潜る



 それからフェイロン達は多忙を極めた。やめてしまった生徒も多かったが、二十人ほどは同じ洪家門のソウ(曽) 老師に預けた。また二人の高弟、リー(季)とジァン(姜)はフェイロンと行動を共にすると言ってくれた。


 生徒達の処遇もあらかた片付いて、米屋や酒屋等のツケを払ってまわり、最後に残るは武館の開け渡しだけとなった。


 三人で地主であるマー (馬)大人の元へ向かう。


 三人は応接間に通される。マー大人は猫を抱いて表れた。三人には茶が振る舞われた。


「河北一帯も武館運営が禁止されたとか。皆路頭に迷う事になった。フェイロンよ、ここはどうだね一つ、私のボディーガードをやらないかね。筆頭の扱いだ。悪いようにはしないよ」

「約束があるのです、マー大人。詳しくは言えないのですが一筋の光明を見つけました。それに賭けてみようと思っています」

「河北の勇がこのようなことになるとは残念至極だ。もっと相談してくれたまえよ」

「ありがとうございます、マー大人」


 マー大人は河北一帯で商いをしている富豪だ。武館も格安で貸してくれていた。河北での武術家の後ろだてになってきた、頼れる理解者だ。それも今日までだ。

「俺たちは独自の道を歩きます。この十年のお礼は一生忘れません」

 フェイロンが頭を下げる。


「そうか、明日への光明があるのか。ならば止めはしない。一層の活躍を祈っているよ」

「長い間お世話になりました」

 三人が一斉に頭を下げる。


 これにて挨拶をするところすべてを回った。武館に戻り一息つく。

「長かったな、一月かかってしまったな。これから厳しい道が待っている。みんな良くついてきてくれた。感謝する」

 フェイロンが頭を下げると、拍手が起きる。

「さあ、明日から新しい船出だ。必要最小限の荷物にまとめて行くんだ」

 リーとジァンは家が近いこともあって、通いで来ている。

「それでは俺たちはこのへんで」

「ありがとう。ゆっくりと休むんだぞ」

「はい」


「じゃあ俺たちも出立するか」

「おー!」

 天真爛漫なウンランが、笑いながら拳を突き上げる。武館を閉めるといってもさほど悲痛な雰囲気ではない。むしろ新天地での新しい暮らしに希望を見いだしていたのだ。



 さかのぼること三週間ほど……


 梅花拳の取り締まりに義和門のザンも混じっていたのだが、当局はすんでのところで逃がしてしまっていた。あの日、皆は帰したのであるが、特務機関員を一人だけ残しておいたのだ。それが当たった。酒場へ向かう一行の中にザンとおぼしき者がいたというではないか。


 特務の男はしばし泳がせ、ついにザンの邸宅をつきとめた。しかしそこが本部ではないらしい。そこで会議が開かれた。


 会議室に集った者は十名ほど。階級も様々な面々が出そろった。主に少尉や中尉である。そこに和田大尉がやってきた。


「起立、礼、着席!」


 ピンと空気が張り詰めている。和田は一番の上席に座った。


「まずは一人ずつ活動報告をしたまえ」

「は!まずは私から。活動家のヤン (揚) の潜伏先をついに見つけたところであります。これから検挙に行くところであります!」

 世田中尉が活動報告をする。空気は冷えたままだ。

「次、八代」

「は!同じく活動家のザォ (趙)の動きを調査しているところであります。まだ尾行には気付かれていない様子。結果は追って報告いたします!」

「次、中田……」


 与儀はこれから起きるであろう抗日運動のなかでも一番大きな案件を任されている。


「次、与儀」

「は! 昨今一斉に検挙した梅花門の集会から後一歩のところで取り逃がしたザン・ポーウェンの住みかを見つけました。これから芋づる式に主だった人物の動静を探る所存であります!」

「ご苦労」

 全ての活動報告が終わると、和田はやおら立ち上がり口を開いた。

「今手が開いている谷口と山崎は与儀の下につくように。六合拳や白鶴拳、八極拳なども怪しい動きをしている様子。主だった人間が集まったところで一斉に検挙に乗り出す。分かったな」

「は!」


 全ての指示を出したところで和田が与儀に迫る。

「ところで与儀よ」

「はい!」

「行くあてのなかった沖縄出身の二等国民であったお前をここまで引き上げてやったのは誰だ?」

「は!和田大尉であります!」

 場内から少しだけ嘲笑が起きる。

 与儀は見えないように、テーブルの下で拳を握る。


「分かっているならよろしい。今回は特別な任務だ。失敗は許されない。上手くやれるな」

「は!万全を期して。私が自ら野に下り調査に乗り出す所存であります!」

「期待してるぞ」

「は!」


 拳は握りしめられたままだった。



 最小限の着替えを持ち、郊外にある「泰定酒家」という居酒屋兼宿屋に案内された。ザンによるとなんでもここの主人がフェイロンの拳が大好きで、武術大会ともなると列車を乗り継いでまで見に行くとか。


 小さな引き戸から中に入ると案外広い。中にはすでに三人の客が昼間から飲んでいる。


「着いたかね。私の名前はワン (王) 言うね。よろしくね。これからはここを我が家と思って自由に使ってくれたらいいね。食費も宿代も無料ね。まずは腹がへったであろうから丸鶏の唐揚げでも食べるといいね。その間にシャオタオ (小桃) がお部屋に案内するね」


 どこの出身だろうか、独特の訛りがある主人だ。


 いつの間にかシャオタオと呼ばれた女の子が横に立っていた。化粧けのない顔にお下げ髪。大きく開いた目と対称的なおちょぼ口。年は二十歳くらいか、にこにこしながらこちらを見ている。三人の鼻の下が伸びる。


「こちらへどうぞ」

 可愛い声で二階へと上がる。そのお尻をついていくと一番すみの部屋へと通された。二人部屋だったが真ん中には絨毯の上に布団だけが敷かれていた。聞けばベッドが三つは入らないと言う。


「俺ここ」

 フェイロンが右のベッドを取るとハオユーがおもむろに左のベッドに寝転ぶ。

「床の上と言っても敷き布団は二枚重ねですし、寝心地はあまり変わりませんわ」


 ウンランがのろのろと布団に倒れ込む。

「ま、こうなるわな」

 等とぶつくさ言っている。


 これで衣食住の心配はなくなった。

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