俺五時間後死ぬから

自由落下

俺五時間後死ぬから

「俺五時間後死ぬから」


 吐き気がするような暑さだった。


 立っているだけで、汗が滝のように流れて、唇を舐めるとしょっぱいのが気持ち悪い。一日中ワイシャツが背中に張り付くから、すでに脳みそはワイシャツを体の一部として扱っているようだ。この暑さではずっと座っているというのも肌と布が蒸れてうんざりする。ジィジィ鳴く蝉の鳴き声は耳障りでいけない。風情の欠けらも無い。

 早く冬来ないかなと思わせる、例年通りの猛暑日、トウタはマサオミに宣言した。

 生ぬるい風が二人の間をすり抜ける。トウタの後ろののぺったりした青空には、入道雲が寂として君臨していた。

 へぇーと生返事を返したマサオミはトウタの方をちらりとも見ようとしない。興味がないのが見え見えだ。


「......何でか聞かないの」

「じゃあ、なんで?」

「心がこもってないなぁ」

「めっちゃこもってる。すっげー興味ある」

「にしてはスマホいじったままだよね」


 夏休みとはいえ、特に運動部では完全な休みでない生徒は多い。毎朝早くに登校し、日が傾くまでグラウンドを駆け回る。そんな中でさも、今休憩中なんです〜と言いたげな顔をしておけば、この日陰ができる校舎裏はマサオミにとって格好のサボりスポットだった。

 マサオミはスマホを尻ポケットにしまうと、冷たいとは言い難いコンクリートに寝そべった。まぁ彼は基本的にこんな感じなので、呆れ半分で構わず続ける。


「自殺するんだ」

「おう」

「五時間後」

「おう」

「今日はそれだけ言いに来た」

「おう」

「部活に顔は出さない」

「おう」

「だけどマサオミにだけは、言っておこうと思ってさ」

「おう」

「......マサオミ、好きな食べ物は?」

「おう」

「......」

「おう」


 次第にげんなりするほどの蝉の鳴き声が戻ってきた。

 トウタの告白を冗談とでも思っているのだろうか。いつも冷静沈着な彼の慌てふためく姿が見れるかと、少しばかり期待していたのに、相変わらず人の話を聞かないやつだ。トウタのこれはまったくの無駄足だったと言える。わざわざ長い道のりをマサオミの為に苦労しながら来たのに、なんだか息巻いていた数分前までの自分が馬鹿らしく思えてきた。

 けれど、そうは言っても、自分はきっと、マサオミに止められても自殺を断行していただろう。親友の一言で決意が揺らぐのだったら、死ぬのは止めたほうがいい。そんなちゃちな決心は存在しないのと同じだ。

 ──とにかく、したかったことはした。

 トウタが校舎裏を後にしようとすると、やっとマサオミがハッキリ声を出した。寝そべりながら。


「お前この後予定は」

「......死ぬ」

「そうじゃねえよ、死ぬまで五時間あるんだろ。それまで何すんだよ」

「特に決めてないけど......」


 それを聞くとマサオミは、さっきまでの気だるさが嘘のようにすっと立ち上がった。サッカー部の青いユニフォームが波みたいに眩しく揺れた。


「──ンじゃまぁ、どっか行くか」


■□■□


 平日の昼。駅のホームは少し寂しげだ。けれど屋根のおかげで日差しからは逃れられるし、これであと肌にまとわりつく重くて蒸し暑い空気がなければなかなか快適だ。


 曰く、『死ぬまでにやりたいこと』をあと四時間三十分でこなすらしい。

 ここで弁明しておくと、別にトウタに『死ぬまでにやりたいこと』など無い。そういうのは生きたくても生きられない人がするものであり、生きられるけど生きたくないトウタには当てはまらない。それにそんなの並べてもほとんど叶わないだろう。叶うのは物語の中だけだ。

 しかしやはり、本人が『無い』と言っているのに、マサオミは話を聞かなかった。どころかトウタを無理矢理連れ出した。

 二人で出かけるのは久しぶりだ。なんだかんだ一年の頃からずっと一緒にいるし、特別趣味が合う訳ではないがウマは合う。だから打ち明けるのは、マサオミしかいないと思っていた。家族のように親密過ぎず、他人のように無関心過ぎない彼しか。

 そしてその張本人は現在、喉が渇いたと言って買いに走っていった。さすがにユニフォームは着替えて制服になっている。


「お友達とお出かけですか?」


 にこにこ話しかけてきたのは駅員の男だった。興味があるわけではないが、仕事の一環として聞いてみた、といったところだろう。「あ、まあ、そんな感じです」と適当に答える。死ぬ前にしたいことをしに行く、なんて当然言える訳がない。


「いいですねぇ。僕ももっと楽しんでおけばよかったな、若い頃はなんだって自由にできる」


 一瞬息が詰まった。駅員の言葉は、トウタの胸にザクッと刺さった。けれどそんなに痛くはない。もうぽっかりと暗い穴が空いている場所に貫通したに過ぎなかったからだ。

 そうだろうか。子どもは自由だろうか。けれど子どもからすれば、大人の方が自由に見える。

 大人は自分で稼いで好きなものを食べて好きなものを買う。けれど未成年は基本、家や学校や青少年保護がなんたらの不自由の中で生きているものだ。夢ややりたいことは溢れてるけど、気づいたらレールから外れられなくなっている。だってみんな外れてないから。

 けれど、自由にしようと思えばもしかしたらそれは案外簡単なことかもしれない。みんながそうしないのは多分、自由と責任が仲良しだと知っているからだ。それでも自由でいたいというのなら、必要なことは一歩踏み出すことだけで、自分はもう死という手段でしか踏み出せない。あ、刺さったところ、ちょっと痛いかも。

 マサオミが帰ってきて、トウタの思考は中断された。

 電車の中は汗臭いが、やっとクーラーにありつけた喜びの前ではささいなことで、二人はしばらく巻物のように流れていく景色を黙って眺めた。



「......なあ、どこ行くんだよ」


 五つ目の駅に到着したところでトウタが尋ねた。


「俺まだどこに行くか聞いてないんだけど」

「どこって、死ぬまでに行きたいところ」

「だから俺には無いって」

「俺にはある」

「なんで今お前のを聞かなきゃ行けないんだよ!」

「なら、ついてこなければよかっただろ」

「そうやって人の揚げ足とってくるやつは一生モテないからな。ていうか無理矢理連れてきたのはマサオミだろ」

「俺はお前がボケるからツッコんでやってるだけだ」

「突っ込んでるの俺だから!」

「着いた。降りる」

「話を聞け!」


 勝手なマサオミになす術無く、気づいた時には改札を抜けていた。

 平日といえども夏休み、それも大きな駅は真昼間、学生や家族連れや会社勤めと人間でひしめき合い、喧騒は一種の音楽だった。人混みをすり抜け駅を出ると、マサオミはすぐそこに出来ていた列に並んだ。

 すごい列だ。ゴールどころか全貌も分からない、まさに長蛇というにふさわしい。特徴はとにかく長いことと、女性ばかりということだろうか。その列に臆することなく並ぶマサオミを見上げトウタは聞く。


「これなんの列?」

「......」

「おーい」

「チッ」

「え、そんなに答えるのめんどくさい?」

「見れば分かるだろ」

「分かんないから聞いてんの」

「チッ......タピオカ」

「......は?」

 

 トウタは自分を落ち着けようと思い辺りを見渡して、深呼吸をした。それからマサオミの言葉を噛み砕こうと努力してからもう一度言った。


「は?」

「タピオカ」

「いや、は? お前飲みたいの? その前にこの列攻略すんの?」

「おう」

「何考えてんだよ。今夏だぞ? 猛暑日だぞ? 炎天下だぞ?」

「おう」

「そこまでする価値あるかよ飲み物ひとつに」

「おう」

「正気ですかマサオミさん? やばいって死ぬってマジで」

「けど興味が無いと言えば嘘になる」

「うぐっ」

「おいしそうだなと思ったことが一度もない訳では無い」

「うぅ......」

「死ぬまでに一回はたぴっとかないとな」

「たぴって何だよたぴって」


 脳みそを透視されトウタは心底悔しくてマサオミをじとっと睨んだが、彼は素知らぬ顔を続けた。どのみち主導権は彼にあって、そもそも自分で会いに行かなければこんなことにはならなかったのだ。これは自分でまいた種だから自分が悪い──いや自殺志願者を連れ回す方が悪くないだろうか。なんて考えがぽんぽん浮かんできたが、結局巻き込んでいるのはトウタ自身なので文句は言えない。多分。

 トウタがぼそっと「お前の奢りな」と言うと、マサオミはおうと返事をした。最初からそのつもりだったのだ。



 カップの汗を手に感じながら、普通の何倍も太いストローをくわえて吸い込む。すると冷たいミルクのこくと砂糖の甘みが口いっぱいに広がり、遅れて紅茶の小洒落た香りが鼻を抜けた。これだけではただのミルクティーなので、ストローでお目当てのものを探り当てる。口の中で逃げるのをつかまえてもきゅもきゅ噛んだ。嗚呼、タピオカって──


「「......微妙だ」」


 二人の声が重なった。


「もっと味あるかと思ってたのに。黒豆みたいにさ」

「隣のソフトクリーム買えば良かった」

「だな。ていうか普通のミルクティーじゃ駄目なのかな」

「忘れてた。俺紅茶無理だ」

「お前なあ......」


 育ち盛りの男子高校生というのは常に腹を空かせているもので、流行りの高いものより安くて大量に食べられる油っこいラーメンなんかの方が向いているものである。けれど食べているうちにもきゅもきゅした不思議な食感がだんだん楽しくなってきて、二人はストローで黙々とタピオカを追った。

 マサオミはまだ行きたいところがあるようで、トウタにまたも目的地を告げずバスに乗り込んだ。トウタも連れられるがままになる。混みあった車内に耐えた末、たどり着いたのは水族館だった。

 何が悲しくて男二人で水族館なのかはさておき、周りは子ども連れとカップルだらけで、マサオミ達は結構浮いていた。四方から注がれる視線の痛さも相まって、トウタは正直今すぐここを出たかった。


「マサオミ、ここやめよう」

「行く」

「無理だよ。しんどいからホントに」

「もうチケット買った」

「......お前はなんでそう俺の話を聞かないんだ」


 嫌がるトウタをまず迎えたのはクラゲの水槽だった。

 クラゲと一言に言ってもいろいろで、大きい小さいだけでなく、さまざまな色や形やレースのような触手で観客の目を楽しませてくれる。七色にライトアップされた彼らが、照明のしぼられた館内にぽうっと浮かび上がる光景は幻想的──

 なのだろう。

 というのも、現在小さな水槽の正面は、途切れることの無いちびっ子の行列で占領されていた。子どもたちは興味津々で水槽に手を伸ばしたりどんどん叩いたりしている。ため、ここからはよく見えない。トウタの気分はさらに盛り下がった。マサオミはというと、その行列をかき分けるのは気が引けてしまい、かといっていつまでも待っているのもイライラしてくるので、早々に次に行った。無駄を嫌うこいつらしいなとぼんやり思っていると、急に開けたフロアに出た。


「あ」


 ペンギンの水槽だ。

 クラゲと同じように混み合っていたが、水槽は大きいので一番前で見ることができた。

 二十羽はいるであろう彼らは思いおもいに過ごしている。プールに飛び込む者、毛づくろいをする者、喧嘩をする者。特に泳ぎ回るやつは楽しそうだ。小さな体を魚雷みたいにびゅんと尖らせて、水をかき分けぐんぐん泳ぐ。疲れたら水面にプカプカ浮いて、またぐんぐん泳ぐ。そして岩場に戻って体の水を切ると、寝起きみたいに毛がボサボサになるのだ。

 飛べない鳥。なんて言われるが、それは違う。彼らも自由に飛び回っている。それが大空か、大海原かだけの違いだ。瑠璃色、水色、エメラルド、銀。一時足りとも同じ輝きを見せない波に白い泡を立てて泳ぐ彼らは、紛れもなく鳥だった。

 トウタはその姿から、しばらく目が離せなかった。


 その次はカワウソにえさをやった。


「やばい。かわいい。連れて帰りたい」

「半端ねえ。一家に一匹の時代だわ」

「うわ今絶対目が合った!」

「ラスカルよりカワウソ派」

「わかる」


 水槽の低い位置に人間の指が二三本通るほどの穴が空いていて、そこからカワウソは大好物のワカサギ目当てに愛くるしく手を伸ばしてくる。短くてちょっぴり太めの指がそのまま客のハートを鷲掴みにするのだ。これでもかというほど二人はデレまくり、三回えさをおかわりした。

 カワウソの次は大水槽でイワシの回遊を見て、寿司が食べたいというマサオミをなだめ、でっかいサメを満足行くまでながめたらふれあいコーナーでナマコを触った。マサオミが。


「マサオミ、ナマコ」

「先生はナマコじゃありませーん」

「先生ナマコ触ってー」

「は? ふっざけんな無理」

「いいからいいから」

「いやなにもよくねえよ。つかお前が触れ」

「俺無理だって。ほら早く」

「無理だって無理無理無理無理!」

「マーサオミ! マーサオミ! マーサオミ!」

「──だー! うっぜえな!」

「あははっ。頑張れー」

「もっと心の底から応援しやがれ。うわっ! ヌメヌメしてるし、ブヨブヨって、動くんじゃねえよコノヤロ!!」

「はははは!」

「てめぇ後で覚えてろよ......」

「はいはい。あ、俺トイレ行きたい」

「ん」


 なんだかんだめいいっぱい楽しんでそこを後にした頃には、薄暮の時間になっていた。

 駅までの、海沿いの道を二人は辿る。人通りもあまりなく、寄せては返す波の音が泣きたくなるほどやさしくきこえた。この道が遠回りだということをトウタは知っていたが、何も言わなかった。

 それよりも不思議だ。全然暑くないのだ。気温も湿度もさほど変化がないはずなのに、背中に張り付くワイシャツも変わらないのに、暑くない。いや。正確には暑さは感じるけれど、全然平気だ。むしろ今は、あの騒音に等しい蝉の声が聞きたい。砂と汗にまみれて、グラウンドを駆け回りたい。マサオミとまた、サッカーがしたい。

 海に目をやるとちょうど日が沈むところだった。水平線はじりじりオレンジ色に焦がされ、空だけでなくだだっぴろい海までもが夕焼けに染め上げられていた。眩しすぎる光が届かない、空の高いところは薄紫で、静かな夜の気配が感ぜられる。


「マサオミ。砂浜降りよう」

「は? 無理だろ」

「いけるって」

「本当に大丈夫か?」

「知らない」

「お前なぁ」

「いいからいいから。壊れてもマサオミがおんぶしてくれるだろ?」

「ゼッテーしねえ。──やっぱダメだ。砂にタイヤ取られて動けなくなる」

「えー、ケチ」

「なんとでも言え」

「じゃあせめてここからでもさ。海見たい」

「......ん。停まるぞ」


 マサオミはトウタの車椅子をゆっくり停止させ、海の方へ方向転換した。タイミングをみてトウタがサイドブレーキをかける。

 穏やかな波だった。夕陽を反射してきらきら輝いてる光景は、まるで海の底にダイヤモンドが沈んでいるようだ。潮の匂いを感じて、海に来るのは久しぶりだったことにトウタは気づいた。


「あとどれくらいだ」


 不意にマサオミが尋ねた。


「なにが?」

「自殺」

「あぁ、んー。三十分」

「へぇ」

「......」

「......」


 この男は一体どこで車椅子の扱いを覚えたのだろう。電車に乗る時も、バスに乗る時も、トイレの時もそうだ。トウタが何も言わなくても彼はテキパキ動くし、スロープを降りる時も緊張した様子は無かった。

 二ヶ月前に事故に遭って、車椅子になって、それまで学校ではいつも一緒にいたトウタとマサオミは、実は今日会うまでなんとなく疎遠だった。

高一の頃マサオミをサッカー部に誘ったのはトウタで、それがトウタの方がサッカーを続けられなくなって、決まりが悪かったのもある。でもそれ以上に、トウタはマサオミが怖かった。こんなことになって一体彼になんて言われるのか。どんな顔で見られるのか。たとえいつも通り接してくれたとしても、そこにはどこか遠慮が見え隠れして、前と同じには戻れない。そんな根拠のない確信だけがトウタを支配して、実際は二人の間に距離ができたのではなく、トウタが逃げていただけだった。


「ペンギン」


 トウタがぽろりと零した。海の方を向いたままだった。白い頬を夕焼けが濡らしている。


「ペンギン。すごく自由だった」

「おう」

「みんな自由に泳いで、自由に生きてた。カワウソも、イワシも、ナマコだって、みんな自由だった。──でも結局、水槽の内側だ。ぜんぶ。アイツらは水槽の中で一生を過ごして一生を終える。いくら泳いでもガラスにぶつかる海で。それって、不自由となにひとつ変わらない」


「俺にはもう両足が無いから、自由なんて無い。サッカーも出来ないし、学校に行くのだって一苦労だし、人混み入れば遠巻きに見られてヒソヒソ噂される。今日だって、駅員さんはいらない気を遣ってくるし、少しの人混みで水槽は見えなくなるし、プールが深くてナマコまで手が届かない」


「これが一生続くのかって思うと、心臓が震える。......耐えられないんだ。こんな風に周りに迷惑をかけて不自由に生き続けるくらいなら、死を選ぼうと思った」


 重い沈黙が落ちた。永遠に続く波の音に今はただ感謝した。これがなかったら、トウタは多分、無い足で逃げ出していただろう。こんなこと、誰にも言うつもりはなかったのだ。マサオミにだって。

 マサオミはずっと黙ったままだったが、しばらくすると車椅子のブレーキを確認してから隣に座り込んだ。そういえば彼は今日一日立ちっぱなしだった。


「俺は顔に出づらい」

「は?」


 何を言い出すかと思えば、そんなこと今更だ。一年以上も一緒にいれば分かる。


「顔に出づらいから、お前は気づいてないかもしれないけどな、俺お前が自殺するって言ってきた時からブチギレてるんだわ」

「え......」


 トウタはやっとマサオミの顔を見た。その表情はいつもと同じの、無愛想なままだ。



 ......自由なことだけが、幸せじゃあないだろ。



 波より静かに彼が言う。トウタだけに届く、小さな声。けれどそれははっきりとした意志を持って、トウタの心臓をノックした。


「お前は、少なくとも俺よりは何も解ってない。不自由は裏を返せば守ってもらってるってことだ。それは悪いことじゃなくて、人はひとりじゃ生きていけないから、守り守られ、不自由を作って、助け合って生きてる。自由と独りは似てる」


「確かに水槽の中で過ごすことは不自由かもしれない。けど遠くを見すぎだ。少しピントを調節するだけで、世界は足元から広がってる。不自由の中にも自由はある」


「自分は不自由だ?違うな。不自由なのはお前の心だ。足が無いからって全部諦めて、遠くしか見ないお前の心だ」


「ペンギンは鳥の癖に飛べない。正直足も遅い。けどそれは陸地での話だ。お前も見ただろ、アイツらが水ん中ビュンビュン泳ぐの。どこまでも自由に。それと同じなんだ。お前も別の場所で、飛べる」


「心さえ自由なら、お前はどこまでも行ける」


 トウタの中で、何かが込み上げてきた。込み上げてきたものが、喉に詰まって、上手く息が出来なかった。意味のある言葉も吐き出せなかった。どうにか言葉にしようとしても、喉から漏れるのは潰れた嗚咽だけで、それだけだった。

 言いたいことがたくさんあった。バカとか、説教くさいとか、お前に言われても響かないとか、どうして連れ回したんだとか、お前に何が解るんだとか、バカとかアホとか、うるせえとか。

 それでもやっぱり言葉にならない。行き場のない思いはトウタの目から零れていく。零れて、膝にかかったブランケットを濡らす。腕でごしごし乱暴に擦っても止まるわけがなかった。あぁ、ワイシャツが汗と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってしまった。これは、家に帰って洗わなくちゃいけない。

 帰るかとマサオミが言い、車椅子が動き出す。

 あんなに眩しかった太陽は既に沈みきっていた。欠けた月だけがぼうっと提灯みたいに淡く光っている。夜の海は寒い。どこかで種類の判らない鳥の声がした。

 車椅子を押す彼は、今どんな顔をしているだろう。笑顔か、それともやっぱり口をへの字に曲げているかしら。

 想像して、トウタがふふっと笑うと、マサオミが何だよと返した。


「なんでもない」


 鳥の声が、遠ざかっていく。

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