第4話 最終日をサボる

 ぼっちを覚悟していた夏期講習に、密かな楽しみが増えた。武村たけむらさんと彼氏が並んで講義を受けているのを、後ろの席からこっそり眺めるのだ。覗きとは言うなかれ。私はもともと後ろが好きだし、自然と目に入ってしまうのは仕方ない、よね?


 武村さんは、いつも歌劇部の練習を抜けて来るんだろう、午後の最初の講義に駆け込むようにして現れる。汗ばんでいても髪が乱れていても、爽やかな雰囲気を纏っているのは本当にすごい。良い香りさえ漂ってくるような気がするのは、制汗剤だけのせいじゃないだろう。

 武村さんは、教室に入るとぐるりと生徒の席を見渡す。私と目が合うと軽く目礼をする。それから彼氏を見つけた瞬間に、ぱっと表情が変わるのが可愛い。太陽が雲から出てきた時みたいにぱあっと明るくなるの。その激しくも可愛らしい変化は、私は机の下で脚をばたばたさせちゃうほどだ。

 彼氏の隣の椅子に手を掛ける時の、嬉しさと恥ずかしさの板挟みみたいな絶妙な間。ふたりの並べたノートとかが、たまたま隣り合って座った子たちよりは微妙に近いこと。武村さんが眼鏡かけることもあるのだって初めて知った。銀の細いフレームの眼鏡。ただでさえ整ったご尊顔に知的さが加わって堪らない。


 最初の日以来、特に話すことはしていないんだけど。結局、同じ学校ってだけで友達という訳でもないしね。大体、彼氏といるのによく知らないやつのとこに来る必要はないだろうし。だから、私は離れたところから見ているだけ。それも失礼だし、やりづらいとか思われてるのかもしれないけど。

 でも、勝手なんだけど、私は彼女にたまたま出会えて、ちょっとでも話せて良かったと思ってる。だって、彼女のことをマクシミリアンと認識してる方がずっと失礼だっただろうから。女の子を男の名前で呼んで、こういう人に違いないって決めつけて。イメージとのギャップにいちいち驚いたりして。武村さんだってポテトを手づかみするし甘いものが好きだし、彼氏の話になれば顔が赤くなるんだ。何と言ってもそんな彼女は可愛いし。綺麗で格好良くて、さらに可愛いなんて最強じゃないか。




 夏期講習の最終日、私は解放感と少しの寂しさを同時に覚えながら午前中の講義を終えた。武村さんを近くで見られるのもこれで最後か、と思って。武村さんとはクラスも違うし選択科目も被っていない。だからこそ一方的な「マクシミリアン」の妄想を膨らませてしまってたんだろうけど。だから、今まで通りの学校生活に戻るだけ。これ以上仲良くなんて恥ずかしくて考えられないし、あっちだって迷惑だろう。だから、本当に勝手な感慨でしかないとは分かってるんだけど。


 ランチを終えた私は、始業時間のギリギリを狙って予備校に戻ろうとしていた。いつもの感じだと、もしかしたら武村さんにばったり会えるんじゃないかと期待して。別に何を言う訳でもないけど、あれっきりというのも気まずい気がするんだもん。お疲れ様、と、本当に言わないから、の念押しくらいはできたら良いと思ったからだ。大丈夫、会うことさえできれば言えるはずだ。一番最初の時とは違う。もう少しちゃんと、不審者っぽくなく、自然に話せるだろう、と思う。

 何気なく予備校の入り口を目指す――振りで、あらゆる方向の物陰や曲がり角に注意を払う。武村さんがいつ、どこから出て来るか分からない。私は、彼女が駅のどの出口を使ってどのルートで予備校まで来るのかも知らないんだから。

 始業時間が近いとあって、予備校に吸い込まれていく生徒の姿はもうまばらだ。私も諦めて急いだ方が良いのか、粘ってできる限りの牛歩作戦で行くか。かなり真剣に悩みながらまた一歩を踏み出した瞬間――世界に、光が射した。


 真夏の直射日光で意識が飛んだ訳ではもちろんない。マクシミリアン――ではない、武村さんが、ちょうど角を曲がって現れたのだ。でも、いつもの彼女とは違った姿、違った様子で。


「マ――た、武村さん?」


 彼女が着ているのは、今日は空高そらこうの制服じゃなかった。白い、ふんわりしたスカートに、ネイビーのパフスリーブのブラウスを着ている。袖のところはレースっぽく透けるようになってて、腕の白さが見えて色気がある。もちろん、健康的な色気だ。剥き出しのくるぶしにも目が行っちゃう。背が高い子がフェミニンな格好すると、すごく華奢に見えるんだ。初めて知った。


 やばい。やばいという言葉が頭の中を埋め尽くす。だってマクシミリアンのスカートだよ。超可愛いよ。いや、マクシミリアンじゃなくて武村さんなんだけど。そりゃ女子高生なんだから私服でスカートだって履くよ。似合ってるし。いや、それは問題じゃない。ある意味では大問題なんだけど、それよりも――


「どう――したの……?」


 どうして、武村さんは今にも泣きそうな顔をしているんだろう。唇を硬く結んで、目を潤ませているんだろう。いつもはすっきりと涼やかな目が大きく見開かれているのは、そうしないと涙が零れてしまうからじゃない?


「なんでもない」


 全然なんでもなくない硬い声で、武村さんは言った。私の方を見てもくれない態度で、また分かる。ちょっとでもよそ見したら、泣き出しそうなんだ。


「いや、どう見てもそうは――か、彼氏さんは? 心配されちゃう……」


 彼氏さんだけじゃない、既に教室は受講生で埋まっているであろうことを考えて、私は武村さんの前に立ちはだかった。こんな痛々しい顔は、人に見せるものじゃない。私だって見ちゃいけない気がしてるくらいだ。おせっかいなのは分かってるけど――落ち着かせて、あげたかった。

 身長差は大分あるのに、武村さんは足を止めてくれた。ひとまずはほっとしたけど、でも、私を押し退ける気力もないんじゃ、って思うと心配は尽きない。だって、この前惚気のろけ話を聞かせてくれた時と、声のトーンも表情も全然違うんだもの。あの時はあんなに可愛くて幸せそうだったのに。


「……一番後ろに座るから、良い」

「いや、彼が待ってるでしょ……?」


 それはまさか私の隣に、ってことだろうか。舞台上の「マクシミリアン」みたいな声で低く囁かれると、こんな場合なのにどきりとしてしまうから我ながら終わっている。でも、彼氏だって彼女のこんな顔を見たら放っておけないはずだ。私よりも彼に任せた方が良いのかな。でも私は話したことないし、今の武村さんの顔を見せても良いのか分からない。


「ううん。置いてきた」

「――え」


 ぐるぐると堂々巡りしていた思考は、短いひと言で断ち切られた。武村さんをまじまじと見つめると、グロスを薄く乗せた唇が微笑んでいる。服装といい、お洒落した素敵な姿のはずなのに。見ているのさえ辛いと思うほど、痛々しい表情だった。


「さっきまでお昼、一緒だったんだけど。……別れたの」


 泣きそうな笑顔のまま、武村さんの唇が描く。私に聞かせるというよりは、言葉が溢れるのを堰き止めておくことができないみたいだった。


「えっと――あの、ちょっと、何か飲もうか!?」


 武村さんのこんな顔、見ていられない。誰にも見せられない。だから――私は、咄嗟に彼女の手を引っ掴んで歩き出していた。踵を返して、ついさっき出てきたばかりのファストフード店の方向へ。

 「マクシミリアン」の手を握っちゃった。細くて柔らかい、女の子の手だ。当たり前なんだけど。ああもう、邪念はどっかにやらなくちゃ。彼女を宥めて慰める、それに集中しなきゃ。私なんかにできるかどうかは分からないけど。


「あの、えっ――講義は……?」

「一限だけだから! もう最後だし、良いよ」


 良くないのは、分かってるけどね。受講費を出してくれたお父さんお母さんには申し訳ないと思う。本当にね。

 でも、泣いてる子をほったらかしにする方が人としてずっとダメだろう。だから、許してもらうしかない。

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