第16話 ヘリオのマッドパピー 2
十層までは十人の大人が肩を並べて歩くことのできそうな、幅の広い階段が続いていた。
螺旋の中心に
九層に至ると、唐突に遺構の構造が変化した。広大な部屋に、無数の巨大な柱が規則正しく建っている。
柱に視界を
所々で柱が崩れているからまだよかった。
柱の内部は小さな部屋のようになっていて、壁と一体化した二段ベッドが二つずつ設置されていた。
「この層は
「そうだ。九層から七層までが兵舎だ。」
ここでたくさんの兵士が寝泊まりしていたのだと、ティエラは語った。
「
ゴートは
「そうだな。暮らすのも難儀だったものだよ。自分の部屋が解らなくなるものだから。」
侵入者対策なのだけどね、とティエラは付け加えた。
「階段は?」
「どこかにある。」
視界の通らないこの場所でどこにあるか解らない階段を探すのはいかにも
「何も迷路ではない。通路はただ平行にあるいは垂直にまっすぐ伸びているだけだ。
「ダメです。」
エルバはティエラに待ったをかけた。
「その男が逃げ出さないという保証がありません。」
エルバに指さされたゴートは困ったように頭を
「どうしろって?」
「剣を返してください。」
仮にゴートが姿を消したところで、
エルバはゴートを指していた手をくるりと返し、
「……返してくれるんですね。」
エルバは不信を示してゴートを
「なぁに。今のところ、お前らから離れる気はねえからな。」
ゴートは軽い調子でそう言った。今のところ、という部分が、エルバには妙に大きく聞こえた。
「では、二手に分かれて探すとしようか。エルバとゴートは向かって右半分を探索してくれ。プレア、行こう。」
言うが早いか、ティエラは言葉通りに一本左に入った通路に姿を消した。
「え? ま、待って下さい!」
フューレンプレアは一瞬の戸惑いを挟んで、慌ててその後を追いかけた。
「マジかよ。」
ゴートは呟いた。この時ばかりはエルバも同意だった。最前にきつい物言いでやりこめた相手を自分の相方に選ぶのには驚いたし、今しがたギスギスしたやり取りをした二人を組ませるのにも驚いた。
「まあ、いいか。オレ達も行こうぜ。」
「そう、ですね。」
うっかり気持ちが重なったことに寒気を覚えてエルバは首を竦めた。改めて心に強固な
ゴートを先に行かせて、その背中から慎重に距離を取る。警戒心をアピールするため、精一杯の
「そこまで疑わなくてもいいじゃねえかよ。どうしたら信用してもらえるんだい?」
「何をしても無駄です。僕はもう二度とアナタに
エルバは噛みつくように言った。
「いや、悪かったって。でも、最低限生き残れるようにはしてやったろ? 現にあんた、生きてるじゃないか。」
「僕が生きているのはプレアさんたちのお
騙される以前にゴートに救われたのも事実であることにエルバは気が付いたが、それを認められるほどの余裕はなかった。
「ああ、それで金髪の嬢ちゃんに甘いんだな。」
からかう口調でゴートは言った。彼が
「警戒しすぎだろう。オレは
ゴートの指摘に、エルバは無言を返した。確かに白枝の剣も短剣も、エルバが持っている。それでもゴートが本気でかかってきたら返り討ちにできる自信はなかった。
「疑り深いのは悪いことじゃないけどな。信頼は行動で勝ち取るしかないってのも事実だ。……ん?」
突然ゴートが足を止めた。エルバは足をもつれさせながら二歩下がって、不器用に白枝の剣を抜いてゴートを威嚇する。エルバの過剰反応に、ゴートは苦笑いをして振り返る。
「あったぞ、階段だ。」
ゴートが示したのは、次の層へと続く階段だった。一区画分の廊下を占拠して、第九層と第八層を繋いでいる。
「おうい、あったぞ!」
ゴートが階段に背を向けて、ティエラたちの探索している方角に向けて声を張り上げた。
そのタイミングで、階段の上に何気なくヒトハミが姿を現した。
「え?」
驚きをそのまま口に出して凍り付いたエルバに、ゴートが
ヒトハミがゴートの背中に向けて跳躍した。
カテドラルから旅立つまでは、フューレンプレアには確かに正しい道が見えていた。あるいは、見えていると思っていた。
正しいこととそうでないことの間にはくっきりと線引きがされていて、正しい側に立つ限り正しい心を持った人は
けれどそうではなかったのだ。
フューレンプレアは今に至るまでも、少なくともその場においては正しいと思う行動をしてきた。
それでも得体の知れない後悔がフューレンプレアを
アリスネストでティエラに言われたことを思い出す。
正しいこととそうでないこととの間に線引きなどないというのか。だとするなら、一体何を頼りにすればいいのか。
「そう言えば。」
不意にティエラが呟いた。フューレンプレアはぎくりとして顔を上げた。
「君たちは世界を救うために旅をしていると言っていたけれど、それは聖教会の方針?」
「え、ええ。聖教会と言うよりは、法王さまの方針、でしょうか。エルバを
「贄の都、ねえ…」
ティエラは苦い声で呟いた。
「エルバは聖教会で英才教育を施した特別な
「そう見えます?」
「いや、全く。」
あんまりきっぱりとティエラが答えたので、フューレンプレアは少し
実際、エルバは身体能力においても戦闘技術においても祓魔師の水準に大きく劣っている。
「だが、希少な
ティエラは足を止めない。後ろから付いて行くフューレンプレアには彼女の表情は窺えない。
「アリスネストで見せた
突然の話題の転換とその内容に、フューレンプレアは思わず足を止めた。
皆を守り切った守護は、フューレンプレアの嘆願したものではなかった。恐らく、エルバ。だが、エルバはそれを言わなかったし、本人が言わない以上フューレンプレアも黙っていた。
「あ、ありがとうございます……。」
「実に特殊な嘆願術だった。いや、あれを嘆願術と呼んでいいものか。」
「何か、知っているのですか?」
ティエラがくるりと振り返った。緑色の瞳が怪しく輝く。心をすっかり見透かされているような奇妙な危機感が、フューレンプレアを襲った。
「ああ、私は力の流れに敏感でね。あれは不思議な現象だったな。まるでエルバの意志に世界が応えるかのように。」
フューレンプレアは唇を引き結んだ。
「彼は不思議だ。一体何者なのかな? 君は知っている?」
「どうして私に聞くのです?」
震える声を励まして、フューレンプレアは問い返した。
「本人に聞いても答えてくれないのだもの。」
「本人に聞いて答えないものを、私が答えるとお思いですか?」
「それは君、場合に寄るだろう。エルバは何か
それは確かに、ティエラの言う通りだ。それを認めつつも、フューレンプレアは
「私から答えられることは何もありません。ですが、エルバを説得することはできます。エルバは仲間なのですから、本人のいないところで聞き回るのは感心できませんよ、ティエラ。」
「本人に尋ねない気遣いというのもあると思うのだが。」
「この場合は違うでしょう?」
「確かにその通りだ。だが――」
丁度その時、ゴートの声が階段を見つけたことを知らせてきた。ティエラは
悲鳴と何かが壊れるような音が、その声を
「離れるな。」
ティエラはフューレンプレアに短く声をかけると、すぐさま身を
しくじった。
ヒトハミの行動様式は非常に単純だ。その知識ゆえに球状遺構の奥に入り込むなど有り得ないと思い込んで、警戒を
階段の上から
ゴートは祓魔師の才能を持たない。ヒトハミを傷付ける手段は白枝の剣だけだった。エルバに返してしまったことが悔やまれる。
自力でこの危機から逃れるのは難しい。だからと言って、エルバの助けも期待できない。エルバの腕でヒトハミを斬り伏せるのは不可能だ。あんな太刀筋では毛の一本さえ切れるはずがない。
果たしてそうだろうか? 牙を
そもそも自分があの剣に目を付けたのは、明らかに訓練などしていない様子のエルバが
実際に持ってみれば、切れ味や取り回しに関しては普通の剣よりも悪かった。あのへなちょこ少年がそんな剣を軽々と振り回していたことに多少驚いたが、そのことはすぐに忘れてしまっていた。
「この!」
果たしてエルバは軽々と剣を振る。獲物に対して刃が斜めに入るような角度で
力を失ったヒトハミの体が崩れ、溢れ出た血がゴートに注いだ。
「大丈夫ですか?」
「おう。」
エルバが差し伸べた手に
服にべったりと着いた血が緑色の光となって消えてゆく。
「怪我はないんですか?」
ゴートは自分の体をよくよく確かめた。あの切れ味にあの軌道。ゴートもヒトハミ
「おう、おかげさまで。」
半信半疑ながら、ゴートは事実を伝えた。いえ、とエルバはそっぽを向いた。そして小さく謝罪した。
「僕がきちんと警告できれば、防げたことでした。すいません。」
自分が何をしたのか、エルバには自覚がないようだった。
「なぁに。気にすんな。」
ゴートが馴れ馴れしく肩を叩くと、エルバはびくりと身を
最初に会った時は無邪気な少年だったのに、とゴートは己の
「さて、と。」
ゴートは気を引き締めて階段の上へと視線をやった。
「警戒しておけよ、兄ちゃん。流石にもういねえとは思うが。」
と言った
階段に当たった衝撃で震える槍の
「ヒトハミがいたか……」
ティエラは消えゆくヒトハミに視線を向けて呟いた。
「ああ。こんなところに二匹も入り込むなんてな。どういう確率だよ。」
「本当に、二匹だけでしょうか?」
エルバが疑問を
「もしも雄と雌だったら、
エルバの言葉に、フューレンプレアはハッと青ざめる。確かに、とでも言いそうな表情だった。ゴートは脱力する。
「ヒトハミはそういう殖え方はしない。」
二人の危機感にティエラが水を差す。ゴートはそれに乗っかって頷いた。
「お前らヒトハミが生まれるところを見たことないのか? あいつらは何にもないところから、ひょいと生まれてくるんだぜ。」
エルバとフューレンプレアが目を丸くした。ゴートは内心で呆れた。
エルバが何も知らないのは今に始まったことではないが、聖教会の嘆願術師も知らないとは。聖教会はゴートが思っている以上にヒトハミに
「今の話、本当ですか?」
エルバはティエラに確認する。あくまでゴートのことを信用しないつもりのようだ。
「まあ、そう、だな。」
ティエラは否定や
「じゃあ、いきなり目の前にヒトハミが湧くこともある、ということですか?」
「街の中に突然現れることも?」
エルバとフューレンプレアが青ざめてまくしたてるのを聞き流し、ゴートは上層に視線を向ける。
また一匹、ヒトハミが顔を出していた。そのヒトハミが階段を駆け下りる間に次のヒトハミが。また
「おい、いくら何でもおかしいだろ。」
一匹入り込んでいただけでも不思議なほどなのに、こんなに何匹も転がり出て来るはずがない。
「……
ティエラはフューレンプレアに下がるように合図をして、自身は
「ゴートさん。」
呼ばれて振り向くと、エルバが実に不本意そうにゴートに白枝の剣を差し出していた。
「僕が持っているよりマシです。」
ゴートはニヤリと笑ってずしりと重い剣を受け取ると、ティエラの後ろに陣取った。
「背中は任せな!」
「嫌だよ。」
ティエラは槍を器用に
となれば、むしろ前の連中に指示を出すべきか。フューレンプレアは嘆願術の腕は確かだが、実戦では少々頼りない部分も目立つ。
実際、部屋の隅に到達した彼女は閉ざされた壁を前に立ち尽くしていた。この部屋の構造は解りにくいので、正確に出入り口に到達できなかった責任を追及するのは
「左だ!」
ゴートは己の方向感覚と脳内地図とを頼りに叫んだ。言われるまま、エルバとフューレンプレアは走る。
おかしい、と気づいたのはどれほどの時間が経過してからだったか。
「出入り口が、ない?」
エルバが荒い息の合間に言葉を吐き出した。
「そんなバカな。」
しかし、実際に見当たらない。部屋に入ってからの自分たちの動線を
「通り過ぎている!」
ヒトハミを迎撃しつつ、ティエラが叫んだ。彼女が指さした先、ヒトハミの群れの合間に見える壁には、動くドアが閉じた合わせ目が見えていた。
「そんな! と、閉じ込められた?」
フューレンプレアが悲痛な声を上げた。
「おい、怪力女! 壁を壊せ!」
ゴートが叫ぶと、ティエラは殺気の
「馬鹿を言うな。これはヒルドヴィズルの使用していた要塞だぞ。ヒルドヴィズルの力に負けるような
さりげなく自分のか弱さを強調しつつ、ティエラは蹴りの一撃でヒトハミの頭蓋を粉砕した。
「上を目指すしかないな。コントロールルームからなら扉を開けられる。だが――」
ティエラは槍でヒトハミの前線を
「――このヒトハミの群れは、人為的に集められているのかもしれない。」
ゴートの背後でティエラが呟いた。未だ息の一つも乱していない。
「コントロールルームに、誰かがいる。」
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