拳友
ドシ、ドシ、ズバッ、バシィ!
与儀との対練である。与儀は綿が水を吸うかのように五行拳を吸収していく。
「そこはもっと足をすぼめる!」
「そこはもっと腕を開いて!」
普通ある拳を極めたものは、一から他の拳を習うことなどしない。今まで積み上げてきたものがご破算になる事を恐れるからだ。
しかしこの男は違う。空手をかなぐり捨てる勢いで五行拳の習得に邁進している。
「もっと速くするぞ」
何度も何度も同じ型をくりかえす。武術の師匠は、よく「数を踏め!」と言う。文字通り何度も繰り返しやれと言う意味だが、単純な突きを一万回だとか、平気で命ずる。これは苛めているんではなく拳の術理を深く体に叩き込むためである。
「お前はたっぱがあるから正拳突きを少しうち下ろす形にしたらどうだ。斜め上から拳が飛んで来るのは非常に受けづらい。どうだ」
与儀に困惑の表情がうかんだが、反論する。
「受けづらくても外側にかわしやすくなるんじゃないのか?」
「正拳突きを二種類扱うようになると思えばいい。宿題だ。打ち下ろす正拳突きを千発繰り返しておくんだ。もう真っ暗になりそうなので俺は帰る。じゃあな」
フェイロンはスタスタと帰って行った。与儀は呆気にとられていたが、やれと言われればしょうがない。後一時ほどかけて真っ暗の中、手探りで課題を克服する。
これは本当に洪拳の術理に沿っているのか……
等々考えてもフェイロンを信じるしかない。しかし三百回を越えた頃、この拳の意味がつかめてきた。これは直突きと、横突きの中間に当たる拳なのだと。それを閃いてからは無念無想で拳を繰り出す事ができるようになってきた。
右で千回、左で千回、ヘトヘトになりながら真っ暗の中、逗留している酒家に戻った。
こちらはフェイロン。シャオタオと正式に付き合い始めてから十日あまり。何もかもが新鮮で最も楽しい時である。いつもより遅いご帰還にシャオタオが心配顔で訊いてくる。
「今日はいつもより遅いわね」
「熱が入っちまってな」
「シャオタオ、二番テーブルのお客さんにお酒!」
「はーい。後でね」
シャオタオが小声で言うと仕事へ戻っていった。
フェイロンは風呂に入りいつものように素っ裸で部屋へ入る。中ではチンチロリンをしているハオユーとウンランの姿が。
「遅いな。おかえり」
「おかえりなさい」
「今日は少し指導に熱が入ってな。真っ暗になっちまった」
シャツとふんどしを着替えるフェイロン。一つ質問をする。
「なあ、俺がダーフーを鍛えているの、なにか変か」
ハオユーが身を乗り出して言う。
「変だよ。変も変!なぜそんなにダーフーにこだわるのさ」
「それはな……」
二人が答えを待ってるとフェイロンはもう夢の中だ。
「兄さん話が終わってないよ」
「は!すまんすまん。飯食わなきゃ」
「話は!」
「ああ、まだ考えがまとまってねえ、後で話すよ」
フェイロンは下に降りてゆく。
「もう」
ハオユーはベッドに横になった。
フェイロンが角煮定食を食べているとおやじさんが声をかける。
「ホアンさん聞いたね。何でも武術は一切禁止だとか。いま寺院で教えているようだけど危険はないのかね」
「あーそれに関しては大丈夫だ。ある特別な理由があって当局が動くことはないだろう。心配してくれてありがとうな、おやじさん。今常時稽古に来ているのは五十名前後だが、そんな青空教室になんか感心ないよ日本軍は。検挙するのは大物同士の会合などの時さ。したっぱなんかに興味はないだろうよ」
「いえね、ホアンさんが帰ってくるのが遅いのはそういった会合に顔を出してるんじゃないかと思ってね」
「ああそれは出たことはあるけど、遅く帰るのはもっと別な用事があるのさ」
それきりフェイロンは無口になり、角煮定食を食べる。おやじさんはそこで引き下がった。
おやじさんはフェイロンが抗日運動に参加しているのを知っている。そして愛しい一人娘のシャオタオと付き合っていることも。それ自体は喜ばしいことだ。河北の龍の武館ともなると、繁盛するであろうし、経済的に困ることも無いであろう。ふたりが結婚するのなら大いに祝福してあげようと思っている。ただ暴動に参加するなどはよして欲しいのだ。シャオタオのためにも。
難しい局面に入っているのは容易に想像がつく。
シャオタオが暇になりフェイロンといつもの橋の欄干に一緒に座る。フェイロンは考えている。どこまで話していいものやら。後一ヶ月とちょっとで暴動を起こす。それ自体はシャオタオも知っている。
「シャオタオは理解してくれるんだろう」
「暴動を起こす事はね。でも危険なことをしちゃだめよ」
フェイロンが初めて本音を漏らす。
「俺の親父はな、河南のとある食堂で日帝にいいようになぶり殺されたんだ。俺は仇を討たなきゃならねぇ」
「そう、そんな事があったの……でもここで暴動を起こすのはあまり関係ないんじゃないの?」
「俺の中では繋がってるのさ。恐らくハオユーも。だからいつもは思慮深いあいつも積極的なんだよ」
「無事に帰ってきてね。約束よ」
シャオタオが横から抱きつく。その頭をフェイロンは撫でながら約束をする。
「ああ約束だ。今度の暴動が終わったら広東辺りに逃げよう。そして新しい武館を開こう」
「新しい生活ね。私も頑張るわ!」
「シャオタオはここで女給をしてもう何年になるんだい?」
「十五の時からだから、もう六年よ。早いわぁ」
「新しい生活では、苦労はさせないよ。約束だ」
「本当?約束よ」
月光が二人の影を写し出していた。
部屋に帰るとハオユー達が待っていた。
「さっきの話の続き」
「あー、その事か。そうだなあ、拳が同じくらいの力量の者は、師匠から同じだけ突きを一万回やれとか言われているはずだ。つまり過去の自分を相手の中に見るんだよ。分かるか?」
「んーまぁなんとなく」
「……」
「もう寝てるし。兄さん話が終わって……もいいか疲れ果ててるんだろう」
「俺は今の話でなんとなく分かりましたよ。言葉には出来ないけど、つまりは拳友って事なんでしょうよ。生まれた国、育った環境、立場こそ違え、まるで朋友にも似た情がわくんじゃないんですかね」
「朋友ねぇ…まあそういう事にしとこう、おやすみ」
「おやすみなさい」
ハオユーは蝋燭の火をフッと消した。
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