第2話


 差し込む光が瞼を越して目を刺激し、灰藁は目を覚ました。

 何故だか気分が良かった。

「熟睡のち日光に目を覚ました、ということは、生物にとって最も良好な状況で朝を迎えた、ということ……なるほど、今まで長く逃走生活してきたからな。こんな朝は久しい」

 考えてみれば、研究を続けていた時の生活も至って健康的であるとも言えなかった。暗い部屋の隅で、ずっと研究を続けていたため、大抵の場合は寝落ちし、閉め切った部屋の中で昼夜も分からぬ状態で目が覚める。あるのは蛍光灯ばかりで、それが昼夜を決めていた。

「ふむ、まずは家主……ビティム?の所へ行くか」

 灰藁は何事もない朝の一時に至福を感じたりはしない。そういった人間らしい幸せを持ち合わせてはいなかった。脱いで畳んでいた白衣を着ると、さっさと部屋から出て行ってしまった。

 下の階に行くと、ビティムが朝食を作っている最中だった。

「ああ灰藁、おはよう。よく眠れたかい?」

「お陰さんでな……」

 灰藁が眠った部屋は、元々はビティムが結婚後のことを考えて建てる時に追加した部屋だった。ベッドもその時に購入したものだが、灰藁が来るまでの八年間、使われることはなかった。しかしビティムは掃除を続けていたので、別に汚くはなかった。

「美味そうな匂いがするが、それは何だ?」

 キッチン越しにフライパンを覗いて灰藁が言う。中には、真っ赤な鶏肉のような塊が弾ける油を纏って入っていた。

「これはサン菜の果肉さ」

「果肉?やたらとベーコンに近い匂いがするな」

「あんたは俺の知らないものを色々と知ってるんだな、博識だ」

 ビティムは歯を見せて笑う。昨晩は茶色のローブに装飾品をごちゃごちゃと身につけた格好だったが、今は異なって上下白で統一した私服姿である。灰藁が白衣を脱いだ姿と色くらいしか違いはなさそうな格好だったが、頭のゴーグルは付けっ放しだった。

「俺だってその食材を知らない。見たことも無ければ聞いたことも無い。つまり、おあいこだ」

「ハハ、面白いな、謙虚になる必要なんてどこにもないだろう……。痛っ!油が跳ねたっ」

 ビティムが笑ったのに対し、灰藁は苦い顔をした。

「謙虚になった訳じゃあない、皮肉を言われているように聞こえただけだ」

 ビティムは青い皿に一キロはありそうな果肉を乗せ、そこに四角が数枚集まったような葉を持つ植物を添え、食卓まで運んだ。

「そら、出来たぞ」

 煙をゆったりと吐き続けるサン菜の果肉は、灰藁の発言通りベーコンに似た匂いがした。ビティムはガラスの食卓に大振りのナイフとフォークを並べて、灰藁に手招きをした。灰藁はまだ微かに眠気が覚めぬままゆっくりと歩んで行き、青い鉱物製の椅子に着席する。

「済まないな」

 目だけビティムに向け、灰藁が言う。

「見ず知らずの人間に、ここまでもてなしをしてくれるとは思わなんだ」

「いやいや、人助けは俺の自己満足だ、至らぬ点を気にせずに最善と思ったもてなしをする。それって、実は傍迷惑な話だろう?人助けをする人間は、相手の好意的な感謝がなくちゃただの悪人に過ぎないものさ」

 ビティムは軽快に笑って返し、果肉の一部をフォークとナイフで切り取って口に運ぶ。それを見て灰藁は腹が減ったので、いただきますの一言と合掌のち、ナイフとフォークで同じように切り取り、口にした。

 味はベーコンのようでもあったが、どちらかといえば鶏肉のようにあっさりしており、味は半生の鶏肉とパプリカを合わせたような味だった。

「美味いな」

「ハハ、そうだろう……。そういえば、さっきの動作もなんかの習慣か?俺の知らないさ」

 ビティムはそう言って果肉と四角葉の植物を一緒に口に入れた。

「ああ、食前に合掌する習慣は無いのか……。まぁ、それ自体は俺の母国の文化だ」

 いただきますの習慣が世界では少数派であることを思い出しながら灰藁が言う。

「それよりこの果実、タンパク質は動物性か?それとも植物性なのか?この脂と肉感で植物の果肉とは思えん」

「ん?ああ、サン菜はちょいと変わった植物でね、サピタル植物の一種……まぁ、分かりやすく言えば動物と植物の両方の特徴を兼ね備えた奇妙なタンパク質を持ってるんだよ」

「そんな物があるのか?」

「あるのさ、ごく一部だけどね」

 ビティムの話に、灰藁はとても興味を持ったようであった。自分の研究では、植物の特徴を生物に取り入れようとした事はあっても、植物性と動物性の両方を兼ね備えたタンパク質の開発までは考えていなかった。正直今後に活用するわけではないであろうが、サピタル植物については研究を行いたいと考えていた。

「そうだ、一つ聞きたいのだが」

 灰藁は先程考えた中で、自分が生物兵器の開発を行っていた事を唐突に思い出した。

「どこかで生物に関する研究を行える場所……或いは道具が購入できる場所はないか?」

 この世界についてのことをまだ把握できていないので、ビティムに聞くほかなかった。

「んん?灰藁は生物学に興味があるのか……?ふうん……、へぇ……」

 ビティムはしばらく下を向き、考えるように頭を捻らせていた。そして灰藁の方を向いて、にこやかに言った。

「それなら心配いらない。そっちに小屋があるから、そこを使うといいよ!」

「可能なのか?」

「ああ。昔ちょっとだけ生物学をかじった事があったからね」

 ビティムは親指と人差し指でCの字を作ってウインクした。

「使い方次第じゃ大抵の研究はできるだろうね、道具だけは見栄張って良いものを揃えたから」

 ビティムはそう言ってサン菜を頬張り、数回噛んで飲み込んだ。

「ふいぃ、あと食べていいよ。食べたら小屋に案内する」

 灰藁は頷き、残された果肉を食べ進めた。


 食事を終えて「ごちそうさま」をし、灰藁は食器を流しに運んだ。洗い物は後回しにする、とビティムが言ったので、灰藁はすぐに小屋へと案内されることになった。

 庭へ出てビティムについて行く形で案内される最中、灰藁は見たことのない植物がこの家の周りにも沢山あったことに気づいた。中には既視感のある植物もあったが、八割か九割は知らない形や構造をしていた。その生えようから、時期的には日本で言うと春あたりであろうと推測できた。

「ここだ、見てくれはぼろっちぃが中の環境は快適だぞ」

 着いた場所には、一戸建ての古びた小屋があった。外観は木造だが、研究所というのだからおそらく室内は石などで造ってあるだろう。

「結構大きいな」

「だろう?結構したんだ」

 引き戸を開いて中へ入ってみると、案の定真っ白な鉱物性の空間が広がっていた。窓や換気扇は付いているが、やはり薬品の匂いが染み付いたままだった。部屋の中心にはシンプルな白い石の机といくつかの実験器具がその上に乗っていて、囲むような棚の数々にも実験器具がきっちりと置かれている。灰藁にとっては、とても落ち着く空間であった。

「本があるな」

 灰藁は向かって右側、窓のある方の棚へ行き、目線の段の赤い本を手に取った。金色の文字で題名が書いてあったが、それは明らかに日本語ではなかった。しかしどういうわけか、灰藁はその字を読むことができた。

「不可思議な事もここまでくると生々しいな……。まぁ、ここまで不可思議な体験の連続だ……。今更どうだと言ったところで、事実を追求する気にもならんな」

 灰藁は参ったようにため息をついた。

「……まず読んでみるか。なになに……?これは植物図鑑か」

 ページを開き、灰藁は図鑑を読み始めた。自身の知っている植物の概念を無視してくる植物の数々に驚いたり興味を示したりしながらも、それらの知識をどんどんと吸収していった。

「ハハ、自由に読んでいいよ」

 無理を言ってでも読むつもりだった灰藁にとって、その言葉は願ってもないものだった。本を読み続ける灰藁の頭の片隅には、根強く一つの考えがあった。

「どれだ……、すぐにでも、残りの一つを……!」

 その時灰藁を昂ぶらせていたのは、流れ込んでくる新しい知識だけではなかった。

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