九歳の思考。(多面性とか、集団性とか。)
さがしものをしていて、押入れをごそごそをさぐっていました。暗くて湿った、私の過去がある場所。
すると、偶然小学三年生のときの作文集を発見しました。そしてそこで、個人的にとても興味深い作文を発見しました。
非常につたない文章ではありますが、本文をそのまま載せてみます。
『やえちゃんとわたしを見て』(*「やえちゃんとわたし」というビデオをみての感想文らしいです。)
やえちゃんは、とてもかわいそうです。だって、やえちゃんのかみがくしゃくしゃだから、わらいかたがへんだという外見だけで、きもちわるいと、クラスのみんなにいじめられているからです。やえちゃんの悪いところは、ぜんぜんないと思います。みんな、自分の悪いところは気づかずに、やえちゃんの悪いところだけを言って、いじめています。人はそれぞれいいところと悪いところがあります。やえちゃんの悪いところだけ見つけるのではなく、いいところも見つけてあげていいと思います。
やえちゃんのいじめかたは、とてもひどいです。まゆみちゃんにやえちゃんがついていっただけで、「やだな」とか「あっちへいってよ」って思われます。ごみすても、全ぶやえちゃんにやらせて、先生がきたら、やえちゃんのせいにして、せっかくなかよくしてくれた友だちを、「やえちゃんともう遊ばないって言ったでしょ」と言ったり、「いっしょに遊ぼうよ」と言ったりして、やえちゃんの遊びあいてをなくしてしまいます。とてもかわいそうです。
やえちゃんのようないじめは、ぜったいによくないと思います。外見ではんだんして、いやなことはやえちゃんにおしつけて、友だちまでうばうのは、とてもいじわるです。友だちになりたいなら、いじめをやめればいいのに、みんながいじめてるからというりゆうだけで、いじめるのは、弱い心にまけています。
やえちゃんのようないじめ、さべつがなくなったら、みんな楽しく、仲よくできると思います。
じつは私、このようなテーマで、小説を書きあげたばかりなんです。「やえちゃん」の、友人の話。正確に言えば、「やえちゃん」の友人であることを悩む話。だからすこし、びっくりしました。ああ、あのテーマは、ほんとうのところ十年越しのものだったのか。
細かい記憶はおぼろげなのですが、たぶん私、この作文を書いたときには既に「やえちゃん」のような子と出会っていて、じっさいにつきあっていました。それでこんな、感情のこもった作文を書いたのだと思います。
小学生と中学生のころ、いやたぶん高校に入学してからも、私は「やえちゃん」の存在と、「やえちゃん」との関係性と、「やえちゃん」のこととをずっとずっと頭の隅っこで考えていて、だから今回、「やえちゃん」を巡る小説が仕あがったのだと思います。
今と通じるところ。
「人はそれぞれいいところと悪いところがあります。やえちゃんの悪いところだけ見つけるのではなく、いいところも見つけてあげていいと思います。」
おそらく九歳の私は、人間の多面性を主張したかったのだと思います。一面だけをみて、その人のすべてをわかったかのように決めつける、そのくだらなさを、おぼろげに認識していたのかも知れません。
「みんながいじめてるからというりゆうだけで、いじめるのは、弱い心にまけています。」
これはたぶん、集団への違和感。集団というものとその性質に、いまいち私は馴染めなくて、善し悪しの問題ではなく馴染めなくて、理解できなかった。理解できないものへの、これは精一杯の主張だったのだと思います。心もとなくはあるけれど、負けない主張。そういう性質は、たぶん今の私にもある。だからこそ、こうして文章を書いているのだと思うし。
「弱い心」。なんて言うか、こういう言いまわしに私を感じるんだよなぁ。冷静で論理的なふりして(成功しているかどうかはともかく)、徹底的なNOを突きつけているところが。
でも、至極当たり前なのですが、今と違うところもいくつかみつけました。
「かわいそう」。今の私だったら、この概念はつかわない。同情は、敗者にすべきものだと思っています。基本的には。
「やえちゃんの悪いところは、ぜんぜんないと思います。」たぶんそれもちょっと違うのだと、今は思う。悪くはないかも知れない。悪くは。ただ理由はこじつけであってもあるわけで、だからこそそれはほんとうに理不尽なことだなぁと、私は思うわけですが。
それと、基本的に、上から目線だ。確かに今現在も、私にはそういう傾向がある。でもそれを、ある程度自覚している。だけれどもこのときは、自覚していない。だからこんなことを平然と作文に書いてのけて、しかもそれが上から目線の考えかたであることを理解していない。幼さゆえの愚かさです。やはり、自分がなにをしているのか理解していないというのはまずいと思う。
まあ、でも、根本的には言いたいことは変わっていないのだと理解。小学三年生のころから一緒って、いったいどうなのよとも思いますが。
多面性を認めないことと、集団の暴力。この概念はわりと以前から私につきまとっていて、その始まりは、この辺りだったのでしょう。そして私は、その理不尽を言いたかった。おそらくは、ずっと。
そして先ほど言った通り、このテーマは、十年越しでかたちにしました。
あとは文章の雰囲気が、やっぱり似ているなぁと発見。いやもちろん、小学三年生の文章は小学三年生の文章ではあるのですが。
「とても」とか「ぜったい」とか「ぜんぜん」とかをつかって強調したがるところとか、「だって」と理由を述べるところとか、妙に淡々と進めてゆくところとか。そのくせ強く述べるところとか。
やはり子供時代には、自分の根源があるのですね。
「やえちゃんのようないじめ、さべつがなくなったら、みんな楽しく、仲よくできると思います。」
今は、こう単純には考えません。そもそも当時も、本気で思っていたのかどうか疑問ですが。ただ、ひとつの大きなテーマではあります。いまだに。
多面性と、集団の暴力。
この作文は、たまに読み返そうと思います。
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