ザンの行方
一方、ザンは尾行の事を知ってか知らずか狭い路地裏に入り、そこを抜けた大通りに出た。少し歩くとディンジェ (丁家) 菜館の前に立つ。身なりを整え菜館の中に消えて行った。夕方なので人でいっぱいである。
喧騒の中、手を上げる人物がいた。形意拳をまとめるリァン (梁) と、テーブルを囲んで八極拳のタン (唐)が座り、二人とも既に飲み始めていた。
右手を拳にし、左掌でつつみ礼をする。
「毎日暑いな」
挨拶を交わした後、ザンもテーブルの上におかれた湯飲みに入った酒を飲み干し、早速本題に入る。
「ここ河北一帯でも武館経営や、大会が出来なくなった。義和門の方はどうだ」
タンが尋ねる。
「同じだよ。しかし隠れて修行する場を見つけたんだ。森のようになってる、昔の寺院だ。そこであの洪拳のホアン・フェイロンを味方につけ、稽古をまかせた。これで人の口伝てにこの情報が伝われば南派の連中も、次々と味方に着いてくれるだろう」
「ホアンが?」
「ああ、一人の日本兵に惨敗し、生徒も、武館も失くしたんだ。それで俺の食客になったって訳さ。そうだ、明日にでも会わせてやろう。大会の時は恐ろしい顔をしているが、普段は笑顔を絶やさない気のいい奴さ」
ザンは道場経営もしていたが、表の顔は宝石商という変わり者だ。なので富豪とまではいかないが、かなりの金持ちなのである。
普通の宝石屋から抗日運動に参加するようになったのは五年前の兄の死がきっかけだった。運動に熱心だった兄はことある毎に暴動に参加していた。そして変わり果てた姿になって戻った時、ザンの中で何かが決壊した。以来、人が変わったように道場経営に乗りだし、運動の仲間を募った。その活動は、端から見ても痛々しいほどに必死であった。そして武館を閉められた後も地に潜り、活動を続けているのだ。
現在生徒―運動員は百五十名ほど。今日は次の運動の人数のすり合わせで集っている。
「梅花拳のクス (許)はどうした。一斉検挙から逃れたんじゃないのか」
「そういえば音沙汰がないな。びびってしまって運動もやめたんじゃないかな」
「もう故郷に戻ったのかな。人一倍運動には熱心だったんだがな」
満州事変以後,華北一帯への日本の侵略は中国民族を存亡の危機に立たせた。当時中国は深刻な国共内戦のさなか(国民党対共産党)にあったが,日本の帝国主義的侵略に対しては,日貨排斥などでは不十分とする中国共産党の指導のもとで,大衆の抗日運動の組織化 (抗日救国会 ) が行われていった。ザンやリァンやタンなど武術家達もその波に乗り、抗日救国会に名を連ねた。彼らは学生運動とは別に独自の連絡網を持ち、暴動を重ねていた。
「今夜集まってもらったのは他でもない。次の目標の特徴を話す為だ」
タンが切り出す。
「清朝末期に役場として建てられた所を日本軍が接収してからは特務機関員養成所のような場所になっているようなんだ」
「特務機関員ってなんだ?」
ザンが訊く。
「早く言えばスパイさ。」
リァンが横から口を挟む。
「ここを叩く意義は大きい。戦局をひっくり返しかねない兵士どもを一網打尽にするんだからな。その昔日帝とロシアが戦った事があったろう。その日帝の勝利にもこの特務機関員が深く関わっていたとされている」
リァンが言う。
「そこで作戦だ。一人の逃亡者も出さないように建物を人の輪で囲む。必要な人数は千人規模となろう。とにかく味方を募らなければならない。顔の広いザン、お前の仕事だ。フェイロンが運動に身を投じた事を喧伝し、南派拳の奴らも巻き込んでいくんだ。もちろん本部を叩くのは俺たちでやる。一人残らず皆殺しだ。やれるな、ザン。五百人ほどはかき集めてほしい」
「少し時間をくれればやれるだろう。梅花拳の奴らにも声をかけてみよう。ただし二ヶ月ぐらい待って欲しい。武館を閉めて散り散りになった者を引き留めることは容易な事ではないことが予想される事と、今俺の生徒に洪拳を教えているんだが、これがものになるのにそれだけの時間が必要だからだ」
「一ヶ月では無理か」
「難しいだろう」
タンが返す
「分かった二ヶ月だな。それ以上は待てないぞ」
「承知した」
ザンは二杯目の酒をぐっとあおる。
「配置についてだが……」
リァンが口を開く。
「最も人数が多いと思われる兵員宿舎は、俺たち形意拳の門弟が受け持つ。これまでに運動に参加する意思を表した者は八十人ほどだ」
「少し少ないんじゃないのか」
「だからザン、お前に頼らざるをえないんだよ。三十人人を貸してくれ。なに、俺たちは青龍刀を持って挑む。百人以上いれば全員抹殺出来るだろう」
ザンが少し考えた後、首を縦にふる。
「分かった三十人だな。約束しよう」
つぎはタンだ。
「俺たちは武器庫を占拠する。機関銃でも撃たれたらたまったもんじゃないからな。人数は五十人。少ないようだが仕方がない。八極拳はもともと回族 (ウイグル人) の拳だからな。まあ、こっちは人もあまりいないだろうし、五十人でなんとかするよ」
ザンが尋ねる。
「後百人で本部をつけばいいんだな」
するとリァンが首を振る。
「それはフェイロンの一味に任せたい。夜なので本館のほうにはほとんど人がいない筈だ。義和門には人の輪に加わって欲しい」
ザンは少し思いを巡らせていたが、やがて意を決したようだ。
「分かった。フェイロンには明日話そう。他には?」
「とりあえず人数のすり合わせができたようだ。俺は北派の連中に声をかけ、説得に乗り出す」
「俺は太極拳や八卦掌などだ。なーに、二ヶ月もあれば余裕だろう。」
「分かった。では誓いを込めて乾杯といこう」
「乾杯!」
三人はまた酒を一気に飲み干すのであった。
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