私がバタイユを読む理由。
私は哲学に興味があり、大学では哲学科に進もうと考えています。しかしそのわりに、哲学書を殆ど読んだことがありません。哲学書を読もう、読まなきゃ、読みたい、と思い、ある大学の読書会に二回参加してきました。西洋の哲学書を読んでゆく会です。
この会が、また凄い。未知の世界です。
ジョルジュ・バタイユの『内的体験』をやっているのですが、これ自体がまず難しい。正直なところ論旨すら掴めていないという悲惨な状況。
しかし参加している皆さんは、この本をそれぞれのやり方で理解されているようです。どういう意味か、何の言い換えか、結局バタイユは何を言いたかったのか、積極的にお話されていました。
やばい。
と思いました。確かに参加している皆さんは大学生だけれども、このままのらくらと高校生活、また大学生活を過ごしていたら、私は皆さんの域に達することはおおよそ出来ないだろう。いや、たとえ高校生だって、バタイユを理解している人はいるかも知れない。
それと、悔しい、ともつよく思いました。基本的に私は自分が頂点にいないと気が済まないので(たとえ現実的に望みが薄いとしても)、自分に理解出来ないものがあるのは悔しくて不安で仕方ありません。
というわけで、私は私なりにバタイユをじっくりと読んでみることにしました。結局のところ、言いたかったのはこれです。
ぜんぜん理解出来ていませんが、でもバタイユの文章って、何かほとばしるものを感じるんだよなぁ。今までになかったような。まったくの感覚的意見ですが。だからこそ、真正面からぶつかってみたい。
そういうわけで、これからmixiにバタイユを読んでの感想を少しずつ上げてゆくと思います。何て言うかもう完全に自己満足の世界ですが、それでも頑張って書くので、読んでもらえたら嬉しいです。
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