第5話 由来
1
公開予定を三回延ばし、とうとう下書きに戻した。するとオモシロイもので書く気が減退するようだ。もちろん誰にも言わないつもりだったのに彼にはぽろっと言ってしまった。たぶん気持ちの底にはやはり誰かに読んでほしい。誰かなら彼しかいないという思いがあったのだろう。いつか彼のことを書く日は来るかもしれない。
さっと読み返すと「男性遍歴」に陥りそうな感じでおっとアブナイ。それはそれで面白いかもしれないしこれからも書くだろうけれどそこに集中するつもりはないのである。それでは何が書きたいのかというとたぶん「なんちゃって自伝」自伝というのはおこがましい。それに近いものかな。
泣きながらタクシーで帰ってきた話、その前につきあっていた道端詩人のこと、
コピーライターとの初体験、15歳で失恋した思い出、とさかのぼってきた。
15歳より前、わたしはどういうこどもだったのだろう。
2
わたしはひとことでいうと「変わった子」だった。そう自覚するのはだいぶ大きくなってからだったが・・・。小さいころは泣き虫で幼稚園に行くのがイヤだった。無理やり連れて行かれて泣いて、ずっと先生にくっついていた。傘を閉じることができなくて必ず母親にやってもらった。だから雨の日は嫌いだったかというとそうでもない。みんなは普通にじぶんで傘を閉じる。わたしは母がやってくれる。
すこしだけ嬉しかった。閉じた傘とわたしを置いて母が去っていくのを幼稚園の玄関に立ってずっと見ていた。
泣き虫でおもらしまでする早生まれのわたしをずっと面倒見てくれていたのは八百屋の娘と高橋先生である。卒園して時が経ち生家を二世帯にした頃、母が「高橋先生が入院している」という情報を入手して見舞いに行くことにした。病室に入りわたしの5歳の息子が誰よりも先にベッドわきに行ってしまった。そのとき「S
ちゃん?」と先生がわたしの名を呼んで驚いた。わたしが顔を出す前に息子の顔で気がついたらしい。「そっくりだから」と微笑まれた。30年もの時が経っていたのにさんざん面倒をかけたわたしのことは忘れられなかったようだ。有難い。
八百屋の娘はシッカリ者でとことんやさしくてこれもまた有難い存在だった。
長じて母とバスに乗ってその八百屋の前を通るたび「あんたはここの娘にいつも世話して貰ったんだよ」と必ず母に言われた。
3
「内弁慶」といつも言われていた。集団生活は苦手だったけれど家に帰ると元気で兄や近所のこどもたちと走り回って遊んでいた。三歳上の兄にくっついていれば安心だった。父の家は浜松町にあり煙草屋もやっていた。そこから父は両親と妻子を連れて武蔵野へと引っ越してきた。わたしは武蔵野で生まれた。祖父も祖母もわたしの記憶では「こわいひと」だった。祖父は病で伏せていることが多く不機嫌。
祖母にもやさしくされた記憶はない。おやつをくれる時はいつも兄に多く分けられたし何事もわたしは後回しにされたような覚えがある。もちろん一緒に写っている写真もない。古いアルバムに小さなわたしが縁側で一人蜜柑を食べている写真がある。ただ黙々と食べているようである。
いつもアルバムを開くと仏頂面のじぶんがいる。「笑って」と言われれば余計に笑えない。その分兄がサービス精神全開で大きく笑顔。
介護が必要になった頃、母は当時の幼い兄妹の白黒写真を見つけてふすまに貼っていた。三枚くらいあった。記憶が混乱するとき人はそうやって過去を確かめるのだろうか。それらは家を壊すときに剥がして引越し荷物の中にしまった。
4
母の思い出といえば海苔巻きである。かんぴょうは入っていない。醤油味の鰹節が入っている。わたしと兄のおやつになったこともある。遊びに行きたいわたしたちはその長いままの細い海苔巻きを手にして外へ出て行った。みんなが「いいなー」と言っていた。「いいなー」は中学生になってからもあった。母が作ってくれるお弁当には一口大に切ったその海苔巻きがぎっしり埋まっていることが多かった。何しろ我が家は貧しかったのである。そのお弁当を恥ずかしいと思っていたのにある日男子にそれを食べさせてほしいと言われた。いつも羨ましいと思っていたという。弁当を交換してくれといわれてビックリした。
べつに普段から仲がよかったわけでもない。わたしと同じように大人しい目立たない生徒だった。わたしはじぶんの海苔巻き弁当を全部彼にあげて相手の弁当を半分くらい貰ったのだろうか。あまり覚えていない。周りはからかうでもない小さな笑いがあった気がする。
5
幼稚園のときによい先生に出会えたようにその後、小学生、中学生になっても
教諭との出会いは大きかったと思う。ただ、小学校一年のときは最悪だった。その男性教諭はぐずぐずでぼんやりしたわたしが気に入らなかったのだろう。嫌な思い出がありどこかに書いたし母親も言っていたのだが、うまいことに詳細は忘れてしまった。嫌なことはさっさと忘れたほうがいい。それがうまくいったらしい。
ただひとつ、名前のことは忘れられない。例えば「沙穂利」という名前だったとする。「さおり」と読ませるのが一般的だとしてもその子は「さほり」だとする。
小学生だからひらがなで書く。「さほり」と自分の名前を書く。すると担任は赤字で大きく×をつけて「さおり」と訂正する。
ほとんど喋らない7歳のわたしは抗議ができず記名する必要があるところには繰り返しじぶんの本名を書き、繰り返し大きな×をつけられた。国語は得意で好きだったのにそのことがあまりに悲しかった。
ちょっと変わった名前をつけた親も恨めしく、そのうちわたしは×がつけられない名前でいいや、と思うようになった。そのまま読める名前で通したほうがラクなのだ。そうしてわたしはそのまま大きくなった。名前にフリガナをつける時今でもすこし不思議な気がする。本名は違う、これは通り名だから、と親しくなった人には打ち明ける。
この聖書からとったという名前を好きになったのはすっかり大人になってからだ。つけてくれた父はもうこの世にいない。
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