第二幕
夏場。週末の夜。舞台の中央には一軒の赤提灯の下がった居酒屋。この居酒屋は扉が取り払われ中が見えるようになっている。上手寄りに作られたカウンター席には、上手側からサラリーマンの金谷、溝口、OLの岩城の三人が座っており、各々にほろ酔い気分のまま、雑談を交わしている。カウンターの向こう側中央では店長が徳利の表面を磨いている。
金谷 いやいや、やっぱりいいよな、週末ってやつは。どれだけ飲んでも、どれだけ吐こうと、明日の仕事に差し障りがないっていうのはもう最高だよな(お猪口に冷酒を注ぎこんだあと、徳利を軽くカウンターに叩きつけてから、入れたばかりの酒を呷る)。
溝口 一々、言い方が汚いっすよ、先輩。気分がいいのはわかりますけど……(中身が半分ほど残っていたジョッキからビールを一気飲みをして、気持ち良さそうに息を吐き出す)。
岩城 そういう溝口君だって人のこと言えないくらい飲んでるじゃない。ビールって言ったって飲み過ぎよ。君はそんなに強くないんだし(ワイングラスを傾けて、赤ワインを味わうように飲んでいく)。
金谷 ……岩城もあんま人のこと言えなくないか。
溝口 そうっすよ。さっきから、ゆっくりと飲んでいるように見えて、けっこうな数のグラスが消えてってますよね。岩城さんこそ大丈夫なんですか。
岩城 (視線を宙に彷徨わせてから)大丈夫大丈夫、今日は控え目に飲んでいるつもりだし、平気平気(空になったグラスを掲げて軽く揺らす)。
溝口 そう言っている人が一番、心配なんすけど……。
岩城 弱い癖に、生意気ね。会社の飲み会で、私が何度、あんたを介抱して上げたと思っているわけ。
溝口 ……たしかに何度かお世話になりましたね。ただ、同じくらいの数、岩城さんがぶっ倒れてから運んだ経験があるんで、自分としてはなんとも。
岩城 …………。
金谷 溝口、お前がいてくれて助かってるよ。お前が来る前まで、こいつの重たい体を運ぶのは、俺に一任されていたからな。こっちとしては負担が半分になっただけでも大助かりだ。
岩城 …………。
溝口 いえいえ、自分ができるのは微々たることでしかないっす。というか、岩城さん、新人の頃も今とあんまり変わんなかったんですね。
金谷 本人はマシになったとかのたまうんだが、いざアルコールを入れると自制が利かなくなるのは変わんないしな。絡み酒とかは少ないが、倒れやすいんだから、もう少し考えて欲しいよな。阿呆じゃないんだし。
岩城 ……本人の前であれこれ、べらべらと喋るな。っていうか、今更だけど、重い言うな。
金谷 お前も一回くらいぐったりとした人間を運んでみろ。そうしたら、俺の言葉の意味がよーくわかるはずだ(徳利から猪口に注ぎこむ)。まあ、もう慣れっこだし、今更飲むなとは言わんが、肝臓にだって限界があるんだから、飲み過ぎるなよ。
岩城 ……わかってる。そもそも、私は人といなきゃ飲まないし。
溝口 (目を見開く)意外っすね。てっきり、一人家に帰った時も、風呂上がりにビールを飲むタイプだとばかり。
岩城 あんたの私への印象がよくわかったよ。あとで、覚えてろ。ともかく、まったく飲まないってわけじゃないけど、明日のことを考えなくてもいい日じゃない限り、飲み過ぎると仕事に響くのが目に見えてるしね。それに、一人で飲んでいると……なんか、負けた気がする。
金谷 (岩城の肩を軽く叩く)大丈夫だ。まだ、余裕で間に合うって。世の中は広いんだし、きっと、物好きがいくらでもいるだろうし。
岩城 ……思いっきり、失礼な想像をされてるっていうのはわかった。てか、勝手に触るな(金谷を睨みつける)。
溝口 (苦笑いを浮かべながら)店長さん、生中一つと焼き鳥の塩一つ。先輩達も、なんか注文ありませんか?
金谷 冷酒一本と蛸わさ一つ。
岩城 ……白ワインにだしまき卵。
溝口 (引き攣ったように笑う)、へんてこな組み合わせっすね。
岩城 (目を細めて溝口を見る)悪い?
溝口 いや、別に悪いことはちっともこれぽっちもないと思いますけど……自分はなににしてもちゃんぽんがダメな体質なので。酒にしても料理にしても、東西がぐっちゃになるとちょっと……
金谷 酒に関しては正解だな(岩城を指差す)。こいつみたいに色々ぐちゃぐちゃと試してばっかりいると、痛い失敗が増えていくことになるだろうし。
岩城 悪かったわね。痛い、失敗ばかりしてて……。
溝口 (取り繕うように苦笑いを浮かべて)いいんじゃないっすかね。ほら、なんでしたっけ。失敗は成功の友とかなんとか。いっぱい失敗するのは決して悪いことじゃないというか。
金谷 まあ、こいつの場合、概ね、同じ失敗ばっかりしかしないのが問題なんだけどな。だいたい、事前に防げるものばかりだし(手元に置いてあった枝豆を口にする)。
岩城 悪うござんしたね、どうせ、私は学習能力がありませんよ(身体を伸ばして、金谷の手元にある枝豆を皮ごと口に入れて、頬を膨らます)。
溝口 (疲れたように左右に視線を彷徨わせる)あ、あははは。
店長 ビールと冷酒、それに白ワイン。
金谷 来た来た(カウンターの上から徳利とお猪口を持ったあと、冷酒を手酌する)。
岩城 ……いただきます(カウンターの上に乗っている白ワインを手に取ると、ぐいっと多めに呷る)。
溝口 ありがとうございます(店長に頭を下げたあと、ジョッキを持ち上げ、ちょびちょびとビールの泡に口を付ける)。
店長、軽く礼をしてカウンターに引っこむ。三人、各々が酒を呷っている間、ただただ飲み物を飲む音とカウンター内でのせせこましい音が響き渡る。
溝口 ぷっはぁ。やっぱり、夏場の冷たいビールはいいっすね。
金谷 お前、好きだな、ビール。俺も別に嫌いじゃないが、最初の一杯以降はお前ほど感じ入れる気がしないんだが。
溝口 それは、無駄に年を食った先輩の感性の劣化ってやつじゃないですか。俺はまだまだ、若いですから、そこら辺まだ瑞々しいんですよ。
金谷 ……言うね、お前も。わかって言っているかどうかは激しく怪しいが。
岩城 ……ってなると、金谷と同い年の私も当て嵌まっちゃうんだけど。というよりも、あんたも二つくらいしか違わないでしょうが。
溝口 こーまかいことは気にしないでくださいよ。とにかく、ビールが上手いってことが言いたかっただけなんですから。
岩城 まあ、今回は不問にするわ。それに、悔しいけど、溝口の意見も一理ある気がするしね。
金谷 へえ、珍しいな、お前がそんなことを言うなんて。いつもだったら、有無言わさず、セクハラだとか、年のことは言うな、だなんて言うのに。
岩城 (ほろ酔い気分で微妙に横揺れしている溝口を一瞥してから)酒の席でそこまで咎め立てるのもなんだか無粋じゃない……まぁ、後日に思い出して、自己嫌悪するのまでは止められないけど。
金谷 (岩城とは反対側から、空いている手を自分の肩にかけてくる溝口に苦笑いを浮かべる)こいつ、変なところで小心者だしな。信じられないくらい胆が太い時もあるけど、後で、面白いくらいに震えてるし。
岩城 そこら辺は私達も心当たりがないわけじゃないから、なんとも言えないけど……
金谷 心当たりがあるのはお前と溝口の二人だろう。俺を勝手に巻きこむな。
岩城 いいじゃない、全く経験がないわけじゃないでしょ。そんなことはともかく……私、妹がいるんだけど。
金谷 話だけは聞いたことはあるな。まだ、大学生だっけ?
岩城 そうそう、無駄に年が離れているせいか、時々、妹っていうよりも娘に思えてくる時もあるんだけど。
溝口 (金谷の肩に腕を回したまま、気持ち良さそうな顔で岩城を見て)妹さん、美人ですか~? 見目麗しいんだったら、是非とも紹介、おいおいは結婚を前提に付き合わせて欲しいんですけど~。
岩城 そんな不純な動機をあからさまにされたら、意地でも紹介なんてしたくないんだけど(溝口の視線からやや体を外し、金谷の方を見る)……それで妹なんだけど。もう少しで就職活動の季節なのに、いまいち、乗り気じゃないっていうか。
金谷 微妙な時期だろうしな。やりたいことはみつからないかもしれないし、大学生っていったらまだまだ、遊んでいたいだろうし。
岩城 (ワインをちびちびと舐めたあと、苦笑いを浮かべる)妹の場合は、やりたいことは明確に決まってるのよ。ただ、それが夢物語みたいだし、仮に叶っても、食べていけるような職業じゃないのが問題で。
金谷 (猪口の中に残っていた冷酒を呷ったあと、徳利を覗きこんでから手酌する)なにがやりたいんだ、妹さん。ミュージシャンとかか?
溝口 大丈夫っすよ。岩城さんの妹、美人らしいから、その一点があれば、他が微妙でもなんとかなりますって~。
岩城 (グラスを下して、額に手をやって口の端を緩める)そもそも、私は妹の美醜について語ってないし、溝口の言っていることは色々な点で失礼極まりないんだって、わかってる? ……ともかく、金谷が言ったみたいに、シンガーやらギタリストやらアイドルやらを目指しているって言ってるんだったら、まだ、社交的で良かったかもしれないね。でも、妹が目指しているのは、小説家なの。
金谷 小説家。そりゃ、また……。
岩城 この出版不況の世の中に逆行しているのよ、あの子は。幸い、小説家志望者にありがちな内向的なところはほとんどないんだけど、専業になりたいからっていう気持ちが強いせいか、なんとなく働くっていうことに及び腰なのよね、あの子。
金谷 部外者の勝手な言い分だが、大学時代のお前の夢でも語ったらどうなんだ。それとどうやって折り合いを付けたかどうかと。それで、上手く、行くかどうかわからんが。
岩城 私が語るまでもなくあの子は私のやっていたことをおおまかに知っているわ。なんとなくなんだけど、あの子の今の振る舞いは、私を見てのもののようにも思えるし……。
溝口 (ビールグラスを空けて)美人は何やっても成功しますって~。それこそ、一昔前は美人小説家がもてはやされたんですから(背を向けている店長に向けて指を上げて、オーダーをしようとする)。
金谷 ……お前はそろそろ、水でも飲んでろ(手近に置いてあったピッチャーから水をコップに注ぎこみ、ゆらゆらと身体を揺らす溝口の前に置く)。そういや、岩城とは馬鹿話はけっこうしたけど、昔の夢みたいな青臭い話はあんまりしてこなかったよな。
岩城 ……あんまり、したいとも思わなかったしね。今だって、そういう空気になったからしているだけだし。……面倒だったら、切り上げてもいいんだよ。
金谷 たまにはいいんじゃないか。こういう時じゃないと話せないことだってあるだろうしさ(お猪口から冷酒を飲み干したあと、徳利の中を見て小さく舌打ちをする)。
店長 お待ち堂様。塩と蛸わさとだしまき卵。
岩城 (顔を輝かせて)待ってました。ついでに、もう一杯白ワインいただけますか?
金谷 おいおい、お前はまだ手元に残ってるだろうが。冷酒、もう一本、お願いします。
岩城 (真顔になり)なんとなく、長い話しになりそうだしね。飲み物を頼むのも面倒になりそうだし。
金谷 そうか……。
溝口 (金谷の肩に強く腕を回しながら)ビール、ビールが足りない。もう、一杯。
金谷 ……だから、やめとけって。飲み足りないんだったら、また今度、奢ってやるから。悪いな、話の腰を折って。
岩城 いいわ。酒屋なんだし、なにがあっても仕方がないでしょ。
金谷 それもそうだな。
ゆらりと身体を揺らしていた溝口が、カウンターに顔をつけて、大きないびきを掻きはじめる。間に遮蔽物がなくなったことにより、金谷と岩城の視線がこれまでよりもはっきりと合わさる。
岩城 さて、どこから話そうか。そうだね……金谷は、子供の頃とか、それより少し後でもいいから、将来の夢とかあった?
金谷 まあ、俺も男だしな。今はこうやってしがないサラリーマンをやっているが、それなりに大きな夢を持ってた時期がなくはなかったな。
岩城 こういうのって、男とか女とかあんまり関係ないと思うけど。それで、どんな夢?
金谷 それはもう……メジャーリーガーだよ。まあ、高校に入る前に回りがすごすぎて早々と諦めかけていたんだけど。
岩城 根性ないわね。けど、この国の野球人口とか才能とかの問題を考えると妥当といえば妥当か。
金谷 そういうお前はどうなんだよ。散々、煽っておいて夢がないとか言ったら笑うぞ。
岩城(グラスに残っていた白ワインに舌を落とす)さすがにそんなことはしないわよ。私はね、ウエディングプランナーになりたかったの。
金谷 俺やお前の妹さんの夢ってやつに比べれば、随分と現実的だな。
岩城 夢である内は、現実的でも非現実的でも大差はないわ。けれど、子供の頃からどういう仕事をするべきなのかとかは調べはじめていたわね。小学生の高学年になる頃には、どんな道筋を通ればいいかを、碌にわかりもしない内に資料を取り寄せてたしかめたりね。
金谷 尚のこと、なにも考えずにボールを投げて受け取って、バットを振り回していた俺とは大違いだな。
岩城 いいんじゃない、子供らしくて。私は幼い頃に親の友人の結婚式に行ってみて、こういう空間を作ってみたいって思ったのが始まりだったから、そういう方法を考える方が先にあったってだけだし。
金谷 それで、作るって方向に行くのが面白いな。自分がするっていう発想じゃなくて。
岩城 考えなかったわけじゃないけど、新郎新婦を見て、自分がそうなるってイメージがなかなか掴めなかったせいかもしれないわね。ともかく、幼い私は、ウエディングプランナーを目指して勉強をして、それなりに計画的にことを進めていたのよ。
金谷 普段の行き当たりばったりが多いお前を見ていると信じられない話だな。
岩城 喧嘩売ってんの?
金谷 いやいや。むしろ、誉めてるって。それよりも話しを続けてくれよ。
岩城 なんだか、引っ掛かる言い方ね。まあ、いいけど。それで、箔付けと楽しみのために四大に入ってまあまあ楽しい生活を送ったあと、就職活動がはじまって、有力企業の情報集めも順調に進んでた。その頃には、卒論以外の単位はほとんど取り終えていたし、成績も決して悪い方じゃなかった。就職活動の対策も自分なりにはしっかりとしているつもりだったから、ひたすら上を目指すつもりで頑張ろうとしていた。
金谷 あたふたしている内に選択肢がなくなっていた俺とは大違いだな。けど、昔のお前の話を聞けば聞くほど、今の会社に入っている姿が想像できなくなるな、良くも悪くも(お猪口から冷酒を一口飲んでから、目を細める)。
岩城 そこら辺は今から話すから慌てなくてもいいわよ(苦笑いをしてから、白ワインを口に入れて、グラスがやや強めにカウンターに下ろす)。大学三年生の終り頃、それなりに条件のいい会社の書類審査と適性検査を通って、いざ、これから面接で、夢への第一歩を踏み出す。その矢先、だった……あれが起きたのは。
金谷 ……あれ?
岩城 私達が大学を卒業する前に起こった、この国を揺るがす出来事。そう言えばわかってもらえる。
金谷 (最初は考えているようだったが、程なくして渋面を作る)……ああ、あれか。あれは、本当にどうしようもなかったな。
岩城 あの出来事の話を聞いて、最初は心が付いていかなかった。だって、あの出来事は私の住んでいる場所からは遥か遠くで起こったし、その時は車に乗っていて、僅かな痕跡すら感じ取れなかった。けど、テレビを見ていたら、次第に大変なことが起こっているという事実が身体に沁みこんできた。
金谷 ……(苦々しげな顔をして、冷酒をちびちびと呷る)。
岩城 遠くで起こっている出来事のはずなのにやけに近くに感じられたのは、あの黒い大きな獣が人達を呑みこんでいく瞬間を映像で見たからかもしれないわね。カメラ越しでもあの獣の巨大さがありありと窺えて、ああ、これを目の前にしたら、もうどうしようもない、って人のことなのに勝手に諦めていたわ。今考えると、頑張って逃げていた人たちがいっぱいいたのに、現場にいなかった私が諦めるなんてすごく失礼だと思うけど。
金谷 …………(表情を変えないまま、猪口の中の冷酒を飲み干す)。
岩城 なにかに憑かれたように報道を追って、ネットで情報を調べていたわ。あの巨大な獣が通り過ぎていった現場がどうなっているのか。全てを食いつくされた町や、世にもおぞましい水や空気を外へと排出していく廃墟、それに海の脇に転がるぐちゃぐちゃになった人たち。映像や情報を集めている内に、いつの間にか、その場にいなかったどころか、出来事が起こった時にはその気配すら察せなかった癖に、まるで、そこにいたみたいな気持ちになっていた。出来事の外にいた人間が当事者ぶるなんて、冷静に考えると傲慢そのものだと今だったら思うんだけどね。
金谷…………(徳利をお猪口の上に傾けるが、酒はほとんど出ず、顔を顰めたまま、徳利の中を覗きこむ)。
岩城 そうやって過ごしている内に、私の中に奇妙な心地が生まれていたの。なんで、ここで傷一つつかずに生きていられるんだろうって。言い方は変だけど、私はあそこにいたんだって、その時には信じかけていたのよね。出来事の大きさのせいか、現実と空想がごっちゃになっていたのかもしれないわ。多くの人たちが黒い獣に食べられたり、崩れた建物の下敷きになったりしたうえに、住む場所や財産すら手放さざるを得ない状況に追い込まれているのに、なんで、自分はここで暮らしているのかな、って。もちろん、すぐに、私はあの出来事が起こった場所にいなかったって思い出したんだけど、そうしたらそうしたで、こうやって取り残されてしまったことがどうしても腑に落ちなくなった。なんていうのかな。後ろめたい……っていうか。
金谷 ……(猪口の中に残っていた、微量の酒を飲み乾す。苦虫を噛み潰したような表情のまま黙り込んでいる)。
岩城 何人もの人々が黒い獣に飲みこまれてしまったあとの世界を思うと、急に私の夢が色褪せて見えはじめた。遠くとはいえ、同じ国に住んでいる幾人もの人々の先がなくなってしまったところで、人の幸せを演出する仕事なんてしていていいのかなって。当時の私には、笑顔を浮かべて他の人の幸福を祈るだけの余裕はもうなくなっていた。
金谷 …………偉そうなことを言うが、そういう時こそ、残っている人達の幸せを演出する人間が必要とされるんじゃないのか。
岩城 そうかもしれない。ただ、当時の私はとてもじゃないけど、そんな気持ちにはなれなかった。普段、夢だとか語っていた割には、意思が弱かったんでしょうね。気が付けば面接を辞退して、その後に受けようと思っていたウエディングプランナーの採用試験も受けないことに決めてた。あの出来事を言い訳にしてなにもしないわけにはいかないって自分に言い聞かせていたんだけど、徒に時は過ぎてゆくばかりだった。
金谷 …………。
岩城 気が付いたら、半年くらいが過ぎていて、卒業したあともふらふらしているわけにはいかないって思って、ようやく就職活動を再開した。とは言っても、ウエディングプランナーに一本に絞って就職活動をしていたから、業界研究も一からだったし、卒論も上げなきゃならなかったからなかなか苦労させられたわ。両親は、もう一年、大学に残ってもいいって言ってくれたけど、そこまで甘えるわけにはいかなかったから、卒業と就職だけはなんとかしようと思って動いてみた。そういう、仕事ならなんでもいいっていう心根を読まれたのか、内定はなかなか出なかったけど、どうにかしなければならないっていう気持ちだけで、卒論を上げてからも色々な会社を受けていった。その果てに辿り着いたのが今の会社。
金谷 ……元々、お前がそれほど優秀じゃなかった、っていうのはないな。会社での働きぶりを見ている限りだと。
岩城 (自嘲するような表情を浮かべる)案外、そうかもしれないわね。私は受からないって思ったから、もっともらしい言い訳を並べているだけかもしれない。ちょうど、体のいい、言い訳の材料があるから、あることないことを混ぜて喋っているのかもしれない。そう取ってもらっても、かまわないわ(グラスに残っていた白ワインを飲み干す)。
金谷 ……思ってもないことを言うなよ。
岩城 (ゆっくりとグラスを下ろす)実際、半分くらいはそうなんじゃないかって思ってる。大袈裟に言い立てて被害者面をしているだけだってね。身内が被害に合っているわけでもないのに、さも、黒い獣に呑まれた被害者みたいな言い方をしている辺りも自分の事ながら、腹が立つし。被害者面しているついで、という言い方をするとなんだけど、いまだに私がここでこうして酒を飲んでいることには疑問を覚えたりもするし。
金谷 いいだろ、酒くらい。そもそも、生きている人間が幸せになってなにが悪いんだよ。
岩城 悪くはない、と思うわ。けれど、私はこうやっている間も、お酒で色々な気がかりを麻痺させて有耶無耶にしようとしているような気がしてならない。お酒って、そういうものといえばそう言うものなのかもしれないけど、こうやって気分良いまま時間を潰していいのかな、って思うの。こんなところで、一時だけであっても、幸せに浸ってていいのかな、ってね。
金谷 (飲み干したお猪口の内側を軽く噛んだ後、舌で舐める)……だから、責任を感じる必要はないだろ。良くも悪くもお前と、呑みこまれていった人々は無関係なんだから。
岩城 ……きっと、これは責任感とかそういうのじゃないと思う。いや、ないって言ったら嘘になるかもしれないけど、それが一番じゃない。
金谷 じゃあ、なんなんだよ。
岩城 (眉間に軽く皺を寄せて薄く瞼を閉じ、少しの間口を開かずにいる。その後、ゆっくり目を開いて、厳しい表情のまま喋りだす)私はきっと、疑問を感じているのよ……幸せになっていいのかって。
金谷 (呆れ顔を浮かべる)当然だ。短い人生なんだから、自分が気持ち良くなるように使ってなにが悪い。
岩城 良いとか悪いとかの問題じゃなくて……忘れたふりをしていても、こうやって、あの日の出来事を忘れていない自分に出会うと、自分一人がちっぽけな幸せのために生きるのは、なんか違うなって。
金谷 ……違うって、なにがだよ(苛立たしげに歯を噛みしめる)。
岩城 頭が冷えた時に、生きているってだけで歓びを感じられるのは卑怯だなって思いがちらつくの。
金谷 当たり前だろう。生きていなきゃ、歓びは感じられないんだから。感じられるってことは感じていいってことだ。
岩城 生きているのって、そんなに偉いの? みんないつかは呑みこまれていくのに、私達が生きているってだけで、歓びを感じていいの? (首を横に振る)そうは思えない。
金谷 (岩城を真正面から強く睨みつける)その言い方だと、まるで、俺達も呑みこまれてしまえばいい、と言っているみたいだな。
岩城 (自嘲的な笑みを浮かべる)そうかも……それが一番いいかもしれない。
金谷 (詰め寄ろうとするが、鼾をかいている溝口に遮られているため断念し、舌打ちをする)ふざけるなよ。こうやって生きていられるのに、贅沢ばっかり言いやがって。
岩城 (ワイングラスを傾けようとしたが、中身がなくなっていたのでカウンターに下ろして、真顔を作る)贅沢、ね。たしかにそうかもしれない。それにこんなこと考えているんだったら、一人で勝手にどこへなりともいなくなればいいのに、こんなところで管なんか巻いているんだから、ざまあ、ないわね(手元にあった、だしまき卵に箸を付けて、頬をほころばせる)。それに、口ではぐだぐだ言ってても、私はこうして飲んだり食べたりして歓びを感じてしまっているわけだしね。
金谷 (肩を怒らせて、目を吊り上げる)周りの人間が五体満足でいられているんだろう。時間さえ作れれば会えるんだろう。そんなに恵まれているのに、生きているという状況に不平不満をぼろぼろ漏らすな(手を付けていなかったたこわさを掻き込む)……こうやって、美味いものを食べられる環境にいるのに、お前は……(顔を伏せる)。
岩城 (目を瞬かせる)あんた、もしかして……。
金谷 (顔をあげて、恨めしげに岩城を見る)お前の想像通りだ。爺ちゃんと婆ちゃんが呑みこまれた。俺が直接、どうこうなったっていうわけじゃないのは、お前と同じだけどな。
岩城 …………。
金谷 こんなことは言いたくないが、お前はなにも失ってないのにぐだぐだと駄々を捏ねてるだけだ。生きていられるっていうのはそれだけでありがたいことなのに、お前はそれをドブに捨てようっていうのか。そうしたくても、できない人間がたくさんいたのに。
岩城 …………(顔を金谷からそむけて、残っていただしまき卵を一口で飲みこんでから渋い顔をする)。
金谷 もしも、爺ちゃんと婆ちゃんの声が聞こえるんだったら、きっと、俺に幸せに生きて欲しい、って願ってくれてると信じてる。もちろん、こんなのは、都合のいい妄想だっていうのはわかっているが、こうでも思わないとやりきれない。身内がどこかへ行ってしまったら、お前も同じように考えないか?
岩城 …………(だしまき卵を咀嚼しながら、眉を吊り上げる)。
金谷 さっき話した妹さんに置いていかれたら、悲しいだろ? だったら、できる限りそうならないようにしようと思うもんじゃないか。それはお前が同じように誰かを置いていく場合でも同じだ。俺や溝口も悲しむだろうし、お前の家族や友達だって悲しむ。そんな顔させるよりは、みんな笑っていられた方がましに決まってるだろう。
岩城(無表情で向き直る)じゃあ金谷は、一度もそのお爺さんやお婆さんの後を追おうって考えなかった?
金谷 ああ。それこそ、向こうが望んでいないことだと思ってたし。
岩城 ふぅん……健康的な考え方ね。
金谷 ごくごく、一般的な考え方だ。俺達は生きているんだし。
岩城 ……たしかに、私は身内があの黒い獣に呑みこまれていないから想像することしかできないけど、妹を失ったりしたら嘆き悲しむと思う。金谷が言ったみたいな心理状態も少しはあって、ぐだぐだと生きていくとは思う。けど、同じかそれ以上に、なんで呑みこまれたのが私じゃなかったんだろうって考えるだろうし、やっぱり時々は同じところに行きたいって考えると思う。それが生きているっていうかけがえのなさに対する侮辱になるとしても、のうのうと自分だけ生きているっていうのが耐えがたくなる時は来る。……もっとも、口ではこんな風に大層なことを言っていても、酒の肴に話しちゃうぐらいだから、私の言葉にたいした重みなんてないんでしょうけど。
金谷 ……お前が男だったら、拳を顔面にめりこませてたかもな。
岩城 勝手にどうぞ、もちろん、お返しはたっぷりとさせてもらうけど。
しばしの間、二人は睨み合う。金谷は燃えるような瞳で、岩城は挑発するような瞳でお互いにお互いの姿を視界におさめている。それを遮るようにゆっくりと溝口の身体が起き上がる。
溝口 (眠たげな目をして、欠伸をする)ふわぁ、なにしてるんすか、二人とも? いつになく、真剣な顔してますけど。
金谷 (やや消化不良だというような表情になり)なんでもない。飲み会らしく、ちょっとヒートアップしただけだ。
岩城 (表情を和らげる)そうそう。いつも通り、意見が合ってないってだけよ。私と岩城の間にはありがちな話じゃない。
溝口 (怪訝そうに二人の表情を窺う)……お二人がそう言われるんでしたら、別段かまいませんが、なんかあるんだったら、自分にも相談してくださいよ。猫の手くらいには役に立ってみせますよ(そう告げて、笑みをこぼす)。
金谷 (しばらく、腕を組んで考えたあと、おもむろに口を開く)……一つ、いいか。
溝口 はい。自分にできることであれば、なんでもご協力しますよ。
岩城 ……(溝口の身体を避けて、金谷の目を見たあと、すぐに目線を逸らす)。
金谷 (岩城を一瞥したあと、溝口に視線を戻す)仮にだが、もしも、身の周りにいる大切な人間を失ったとしたら……お前はその人の分まで幸せに生きようとするか、後を追おうとするか、どっちだ?
溝口 ……それって、心理テストかなんかですか。
金谷 似たようなもんだ。両方、当てはまらない場合は、自分なりに考えた答えを選んでくれてもかまわない。
溝口 (少しの間、腕を組んでいたが、やがて腕を解いて苦笑いをする)きっと、そんなこと考えられなくなるんじゃないですかね。
金谷は言葉を失い、岩城も食い入るように溝口を見ている。二人の間で視線を彷徨わせたあと、溝口はぼんやりとした調子で口を開く。
溝口 だって、その二つって、あくまでも心の整理を付けたあとの話でしょう。中には衝動的にその二つの選択肢のどちらかを選ぶ人もいるかもしれませんけど、少なくとも自分は、どちらに与することもないまま、整理もつけられずにいると思います。心を落ち着かせることもきわめて難しいでしょうし、そんな身の振り方を決められるほど、人生経験も足りません。ただただ、後味の悪い傷痕が残ったままだと思います。それはもしかしたら、時間とともに癒えるものかもしれませんが、少なくとも、今の自分では想像できません。
金谷と岩城は無言のまま、溝口を見つめている。溝口は首を捻りながら、二人を交互に見る。
溝口 あの、なにか変なことを言いましたかね。
金谷 (薄い苦笑いをしてから)いいや、ありなんじゃないか。割と自然な反応だと思うし。
岩城 (微笑みを繕って)ええ、溝口君らしい意見だと思う。これからも変わらずに生きていて欲しいかな。
溝口 (首を捻る)なんか引っ掛かる言い方っすね。っていうか、先輩と岩城さんはどう考えてるんですか。
金谷 まあ、いいじゃないか。まだまだ、夜は長いんだから呑もうぜ。
岩城 そうそう。とりあえずは、全てを忘れて。
溝口 (不満気な顔をして)あからさまにごまかそうとしてますよね。いくら、自分だけ年下だからって不公平っすよ。さっさと、話してください。
金谷 お前、ビールしか飲んでないから腹が減ってんだろ。ほら、食った食った(手元に残っていた枝豆を差し出す)。
岩城 そうそう。これくらいしかないけど、食べた食べた(塩焼き鳥を溝口の前に移動させる)。
溝口 これはこれは、ありがとうございます。っていうか、焼き鳥は元々、自分が頼んだものですし、枝豆にいたってはほとんど残ってないじゃないですか。それよりも、さっきの話を……
店長 はい、冷酒と白ワインお待ち。
第二幕終わり。
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