私の原液。(高校二年時、そのに)

(高校二年の、夏。)

(6月から、8月の中旬。)



『無題』


無償の愛はやっぱり私には無理なようです。(原則として)



他人に未練がある自分に呆れる。周囲を切り捨てきれない自分に苛つく。なにより感情をコントロールできない自分に落ち込む。今このときだって。

達観したい。もっと。



理不尽だ。でも、何が?



『無題』


挑みます。



『第三の選択』


集団のなかでそれなりにやっていくには、

集団になれるか、

集団のなかで浮くことになれる、

しかない。

そうでなければ、つらいだけ。

第三の選択って、ある?



集団の力は好きじゃないです。その力が、いいものであれ、悪いものであれ。だって集団員同士の関係って対等じゃないんだもの。



『努力』


人にぺらぺらと話せるほどの努力は、努力とは呼ばない。



『やっぱり』


「努力できる才能」って、一番大切なんだなあ、と思う。



それがなかったら、なんにもならないよ。



『無題』


もう一日中本読んでたいです



『子供の論理』


何でも他人のせいにするのは、子供の論理だ。



『無題』


私が切り捨ててきた人たち。



人ひとりはとても重い、なんて警句を吐きながら。



『無題』


自分自身で精一杯な人って、結構いる。例えば相手を愛するのさえも、自分を愛してほしいから。相手なんかろくに見ていない場合だって、あったりして。



自分自身のことくらい、自分でどうにかできなくてどうするの。

人をほんとうに見て愛することができるのって、その後だと思う。

いい加減に、ひとりで生きろ。



17歳な私に忠告。



『権利を求めよ。』


社会的弱者は守られるのが当たり前、って、いったいいつの時代から?それはそこまで昔じゃあない。ではどうしてそれが当たり前になったのか?それは権利への闘争があったから、ではなかろうか。

そもそも社会的弱者がこの世の中において弱者であることは否めない。これは論理。では彼らを守りかつ対等に扱う理由は?「かわいそうだから。家族だから、知り合いだから、」完全な感情論。この乖離したふたつのロジックが、社会的弱者をめぐる問題には存在している。典型的な「本音と建前」。

率直に言って、後者の感情論に共感できない人は、確実にいる。そういう人は、どう頑張っても、共感できない。だって頭ではわかるけれども気持ちがついていかないもの。理解ができないもの。ほんとうの意味で差別がなくならないのは、こういった本音と建前の乖離による。

いい加減に、「差別する冷たい人間」と「差別されているかわいそうな人々と、彼らを理解している優しい人々」、そういう分けかたはやめればいいのに。前者の人々にだって言い分はある。もちろんよくない意見もあるけれど、でもそこにだって一面の正当性がある。それを無視するのは、自分たちの殻に閉じこもることに他ならない。

最初に書いたとおり、権利というのは求めて初めて得ることができるもの。今ある権利の上に安穏としているな。ほんとうの権利が欲しいのなら、全力で求めろよ。差別者の気持ちを無視するな、彼らにも言い分はある。それをよく理解した上で、全力で飛び掛かれよ。

平和なんて、誰も与えちゃくれない。



論理破綻していてすみません。時間あるとききちんとまとめあげます。



『マイ・ライフ』


自分が教え諭してやる、なんてそんなの私はいらない。はっきり言えば余計なお世話。私には私なりの考えかたがあって、その人にはその人なりの考えかたがあって、それでいいじゃないか。上から意見を押し付けないで。他人はあなたが思うほどに馬鹿じゃあない。

ビリー・ジョエルのマイ・ライフな気分です。



『夏について徒然と。』


一応のところ、夏休みになりました。しかし明日から学校の夏期講習。昨年に比べて宿題が少ないのが救いです。



小学生のころは、私も世間一般同様夏休みに心を躍らせていました。でも、そんなに楽しみにしていて、なおかつ楽しかったはずの夏休みに何をしていたのか、とんと思い出せない。思い出せるのは、帰宅したときの麦茶のおいしさです。麦茶。今は、あの味の濃い、水道水からつくる麦茶があんまり好きではありません。

だんだんと年を重ねるにつれて、夏特有の輝きは薄れていきます。そして今、夏休みというものに特別の感情はおぼえない。ただ曖昧なノスタルジアがあるばかりです。

そして、夏休みにわくわくとしない自分に、つよい安心とささやかな欠落を感じています。



何はともあれ、夏です、夏休みです。さんさんと煩わしいほど明るいくせに、何故だか泣きたくなるような季節。月並みな郷愁が溢れていて、しかし私は、それらが決して嫌いでないです。



『無題』


過去に浸っていたら、現在がうまく見えなくなるのは必至。



『無題』


どうして泣くのと笑うのって似ているのだろう。



『無題』


生きていればどうしたって、空腹や睡魔を感じる。それは自分の意志で止められるものではない。我慢はできても、その感覚自体を消すことはできない。

だからこそ、そういった生命活動への欲望を何らかの理由で脅かすことは、絶対にあってはいけない。罰としてごはんを食べさせないだとか眠らせないだとか。正常な判断も普段の理性も狂い始める。生命活動への欲望が満たされていて初めて、人間は人間として生きることができる。

これこそ人間の尊厳というものではないか。生命活動への欲望に振り回され、理性を失うことほど惨めなことはないと思う。だから最低限の衣食住は、やはり確保されるべきなのだ、絶対に。


個人的には食べなければ眠らなければ生きていけないのって何らかの呪いにすら思える。あるときには、それは祝福にもなるのだけれど。



『無題』


人を好きになるって我が儘だよねと、言ったのは誰だったっけか……。

ああ、思い出した。とある友人だ。


人を好きになるのは無謀。

こう書いたのは、とある作家さんだ。



でも好きになることをやめていない、もしくは諦めていない、そんな印象を、共通して受けている。



『無題』


「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」


哲学者、ヴィトゲンシュタインの言葉です。

私の理解は、彼の意図した意味とは違うのかもしれませんが、私はこの言葉に深く影響を受けていて、ふとしたときに思い出します。


何かものごとがあって、そのものごとについてよく知りもしないで意見するのは、考えなしなことです。それがデリケートな問題だった場合は、とくに。

すべて何かしらの問題に意見する、つまり関わるには、熟知と熟考と覚悟が必要なんです。それができないくらいなら、口をつぐんでほしい。



私自身も、これを遵守していきたいものです。




(今は私、語ろうとしてるなぁ。沈黙せずに。)

(8月でこのブログの更新を止め、ミクシィのほうへ移動します。ミクシィの過去ログを読み返して、なにかあったらまた、「原液」として載せなおすことにします。)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る