アイデンティティとか原子論とか関係論とか、珍しく哲学のお話。

 遥か幼い記憶の話。幼稚園にあがってまず気がついたことは、自身のもつ顔がふたつに増えた、ということだった。家庭での顔と、幼稚園での顔。これは内での顔と外での顔、個人的な顔と社会的な顔と言い換えても良いと思う。何だかそれはすこし心もとないことで、でもそれ以上にわくわくとすることで、私は幼稚園でのできごと、つまり私にとっての社会でのできごとを、一生懸命両親に話したものだった。「ねえ、あのね、今日は幼稚園でね!」自身の社会性を、めいっぱいに主張した。自分が社会的存在となり、わずかながら自立への一歩を踏み出したのが、おもばゆくも嬉しかったのだ。大人になることに憧れるくらいには、私も平凡な子どもだった。そして今までは絶対的な世界であった両親に、今や自分にはべつの世界がある、ということを伝えたかった。誇らしい気もちと認めてもらいたい気もちと、あとはほんのすこしだけ、意地悪な独立心をもって。

 年を重ねるにつれ、顔は増えていった。両親の前での顔をはじめ、教師の前での顔、Aちゃんの前での顔、Bくんの前での顔、Cさんの前での顔……私はそのことに何かざらついた違和感をおぼえながらも、やがては自身にさまざまな顔があることに慣れ、平然と顔をつかい分けるようになった。ああ私のすべてを知る人っていないんだなぁと、十歳になるかならないかくらいのときにぼんやりと思った記憶がある。冷房の効いた、新しい木の匂いのする子供部屋で。思考はつづいた。でもじゃあ、私のすべて、って何?今の私は、すべてじゃないの?

 そんなことを漠然と感じながら、私は小学校生活を送っていった。身長は伸び、赤いランドセルはつかい込まれてくたくたになった。そして今とほとんど同じ背の高さになったとき、というのは小学校五年生の冬なのだけれど、私は、閑散とした学校の廊下でふと思った。廊下のベンチに座って、友達と自由帳に落書きをしているときだった。今私はこうやって隣のこの子と笑いあっているけれど、またべつの子に会えばべつの笑いかたをするわけだし、家に帰ればまた違った表情をしている。どれがいったい、「ほんとの」私?「ほんとの」私はどこにいるの?そんなことを考えながら、私はまた、友達と声をたてて笑った。

 そして小学校を卒業し、中学へ。このころの私は、自己乖離の感覚が甚だしかった。どの顔も、私でない気がした。じゃあひとりでいるときの私が「ほんとの」私なのかというとそんな気もしなくて、私はいつしか、自分が空っぽの鎧であるような気がしてきた。色々と鎧を着替えることはできるけれど、そのじつ中身は、何にもない。空気だ。誰かと一緒にいるときにふとそれを思い出して、気もちがすっと醒めることがよくあった。私は色々なところに「自分」を求めた。でも見つかるわけはなかった。だって私自身のなかに、それを探さなかったのだから。

 このペルソナとアイデンティティを巡る戦いは、ある友人のある一言で決着を迎えた。「どの面が『ほんとの』自分とかそういうことじゃなくて、ぜんぶ『ほんとの』自分だと思う。人間は多面的なものだから」

 その友人とつきあううちに、この考えかたはゆっくりと、しかし着実に私に浸透し、やがて私は、空っぽの鎧ではなくなった。今までは鎧に着られていたのが、私は自由に、服を選ぶことができるようになった。そうして伸び伸びと自身の多面性を楽しんでいるのが、今だ。高校に入って、私はこの楽しさを知った。そしてそれは、コアに確固とした自分があるからこそのものだと思っている。私という実体があるからこそ、私が空気でないからこそ、服を選ぶことができるのだ。すこしずつすこしずつ、コアを固めてきたからこそ。


 私は大学進学の際、哲学科に進学を希望している。池田いけだ晶子あきこさんの著作に深い感銘を受け、哲学を志したのだ。

 そういうわけで、私は現在、哲学の読書会に参加している。これは私の志望校の教授が行っているもので、西洋の哲学書をちょっとずつ読んでゆく会だ。現在は、フーコーを読んでいる。

 その会で、教授が面白いお話をしてくださった。それは、原子論と関係論のお話。

 まず、原子論。これは不変で確固とした存在である物質が先にあって、その上で物質の間の関係性ができるという説だ。物質が先で、関係性は後。これを人間関係に当て嵌めて言うのならば、つまり「私」というアイデンティティをもった人間がいて、「Aさん」というアイデンティティをもった人間がいて「Bさん」というアイデンティティをもった人間がいて、その上で、私たちの関係ができる、ということだ。「私」は誰とつきあおうが本質は絶対的に変わらず、「私」でしかない。どの環境に置かれようが、私は「私」。「Aさん」も「Bさん」も同様。

 これの対極にあるのが、関係論。これは先に関係性があって、その上で物質ができる、という説。関係性が先で、物質は後。これを人間関係に当て嵌めて言うのならば、つまり「私」と「Aさん」と「Bさん」との関係性があって、はじめて「私」や「Aさん」や「Bさん」の人格は成立する、ということだ。「私」はつきあう相手でいくらでも変わりようがある。環境が変われば「私」も変わる。朱に交われば、赤くなる。

 そして関係論にも、大きく分けてふたつある。

 ・物質には(人間には)確固としたコアがあって、その上でTPOに応じて変わる。

 ・物質には(人間には)コアも何もなくて、他のものに完全に依存する。

 教授は関係論の立場をとる、とおっしゃっていた。はっきりとおっしゃっていたかどうかは忘れてしまったのだが、おそらく、後者の考え寄りだったように思う。その場にいらっしゃった大学の学生さんも、関係論の、後者をとるとおっしゃっていた。私はそこで、考え込んでしまった。

 原子論ってほど、極端ではない。だってAさんへの対応とBさんへの対応は、違うもの。でもやはり、コアがないとは思えない。人間には、確かにコアがあると思う。だってもし人間にコアがなくて、それぞれに依存して生きているのだとしたら、いったい何がそこに存在するのか。空っぽの鎧同士が手をとりあって、そのなかには何もない、そんなことが、有り得るのか。たとえばまったく同じ環境で育った双子でも、微妙なニュアンスの違いがある。この微妙なニュアンスは、とても些細なことの場合もあるけれど、でも、見逃してはいけないものなのではないだろうか。それこそが、人間のコアに深く関わるものなのではないか?微妙なニュアンス。どこに行っても誰と会っても、ぜったいに変わらないもの。最初はとても曖昧だけれど、だんだんと確固としたものになる人間の本質。だって私は、それを確かにもっていたもの。それがなければ、私じゃないもの。

 これは各々の実感の問題、とも教授はおっしゃっていたように思う。原子論をとる人には自信家が多いと思いますよ、という冗談めいたコメントもつけ加えて。

 この話が終わっても、私はしばらく、もの思いに耽ってしまっていた。人間(ひいては私)、その絶対性と、相対性。これははたして、どういったものなのか?



(知識的なことを、念のために書いておきます。

 原子論といえばデモクリトスが有名ですが、ここでの原子論はそのような科学そのものについてのことでなく、あくまで概念を借りただけだと思います。また、プラトンのイデア論と、深く関連していると思います。

 関係論は、ソシュールの言語学がベースだそうです。フーコーは、こちらをとっていました。近代は、こちらの考えかたのほうがかなり力をもっているそうです。

 また、スタニスラフスキー演劇論についても教授は言及されていたのですが、ちょっとまだ整理がついていないので、割愛させていただきます。)


(まったく私的なことなのですが。池田晶子さんは、ソクラテスを敬愛するかたでした。なのでやはり、私の考えかたの根底には、ソクラテスやプラトンがあるのだと思います。そのことを、今回の読書会で強く感じました。)



 このつづきはもちろんのこと、まだまだたくさん思ったところはあったので、後ほど書けたら、書かせていただきます。気力があるとき。もっとうまく説明できるよう、精進します。なかなか読みにくいかなとは思うのですが、良かったら、おつきあいください。

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