を歪め、新太がやや強めに肩を抱いていく。冬の陽気の下で同じような姿勢でいる。


 新太 (憂鬱そうに顔を上げて)仁恵はさ。

 仁恵 (より深く肩に頭を預けて)なに。そんなに畏まっちゃって。私達の間でそういう固いのはなしでしょ。

 新太 ……本当に、良かったのか?

 仁恵 なにが?

 新太 だから、その……俺と……。

 仁恵 俺と……なに?

 新太 (眉に皺を寄せてから、少し間を置き)その、そういう、相手が、俺で……。

 仁恵 そういうって、どういうの?

 新太 …………(戸惑いを露にして、仁恵の横顔を訴えるように覗きこむ)。

 仁恵 (目を閉じたまま軽く舌を出して)冗談だよ。あまりにも、新太君の反応が新鮮だったから、思わずからかってしまったというか。

 新太 ……そう言うのは、やめてほしい。

 仁恵 ごめんごめん。でも新太君。そういう言い方は私相手だったらいいけど、他の人とかには上手く伝わらないかもしれないから、注意した方がいいと思うよ。

 新太 (顔をやや赤らめて)他の人には、こんなことを言う機会もないよ。

 仁恵 それも、そっか。だったら、それはそれでもっと自信を持って欲しいな。恥じることなんて、どこにもないんだからさ。

 新太 ……恥じる、というよりも、いいのかなって気にはたまにさせられるよ。

 仁恵 (眉に皺を寄せる)言い方によっては、新太君だけじゃなくて、私への侮辱として受け取るけど、いいかな。

 新太 別にそんなつもりで言っているつもりはないんだよ。ただ、俺で本当にいいのかな、って。それだけ。

 仁恵 (溜め息を一つ吐き)それが侮辱になるんだよ。新太君は新太君だけでなくて、私も軽んじることになっているんだよ。

 新太 ……そんなことを言われてもさ。俺はいまだに自信が持てないんだよ。(真剣な表情を作り、仁恵に訴えかけるようにして)こんな風にここにいる巡り合わせってやつを、いまいち信じられないんでいるんだ。

 仁恵 ……(不満気な表情をしながらも目を見開き、新太の一挙手一投足を見守る)。

 新太 こればっかりはいくら年が経とうとも疑いを消しきれないよ。ここにこうやっている意味っていうのが、いまだに見えてこないままだし。仁恵は特別な意味なんてないって言ってくれたけど、だとしたら、足場がもっと不安定なものに見えてくる気がして。だから……

 仁恵 正直なところ、新太君にはもっと自信を持って欲しいところだけど、これもまあ、新太君らしいといえば新太君らしいね(微苦笑を浮かべながら、新太の肩に軽く腕を回す)。

 新太 生きていられるだけでたいしたものだと思う。でも、こうやってある種の責任を持って生きていけるほど俺は上等な人間だと思えなくて。

 仁恵 (愛おしげな視線を新太に向ける)上等な人間だよ。少なくとも私にとっては。それだけは否定しないでほしいな。

 新太 仁恵……

 仁恵 本当は許したくないけど、新太君が自分をどう思うかは新太君の自由だからこれ以上は言わない。けど、私が新太君をどう思っているのかをもう少し理解して欲しいな。(右手の人差し指で自分の胸元を示してから)これは思い上がりかもしれないしちょっと恥ずかしいけど、生きている意味っていうのを私にしてくれてもかまわないし。

 新太 (目を細めて)本当に、それでいいのか……。

 仁恵 私は何度もいいって言ってるつもりなんだけどな。そうじゃなかったら、ここまで深い付き合いはしてないと思うし。

 新太 …………そうか。

 仁恵 そうそう。難しく考える必要なんてどこにもないんだよ。(より強く肩を抱き寄せて)ここにいてくれれば、それでね。

 新太 …………ありがとう。

 仁恵 お礼を言うのはまだ早いよ。これからもっと忙しくなっていくんだろうし。やらなきゃいけないこともたくさんあるし、すませなければならないことだっていくつもあるでしょう。

 新太 (顔を引き締めて)そうだな。頑張らないとな。

 仁恵 そうそう、その意気だよ。これからも、ずっとずっと、続いていくんだからね。ずっと、ずっとね(遠い目をして、宙を仰ぐ)。

 新太 (薄い微笑みを浮かべてから)それじゃあ、さっそく役目を果たそうかな。(やんわりと仁恵の腕を解いてから立ち上がると、やんわりと手を差し出し)そろそろ寒さが身体に障るだろうし、この辺で引き上げないか。

 仁恵 (やや不満を露にして)もう少しだけ、いいでしょ。これくらいの寒さだったら、そんなに身体には障らないってば。

 新太 たとえそうだとしても、危ないものは遠ざけておくのが人間の知恵だよ。それに俺には仁恵を守る義務があるんだし。

 仁恵 (恥ずかしげに視線を泳がせたあと、小さく息を吐き)そうまで言われちゃ仕方ない。今日は諦めるよ(ゆっくりと新太へと手を伸ばす)。

 新太 うんうん、それでいい。身体は大事しないとね(そう告げてから、仁恵の手を引いて歩き出す)。


 新太と仁恵は寄り添うようにして丘の下手側へと下りていく。そうしながら、細々とした会話を続ける。


 仁恵 さっきまでびくびくしていた癖に、急に自信ありげになっちゃって。

 新太 俺は変わらないよ。ただ、さっきから思ってたことを言っただけだし。べたな言い方だけど、仁恵の身体は仁恵だけのものじゃないんだし。

 仁恵 ……そこまで言われると、悪い気はしないかな。

 新太 これからも生きていくためには、身体を大切にしないとね。

 仁恵 うん、そうだね。少しでも長く、ともに生きていくために……ね。


 下手より新太と仁恵が退場。

 一陣の風が吹き荒ぶ。舞台には一本だけ残された松の木がその存在を主張している。誰もいない丘の上でたった一本だけでそこにある。

  

 終わり。

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JERRY LOVE ムラサキハルカ @harukamurasaki

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