世界と私。

(だいぶ抽象的な日記です。)




 私が開けば、世界も開いてくれるのかも知れない。



 先に睨みつけたのは、私か世界か、どっちだったろう。もうずいぶん前のことなので、忘れてしまった。まあでもとにかく、気がつけば私は、世界に包丁を突きつけていた。両手でしっかり握り締めて、ちょっとでも何かが動く気配があれば、容赦なく振りかざした。敏感になっていた。世界というのは、気を抜けば頭上から圧し掛かってくる何かだった。気を抜けば身体じゅうを浸してくる何かだった。それは暗闇に似ていて、でも、もっと粘り気があって絡みついてきて、もっと黒くて深くて、もっと絶望的でどうしようもないものだった。暗闇は、いつか明ける。でもこれがどうなるかなんて、わからない。だってこれは、ずっとここにあるのだから。意志をもっているのかどうかすらわからない、のっぺりとした顔をして。沈黙したまま、ただそこにある。

 自分の身は、自分で守るしかない。そう思って私は、息を潜めてじっとして、何かが動けば突き刺した。そこから流れるどろどろした温かいものは、血じゃない、ただの粘液だと決めつけた。赤い血をもっている存在は、私ひとりだけだった。だと思っていた。そうして私は、たくさんのものを切ってきた。目的も理由もわからなかった。そこには恐怖があるだけだった。意志というよりかは、本能に近いものだった。切らなきゃ、切られる。そういう理屈。

 世界対、自分。

 その構図は、私のなかでいつしか当たりまえのこととなっていた。世界は敵。絶対的に、敵。


 しかしいずれ、疲れてきた。息も絶え絶え、気力もなければ体力もない。それでも私は、最後の力を振り絞って包丁を振り回した。あまりに闇雲に振りかざすので、自分にも当たることがあった。痛かった。でもだんだん慣れた。感覚が鈍くなって、ずっしりと重いだるさを感じるのみとなった。

 そしてあるとき、崩れ落ちた。ふと、立っていられなくなった。一瞬のことだった。足に力が入らなくなり、滑り落ちるように、倒れた。

 それでも包丁は、離さなかった。しっかりと、両手で抱きしめていた。いつでもつかえるように。いつでも傷つけることのできるように。


 ずいぶん長いこと、仰向けになっていた。初めて、世界を全身で感じた。相変わらず真っ暗だけれど、でも、しずかなものだった。何かが動く気配はもちろんあって、だから最初のほうはそのたび半身無理やりに起きあがって、包丁の準備をした。しかしいずれ、気がついた。

 べつに、世界は襲ってこない。

 不思議な気もちになった。だって、世界は襲ってくるものだと思って、ずっとそう信じて、やってきたのだから。拍子抜け、に似たものがあった。

 しかし事実、世界はただ、そこにあるだけなのだ。佇んでいるだけ。切りかからなければ、切りかかってくることもないみたい。

 私はそこで、深呼吸をした。そしてしばらく、こうしてようと思った。休戦。じっさいのところ、限界は超えていた。でも、包丁は握り締めていた。ぎゅっと、力を込めて。祈るように、握り締めていた。


 どれくらいの時が経ったのか、よくおぼえていない。私はあるとき、起きあがった。ゆっくり立ちあがって、あたりを眺めた。まだ、暗い。何かが動く気配もある。でも、それらがぱっくりと口を開けてきたりしないことを、もう私は知っている。たぶん、私が攻撃しなければ、向こうも攻撃してきたりしない。そっとしておけば、そっとしておいてくれる。

 私は、しばらく立ち尽くした。

 そして、歩き始めた。世界へ向かって歩き始めた。そんなことは、初めてだった。包丁はまだ右手にあったけれど、でも、つかう気はもうあんまりなかった。

 世界は、ちょっとだけ暖かく感じた。もちろん血の、ぬるりとした温かさとは違う。もっともっと、ぽかぽかした感じ。それにちょっとだけ、ほんのちょっとだけだけれど、明るくなってきた気がした。足が、ぼんやりと見えた。暖かさと薄光のなかは、案外に居心地が良かった。

 ほんとは、優しいのかも知れない。柄にもないことを思った。


 ひたひたと、歩きながら思う。

 私は脅えていた。でも、向こうも私に脅えていたのかも知れない。怖かったけれど、向こうも怖かったのかも知れない。まあそうだよな、包丁をがむしゃらに振り回す人なんて、ふつうは怖い。そういう、単純な、話だったのかも知れない。わからない。そんなにあっさりとは、やっぱり思えない。でも、もしかしたら、たぶん。


 歩きつづけて歩きつづけて、明るくなってゆくにつれて歩みは早くなって、気がついたら早足で、私は世界のなかを進んでいた。

 ぼんやりとしか見えないけれど、動く気配の正体も、わかり始めてきた。それは色んな、人たち。たまには私を睨みつけてくる人もいたけれど、だいたいの人は、べつに私を睨んだりなんかしていなかった。いやむしろ、小さな笑顔を向けてくれることさえあった。

 もしかしたら。もしかしたら、私はこういう人たちを、切りつけつづけてきたのかも知れない。

 右手の包丁が、重たくなった気がした。


 私は試しに、左手を伸ばしてみた。薄い闇に、手を浸してみた。握ったり、開いたりしてみた。

 手を伸ばして、求めた。何かを求めた。何かを求めて、私は何回も何回も、手を伸ばした。数え切れないほど。何回も、伸ばした。


 そしてあるとき、私は目のまえに差し伸べられた手を見る。


 明るいほうから、差し伸べられた手。

 今までなら、切り落としていたかも知れないその手。

 長い間、逡巡した。急かされは、しなかった。私も相手も、ただ黙っていた。それは嫌な類の沈黙ではなかった。穏やかだった。穏やかに、時間は流れた。


 私はやがて、ひとつの結論を出した。

 この手をちゃんととるのならば、この包丁はしまわなければならないと。鞘に入れて、安全にして。右手にもつのはもう止めて、リュックかどこかに入れておく。ふだんはもちろん、つかわない。二度ともたないくらいが、ちょうど良い。そこにこびりついた、赤の重みを知るのなら。そうだ、私だって加害者なんだ。誰かの世界を傷つけた、加害者。

 包丁をもたなくなったとき、おそらく私は、光のもとへ出る。



 私は今、まさに今、包丁をしまおうとしています。包丁を、手から離そうとしています。ほんとうに、初めて。

 もうちょっとです。あとちょっと、きっと。



 私が閉じていたから、世界も閉じていたのかも知れない。

 私が開けば、世界は開いてくれるのかも知れない。




 読んでいただき、ありがとうございました。

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