血の記憶
ここは河南の地、随州市のとある菜館。テーブルに父親と見られる壮年の男と十歳と八歳の二人の男の子が野菜の炒め物に舌鼓を打っていた。
父親がぼそりと言う。
「本当は母さんもこの旅に同行していたはずなんだが……病には勝てなかったな」
上の子どもフェイロンが答える。
「もうそんな事なら心配しなくてもいいよ。父さん。俺たちは大丈夫だから。なあハオユー」
ハオユーと呼ばれた下の子どもは難しい顔をして座っている。
「神様は好ましい者を先に自分の元へ招き寄せると言う。母さんの死は宿命だったんだよ」
優しく諭してもハオユーには、まだ一年前の母親の死がすんなりとは受け止められないでいる。
「父さんには分からないよ。僕の気持ちなんか」
フェイロンがハオユーの頭を軽く抱きしめると、溜めたものが決壊したのか、声を殺して泣き始めた。
父親はただ黙って我が子を見つめるしかなかった。
質素な食事も終わり勘定を済ませようとすると、なにやら賑やかな者たちが我が物顔でぞろぞろと店に入ってきた。
大日本帝国陸軍の者達である。早くも酒が入っているらしい。どたばたとやけに騒々しい。
その中の一人が叫ぶ。
「まずは酒だ。それからありったけの料理を持ってこい!」
テーブルを二つ占拠し、周りに睨みをきかせている。
女給が酒の入った大きめの壺を持って行くと、その袖口を握り離さない。
「酌をしろよ。酌! それとも何か?俺たちが怖くていてもたってもいられないってか」
男たちは大笑いして囃し立てる。女給は涙目で辺りを見回す。店の親父さんも厨房から引っ張り出され幹部と思われる者に言われる。
「代金はツケだ。分かってんだろうなぁ」
ツケとはこの場合払わない事を意味する。フェイロンの父親は肩を奮わせている。だが怒りに任せて出て行く訳にはいかない。もしもの場合二人のおさなごに危害が及ぶ恐れがあるからだ。
するとその時なんとハオユーが立ち上がり、日本軍に向かっていったではないか!
「弱い者いじめは許さないぞ!」
まだ習いたての武術で女給を掴んでいる男の太腿に蹴りをいれる。
「武術は使ってはならない。使っていいのは弱い者いじめを懲らしめる時だけだ」
いつも言って聞かせていることがあだとなった。他の日本兵がハオユーの首根っこをひっ捕まえ思い切り蹴り飛ばす。ハオユーは恐怖で泣き出すものの日本兵は離さない。
それを見たフェイロンがハオユーの救出に向かう。ハオユーを掴んでいる男の顔に右分脚を食らわす。しかし悲しいかなそこは大人と子供である。フェイロンも首根っこを掴まれ捕まってしまった。
ついにフェイロンの父親が立ち上がった。そして男が掴んでいる袖口を強引に引き剥がし女給を逃がしてやった。そのまま左手を後ろに極めポンと離すと後ろ向きにガッシャーンと倒れた。
「な、なにしやがる!」
酔っ払っていてもそこは軍人だ。三人ほどが立ち上がり、柔道の構えをとる。
「子供達を離せ!」
すると父親は右手だけを構え、相手が襟首を取ってくるのを難なく弾き返す。業を煮やした男が蹴りを放つと腕を螺旋状に回して相手をぶっ飛ばした。
そこからは父親の独壇場であった。四、五人でひっ捕らえようと集団で襲いかかっても、するりするりとかわし捕らえどころがない。逆に頭部へ飛脚鐘をお見舞いする。
素早い体術に正確な蹴り。かなりの使い手である。日本兵は一人、また一人と次々にぶっ倒されていく。
そこへ「パンッ!」と乾いた音が鳴る。
後ろに控えていた男が拳銃を撃ったのだ。どうっと転がる父親。
「うぬー!」
父親はテーブルに手をかけ立ち上がる。そこへ軍人達が群がり殴る蹴るとやりたい放題だ。
一発殴られてはふらふら他の軍人の所へ行き、そこでまた殴られてはふらふらするの繰り返し。軍人達はヘラヘラと嘲笑さえしている。
ふたたび「どうっ!」っと倒れる父親。もう立ち上がる気力もない。
「そ、その男は我々の戯れに暴力を持って抗った。暴力には暴力を持って対抗しなければならない!」
父親は伏せたまま、睨みをきかせている。
「文句があるなら大日本帝国関東軍まで直に申し出るように!」
日本軍は逃げるように全員その場を後にした。
「父さーん!」
倒れていた父親にフェイロンとハオユーがすがり付く。
父親は立つことすらかなわなかった。すると
「この中には二つの玉が入っている。一つは翡翠の玉だ。これをフェイロン、お前に託す。龍の如く飛び回る男になれ。もう一つは水晶の玉だ。これはハオユー、お前にだ。何でも見通す聡明な男になるんだ」
二人の男の子はその玉をそれぞれ手に取った。
二人はわんわん泣きながらだんだん弱っていく父親に「父さーん、父さーん」とすがり付く事しかできなかった。
「俺はもう駄目なようだ。出血がひどい。フェイロン、ハオユーの事は頼んだぞ……」
時は来た。床が血で真っ赤に染まっている。父親は二人の息子の頭を最後まで撫でていたが、力尽き、手がぶらんと床に落ちた。
「父さーん!」
二人の叫びはもう父親には届かなかった。
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