第4話 カテドラルのフューレンプレア 2 

 エルバは丸一日昏々こんこんと眠り続けた。野生の獣のように警戒心をむき出しにしていたのに、ふと気を緩めた瞬間、泥のように眠ってしまったのである。しかし霊験れいけんあらたかな薬を服用し、一日を休憩に費やしてなお、エルバは十分に復調ふくちょうしなかった。


 顔色の戻らないエルバを見て出発を躊躇ためらった一行だったが、守印しゅいんの数には限りがある。一人増えれば、必要な守印の数も増えるのだ。帰還するまで足りるかどうか、既にギリギリだった。


「歩けますよ……。」


 見るからに強がりと解るエルバの言葉を頼りに旅立つ以外、彼らに選択肢はなかった。


 道中、フューレンプレアはよく喋った。エルバを元気づけるためであり、彼の歩みの遅さが帰路の消化を遅らせていることを意識させないためでもあった。


 これから行くカテドラルがどれほど希望に満ちた都市なのか。滅亡のふちに立たされた人類の最後のとりでとも言うべき聖都の栄華を、思いつくままのべつ幕なしに語って聞かせた。エルバは愛想笑いを浮かべて生返事をするばかりだった。きっと体調が悪いのだろうと、フューレンプレアはいよいよエルバを心配した。


「安全な街があるのに、皆さんはどうしてこんな場所を歩いているのですか?」


 突然エルバがそう問いかけて来たのは、何度目かの休憩の時だった。


「少し前まで、カテドラルの東側は霧に閉ざされていたのです。ところが、エルバと出会う五日前に突然霧の壁がなくなって、それで私たちが調査に出たのですよ。」


 ヒトハミが多いだけで、特に何もなかったが。フューレンプレアは改めて周囲を見回した。


「霧の壁、ですか。」


 エルバの問いに、フューレンプレアは首肯しゅこうした。


「言ってしまえばただの濃霧だったのですが、何しろすごい濃霧で。中に入るとたちまち方角が解らなくなってしまいますし、周りの状況も見えなくなってしまって。大抵はさんざん迷った末に戻って来てしまうのですけれど、帰って来られなかった人もたくさんいました。おかげで、カテドラルの東側は未開発地帯だったのです。」


 エルバは怪訝けげんそうに五日前、と呟いて、指折り何かを数え始めた。


「どうかしたか、少年。」


 仲間が問いかけると、エルバは数えるのを止めた。問いかけた仲間ではなくフューレンプレアに視線を向ける。


「……あなたが、司令塔なのですか?」


「いいえ、違いますよ。」


 何か誤魔化ごまかされたような気はしたが、フューレンプレアはそれを指摘したりはしなかった。


「彼女が司令塔では冷静な対処ができないからね。」


 そう言って場を和ませたのは、五人の中で一番年齢を重ねた男性だった。彼がリーダーである。フューレンプレアは何も言い返すことができず、唇を突き出して不満を表現するに留めた。


「エルバはどうしてそう思ったのですか?」


 もしかして、エルバは自分に威厳いげんや頼りがいを見出してくれたのではないか。淡い期待を胸に、フューレンプレアは問いかけた。


「フュ―……レアさん……」


「フューレンプレアですよ、エルバ。発音しにくい名前ですから、プレアで良いですよ。」


 エルバがフューレンプレアの名前を呼びかねていることに気が付いて、フューレンプレアは助け舟を出した。


「皆さんが、僕と彼女を守るように歩いていたような気がしたので。」


 せっかくの助け舟は綺麗に無視された。フューレンプレアは気に留めない。


「それはですね、私が嘆願術師たんがんじゅつしだからなのです。」


 フューレンプレアは胸を張ってそう答えた。


「たんがんじゅつし?」


 エルバは怪訝そうに首を傾げる。憧憬しょうけい賞賛しょうさんを待ち構えていたフューレンプレアは、しょんぼりと肩を落とした。


「……ご存じありませんか?」


「すいません。田舎者でして。」


 むしろ堂々とエルバは無知を認めた。なるほど、確かに嘆願術たんがんじゅつは特別な才能と希少な触媒しょくばいを必要とするわざだ。情報から切り離された辺境では存在そのものが忘却されていてもおかしくはない。フューレンプレアは素早く納得すると、手にした杖をシャンと鳴らした。


「嘆願術とは、神様に祈ることで為す奇跡なのですよ。」


「…………へえ。」


 エルバの声音と視線は憧憬や賞賛とは真逆、疑念ぎねん嘲弄ちょうろうという類のものだった。


「ど、どうかしましたか?」


 思いもよらぬ反応に、フューレンプレアは戸惑った。


「いえ、続けて下さい。」


 一転、エルバは丁寧な態度を取り戻してフューレンプレアに先を促した。


「嘆願術は特別な祈りの才能を持った者が厳しい研鑽けんさんを重ね、そして特別な道具を手にして初めて可能になるのです!」


 今度こそ褒めてもらおうと、フューレンプレアは自分の希少性を存分にアピールする。


「特別な道具、ですか?」


「ええ。神と繋がる触媒です。世界に数えるほどしかありません。これはそのうちの一本。カテドラルの聖杖せいじょうです。」


 自慢げに掲げて見せると、銀の輪が清涼な音を奏でた。籠の中の宝玉が誇らしげな輝きを発する。エルバは目を細くしてその輝きを見上げた。


 フューレンプレアはそれを手にするために費やした年月に思いをせ、胸中で自信を膨らませた。この偉大な杖の後継者に選ばれたのだ。困っている人を助けられないはずがない。自分に向けて、繰り返し言い聞かせる。


「つまり、私はこの杖を預かるほどの優秀な嘆願術師なのです。ですが、神に祈りを捧げる間、術師は無防備になるものです。だから皆さんに守っていただくわけなのです。」


「なるほど、納得しました。つまり、この場でお荷物なのは僕一人ですね……。」


「そ、そんなことは言っていませんよ?」


 フューレンプレアは慌てた。


「お荷物でも構わんよ。生きてカテドラルまで辿たどり着くのが、君の仕事だ。」


 そう言ったのはリーダーだった。エルバはちらりとリーダーに視線を向ける。何かをこらえるように唇を引き結んで。


「そら、休憩は終わりだ。少年、すまないがもう少し頑張って歩いてくれ。」


 エルバは頷くと、ゆっくり立ち上がった。祓魔師ふつましたちは無駄なく陣形を整えて、一路西を目指す。


 この少年をカテドラルに連れて行く。己の吐いた大言壮語を双肩に乗せて、フューレンプレアはきつくカテドラルの聖杖を握った。




 守印しゅいんは人の気配をヒトハミから隠すためのものである。


 守印の効き方には個人差があり、最低限の守印でもヒトハミをかすめて通り過ぎることができる人もいれば、高級な守印でないと効果のない人もいる。困ったことに祓魔師には守印が効きにくい人が多かった。その中でもフューレンプレアは特別守印が効きにくく、ほかの祓魔師よりも一段と良い守印を使わねばならなかった。


 いずれにせよ、完全に気配を遮断するほど良い守印の供給は追い付いていないのが実情だ。被感知区域を半径百歩分程度に抑えられる守印を用いるのが一般的であった。


 従って、ヒトハミの密度が高い場所では守印の効果は薄くなる。そしてヒトハミは人の気配に引き寄せられ、街の付近に集まるもの。一行の旅路の最難関は、目指す街を目視して以降であった。


 フューレンプレアは左手中指に嵌った指輪に手を触れた。己を守る守印はいまほのかな熱を放っているが、効果時間の限界が迫っている。フューレンプレアは喉を鳴らした。行くしかないのだ。躊躇ためらえば躊躇うだけ時間がすり減っていく……。


「良いですか、エルバ?」


 フューレンプレアはしかつめらしく咳払いをして、エルバと目を合わせた。


「私たちはあなたを守ります。けれど、ここから先は絶対を約束することはできません。もしも私たちが倒れたら、その時は全力であの街まで走るのです。辛いでしょうが、止まらないで。」


 エルバは視線をらし、答えない。


「……行くぞ。」


 リーダーの声に応じて、再び隊列が編成された。緊張に満ちた空気の中、自分の鼓動が嫌に大きく聞こえた。まるで鼓膜が律動を刻んでいるようだ。その分周囲の音は遠く、ぼやけている。


 ヒトハミの第一弾と接触した瞬間、周囲の音が戻った。祓魔師が力を注いだ槍が白銀の輝きを宿し、ヒトハミの喉を切り裂いた。効率的にヒトハミを処理する手際は実に見事だ。


 しかし、次第にヒトハミは数を増やしていく。ついに一行は歩みを止めざるを得なくなる。


「いきます!」


 フューレンプレアは高らかな音を鳴らして杖を振った。籠の中を転がる宝玉に力が集まる。大いなるモノと意思を通わせ、奇跡の成就を嘆願する。前衛ぜんえいが息を合わせて身を引いた直後、杖の先から噴き出した炎の塊が放射状に広がって、進行方向のヒトハミの群れを一網打尽に焼き尽くす。


「う、わ……」


 呆けたようなエルバの嘆息たんそくが耳をくすぐった。フューレンプレアは緩みそうな頬を意識的に張り詰める。


「前進!」


 ヒトハミの途切れた隙を突いて一行は前進する。再びヒトハミが集まり、足を止める。嘆願術の発動と共に前進する。繰り返すうちに、荘厳そうごんなカテドラルの防壁が近付いてくる。あとほんの数十歩。走れば数秒の距離。火炎が道を切り開いた、その時だった。


 ぷつり、と、何かが切れたような気がした。皆の緊張が緩んだその瞬間、ヒトハミの群れの只中ただなかで守印の効果が切れたのだ。


「走って!」


 フューレンプレアは叫んだ。四人の仲間たちはすぐに走り出すことができたが、エルバは違う。体力気力共に、彼はもう限界だ。走ってと言われて全力疾走することなどできず、足をもつれさせて倒れ込んだ。


 フューレンプレアは咄嗟とっさにエルバを支えた。四人の仲間も逃げなかった。三人が壁となって押し寄せるヒトハミを切り払い、留めようとする。リーダーがエルバに肩を貸し、フューレンプレアを自由にさせる。フューレンプレアはほぞを噛んだ。


 エルバを支えてはいけなかったのだ。嘆願術の発動を遅らせた、ほんの一瞬。それが取り返しのつかないところまで事態を深刻化させてしまった。ヒトハミを留めようとした三人が押し倒され、ヒトハミの群れの奥へと消える。叫び声が乾いた空気を震わせた。


「行け!」


 リーダーがエルバを防壁へと押しやって抜剣ばっけんする。カテドラルに辿り着いても、ヒトハミがたかっていては城門は開かれない。エルバを助けるには、せめて一分間、ヒトハミを留めなければならない。フューレンプレアは二歩後退し、リーダーと前後を入れ替わった。


「プレアさん……」


 エルバのか細い声が聞こえた。やっと名前を呼んでくれたというのに、振り返ることも答えることもできないことを、フューレンプレアは寂しく思った。リーダーが持ちこたえている間に一度嘆願術を発動するのがやっとなのだ。


「……この!」


 エルバが逃げる足音はしなかった。代わりに石ころが一つ飛んだ。エルバはその場から逃げ出さず、ヒトハミに向けて石を投げたのだ。


 フューレンプレアは青ざめる。嘆願術のために高めた集中力は霧散した。この子は何をしているの? どうして逃げないの? そんなことをしても、何の意味もないのに……。


 勢いに欠けた石は緩やかな弧を描いてヒトハミの頭を掠めた。驚愕きょうがくすべきはその石がヒトハミのひたいに小さな傷を刻んだことだった。


 リーダーの姿がヒトハミの群れの中に消える。フューレンプレアは身をひるがえしてエルバのそばに走った。エルバの腕を取って走ろうとして、既に手遅れであることを悟る。


「……どうして逃げなかったの?」


 フューレンプレアは震える声で尋ねた。熱くなった目から涙が零れ落ちた。


「後味が悪いじゃないですか。」


 エルバもまた震えていた。


「馬鹿!」


 フューレンプレアはエルバにおおいかぶさるようにして抱き締めた。ヒトハミの牙が肩に食い込む。振り返って見たヒトハミの表情はどこまでも無邪気で、これから生き物を殺す様子にはとても見えなかった。フューレンプレアはエルバを抱く腕に一層いっそう力を込め、くちびるを引き結んだ。


「畜生……なんだよ、コレ。どうなってんだよ。ふざけるなよ……。」


 エルバが低い声で呪詛じゅそつむぐ。


「ヒトハミなんて! 全部! 死んじまえ! うあああああ!」


 少年の絶叫ぜっきょうが響き渡った、その瞬間のことだった。


 少年の叫びを神が聞き届けたかのように、突然ヒトハミが死んだ。


 ヒトハミが動きを止めたことに気が付いたフューレンプレアが立ち上がると、カテドラルの防壁の前には累々るいるいたるヒトハミのしかばねが積み上がっていた。


 三人の仲間は何が起きたのか解らないというように、茫洋ぼうようとした視線を交わし合っていた。


 リーダーは血に染まった半身を庇うようにして立ち上がり、地獄絵図を前に絶句ぜっくした。


 フューレンプレアはその光景を前にしてただ立ち竦んでいた。


 防壁の上からその光景をのぞんだ者は大勢いたが、皆声一つなく、おびただしい死に魅入っていた。


 エルバは叫びと共に意識までを空に飛ばしてしまったかのように気を失い、ヒトハミの死骸を枕に眠っていた。


 大量の死が発する緑の輝きが、張り詰めた沈黙と共に聖都カテドラルを包み込んだ。

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