第2話 口止め料

 九〇分の授業が終わると、マクシミリアン――というか武村たけむら一花いちかは席を立ち、隣の彼氏を置いて通路を上ってきた。教室の後ろの方、つまりは私の方だ。ヤバい。さっき声を上げたのを怒られるんだ。

 冷房が効いた室内なのに、背中に汗がにじんだのが分かる。でも、逃げる場所も暇もあるはずがない。マクシミリアンは、長い脚を動かしてあっという間に私の目の前まで来ていた。


「――空子そらこ?」

「……はい。D組の神谷かみや若菜わかなと申します……」


 自分の名前を口にするのに、こんなにドキドキしたことはない。高校入学の初日の自己紹介だってこれほどじゃなかったはずだ。三十人ちょっとの見ず知らずの子たちよりも、マクシミリアンひとりを相手にする方がよっぽど緊張する。

 マクシミリアンの問いかけが自信なげだったのは、私服の私が同じ高校の人間か確信がなかったからだろう。マクシミリアンと違って私は有名人なんかじゃない。同学年と言えども顔と名前が一致しないのも当然だ。こんな場面でマクシミリアンに名乗りたくはなかったけれども。


 ちなみに空子というのは空鳥そらとり女子高等学校の生徒の総称だ。自称することもあれば他所から呼ばれることもある。さらにちなむと、空鳥、というのは聖書の記述に由来している。種撒きも刈り入れもしなくても神様は許してくださっているというアレだ。現代で人間だとそれはダメだろうと思うんだけど、とにかくそんな感じで全ての存在を愛し育むことができる女性を目指すというのがモットーらしい。

 ――と、今そんなことを考えてしまうのは現実逃避に過ぎないだろう。どうでも良いことを考えたところで状況は何も改善しないのだ。マクシミリアンの視線は、私なんかには痛すぎる。塩を浴びたナメクジよろしく、できることなら溶けて消えてしまいたいけれど――そういう訳には、いかないのだから。


「えっと、先ほどは大変申し訳なく――」

「誰にも言わないでくれる?」


 どもりながらの私に対して、マクシミリアンの言葉はごく端的だった。でも、ちらりと彷徨わせた視線の先、私たちを興味深げに見つめている男子のことだろうとはすぐに分かる。振り向いてくれたからやっと顔が分かったけど、クソ、爽やかなイケメンじゃないか。


 とにかく、マクシミリアンは怒っているようじゃなかった。それどころか、心配そうな面持ちで、ちょっと眉をひそめて座ったままの私を見下ろしている。そんな顔を見ていると、安心すると同時に心配にもなってしまう。


「……歌劇部って、恋愛禁止なの?」


 アイドルかよ、と思うけど、あり得ない訳じゃないのかもしれない。歌劇部は過激部、とか。部外者は揶揄したりもするから。歌やダンスの練習が見た目の華やかさを裏切るハードさで、ほぼ運動部並みっていうのが理由のひとつだけど、何て言うか部員のノリというか雰囲気というかがちょっと独特だから、でもある。

 演じた役をリアルでも引き摺ってるっていうか。役名で呼び合ったり、台詞の引用っぽい言葉でやり取りしてたり。役の上での上下関係とか夫婦関係を学校生活でも続けてる、のかな? マクシミリアンがマクシミリアンと呼ばれてることの下地はその辺にもあったりしそうだとは思う。


 歌劇部の子たちは、彼女たちだけの世界を作って盛り上がってるようにも傍からは見えてしまう。だから部外者、特に男なんてご法度なのかなあ、とも思ったけど。マクシミリアンは、困ったような顔で首を傾げるだけだった。


「そんなことはないけど。……午前中、練習で。夏期講習だからって抜けて来たから。勉強も、そりゃしてるけど……」

「ははあ……」


 間の抜けた相槌を打ちながら、私の頭をぎったことはふたつ。マクシミリアンの素の声って声って意外と可愛いんだな、ということ。それから、歌劇部はやっぱり大変そうだなあ、ということ。


 前者については、女の子だから当たり前、なんだろう。男を演じるってことは、声もそれなりに作ったりしてるんだろうから。

 後者についても当然といえば当然だ。九月半ばの文化祭に向けるなら、夏休みは練習も佳境のはずだ。ただ、それは受験生にとっても同様な訳で。マクシミリアン以外にも三年生の歌劇部員はいるはずだけど、皆よくやるなあ、と思ってしまう。


 というか、勉強って何より優先すべきじゃないのかな。実は彼氏とのデートとも兼ねてます、ってなったら物議を醸すかもしれないのは分からないでもないけど、私がこっそり見ていた限り、マクシミリアンも彼氏も授業中はちゃんと黙って集中してるようだった。受験生が勉強のために部活を抜けて、申し訳なさそうにしているのは今ひとつピンと来ない。彼氏と会ってても良いじゃないか。堂々としていれば良いのに、と思う。


「……大丈夫? お願い、できる……?」

「あ……っと」


 面倒くさくてややこしい世界を見てしまった気がして考え込んでいると、マクシミリアンが心配そうな顔で覗き込んできた。上からなのに上目遣いという不思議な構図が、なぜか心臓をドキドキさせる。よく効いた冷房にも関わらず、変な暑さを感じさせる。


 マクシミリアンのお願いについては、是非もない。もともと接点もなかった者同士、お互いの交友関係だって被っていないだろう。マクシミリアンに彼氏だって! って誰かに言ったら反応すごいだろうなあ、とは思っちゃうけど、それも相手が困るのを押してまで、ってことはない。


 慌ててもちろん、と請け負いかけて――私の胸に黒い影が過ぎる。舞台の上のマクシミリアンが翻したマントみたいな、コウモリめいた誘惑の影。


「あー……えっと、口止め料が、あれば……?」

「……何? お金取るの……!?」


 マクシミリアンの眉がぴくりと跳ねて、涼しげな目が私を睨んだ。警戒を帯びて少し低くなった声は、舞台で見た男役としてのそれに近い。それに、鋭くて険しくて怖い。軍人だか騎士だか知らないけど、役としてのマクシミリアンに凄まれたみたい。


「あ、いや、そんなんじゃなくて」


 私だって同級生からお金をむしろうなんて思っちゃいない。咄嗟に、ちょっと怪しい言い方をしちゃったのは私が悪かった。……まあ、マクシミリアンが望んで支払ってくれるかどうかは、また話が違うだろうけど。


「ちょっとだけ、馴れ初めとかを、その、聞かせて欲しいなあ、って」


 おどおどと――その癖とてつもなく図々しい要求をした私を、マクシミリアンは呆れた眼差しで見下ろしてきた。ああ、でも、そんな顔はしないで欲しいなあ。私だって平然と言い出せた訳じゃないんだから。貴方と話している、それだけで、顔に火がついてるんじゃないかと思うくらい熱くなっちゃってるんだから。

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