第一幕

 春の昼下がり、舞台の中心に作られた小さな丘には一本の松が立っている。その下で女子大生の仁恵(ひとえ)が座りこんで本を読んでいる。彼女は紙の上に愛おしげな視線を落としては、時折、含み笑いを漏らしてページを捲る。丘の下には季節に相応しい色取り取りの花々が咲き乱れていて、辺りからは鳥の鳴き声が聞こえている。そんな時間がしばらく続く。

やがて、舞台上手から大学生の新太(しんた)が現れる。彼は少し俯きながら、のろのろと丘へと歩いてくる。丘の手前までつくと、仁恵が顔を上げるとともに、本を閉じてから、手を振る。

   

 仁恵  待ってたよ。


 声を弾ませる仁恵。新太も丘の上に座る彼女を一瞥したあと、再び顔を伏せてから溜め息を吐く。その後、顔をあげて笑顔を繕う。


 新太  ……やあ。相変わらず、元気そうだね。

 仁恵  絶好の読書日和だからね。


ひらひらと本の背表紙を見せつける仁恵。新太は微笑を返す。


 新太  前から思っていたけど、君はとても本が好きなんだね。

 仁恵  うん。できることなら、食べちゃいたいくらい(そう告げて微笑むと、本に齧 りつくような仕種を見せる)。

 新太  そうか……君の気分が良さそうで何よりだよ(そう告げてから、その場で座りこみ、一つ溜め息を吐く)。

 仁恵  こっちに来ないの? もっと近くで話そうよ。

 新太  ……ごめん。少し疲れててね。坂を上る元気がないんだ。

 仁恵  ちょっと歩くだけじゃない。そんなに疲れたの?

 新太  うん、今週の哲学の課題で徹夜してしまって、油断するといますぐにでも寝てしまいそうで。

 仁恵  (訝しげな様子で間を置いてから)ふぅん……だったら仕方ないか(そのまま立ち上がったあと、丘の下まで足早に下りていき、新太の下手寄り傍で立ち止まると、物言いたげな視線を向ける)。隣、座っていい?

 新太  ……どうぞ。

 仁恵  言うまでに間が空いたね。ちょっと傷つくな。

 新太  別に嫌がってるわけじゃないよ。たださ。

 仁恵  顔を見ればわかるよ、それくらい。でも、文句の一つくらいは言いたくなるの(苦笑いしながら、その場に腰かける)。

 新太  そう。

 仁恵  そうなの。


 少しの間、二人はなにも言わずに見つめ合う。仁恵は笑みを浮かべ、新太は固い顔をしたままでいる。


 仁恵  なににしろ課題は終わったみたいだし、これで一安心って言ってもいいのかな。

 新太  そうとも言えない。明後日は去年落とした一般教養の課題があるし。

 仁恵  新太君の大学の教授どもは、今が何月だと思ってるんだろ。学期末ってわけでもないのに。

 新太  今回に関してはこっちの運が悪かったってだけだよ。それに、語学の方は専門の課題ほど大変なわけじゃないし。時間は……うん、あるよ。

 仁恵  なんか、言い方に含みがあるな。もしかして、まだまだ、山のように課題があったりするの?

 新太  今のところはないよ。たださっきも言ったけど、ちょっとだけ疲れちゃってさ。

 仁恵  (心配するような目をして)そっか、そう言ってたもんね。そんなに疲れてるんだったら、今日はもう帰る?

 新太  (やや固い笑みを作り)別にいますぐに動けなくなるっていうほどじゃないから、それほど気にする必要はないよ。

 仁恵  (疑わしげな視線を向けて)本当に? 何かあったなら、すぐに教えてよ。

 新太  大丈夫、仁恵が心配するほどのことじゃないんだ。さっきは大袈裟な言い方をしてしまって悪かったね。

 仁恵  それだったら、かまわないんだけど(新太の様子を窺ったあと、目にこめていた力を和らげる)。あまり、無理はしないでよ。

 新太  うん、わかってる。ありがとう(そう言ってから、空を見上げる)。今日は目が痛いくらいの青空だね。

 仁恵  そうだね。虫に集られるのは気になるけど、こんな空の下にいると、なんだか生きる気力が湧いてくる気がするし。

 新太  ……ああ。これだけ光が溢れていると、生きているっていうのがよくわかる(目の辺りを腕で覆う)。

 仁恵  平日の真昼間から、私みたいな若輩者がこんなことを言うのもなんだけど、それってとても大切なことだと思うよ。こうやって生きていて、のんびりと本を読んでいられる時間があるのはさ。

 新太  ……それだけのゆとりを与えられて、生きている。

 仁恵  そう。私はこの国で今、この時に生まれることができて、本当に恵まれているなって思う。客観的に見ても主観的に見てもね。それに(恥ずかしげな様子で新太の方を窺ってから、再び視線を外す)、新太君に今日も会えたんだし。

 新太  …………(黙りこんだまま、腕を強く押し付ける。上演する舞台の広さや照明の当たり具合次第では歯を噛みしめてもよい)。

 仁恵  (苛立たしげに)ちょっと、なんか言ってよ。けっこう恥ずかしかったんだからさ。

 新太  (今、気付いたといった素振りで、腕を両瞼の上から離し、仁恵の方に振り向く)ごめん、ちょっとぼうっとしてた。何の話だったっけ?

 仁恵  ……なんでもない(不機嫌そうな素振りをしながら、下手の方に顔を向ける)。

 新太  そうか(何か言いたげに口を開こうとするが、再び空を見上げる)それだったら、いいんだけど。


 しばらくの間、お互いの間に沈黙が落ちる。どちらとも同じ姿勢で動かないまま緩やかに時間だけが過ぎていく。仁恵の前を一匹のアゲハ蝶が舞う。彼女は飛び回る昆虫の動きをなんとはなしに追う。


 仁恵 (視線を動き回る蝶に向けたまま)これだけの陽気だったら、蝶も楽しく飛び回りたくなるよね。私達と違って、しっかりとした羽があるんだから。

 新太 ……羽があったとしても、俺達が思うほど楽じゃないよ、きっと。

 仁恵 (アゲハ蝶、舞台から退場。新太の方へと視線を向ける)。それはそうだけど、羽っていうのは一つの可能性なんじゃないかな。私達にはない大変さを引き受ける代わりに、私達にはない自由を得ているっていうか。

 新太 たしかにそうかもしれない。けど……その蝶達が持つ自由さっていうのは、俺達が憧れるほどのものなのかな?

 仁恵 自分で言うのは嫌なんだけど、私はけっこうな数の物語を読んできた。その中には羽を持つ人や妖精や天使が出てくることもあって、子供心にこういうのが欲しいなって思ったの。今は昔ほど、そういう物語を読んだりはしなくなったんだけど、それでも自分にはないものを見ると、純粋に憧れることは多いよ。きっと、新太君が言うみたいに、蝶の持っている自由っていうのは私が考えているほど甘くはないんだろうけどさ。憧れるくらいは、許されないかな。

 新太 …………。


 新太は同じ姿勢のままで黙りこんでいる。仁恵もその様子を真剣な眼差しで見守っている。やがて、彼は腕を瞼の上から除けると、機械じみたゆっくりとした動作で彼女の方へと向き直り鋭い視線を向ける。


 新太 ……君は、もっと、自分の持っているものについて、よく考えてみた方がいいんじゃないかな。

 仁恵 ……どういうこと?

 新太 そのままの意味だよ。君自身がさっき言ったじゃないか。自分は恵まれているって。それなのに、なぜ、更に羽を求める理由があるんだ?

 仁恵 たしかにそう言ったよ。けど、それとこれとは別問題でしょ。ないものを欲しがってはいけないの?

 新太 その最低限の恵まれたものすら、得られない人々がいる。そのことを君は考えたことがあるかい?

 仁恵 あるよ。それは、いつも考えているってわけじゃないけど……思い浮かべないわけじゃない。

 新太 俺達にとっての当たり前なんて、すぐに当り前ではなくなる。最初からそうだった人もいれば、なんらかの事故によって人生を狂わされてそうなった人もいる。わかるかい? 既に俺達は両手にたくさんのものを抱えているんだ。それだけでできることは充分にあるんだ。そのうえで、いったい、なにを望むっていうんだ?

 仁恵 ……望むことはまだまだたくさんあるよ。だって、私の両手にあるものだけじゃできないことは確実にあるんだから。もちろん、今あるものだけでできることだってそれなりにあるだろうけど、それだって、できることが多くなれば、より早く済ませられるかもしれないし、新たな目標だって見つかるかもしれない。羽に憧れるのだって、同じことだよ。

 新太 君は、自分一人だけがぶくぶく太れればそれでいいのかい。

 仁恵 そんな言い方しないでよ。それに私は、別に私一人のことを言っているわけじゃない。どんな人も新しい自由に手が伸ばせて、自分の可能性に手を広げられるなら、やってみればいいと思うし。

 新太 ……たとえ、その結果として、他人を押しのけることになっても?

 仁恵 それは……時と場合によるとしか。判断材料が自分の主観に寄ることも多いから、一概になにが正しいかなんてなかなか言えないとは思うけど。

 新太 (一つ溜め息を吐く)……少し話の切り口を変えようか。君はさっきまで、蝶の羽に憧れていたけど、そんな風に飛んでいきたい夢というものがあるの?

 仁恵 ……ある。もっとも、蝶の羽みたいなものがいるかどうかは分からないけど。

 新太 ふぅん。それで、どんな夢なのかな? 差し支えがなければ教えてもらいたいんだけど。

 仁恵 ……随分と話が変わったね。どういう、風の吹き回し?

 新太 俺の中ではそれほど話しを変えていないつもりなんだけどな。もしかして、話したくないことだったりするの?

 仁恵 そんなこと……新太君に話せないことなんて、なにもないけど(ちらりと窺うようにして、新太を見る)。

 新太 それじゃあ、話してもらえないかな。もちろん、話したくないんだったら、無理しなくていいんだよ。

 仁恵 別に無理してなんかいないよ(少し間を置いてから、胸の上に手を置く。そして一つ深呼吸をしたあとに、口を開く)。物書きになりたいって、そう思うの。

 新太 物書きと言っても色々あるけど、どういうものになりたいの。フリーライター? 新聞記者? ノンフィクション作家?

 仁恵 ……小説家。

 新太 …………。

 仁恵 (新太の顔色を不安気に窺いながら)夢物語だっていうのは私もわかっている。今の社会だとそれだけで食べてくのはすごく難しいし、志望人数の多さからすれば雲を掴むような話でしかない。けれど、幼い頃から色々な人に物語を与えられて育ってきたから、いつか、物語を与えてくれた人たちに恩返しをしたいって思っていたの。だから、自分も人に物語を作って語れるような人間になりたいって、そう願ってきた。

 新太 …………。

 仁恵 正直、何年文章修業をしていてもなかなか芽が出てくる気配もないし、新人賞にも何度も落ちたから、望みは薄いと思っている。特に今みたいに人生経験が乏しい状態だったら尚更だよ。なりたい、とは思っているけど、私程度じゃ何年経ってもなれないんじゃないかって不安に襲われることも多いし。だからかな。自分の持っていないなにかに憧れるのは。自分一人だけの力じゃどうにもならないことでも、ほんの少しの力添えがあれば、きっと、どうにかなる気がして。

 新太 ……甘えるなよ。

 仁恵 へっ?

 新太 (目を剥いて仁恵に詰め寄る)甘えるなって言ってるんだよ。人の腹を満たすわけでも、衣服を与えるわけでもない。ただ、人を楽しませたり、泣かせたり、笑わせたりする、なんていう形のないものを糧にして自己満足に浸る、そんな道楽みたいな職業を志しておいて、足りないから、誰かの力が借りたいっていうの。そんなの、どう聞いてもただの甘えじゃないか。

 仁恵 そんなつもりで言ったわけじゃ……。

 新太 (声を荒げながら)じゃあ、どういうつもりで言ったの? 君には充分に動かすことができる両手があって、自分なりに考えることができる頭がある。自分が楽しむだけだったら、充分なものが与えられているはずだ。それだけでは目的を果たせないからって外からの力を借りたい。仁恵が言っているのはそういうことだよ。

 仁恵 ……じゃあ、新太君は神頼みすらしないっていうの? 自分ではどうしようもないことが襲いかかってきて、自分ではないなにかに縋りたいって思うことはないの?

 新太 …………あるよ。

 仁恵 それじゃあ!

 新太 けれど、将来なりたいもののために祈ったことは一度としてないって言い切れる。大きな枠組みでいえば俺の個人的な事情のために祈ったことは何度もあったけど、自分自身の将来の目標のために他人の力を借りたいなんて願いはしなかった。あくまでも自分の力で叶えようとしてきた。

 仁恵 同じだよ。新太君はもっともらしく言っているけど、私と同じだよ。なにかを叶えるために誰かに祈っているのは変わりないよ。新太君はただ綺麗な言葉で言い繕っているだけだよ。

 新太 ……そうかな?

 仁恵 そうだよ。小説家志望も新太君も変わらないんだよ。


 しばらくの間、二人は静かに睨み合う。


 新太 俺はやっぱり、そんな風には思えないよ。

 仁恵 ……どうして?

 新太 (目を伏せる)俺達がさ……ここで生きているのってさ、どうしてだと思う。

 仁恵 (訝しげに首を捻る)わからないよ、そんなの。両親が産んでくれたからここにいられるってことじゃないの?

新太 そう。たまたま今の両親が知りあって、たまたま一緒に寝るような間柄になって、たまたま精子と卵子が知りあって、たまたま生まれることができて、たまたま今日この日まで生き残ることができたんだ。

 仁恵 うん。私と新太君も、別の大学なのに、ある日、たまたま知りあった。私達二人がここにいるのも、一つの奇跡かもしれないね。

 新太 ……そう、奇跡だ。ここに五体満足でいられるっていうのも、ものすごく低い確率の上で成りたっている。そんな宝くじの一等みたいなものが、なんで俺達の手元に入ってきたんだろう。

 仁恵 ……神様に聞いてよ(困ったように左右に視線を彷徨わせる)。

 新太 そんなものが本当にいるのかどうかはともかくとして、答えが聞きたければそれくらいしか方法はない。けど、そんな方法は知らされていないし、一生知ることなんてないだろう。……その、たまたま、ってやつが、俺は我慢がならなくなる。

 仁恵 なんで。生きていられるのは幸福なことでしょう?

新太 ああ、その通りだ。けれど、俺は、そのたまたまってやつが恨めしい。どうして、生きているのは、俺なんか、なんだろうな、って。

 仁恵 ……甘えてるのは、新太君の方じゃないの。生きていられている癖に、そんな言い方をするのは傲慢だよ。

 新太 そうだろうな。けれど、思い返せば思い返すほど……俺にはそうとしか、思えなくなってくる。探せば探すほど、俺より生きるべきだった人達がたくさんこの世にはいたのに。ただただ、徒に時を潰すしか能がなかった人間達よりも、もっと生きるべき人間だっていたはずなのに、なんで、蚊帳の外で生き残ってしまっているんだろうってな。

 仁恵 (冷え冷えとした眼差しを新太の伏せられた顔へと向けて)……その基準だと、私なんて真っ先に死ぬべき人間だね。

 新太 あくまでも俺個人の考えだ。そこに仁恵を当てはめるつもりはない。

 仁恵 でも、新太君は私を見ていると苛つくんでしょ? だったら、やっぱり関係あるってことになるんじゃないかな。新太君は私を見て、死ぬべきだって思ってるんだよ。

 新太 ……考え過ぎだ。

 仁恵 そうじゃないよ。今までの話の流れを追って行けばそう言っているのがわかる。別に、隠さなくたっていいよ。

 新太 …………

 仁恵 いつもそうだよね。新太君は暗い顔をしてなんか考えこんでる。口では言わなくても、生きているのが辛いって顔をして、明後日の方ばかりを見ていて。その癖、私がそれに気付いて聞こうとすると、痛くないって顔を作って、平気そうに振舞う。正直、なにもできずに見ているだけでいるのは、ちょっと傷つく。

 新太 ……仁恵が言うみたいな大それたことじゃないんだよ。俺にとっては些細な事柄が君にはそんな風に見えるってだけで。

 仁恵 とてもじゃないけど、私にはそんな風には思えないよ。それにさ……新太君は、人に自分の表情が痛々しく見えているってわかっていて、そういう顔をしてるんでしょ。

 新太 ……誤解だ。そもそも、前提条件からして間違っていて、

 仁恵 (新太が喋り続けようとするのを無視して)もちろん、新太君は本当に苦しんでいるんだと思う。だから、その痛みを逃がそうと必死になって、身の周りにいる親しい人に助けを求めようとする。それ自体は無意識の内に誰でもやっていることだろうけど、新太君の振る舞い方は正直卑怯じゃない? 自分が死ぬべきだって言いながら、その癖、自分に可愛そうだって同情するくらいには、自分が好きなんじゃないの。

 新太 …………。

 仁恵 私は新太君がなにを悩んでいるのか知らない。だって、一度も聞かされたことがないんだから。だから、今、言っていることはほとんどが私の印象でしかない。もしも教えてくれるんだったら、相談に乗るけど……死ねばいいって思っている相手の助言なんて、役に立たないかな?

 新太 (顔を伏せたまま、額に手を添える)……そんなことは、思ってない。話すほどのことじゃない。

 仁恵 また、その言い訳? だったら、そんな思わせぶりな素振りを見せないでよ。今の新太君がなにを言ったって、説得力なんか、少しもないよ。


 仁恵は新太の横顔を穴が空くほどの強い眼差しで見つめる。彼は手をより強く額に抑えつけたまま、しばらくの間、なにも言わずにいるが、やがて観念したかのように、口を開く。


 新太 ……生きてちゃいけない、気がするんだ。

 仁恵 ……うん、それで。

 新太 …………なんで俺は、何の被害にも合わないままのうのうと生きているんだって、こうやって五体満足でここにいられるんだって、問いかけるんだ。毎日、毎日。ちょっと、ちょっとだけでも場所がずれれば、きっとそこには木端微塵の街が広がっているんだ。そして、そこにはもう片付けられているけど、動かなくなった人たちがたくさん転がっている。

 仁恵 …………。

 新太 きっと、綺麗なまま転がっていられた人たちは運がいい方で、多くの人々は皮膚がこそげていたり腐ったまま発見されたり、手足があらぬ方向に折れ曲がったりちぎれたり、顔すらもぐちゃぐちゃになったり、そもそも発見されずに海の底に沈んだり。そんな人々に俺はならなかった。ただ、遠くの土地で起こった小さな横揺れを感知しただけで、その後、テレビの報道でようやく遠くにある事実を受け入れただけだった。同じ国で起こったことだったのに、感覚が麻痺してしまって、どれだけのことが起こったのかもわからないままでいたんだ。

 仁恵 (遠い目をして空を見上げる)……うん、私も同じ。正直、よく、わかっていなかった。

 新太 ……これが大事だって理解したあとも、しばらくは世界が変わったという気にはならなかった。一部の品物が店や自販機から消えたり、家族から安否確認の電話がかかってきたこと以外は対岸の火事だったっていってもいい。だから、ようやく、話の重みに気が付いたのは、現場に住んでいる知り合いの安否を確認したあとだった。

 仁恵 知り合い、いたんだ。

 新太 うん。けっこう、近しい間柄の親戚がね。幸いにも知り合いはみんな無事だったんだけど、叔父と叔母は家を失ってしまった。そこら辺から、ようやく、他人事では済まされない、って思いはじめた。けど、身内がそんな目にあっても、やっぱり遠い町で起こった出来事って印象を拭うことはできなかった。身内が生命の危機に晒されたのに、俺にとってはあの出来事は他人事でしかなかったんだ。自分自身が被害に遭わなければ実感は付いてこないんだって、それほど時を置かずにして気付いた。その頃になると、周りの世界の歪みがようやく見えるようになっていた。あの出来事の前と後では、明らかに周りの空気が異なっていた。

 仁恵 そうだよね。あれ以前と以後じゃ世界がまるきり違ってしまっていた。

 新太 なんでもないことを話している時ですら、みんな陰を持った喋り方をするようになった。少なくとも、俺にはそんな風に見えた。笑い合っている時だって、以前にはない含みが見られるようになった。そうやって、話しあっていて、過去は戻らないんだって、あらためて実感した。

 仁恵 今日もまた……あの日の続きなんだよね。

 新太 そんな当たり前を理解した時、ようやくあの出来事を振り返ろうという気になれた。自然と考えるのを拒否していたところから、少しだけ歩いてみようと思ったんだ。

 仁恵 それで、新太君は、どう思ったの?

 新太 まずなによりも、酷いことだと思った。俺もこの国の教育を受けて、苦しんでいる人間を人並みに憐れむ感性ができていたから、できれば目を背けたいと思ったよ。それでも、なにが起こったのか、どれだけの被害が出たのか、そして今なにが起こっているのか。新しい知識を手に入れていった。けれど、そうやって表面的になぞっていっても、結局、生の感触にはならなかった。ただただ、紙切れの中や、テレビの中、そして俺達の会話の中に不穏な陰が差しているっていうのは感じ取っただけで、その出来事自体は、相変わらず他人事のままでしかなかった。

 仁恵 …………

 新太 そうやって人の痛みに深く感じ入れない自分が嫌で嫌で仕方なかった。あくまで遠隔地で起こった対岸の火事だって言ってしまえばそれまでだ。たしかに俺は実際にあの出来事の現場にいたわけじゃなかったんだから。けど、しっかりと陸続きにいる、同じ国にいた人たちが巻きこまれたんだ。それだったら、真に迫ってくるなにかがあるはずだと思っていたのに、なんだか、遠い距離感のままでずっと置き去りにされている気がしてならなかった。木端微塵になった町の外側にいた俺には、真の意味での実感というのはやってこなかったんだ。

 仁恵 しようがないよ。私達は、あの場にいなかったんだから。

 新太 ……ああ、その通りだ。だけど、なんであの場が選ばれて、なんで俺達はあの場にいなかったんだろう。そして、なんで、死ななかったんだろう。そんなのは、たまたまとしか言いようがないのに、ずっとずっと考えていた。知り合いがみんな生きていた俺がこんなことを言うのは、ただの贅沢でしかないんだろうさ。けど、友人や家族、先輩、後輩の身内や友達が被害にあって、どこか遠くの、俺達の知りようのない場所に行ってしまった話を聞くたびに、どうしてこの人たちがこんなに悲しまなきゃならないんだって思うと、なんで、知り合いの大切な人達が巻きこまれなきゃならないんだって憤って。けど、やっぱり、俺自身の話にすることはできなくて。そうしたら、いっそ、いなくなった方がいいんじゃないかって。

 仁恵 それは、傲慢だよ、新太君。

 新太 わかってる、わかってるんだ。起こってしまったことは変えようがないし、こうして生き残れているのをもっと喜ばなきゃならないんだって。だけど、だけどさ……。


 更に深く俯く新太。それを見て仁恵は薄らと笑いながら肩に手をやる。


 仁恵 ……私達は、生きているの。そういう巡り合わせだった。新太君はこういうのが嫌なんだろうけど、でも、それにはそれ以上の意味もないし、それ以上の特別な意味を持つ必要はないよ。ただ、ちょっとだけラッキーだったって思うくらいでいいんじゃないかな。

 新太 ……ラッキーだなんて、死んでも思いたくはない。

 仁恵 うん。新太君はそれでいいんじゃないかな。これはあくまでも私の考えだから。ただ、これからも顔を突き合わせていく身としてはもう少しだけでいいから楽にしていて欲しいな。まあ、これもエゴなんだけどさ。

 新太 そんなに、俺の顔は不景気っぽく見えるか?

 仁恵 さっきも言ったけど、私には喋るたびに暗いなにかを撒き散らしてるように見えるからさ。ただ、無理矢理笑うようにするとか、そういうのじゃなくて、私の前だけでいいから、もっと力を抜いて暮したらいいんじゃないかな。

 新太 仁恵からどういう風に見えているかはわからないけど、俺はきっと……変わらないよ。

 仁恵 残念……でもないか。いきなり、はい変えろ、なんて言われてどうにかなる話でもないんだし。そこら辺は、ゆっくりと、ね……。

 新太 君は俺の話を聞いているのか?

 仁恵 うん、もちろん。でも、新太君の希望と私の願いは別物でしょう。将来的にどうなるにしても、思うだけだったら、自由だしね。

 新太 ……そうか(おもむろに視線を上げて、疲れた表情をする)。


 昼下がりの丘全体に緩やかな風が吹きわたる。二人は耳を澄ましたまま、観客席の方を見ている。


 仁恵 思い詰める過ぎるのは、良くないけど、たしかに、終わってないことだからね。

 新太 …………ああ。

 仁恵 なにはともあれ、生き残っちゃったからね、私達。

 新太 そう、だな。

 仁恵 大きな事や小さな事、問題は山積みだし、毎日が忙しくてなんでここいいるのかを忘れがちだけど、とにかく、生きなきゃね。

 新太 ……ああ。


 仁恵は新太に寄りかかって、目を細める。新太もまた、それを受けいれた上で軽く目を瞑る。


 第一幕終わり。

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