第三幕

 秋の夕方、空は橙色に染まっている。舞台内に作られた公園では黄色く色付いた銀杏や、赤くなった紅葉がその存在を主張している。舞台の中央から下手寄りには、緑色のポールを土台にした電灯が建てられている。下手から上手を巡回するようにして、木枯らしが吹いた(効果音のみでかまわない。可能ならば、落ち葉を敷き詰めて空調等で表わしてもよい)あと、下手から老齢の夫婦の康成と艶子が登場。彼らは穏やかな表情を浮かべたまま、電灯の辺りまで歩いてきて、足を止める。


 康成 (客席に背を向け舞台後方にある木々に視線を送る)随分と秋らしい色になってきたな。

 艶子 (康成と同じように客席に背を向ける)ええ、本当に……今年も、秋になったという気がしてきますね。


 二人は客席に背を向けたまま、木々を見入っている。再び、木枯らしが吹き、木々が揺れる音がする。


 艶子 この公園も時の流れには逆らえませんが、季節の巡り方は自体は変わりませんね。

 康成 そうだな。憎いくらいに変わりがない。それこそ、何十年も前から見てきているのに、これらの木々は毎年、うんざりとするくらい自分達がここにいるということを伝えてくる(そう告げてから、舞台後方にある銀杏の木の表面を撫でる)。或いは、知らず知らずの内に、抜かれて再び植えられたのかとも思ったが、このざらつき具合からすれば、そんなことはありえないな。

 艶子 (含み笑いを洩らす)さすがにそれはありえないでしょう。十数年も前ならともかく、ここのところ私達は、毎日のようにこの公園を通りがかっているんですよ。さすがに気が付かないわけがないじゃないですか。

 康成 それも、そうだが……もしかしたら、我々が寝静まっている内に、早急に作業が進められて、似たような木が植えられたかもしれないしな。

 艶子 ……また、そんな屁理屈を並びたてて。なんで、そんなに疑うんですか。

 康成 私も本気で信じているわけではないさ。ただ、漠然とではあるが、入れ替わってしまっていることもあるのではないのかと考えてしまっただけであってだな。

 艶子 あなたは随分とへんてこなことを考えますね。

 康成 そんなに奇妙な考えかな?

 艶子 (背を向けたまま苦笑いをする)ええ、とても。そして、いつもと変わりないあなたで安心します。

 康成 褒められているのか貶されているのか、わからないな。

 艶子 自分でお考えになったらいかがですか? あなたはそういう役にも立たないことを考えるのお得意なんですから。

 康成 (小さく溜め息を吐く)お前といると飽きないな。

 艶子 ええ。私もそうです。


 二人は足を止めたまま、木々を見上げている。色付いた葉が風で揺れる(効果音)。上手より、康成と艶子と同年代の夫婦、三郎と美代がゆったりとした足取りで談笑しながら歩いてくる。程なくして、康成と艶子を発見し、その手前で足を止める。


 三郎 こんにちは。

 康成 (観客席側に横顔を振り向かせて)こんにちは。そちらは今日も散歩ですか?

 三郎 ええ。あまり、動きたくはないんですが、スポーツの秋だとかいうらしいので少しは身体を動かさないとって、こいつがね(ちらりとすぐ傍にいる美代子を窺う)。

 美代 (三郎を一瞥し)放っておくと、あんたはいつでも寝てるじゃないか。その内、陽気の下で涎を垂らして魂が抜けていたりしたらと思うと、こっちは気が気じゃないんだよ。

 三郎 考え過ぎだ。俺は最低でも百歳まで生きるつもりなんだよ。それまでに、無駄なエネルギーは使わないようにしないとな。

美代 百歳まで生きても、脳味噌がスポンジになってたら洒落にもなりやしない。私はあんたのおしめを替える毎日なんてまっぴらごめんだよ。

 艶子 (美代の方へと振り向く)こんにちは(ぺこりと頭を下げる)。お二人とも、相変わらずお元気そうですね。

 三郎 わかりますか。こっちもこいつが変わらずに元気なもんだから、このくらい元気でいないとやってられないんだよ。

美代 あんたがだらだらし過ぎなんだよ。時間は限られているんだから、もっとせかせかと動かないと、あっという間になくなっちまう。

 三郎 お前は慌て過ぎなんだよ。そんなにせかせかとしてたら、大事なものを見逃すぞ。(康成の方に視線を向ける)あなたもそうは思いませんか?

康成 そうですな。たまには足を止めて考えることはとても重要です。

 三郎 ですよね。(得意げに美代を見る)お前はなにかと慌て過ぎなんだよ。

 康成 (目を細めて、三郎と美代の両方を見る)ですが、限られた時間を有効に使おうする心遣いもまた重要なことです。どちらかだけ、というのではなく、自分の中を流れる時間に合わせて、両方を使い分けていくというのがとても重要になってくるんじゃないでしょうか。

 三郎 …………(一転して恥ずかしげな表情をする)。

 美代 ……(馬鹿にするように、夫を睨む)。

 艶子 あなたは随分と日和見な見方をするんですね。

 康成 私は正論を言ったつもりだったんだが、なにか間違っていたかね?

 艶子 (呆れ顔になり)いいえ、いつも通りです。いつもと変わらないので、すごく安心しました。

 康成 そうか(艶子を軽く流し見たあと、三郎と美代を見る)。まあ、お二人にはそれぞれの考えがあるのですから、無理をして合わせる必要はないのではないですかね。先程も言いましたように、私は両方ともよくわかりますので。それでも納得ができないようでしたら、お互いで相談して妥協点を探すのもおつかもしれませんな。

 三郎 (康成の方を遠い目で見て)あなたは随分と真面目な方なんですね。

 康成 そう、でしょうか?

 三郎 少なくとも俺よりはずっとね。(美代の方へと視線を送る)お前もそう思うだろう。

 美代 そうだねぇ。時が時だったら、いっそ、あんたと入れ替わって欲しいくらいだったね。

 三郎 ……それは、今は、俺の方が必要とされているということか。

 美代 (呆れ顔をして)子供や孫のいる手前、今更熟年離婚っていうのも体裁悪いしね。もう、見飽きているといえば見飽きているけど、まだ、顔を見るのも嫌っていうわけでもないしね。

 三郎 …………

 艶子 お二人は仲がよろしくてなによりですね。

 康成 (艶子の耳元に口を寄せて、やや、潜めた声で)私にはお前の見立てと逆に見えるんだが、それはただ単に私の目が節穴なだけなのか。

 艶子 (康成に微笑みかけて)喧嘩するほど仲がいいとか、その類の話です。おそらく、ただのじゃれ合いですから、私達が気にするようなことじゃありませんよ。

 三郎 (苦笑いをしながら、美代から目を逸らし、康成と艶子を視界におさめる)ところで、お二人はここにいることがとても多いですね。この木々になにか思い入れがあるんですか?

 康成 (腕を組んで、眉に皺を寄せる)思い入れ、と言えるほどのなにかがあるわけではないですが、なんとなく、足を運んでしまいますね。

 艶子 (呆れたような視線を康成に投げかける)忘れたんですか。息子や孫をここに連れてきたことを。

 康成 もちろん、覚えているさ。ただ、その連れてきたところも含めて、なんとなくこの場所を選んでいたな、と思いいたってな。

 三郎 俺達はあなたたち夫婦よりも、後にこの町にやってきたので、そこら辺の感覚がよくわからないんですが(一旦、言葉を切ったあと、木々を見渡す)、地元民にしかわからない魅力のようなものがあるんですか?

 康成 (苦笑いを浮かべる)特別ななにかがあるというわけではないと思いますよ。ただ、ある意味、この町で一番、わかりやすい場所の一つであるような気がします。

 艶子 そうですね。今がどんな季節であるのか、比較的しっかりと表わしてくれるので、目印としては最適と言える気がしますし、それを見ているだけで、今年も季節が色付いたんだと実感できます。もちろん、いつもそんなことを考えて歩いているというわけではないんですが、通り過ぎるとついつい目を奪われてしまうということはそれなりにありますね。

 美代 四季がはっきりしていると、そう言うことですか?

 艶子 ええ。この国には変わらずに季節があるんだと教えてくれる大切な場所です。月日が過ぎ去って、季節が一回りしていくごとに、その実感は強くなっていますわ。

 美代 はあ……そんなもんですか。

 艶子 (柔らかく微笑んで)ええ、そんなものです。

 康成 (艶子を一瞥したあと、三郎と美代に視線を向ける)そう。そんなものです。そして、そんなものは、この国の中でもそれほど珍しくないものでしょう。実際に、この町を歩いていても、似たような形や性質を持った場所はいくつかあります。ここに足を運ぶことが多いのはただ単に近くて少し見栄えがいいという以外には特にない気がしないでもない。しかし、そのなんでもなさというやつが見ていて心地いいということもままあることです。

 艶子 (苦笑いをする)相変わらず、難しいというか、持って回った言い回しが好きですね。ええ、私は慣れているからわかりますけど。平らかであるのは、とても落ち着きますよね。

 三郎 (きょとんとした様子で)平らか、ですか?

 艶子 ええ。もっと、わかりやすく言うと、夫のいうなんでもなさ、かしら。(陶然とした目をして)特別なんてどこにもなくていいんですよ。ただただ、なんでもないものがそこに転がっているのが好ましいくらいで。

 美代 (艶子を窺いながら、少しばかり動揺した様子で目を瞬かせる)そうですよね。私達くらいの年齢になると、そういう気持ちになることもありますよね。

 艶子 はい。ですが、年を取ったから特別そうなったわけではなく、若い頃からそう思うことも多いでしょう?

 三郎 (楽しげな様子で笑い声を上げる)そりゃ、たしかに。なにかしらの夢を抱えているやつっていうのがけっこうな数いるのと同じように、何の夢も持たないままぼんやりと生きているやつっていうのもたくさんいますからね。その中には、さり気なさを愛しているやつらっていうのも、何人かはいるでしょう。

 艶子 ええ。若い内は、なかなか周りにあるなんでもないことが尊いのだと気付けないものでしょうけど、それが好きだって思える子たちも決していないわけじゃない。できればもっと多くの子たちにこの当たり前の日常が大切だって気付いて欲しいですね(目線をやや上向きにして、話しかけた三郎と美代から視線を離し、空を見上げる)。


 夕方の空の橙に暗い紫がゆっくりと混じりはじめる。はらはらと色取り取りの葉が落ちていくのとともに、三郎と美代は固まったようにうっとりとした顔をする艶子を見ている。康成は対面する夫婦に視線も向けないまま、能面のような表情を妻へと向けている。


 三郎 (艶子を観察したあと、何度か躊躇いを見せたあと、意を決したように口を開く)やけに、なんでもないこと、というところにこだわりますね。なにか、そこに特別な思い入れかなにかがあるんですか。

 艶子 (やや口を閉ざしてから、蕩けるような瞳を三郎に向ける)夫のような細かいこだわりがあるわけではないですけれど、それだけで充分だと実感していますから……。

 美代 ……年を取っていくうちに実感した、というわけではないんですか?

 艶子 そういった側面も否定はできません。ですが、きっかけはもっと、単純なものなんですよ(遠い目をする)。

 康成 私は以前から、漠然とはそういう理解をしていました。定年まで教員として生活を送っていくなかで、ふとした日常の出来事の歓びを感じる日も少なくありませんでしたから。けれど、あらためて、強く考えるようになったのは、妻と同じ出来事がきっかけですね。

 美代 もしかして……お二人が出会ったきっかけになったのが、そういった些細なことだったんですか。

 康成 (ここで初めて歯を見せて笑いを零す)たしかに見合いからの結婚というのは、ある意味、有り触れた出来事ですね。ただ、今の私達になるきっかけを作った出来事はまた別のものです。

 三郎 差支えがなければ、教えていただけないでしょうか。

 康成 (目を細めて)たいして面白い話でもありませんよ?

 三郎 かまいませんよ。(美代を指差しながら)俺もこいつも暇は多いんです。こういう言い方は失礼だけど、時間を潰すのには最適なんですよ。

 艶子 まあ、時間を潰すだなんて。ずっと気を張っているのは身体に悪いですけれど、絶え間ない日常を全身で感じ取れるように常に努力すべきです。

 康成 (やや呆れたように艶子を見て)まあまあ、無理にお前の考えを押し付けるのは良くないだろう。物の感じ方は人それぞれなんだからな。

 艶子 もちろん、わかっています。だからこそ、私は感じるままに言ってみたんですよ。ものすごく、もったいなく思えましたから。

 康成 (溜め息を一つ吐く)そう思っていたとしても、もっと絹に包むような優しい言い方があったんじゃないのか。お前もそういう言い方ができないわけじゃないだろう。

 艶子 ええ、たしかにそんな風に振る舞おうと思えば、できないこともないですわ(三郎と美代に柔らかい眼差しを投げかける)。けれど、お二人とも、私達の大切なご友人ですから、たばかるようなことはすべきではないと思ったまでです。だから、ざっくばらんに語らせてもらったつもりです。


 三郎と美代はなんとも言えない表情で、艶子を見る。康成、一つ咳払いをする。


 康成 大分、お見苦しいところを見せてしまった上に、随分と話がずれてしまって申し訳ありません。

 艶子 (無邪気な表情をして)あら、今の会話に見苦しいところなんてあったかしら?

 康成 (無視して)話を戻しましょう。私と艶子が、なんでもないこと、について強く考えるようになったきっかけのお話でよろしかったですね?

 三郎 ええ、よろしくお願いします。

 康成 こんな風に前置きしておいて、非常に申し訳ないのですが、きっかけ自体はとても有り触れたものなんです。大きな出来事を横目に見て、いやでも意識せざるを得なかったというか。

 美代 大きな出来事、ですか?

 康成 (やや、表情を陰らせて)ええ、とてもとても、大きな出来事です。今、思い出しても身体を強張らせてしまいそうなほどの衝撃を忘れることはできません。

 艶子 そうですね。私達も老い先短くなってしまったけれど、少なくとも目の黒い内は忘れることはないでしょうし。

 康成 (一つ頷いてから)ええ。何十年も生きていたはずなのに、世界が割れてしまったような気すらしていました。そして、それは私達だけではなく、この国の人々の多くがそう感じていたでしょう。潜在的という話であれば、この国の人々全ての心に焼き付いているかもしれませんし。

 三郎 つまりは、俺達も体験した出来事ってことですか。

 康成 ええ……しかも、数年前に起こった出来事です。ここまで言えば、もうお分かりかもしれませんが。

 三郎 ってことは……

 美代 あのことですよね。

 艶子 (薄らと儚げな微笑みを浮かべて)ええ。お二人のご想像通りだと思います。

 康成 あの出来事の大元はこの土地から見ればかなりの遠隔地で起こりましたが、この年になるまで多くの人と会ってきたせいか、黒く染まった水に巻きこまれた人々の中には、知り合いの名前もいくつかありましたし、瓦礫となった土地の辺りにできた狭い住宅で生きている知り合いもいます。その多くは疎遠になってしまいましたが、あらためて、この国ではなにが起こるのかわからないということを実感させられました。今回はたまたま、あの土地を中心に起こったのであって、いつでも同じようなことが起こり得るのだとね。事実、私達の土地の下にも、巨大な龍が眠っているという話も聞くので、警戒するに越したことはありませんし。

 美代 そういった気分は、たしかにあの出来事のあと、多くの人々が抱えていた気がします。普段は笑っていてもいまだに内心でびくびくしている人は何人もいるんじゃないですか?

 艶子 びくびくするくらいでちょうどいいのかもしれませんよ。数年が経って風化してしまっているというのは、それはそれで問題なのかもしれませんし。

 三郎 たしかに、あの日あの時あの後、盛り上がっていたはずの機運は、たった数年で和らいでしまった気がします。この国全体が、あの出来事が起こった地方の復興に燃えていたにもかかわらず、今では随分と小さな火になってしまった気がする。

 康成 厳密な意味で、こういった出来事が残した影響というものに終わりが来るということはないのでしょう。明日が昨日の続きである以上、今日があの出来事が起こった日の続きであるというのもまた事実です。そして、出来事の記憶が薄らいでいくのもまた事実です。あの出来事ですら、この国にとっては大問題だったにもかかわらず、当事者と呼べるのはそれこそあの土地にいた人々だけであり、土地の外にいる人々にとってはどれだけ大きくても他人事でしかないのです。もちろん、感じ入り方は人それぞれでしょう。しかし、過去の出来事をずっと思っていられる人間というのは多くはない。見えないところでの影響というのは心や体のどこかに深い爪痕を残しているかもしれませんが、表面上は忘れてしまいがちです。現に、あの出来事の前にあった、数多くのこの国にとっての大きな出来事がぼやけていき、多くの人たちにないものとして扱われるようになりました。

 美代 戦争、テロ、災害。起こった時はどれだけ騒ぎ立てられていても、最終的には立ち消えになって、ごく稀に過去の出来事として特集されるに留まってしまう。

 康成 (深く頷く)厳密には目に見えないところに追いやられるだけで、執念深く研究している人もいるにはいるんでしょうけどね。良くも悪くも時というものは流れ、人は過ぎ去ってしまったものより、今あるものを気にしてしまうものです。どうしても、身体も心も今にあるのだから、致し方がありません。

 三郎 (渋い顔で頷く)俺達にも生活がありますからね。たとえ、出来事に巻きこまれた人間に対する同情があったとしても、それだけでは生きてはいけないですし……(悔しげに視線を下げて)なによりも、あの出来事の渦中にいなかった俺にとっては、極めて近い他人事というところまでしか近付くことができない。

 艶子 ……それは出来事の外にいた人間の限界のような気もしますわ。私達……いいえ、この言い方はおこがましかったですね。少なくとも、私はまだあの出来事が深く突き刺さっている気でいるつもりですが、それはもしかしたら、自分でそう思いたいだけなのかもしれません。毎日のように思っていると自らに言い聞かせることで、あの出来事に巻きこまれずに生きてしまっていることへの償いをしているのかもしれないですね。

 美代 ……命があるだけめっけもんですよ。酷な言い方かもしれないけど、他の人で良かったと思うくらいがちょうどいいかもしれません。

 艶子 (伏し目がちになり)私も夫も長生きするといったところで、もう、それほど長くは持たないでしょう。そう考えると、不可能だとわかっていても、誰かにこの命を明け渡せたのではないのか、という気になります。

 三郎 (目線を上げて、艶子を静かに見て)奥さん。俺は頭が良くないからたいしたことを口にすることはできないけど、あの出来事に巻きこまれていった多くの人々にかかわり合う大切な人々がいるのと同じで、あなたを大切にしてくれる人だっているだろう。もしも、心辺りがないといったら、失言だったと謝りますが。

 艶子 ……息子、それに親戚、友人。どう思われているのかは、見当もつきませんけど、少なくとも私自身は大切だと思っています。特に孫は、頼りなくて、すぐにお世話になっている上司たちとお酒に逃げますけど、とても思いやりがあっていい子です。

 三郎 (やんわりと微笑んで)……きっと、それでいいんですよ。あなたを大切にしてくれる人たちを悲しませることがないのを喜ぶ。これだけでいいじゃないですか。

 美代 (胡乱げな瞳で三郎を見て)あんたらしくない言い方だね。もしかして、あんたも私から乗り換えたくなったの?

 三郎 (得意気に見返して)そりゃ、乗り換えられるもんならば、いつだって乗り換えてやりたいとは思うがね。残念ながら、過去の失敗ってやつはどうにも覆しようがないものだしな。それにこの年になってお前から逃れたところで、少し心がすっきりするのと引き換えに、炊事や洗濯の負担が増えるのはなんとも面倒臭い。それに、お前も言ったが、孫やガキどもに合わせる顔もないしな。

 美代 (満足げに頷いたあと、目を吊り上げる)うん。やっぱり、いつものあんただわ。

 艶子 (くすくすと笑いながら)やはり、お二人は仲がよろしいですね。少しだけ妬けてしまいますわ。

 康成 (釣られたように歯を見せて笑い)今度は私にもわかったな。このような人と人との付き合いというのも悪くありませんな。

 三郎 (怪訝そうに康成を見たあと、美代を人差し指で指す)こんなんでいいなら、いつでも差し上げますよ。ただ、奥様と交換で。

美代 (目を見開いて艶子を見ながら、三郎を肘で指示し)それはこっちの台詞です。もちろん、旦那様と交換ですが。


 康成と艶子、お互いに目を合せたあと、示し合わせたように頷き合う。


 康成 いいですよ。もっとも、私はこれとの生活をそれなりに楽しんでいるので、たまに、という条件であれば、ですが。

 艶子 私もです。三郎さんとのお茶であれば、歓迎しますわ。もちろん、たまに、という条件付きですが。


 三郎と美代、お互いしきりに瞬きを繰り返したあと、お互いに似たような含み笑いをする。


 三郎 そうですか。俺もこいつとずっとかかわっているのは疲れますし。たまには、デートをしましょう、奥さん。

 艶子 (目を細めて)はい、喜んで。

 美代 (三郎を一瞥して)まったく、調子がいいんだから。こんなダメ亭主の顔は見飽きましたし、たまには愚痴でも聞いてくださいね

 康成 いいでしょう。お付き合いしますよ。


 やや傾いてきた日の光は、黄金色に近い色合いを見せはじめている。その中で和やかに談笑する四人。その間を、一筋の風が流れていく。


 康成 (楽しげに話す三人から少し遠巻きにしながら、小さく息を吐き、観客席を見て話しはじめる)…………ああ、私達はなんと幸福なのだろう。こうして、この場に四人が一堂に期して、なんでもない日常を送ることができる。これもまた、命があってこそだな。そして、それは特別でもなんでもないことなのだろうな、きっと。私や艶子、そしてこの二人がここにいることと同じくらいの奇跡が日常には溢れている。個体数に差はあれど、あの出来事に巻きこまれるのと同じくらい当たり前なのだろう。(三人を愛おしげに見守りながら)私達がこうしてここに選ばれたことに特に意味はないのだろう。たとえ、私達の誰かがあの出来事に巻きこまれていたとしても、誰かが代わりに衝撃を受け、嘆き悲しみ、覚えていようとして、徐々に出来事自体を風化させていくのは変わりがないだろう。そう、路傍の石ころのような私達が生き残ることに意味などというものはない。ただただ、残った、という結果がそこにあるというだけだ。たまたま、多くの人々がどこかへと行ってしまった世界で残されてしまって、それなりに幸福な状況を与えられている。いつ、ひっくり返るかわからない足場の上で、なんでもない日々を謳歌できている。幸せだ。そのことには、少しも疑問などない。ただ、同時にこうも思う。誰でもいいのだ、と。いざことが起こってしまえば、私は悲しむだろうが、それもまた運命であるのだと。世界にはいくらでも替わりがいる。こうしている四人の有り触れた日常のようなものが溢れている。同じものではないにしても、あの出来事で多くの人々を十把一絡げで連れていった世界の上では、個人の意思など些細な問題だ。どこかの誰かが傷つき、どこかの誰かが幸せになる。そう……きっと、誰でも、いいのだ。


 第三幕終わり。

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