詠春拳の頭
「洪拳の仲間にでもでばってもらうか」
ベッドに寝転んで作戦会議だ。河北にあった四つの洪拳武館のうち二つが広東へ、二つが福建へすでに移っていた。一ヶ月とちょっと、もうそろそろ落ち着いた頃だ。それを引き戻すには、今更感が強い。まず乗って来ないだろう。
「文はどうするんだよ。宛先知らねーぞ」
もっともである。基本的に商売敵なので交流はないのだ。強いて上げればソウ (曽) 老師くらいなものか。半年に一回くらい訪問し、ただ酒をくらうのである。
ソウ老師は優しい好好爺でフェイロンが武館を開いてからの付き合いである。七十近くになった今でも現役の指導者であり、弟子は彼の人格をしたって集まっているのである。
「フェイロンいいか、何かあったらわしに文を寄越せ。なーに武館の名前を書けば届くであろう、くれぐれもひとりで抱えこむことはするなよ……」
はっと思い出した。ソウ老師の言葉を。武館の名前、武館の名前……
「おい、ハオユー、ソウ老師の武館の名前覚えてねーか?」
「ああ、ソウ老師がいたな。武館の名前か…確かちょっと風変わりな……」
「ソウ老師、ソウ老師……」
そこへウンランがひょっこりと顔を出す。
「俺は覚えてますよ。兄貴の使いで魚の燻製を届けに行ったことありましたやん。その時武館の名前もしっかり記憶しましたやん」
「で、なんて?」
「シャツが所々破けてきたんで新しいものに変えたいなと……」
「ええい面倒なやつだな! ほれ給金だ」
フェイロンは結構な大枚をはたいた。
ウンランが銭を数えながら言う。
「神妙ですよ、神妙曽洪家門武館」
「それだ!」
フェイロンとハオユーは同時に答える
「広東省神妙曽洪家門武館で届くんだな」
「お、俺に聞かれても」
「とにかくそれで出してみよう。なしのつぶてで構わないさ。まだあてはあるんだから」
フェイロンは喜び勇んで紙と硯をハオユーに渡す。それから文面を考える。
「拝啓、ソウ老師におかせられましては達者であろうと思います。わたくし、黄飛龍はこの度とある正義の暴動に参加する事にあいなりました。そうです。各地の武館を廃止し、武術を禁じた、日帝への報復を致す所存でございます。しかしいかんせん頭数が足りません。我こそはと願い出たお弟子さんを五十人ほど、この飛龍にお貸し下さいませんか。時はおよそ一ヶ月半後、詳しい日時は追って通知いたします。わたくしは今保定市の泰定酒家に身を寄せています。草々」
ハオユーが書きながら眉をひそめる。
「へったくそな文面だな」
「意味が通じりゃいいんだよ。あと五十人だけどこれだけ集めりゃもういいだろうよ」
「何人来るかな」
「俺はそれよりも届くかどうかのほうが心配だよ」
皆が大声で笑う。
「実はな、もうひとつ最後の切り札があるんだ」
「最後の切り札?」
「ああ、保定市にひとつだけあった詠春拳の武館で指導をしていたチェン (陳) 老師とシャオタオが顔見知りどころか三年ほど武館に通っていたというじやねーか。とにかく女が護身術に通う。それに釣られて男も通う。南派拳最大の大所帯だったからな、今度の休日、頭の邸宅を訪ねるつもりなんだ」
「それは妙なつながりだな。上手く行けばいいが」
「下手に下手に出るんですよ。兄貴は年上にもため口で話すから」
ウンランが釘を刺す。
フェイロンがそれまでとうって変わってもじもじとしだす。
「そんなことよりな……」
「なんだ」
「俺、フェイロンはめでたくシャオタオと正式に付き合う事になりましたー!」
「……」
「あっそ。もう付き合っていたのかと思っていたよ。そりゃおめでとさん」
「なんだお前ら妬いてんのか、反応悪いな」
フェイロンはニコニコしながら拳で殴る真似をする。
「兄貴、よかったですね。シャオタオちゃん可愛いですもんね」
ウンランが取り敢えず取り繕う。
「ああ、俺は幸せだー。シャオタオちゃんお休み」
ハオユーとウンランが目をあわせ、どうにもならないという仕草をする。二人もそうそうに寝てしまった。
次の休日……
シャオタオと一緒にチェン老師の邸宅に向かう。手には饅頭の詰め合わせを持って。
およそ一時間歩いたところに、その屋敷はあった。今日は薄曇りだが湿気がまとわりつく。汗だくになりながら玄関脇の鈴を鳴らす紐を引っ張る。
「はーい」
玄関がゆっくりと開き、家政婦とおぼしきエプロンをかけた四十歳くらいの女性が顔を出す。シャオタオが挨拶をする。
「こんにちは。私はワン・シャオタオともうします。先生にお取り次ぎをお願いしたいのですが…」
饅頭を家政婦に渡す。
「かしこまりました。しばしお待ちを」
家政婦は、スリッパでパタパタと去って行く。
少し間があって家政婦が再度出てきた。
「こちらへどうぞ」
フェイロン達は玄関脇にある応接間に通される。
そこへ男が入ってきた。男を見て驚いた。背はフェイロンと同じくらいの大男が現れたからだ。詠春拳というからには、もっと小柄な男が出て来ると勝手に思いこんでいたのである。
としは五十歳くらい。頭は禿げ上がり実年齢より老けて見える。手には酒瓶を持ち、昼間から酒臭い。武術の師匠というより山賊の頭といった風貌なのである。
「シャオタオちゃん久しぶり。最近武館に顔をみせないから寂しかったよ。で、今日は何の用なの?」
「それよりも先生、お酒飲みすぎじゃないんですか。こちらが心配してしまいますよ」
「生き甲斐だった武館もつぶされた。やることか何もなくなった。酒でも飲まずにやってられるか」
「どうぞお体を壊さないように。今日来たのは他でもありません。こちらのお方河北の龍ことホアン・フェイロンがどうしても取り次いでほしいって……」
「ホアン・フェイロンだってー!」
チェンは立ち上がり、両手の掌を上げ詠春拳の構えを取る。
「俺を倒して名を上げようというんだろう。さあどこからでもかかってこい。その生き血をすすってやるぜ!」
「先生落ち着いて! 今日はそんな事できた訳じゃないんです」
「うるさい!ここで会ったが百年目。思い切りけりをつけてやるぜ!」
いきなりテーブルの上に立ったかと思うとフェイロンに回し蹴りをぶんまわす。フェイロンは前腕で受けソファーの後ろに跳び跳ねる。チェンはソファーから飛びあげ左右の連打だ。フェイロンは辛くもよけ、攻撃しようかと思ったが、今日は頼み事をしにきたのだ。攻撃すればすべてがパーになる。
壁に追い詰められ肘うちを首を振って避ける。避けた一打が壁に当たり壁に穴がほげる。
前蹴りを仕掛けてきた。右手で払いながら左横突きを受け流す。
「どうした。かかってこんかい!」
「だから、今日は頼み事をしにきたんであって……」
フェイロンの言葉も虚しく、まだ攻撃を続ける頭。フェイロンは攻撃をことごとく受けてまわる。
相手は酔いも手伝い隙だらけである。反撃しようものなら二、三手で倒すこともできよう。だがしかしそこは我慢のしどころだ。受けに徹するしかない。
やがて頭の息があがってきた。動きも散漫になり、よろよろし始める。どうやら酔いも醒めてきたようだ。
頭はどっかりとソファーに倒れこみ、ようやく人の言う事を訊く理性が戻ってきたようだ。
「はぁはぁ、で今日は何の用だって?」
フェイロンが改めて挨拶をする。
「お初にお目にかかります。ホアン・フェイロンと申します。今日来たのは他でもありません。お弟子さんの住所を記した閻魔帳を貸してほしいんです」
そこへ茶を運んできた家政婦さんが入ってきた。チェンも落ち着きをとりもどし、出された茶をすする。
「それで……その閻魔帳とやらをどうするつもりなんだ」
「実は……」
かくかくしかじか、フェイロンは暴動の内容を暴露する。
「なるほど、そりゃ面白そうだ。俺から武術を取り上げた日帝へ鉄槌をくだすのか。よかろう詠春拳一門二百五十人は全面的に支援するぜ!」
「じゃあ閻魔帳は……」
「閻魔帳なんてねぇよ。俺が高弟五人に声をかければ末端にまで伝達する仕組みになっている。今日は気分がいい。飲もうぜ、兄弟!」
チェンはお茶が入っているフェイロンの湯呑みに酒をどばどば注いでいく。
「乾杯!」
こわごわ口をつけると何とも言えない味。フェイロンは思いきってごくごく飲み干す。
「詳しい日時は追って通知しましょう。ありがとうございました」
「ん?なに、帰るの? 帰しゃしないぞ。おーい、さっきの饅頭持ってきてくれ」
饅頭をつまみに一献やるとこれがまた合う。シャオタオもちびちびやり始めた。
二人はお互いに豪快な武勇伝を語り出す。そのうち頭がついに眠ってしまった。
フェイロンとシャオタオは、そーっと帰路についた。
帰る道すがらシャオタオが、後ろから抱きつく。
「危ないことはしないで……」
「なーにさっきも説明したように外側の監視役だって、全く危なくないよ」
「それならいいんだけど……」
フェイロンはシャオタオの方に向き直り少しかがんでまっすぐにシャオタオの目をみて語りかける。
「いいかいシャオタオ。男にはどうしてもやらなけりゃならない事がある。それをいちいち逃げてたら男でなくなる」
少し涙がにじんでいるシャオタオと唇を重ねる。
「それが男ってーもんだ」
ふたりは手を繋ぎ、また黙って歩き始めた。
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