第5話 格好良い

 ほんの一週間前までは、「マクシミリアン」と一対一サシで座ることになるなんて思ってもみなかった。想像もしていないことが起きたばかりだというのに、私は今、更に信じられない事態に直面している。泣いている彼女に、ホットココアを差し出してるなんて。


「……落ち着いた……?」

「少し……。ごめん。ありがとう」


 武村たけむらさんは紙コップを両手で包みながら小さく頷いてくれた。冷房もあるしゆっくり啜れるし、温かくて甘い飲み物で良かった、かな。夏期講習の初日に、「マクシミリアン」の恋バナを聞き出したのと同じ店だ。あの時は照れ臭くもすごく楽しかったのに。どうして今はこんな微妙な空気になっちゃったんだろう。


「……今日は部活休みで。彼と会ってたの。友達に紹介してもらったんだけど――」

「いや、無理しないでも良いよ! 話したくないならそれで!」


 気まずい沈黙を破ったのは、今日は武村さんの方だった。私に気を遣ってくれたんだろうか。講義をサボらせちゃった以上は説明しないと、とか。それとも、馴れ初め話を聞きたがったりしたから、よっぽど噂好きとだを思われちゃったか。でも、何があったかは分からないけど、彼女にとっては辛いことに違いない。だから慌てて遮ろうとしたんだけど――武村さんは小さく首を振って、私の口を噤ませた。


「ううん。聞いて欲しい、かも……」


 そう言われてしまっては無理に遮ることもできなくて、私は午前中に何があったかを聞かされることになった。今日は朝からフリーだったから、彼氏さんとデート――というか、あちらの友達グループと待ち合わせしたこと。だから女の子らしい私服を選んだということ。


 この前聞いた通り、彼氏さんは男子校生だ。だから当然友達というのも男子ばかりで、同級生の彼女という存在に会うのを、それは楽しみにしていたらしい。だって武村さんだもの。彼氏さんだって仲間内ではさぞ自慢していただろう。――多分、それが裏目に出てしまったのだ。


「私のこと、娘役だと思ってたみたい。彼、言ってなかったんだね。微妙な顔させちゃった」

「ああ……」


 溜息と共に、諦めたような納得が私の胸に広がる。空高そらこうは、私立の女子高でキリスト教系、と揃ってる。だから――実際のところはともかく――世間的にはお嬢様学校と呼ばれることも多い。合コンに参加するような子たちの証言からすると、空子への期待も偏見も結構強いものだとか。私たちなら、歌劇部所属と聞けばまず男役かな女役かなって思うんだけど。

 男子で、しかも友達の彼女って聞いてたら、お姫様系の女の子を思い浮かべていたのも無理はないことかもしれない。彼氏さんが武村さんのことを語る時は、細いとか可愛いとか表現していたんだろうし。女子の目から見れば背が高くて格好良い、って評価になるんだけど。男子と女子では体格も身長も全然違うってこと、私も今回の講習で男子に混ざって座ることになって、久しぶりに思い出させられたところだった。


「悪気は、ないと思うんだけどね。あっちにとっては珍しいんだろうし」


 武村さんはほんのりと苦い笑みを浮かべると、彼らに言われたことを伝えてくれた。舞台で台詞を語る時みたいに朗々とした感じじゃなく、訥々とした棒読みだった。そうでもなければ言えないだろう。それに、私にだって想像はつく。男役という女子高に特有の存在が、男子にとっては憧れの対象にはならないだろうということ。それどころか、面白がって馬鹿にすることさえあるかもしれないということ。


「反応にも困ったんだろうね。それも、分かるんだけど」


 本当はレズじゃないの? こいつとはカモフラじゃないの?

 いやでも男の方が良いでしょ。彼氏できて良かったね。

 女の子とキスしたことは? それ以上は?

 化粧ケバいやつでしょ? 可愛いのに塗ったくっちゃうのもったいない。


 淡々と、武村さんの唇が紡ぐのを聞くたびに、お腹の中で怒りが煮えたぎっていくのが分かる。なんて偏見。なんて失礼な言葉と態度。それは、歌劇部のノリは空高そらこうの中でも独特で浮いてる時だってあるんだけど。でも、皆一生懸命なのは分かる。武村さんが、部活と予備校の掛け持ちで夏のさ中に走り回っているのも目の当たりにしている。男子に囲まれて、武村さんはどれほど怖くて恥ずかしくて心細い思いをしたことだろう。彼氏さんと会うからって、こんなにお洒落してきたのに。


 ――そうだ、彼氏さんだ。少なくともひとりは、彼女の味方をしてくれなきゃいけないはずだった。武村さんの頑張りも歌劇部への想いも知ってるはずの人がいるじゃないか。


「あの……彼氏さんは……?」


 武村さんの表情と、何より別れたってひと言からして、嫌な予感はしていたんだけど。それでも恐る恐る尋ねてみた私の勇気は、武村さんのひどく悲しげな目で迎えられた。


「笑ってたよ。まあ友達には合わせるよね」

「そんな、ひど――」


 ひどい、と。立ち上がって拳を握ることはできなかった。その前に、武村さんがくすりと笑ったから。無理して作った笑顔じゃなくて、思わず、って感じの悪戯っぽい微笑みだった。


「だから、別れるって言ってやったの。もういい! って」

「おう!?」


 腰を浮かせた半端な姿勢で変な声を上げると、武村さんは今度こそ本当に楽しそうに笑った。……私の醜態で気が紛れたなら、光栄なのかもしれないけど。私がまた椅子にお尻を落ち着けるのを見て、武村さんはまた笑う。どこか得意げな雰囲気さえ漂わせて。


「だって腹が立って。部活全体も馬鹿にされたみたいだったし。じゃあこっちを取るからサヨナラ、って感じで」

「それは……すごいね……」


 てっきり、友達に流された彼氏さんの方から切り出したことなのかと思うところだった。男子どもはさぞ慌てたことだろう。その様子を思い浮かべるとちょっとだけ良い気味、かもしれない。

 あれ、じゃあなんで武村さんは泣いてたんだろう。失礼なことを言われて怒って出てきたなら、あんな悲しそうな顔しなくても良いんじゃないの? ……でも、さすがにそんなことを聞けるはずもない。だから呆然と呟いた形のまま、口をぽかんと開けていると――武村さんの顔が、くしゃりと歪む。


「……でも、逆ギレだったかなあ、とか思っちゃって訳が分からなくて……」

「うん……?」


 武村さんの目がまた潤み始めているのに気付いて、でも、私は見守ることしかできない。せいぜい、背筋をぴんと伸ばして、ちゃんと聞いてますよ、って態度を見せるくらいだ。男子に色々言われたこと、彼氏――だった人が庇ってくれなかったこと、その人との別れを決断したこと。そんなことが立て続けに起きれば、冷静でいられないのは、分かる。だから、私にできるのは彼女の気が済むまで吐き出させてあげることくらいなんだろう。


「何か月か……半年にもならないけど、付き合ってきたのに。あっちも悪気があった訳じゃないのにひどかったかな、とか。一応……初めての相手でさ。高三にもなって」


 初めての相手さえいたことがない私に刺さる言葉を吐いた武村さんは、手で顔を覆うとテーブルに突っ伏した。トレイに敷かれた紙、どうでも良いキャンペーンが印刷されたそれに水滴が落ちて、アイドルの顔が泣いたように滲む。掌の下では、武村さんも同じように綺麗な顔を歪めているんだろうか。


「で、でも、一度そう思っちゃうともう無理、らしいから……。やっぱり後であの時どうして、って考えちゃう子、多いみたいだよ。だから――早い方が、良かったのかも」

「そう、なのかな……」


 私にはまともにアドバイスできるような恋愛経験は、ない。他の子から聞いた話の伝聞、当たり障りのない一般的なことしか言えない。旋毛つむじを見せたまま俯く武村さんに届く言葉を掛けられているかどうかの自信なんて、全くなかった。それでも、私自身の言葉を絞り出すとしたら――


「それにね、武村さんが言ったのは間違ってないよ。はっきり言いたいこと言えたのは、すごく……格好良いと、思う」


 格好良いって言われて、傷心中の子にとって慰めになるのかな、とは思うんだけど。でも、武村さんはやっぱり私には眩しく輝いて見えた。スポットライトを浴びてなくても、メイクをしたり衣装を着たりしてなくても。私が同じ立場だったら、その場ではへらへら笑って、怒ったり泣いたりは後で、になっていただろうから。


「そう? 格好良い、かあ」


 顔を上げて首を傾げる武村さんの目が濡れていた。弱々しい姿に、私の胸は苦しくなる。そうか、彼女にとっては格好良いって聞き慣れた誉め言葉だった。でも、わたしが言いたいのはそういう意味じゃない。校内でマクシミリアンとして憧れを集める彼女じゃなくて――傷ついた女の子が、それでもすごく勇敢で格好良いということだ。


「なんていうか、人間として? だって、歌劇部も大事なんでしょ……? それだけ本気なの、見てても分かるから……だから――彼氏より部活を取った、っていうか? そこで退いちゃわなかったのがすごいっていうか。……ごめん、武村さんは辛いんだろうけど……すごく格好良い」

「そっかあ……」


 支離滅裂な上に気持ち悪いかもしれない私の言葉を、武村さんは頷きながら聞いてくれた。こんなの、慰めにもなっていない。ただの告白だ。ファンレターだ。ただ、ひたすら彼女が素敵だということを伝えたかった。失恋しても傷ついていても、泣き顔でさえ。貴方が自分を卑下する必要なんてどこにもないのだと。何度か話しただけの私が言ったところで、届くかどうかは分からなかったけれど――


「……ありがとう」

「あ――」


 ほんの微かに、武村さんが笑ってくれた。その笑顔が、なぜかぐにゃりと歪む。私の視界を歪ませた涙は、すぐに溢れて頬を伝った。


「ちょっと、なんで泣いてるの!?」

「分かんない――綺麗だから」

「私が分かんないよ!?」


 武村さんが立ち上がったのだろう、椅子ががたつく音が聞こえた。驚かせて慌てさせちゃって、本当に申し訳ない。なんで私の方が泣いてるのか、本当に訳が分からないだろう。


 私は――なんだか、感動しちゃったのだ。武村さんの格好良さに。綺麗さに。見た目のことじゃなく、彼女の行動の美しさ、ほんの何回か話しただけの私に笑いかけてくれたことに。安心させようとしてくれたのか、私の言葉で慰めることができたのか、それもまた分からないけれど。


 夏期講習の最終日は、ふたりで泣いて笑っているうちに終わった。武村さんにとっては、失恋の記憶で締めくくることにならなくて良かった、だろうか。ううん、夏休みの最後の最後まで、彼女は歌劇部の練習に励むはずだ。なら、私のことも彼氏さんのことも、途中の一場面に過ぎないのかもしれない。でも、彼女の思い出の中に登場できたのだとしたら、とても嬉しいことだと思う。

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