第3話 カテドラルのフューレンプレア 1 

 東へ、東へ、東へ。


 ただひたすら東に進んで一週間。復路ふくろのことも考え合わせれば、ここが今回の探索の限界だ。


 前人未到の大地には、何もない。周囲と変わらず、赤い大地がひたすらに広がっている。人もいないし街もない。その痕跡すらないのだから、周囲以上に何もない。


 それでもヒトハミだけはいる。何故だか獣の数は他所よそに比べて極端に少ないが、ヒトハミの数はむしろ多い。これは奇妙なことだった。人に引き寄せられる性質を持つヒトハミは人の生活圏の近くに集まるものだ。それなのに人っ子一人いないこの地に集まっている。


 いずれにせよ、今回の探索はこれで終わり。霧の奥の大地には、何もなかった。その事実に少しの落胆と、安心を覚える。


「戻るぞ。」


 行動を共にする仲間にそう言われて、彼女はくるりときびすを返した。


 輝く金髪が風の中で波打った。髪に合わせて造花の髪飾りが揺れる。彼女は髪飾りを片手で押さえて、決然と荒野へ歩を進めた。



               *



 最後の守印しゅいんの効果が切れようとしている。


 エルバは既に精魂せいこん尽き果てていた。


 獣の生食は彼の体を確実にむしばんでいる。エルバの体からは栄養も水分もすっかりこぼれ落ちてしまい、それでいて食欲は全くない。ただ喉が渇いていた。


 眩暈めまいに襲われて、エルバは倒れた。頬に伝わる赤土の温もりはどこか白々しい。こうして倒れている自分がひどく遠い存在のように思われた。


 もう、諦めていいんじゃないか。エルバは思う。頑張れば家に帰れるというのならもう少し頑張ろう。だが、わずかに残された力を限界まで振り絞ったところで家に帰る公算はない。ならばもう、仕方がないではないか。


 水分を失った体から染み出た涙が鼻を伝って地面に落ちた。たちまち赤い土に吸い込まれて、ただの薄い沁みになる。エルバ自身も、すぐにこうして消えるのだろう。


 目の表面をおおう水の膜が瞼に押し出され、前に流れた涙と同じ道を辿って零れ落ちた。


「もし、しっかりしてください。」


 数秒か、あるいは数時間か。誰かの声が、エルバの意識を引き戻した。エルバは薄く目を開く。一人の少女が、今にも泣きだしそうな笑顔を浮かべてエルバをのぞき込んでいた。


「ああ、良かった! 気が付かれましたね。起き上ることはできますか?」


 緩やかに縮れる長い金髪と、青い目をした少女だった。髪の一部を結って、造花の髪飾りで留めている。彼女の服装もまた珍妙ちんみょうだった。ゴートのような継ぎ接ぎではないのだが、やはりエルバの常識からは逸脱いつだつした、仰々ぎょうぎょうしい衣装である。


「これをお飲みなさい。楽になりますよ。」


 ぼんやりとした意識の中、エルバは懸命けんめいにその人物を見定めようと試みた。信用できるのか否か。信用する以外の選択肢はないと気付くのに、随分と時間を要した。


「あなたの目、とても綺麗ね。」


 少女は青い目を優しげに細めてそう言った。温かい言葉をかけられてエルバの警戒心は僅かに揺らいだが、同時に怪訝けげんに思った。自分の目はこの状況でことさら褒められるような目だっただろうか。


「私はカテドラルのフューレンプレア。人々をまもり導く聖教会せいきょうかい祓魔師ふつましです。あなたをきっと安全な場所までお連れします。」


 フューレンプレアは慈愛の表情を引き締めて名乗った。


「……エルバです。」


 エルバは朦朧もうろうとした意識の中で辛うじて答え、ようやく薬を受け取った。意味の解らない単語の羅列られつであったとしても、名前と身分が提示されたことは大きかった。


 冷たいカップを傾けると、苦い液体が口内に流れ込んで来た。清涼な香りと苦みはむしろ乾いたのどに心地よい。エルバはのどを鳴らして苦い水を飲みほした。体の奥に潜む不快感が軽減されたような気がした。


「どうですか?」


「少し、楽になりました。」


 エルバが答えると、フューレンプレアは安堵の表情を浮かべた。


「もう安心です。イワグイムシとニクショクバエの幼虫とサンショウイモリを乾燥させてり潰し、スナカマキリの内臓とオオバリサソリの毒を混ぜ合わせたものを聖水で薄めた霊薬です。あなたの体を蝕んでいたものは、きっと追い出されたことでしょう。」


「……ムシ? ハエ? ……毒っ?」


 とんでもないものを飲まされた、と、エルバは青ざめた。この少女、無邪気な様子でエルバを毒殺する心算しんさんだったのか。いや、今のエルバなら放っておけば死ぬ。わざわざ毒など必要ない。では本気でその怪しい虫に薬効があると信じているということか?


 疑念は爆発的に膨れ上がった。それはエルバの頭脳が再び動き始めたということでもあったが、本人はそれに気付かなかった。


「あなたには休息が必要です。私たちが警戒しておりますから、一度お眠りなさい。」


 私たち、と言う言葉を受けて、緩みかけていた警戒心が戻って来た。エルバは慌てて周囲を見回した。エルバとフューレンプレアを囲うようにして、四人の男性が立っている。いずれもフューレンプレアと同じような仰々しい衣装を身に着けていて、銀色に輝く槍を手にしている。


「皆、腕の良い祓魔師です。ヒトハミに遅れはとりません。」


 フューレンプレアは勘違いしているが、エルバが疑っているのは彼らの技量ではなく目的である。またぞろエルバをだまそうとするやからなのではないか。エルバから騙し取れるものなどもうないが、エルバはいまだ自分の状況が解っていない。何か思いもしない理由であざむかれる可能性がないではなかった。エルバは猜疑心さいぎしんに満ちた視線をフューレンプレアに向ける。


「それにしても君、どこから来たんだ?」


 周囲を警戒していた男の一人が口を開いた。フューレンプレアはまゆひそめて尋ねた男を振り返り、強く抗議した。


「そのようなことを今聞かなくても良いではありませんか。こんなに怯えているのに!」


「いやしかし、もしかしたらぞくの類ということもあるだろう? カテドラルにそのような者を引き入れるわけには……。」


 彼の言葉に、エルバは僅かに警戒を解いた。ゴートが何故エルバの過去を詳しく尋ねようとしなかったのか、今なら解る。どうでも良かったのだ。エルバの過去が今後自分に関わって来ることがないことを、ゴートは知っていたのだから。


 他方、この男はエルバの過去を尋ねた。怪しい奴を連れていけないところまで送り届けるつもりがあるからこそだろう。そう思ったところで、エルバはすぐに気を引き締める。この程度のことで人を信用するな。また裏切られるぞ!


 彼ら一行への猜疑心を確かにしつつ、エルバの思考は必要な方向へと転換する。彼がエルバに害意を抱いているかどうかは棚上げすべきだ。質問に答えなければ捨てて行かれてしまう。それはまずい。


「あなたには配慮が足りません。彼は憔悴しょうすいしています。待ってあげても良いではありませんか!」


 フューレンプレアがかばってくれている間に、エルバは身の上話を急造する。正直に全てを話すことは有り得ない。信じてもらえない可能性が高いし、もしも相手に意味が通じてしまう話だった場合、自分で理解できていない状況を相手に握られることになる。


「遠いところから来ました……。正確な位置は、解らないです……。」


 エルバは消え入るような声で答えた。正直に全てを話したに等しい、と気が付いたのは口に出してからだった。


「なんという街なのです? もしかしたら、こちらで調べられるかもしれません。」


 フューレンプレアが優しく言った。全くの親切心のように見えるのが一層疑わしい。


「ルス、と、僕らは呼んでいました……。」


 恐る恐る、エルバは答えた。


「ルス……。聞いたことがありませんね。やはり、霧の向こう側なのでしょうか……?」


 フューレンプレアは考え込むように呟いた。


「ずっとずっと、歩いてきました。でも何日か前に怪しい男に荷物を殆ど盗られてしまって。西へ行けば街があるとそいつが言っていたので、西に向かって歩いて来ました。」


 曖昧あいまいなことこの上ないが一つも嘘はない。むしろ、エルバの現状認識そのものである。その不確かさに頭痛を覚えた。


「なんということでしょう……。ええ、確かにそのような輩もおります。この滅亡の時代に、己をするために同胞の足を引っ張り陥れるような非道な輩! しかしまさか、もうこの地に進出しているなんて。」


 フューレンプレアは怒りに拳を震わせる。その拳が握りしめているのは、先端せんたんに鳥かごのようなものが付いた錫杖しゃくじょうだった。


「私たちの仕事は人に仇なすモノどもを退治することです。ええ、勿論、そのような輩も退治せねばなりません。あなたをおとしいれたその者を、必ずや神の御名みなの下に誅滅ちゅうめついたします!」


 フューレンプレアは怒りを発散するように杖を振り回した。籠の頂点の飾りには銀の輪があしらわれていて、彼女が先端を動かす度に涼やかな音を奏でた。鳥籠の中には緑の輝きを内包した大きな宝石が一つ入っている。滑らかに磨き上げられた球体で、杖の動きに合わせて鳥籠の中を転がっている。


「プレア、今は帰還が最優先だろう?」


 エルバに質問をした男性が呆れたように言った。


「え、ええ! わ、解っています!」


 フューレンプレアは耳まで赤く染め、錫杖を抱くようにして縮こまった。


「ごめんなさい。熱くなってしまいました。辛いことを話させてしまいましたね、エルバ。」


 何故僕の名前を知っている、と言いかけて、エルバは慎重に自分の記憶を探った。名乗ったような気がしないでもない。だが、曖昧だ。次からはもう少し慎重に自分の個人情報を取り扱うべきだ。


「ルスのエルバ。き人であるあなたの生命と財産を、私たちは全力を挙げてお守りします。ですがどうか、ここは生命を優先することをお許しください。」


「……よろしくお願いします。」


 エルバは慇懃いんぎんに答えた。それはエルバにとって、精一杯の威嚇だった。

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