終章 春
左に掛かる車窓の額縁の中から、流れて消えていく建物や山々を見送っていく。長らく外に出て遊ぶことが少なかった私には、地元に愛着なんて全く湧かないと思っていたのだけど。不思議だな。喪失感みたいなものをしっかり胸の中に持てている。
目を閉じて胸に手を置いて、その感覚の行方を浮かべようとしてみる。でも生まれ育ったこの場所に関して、びっくりするほど何も浮かんでこなかった。ほんとに、不思議。ついさっき見てきたはずなのに。
瞬きを三回。この不思議を明かすのは諦め、座席に寄りかかって肩の力を抜いた。
「でも、本当にありがとうございます。駅まで送るどころか、町を一周までしてもらって」
「いいんだよ。あまり力を貸せなかった分、このくらいはね」
「いやいやいや。氷室さんが教えてくれてなかったら、私とっくに勉強なんて捨ててましたよ」
「そうなのかなぁ。そう言ってくれるのは嬉しいけどね」
ルームミラーから見えた氷室さんは照れ臭そうに笑った。こうは言ってるけれども、今回も含めて、氷室さんは明らかに仕事の範疇じゃなさそうなことを、自ら進んで何回もやってくれていた。
私が学校を探す時も、願書を出す時も。悪くは思ったのだけれど、遠慮する間もなく率先して提案と実行を繰り返してくれて、頭が上がらない。
トントン、トトン。
私の気分が上がったらしく、ハンドルにかけている手の人差し指でリズムを取り始める。流れているのは名前の知らないクラシック。乗った時からずっと大人しめな曲が続いて、私には少し退屈だった。
でも大人になって良さが分かったら、オススメでも訪ねてみようと思う。氷室さんとはもっと、勉強以外の話をしてみたかったから。
――そういえば勉強以外の話で、今すぐしてみたいことが。
「聞きたかったんですけど、なんで家庭教師になったんですか?」
「ふぇ? む、向いてないとか思ってる……?」
「いや、純粋に気になって。何かしら明確な目的があって家庭教師になったような発言してませんでした? 友達から「何のために今の職に就いたのか」って怒られた、とか」
確かあれは私に進路を尋ねる時に言っていた。あの時は私事だから関係ないと言って流されたし、深く聞くだけの余裕もなかったから、触れないでいた。だけど今はもう、家庭教師と生徒じゃない。
「あー、よく覚えてるね。聞きたい?」
「聞きたいです。これも学びだと思うので」
「そう言われちゃったら、清子ちゃんの元家庭教師としては話さなきゃね」
氷室さんは曲の音量を下げると、右肘をドアの出っ張り部分に置いて頬杖を着く。
「どこから話そうかな。……えっと、私は最初ね、先生だったの。高校の先生。大学も教育学部で、資格も取ってたんだ。あの時はすっごく張り切ってたよ。今もそうだけど、高校の頃はもっと迷ってた私だから、自分と同じような子を手助けしたかったんだー。でも続けられなかったの」
「何かあったんですか?」
「何かあったというか、何もできなかったかなぁ。忙しすぎて、生徒に向き合う機会が作れなくってね。っていうのもいい訳だけども。何やってるか、想像つくかな? 私は高校時代じゃ分かってなかったけれど」
「いや、私もあまり」
そう言われると、正直教室の中にいる姿以外は何も思い浮かばなかった。教師という存在に、どれだけ目を向けていなかったのかが思い知らされる。唇の端が引きつった。
「まあ、だよね。んっと、朝から晩まで資料作りとか部活の顧問とか、あとは親御さんの対応。勿論授業とか他の先生方とのやりとり、緊急時の対応やだんどりの打ち合わせとか、色々? 生徒の相談を受ける暇なんて、私には作れなかったんだ。それですっごく無力だなーって毎日思ってたら、やめちゃってたなぁ」
「それは……、大変ですね」
「まあねぇ」
ハンドルを握りながら指を折り、呑気そうに話す氷室さん。気の弱い印象がある氷室さんの当時を想像すると、気の毒が過ぎて胃を痛めそうだった。
「そのあと家庭教師に?」
「ううん。その後はコンビニバイトをね。だけど教えるって行為が恋しくなって、塾講師してた時期もあったんだ。でもでも、そこも個々の対応はあまりできなくって。友達と遊びに行ったとき、お酒に流されて愚痴りながら泣いちゃってたら「家庭教師とかは?」って言われて、あとは清子ちゃんも知ってる通り」
「なんというか、経験豊富ですね」
「あはは。無理して良く言わなくっていいよー。私は悪い例だから、しっかり反面教師にしてくれたら嬉しいなぁ」
そう言った氷室さんは、ルームミラーの中で口を開けて笑っていた。今日は今まで見た氷室さんのなかで、一番楽しそう。特に、今の話をした氷室さんは、楽しさ以上に生き生きとしたものを感じた。
「やってみてどうでした?」
「充実はしてたかな。やりきれないことも、結構あったけど。あー、最初はすぐ辞めさせられるんじゃないかって怖かったなぁ。でも清子ちゃんの目的の手助けをできてよかった。――あ、手助けできたって、思っていい……?」
「そこは自信もってくださいよ。ありがたかったです。気持ちが落ちてる時でも、氷室さんがいる時は一定以上にやる気だせましたしね。教え方、大好きでした。学校だって探してくれましたし」
「……そうかぁ。ありがとう。ちょっとだけ自信にしておくね」
それで話は一段落ついて、氷室さんは曲の音量を元に戻した。その後は一言二言の会話が何度かあったくらいで、決して盛り上がることはなかった。
だけど氷室さんはずっと指先でリズムを取っては、時折鼻歌さえ歌い出す。この空気を崩したくなかった私は、ずっと口元を手で押さえた。
しばらく車に揺られるがままでいると、ポケットの中で振動を感じて肩がはねた。取り出したのは傷一つない白のスマートフォン。買い直して一週間も経っていないから、突然震え出すという感覚にはまだ慣れない。
夜の河津桜と川を背景に撮ったメイと私のツーショット写真をスライドさせ、通知を確認する。瞬間、噴き出した。笑っちゃった。
「へ? どうしたの?」 おろおろと動揺して振り向く氷室さんに何でもないと柔らかく返し、改めて画面に視線を落とす。
『やっぱヤダ。無理。見送りにいく。今どこ?』
言うと思った。期待していた言葉が送られて高鳴る鼓動。ここのところ毎日何時間も一緒に居たのに、飽きもせずに揺れてしまう自分が面白くって仕方ない。
「何か、いい連絡?」
「あ、はい。駅に付いたら三十分くらい待つことになりそうです」
「ふふ、待つのに嬉しいんだね」
「変ですよね。――あ、せっかく送ってくれるのに」
「いいよー、気にしない。あ、ケータイ買ってたのなら、連絡先交換してもいいかな……?」
「はい、ぜひ!」
じゃあ駅に着いたらお願い。そう言った氷室さんはアクセルを強く踏み、左手にあるレバーのようなものを弾いた。襲ってくるのは若干の浮遊感。景色は一気に後ろへと流れ始める。私はシートベルトをギュッと握った。
そして新たに流れだした曲が終わる間もなく、窓の外には人気の少ない駅が見えてくる。
私が何となくで町の景色を見たいと頼んでから駅に着くまで、僅か三十分程度の時間。それなのに、とんでもない密度の時間を過ごした心地だった。
「見送りに立ち会えて本当に良かった。忘れものに気を付けてね」
降車スペースに車を停まると、幼児くらいの大きさのスーツケースと一緒に車から転がり降りる。慣れない荷物な上に非力な私にとっては等身大の振る舞いなのだけど、氷室さんは芸か何かだと思ったのか、口に手を当てて笑った。私は見えない角度に顔を背けて頬をふくらませる。
「で、忘れないうちに」 悪気のない氷室さんは未だ肩をわずかに震えさせながら、運転席の窓越しにスマホの画面を見せてきた。画面にはQRコード。これを読み込めばアカウントが即登録というやつだ。メイ相手に最近やったから知っている。
画面にヒビが走っていて、らしいな、と何となく思いながら、読み込みのために私もスマホを掲げた。すぐさま登録は完了する。早速アカウントを見てみると、アイコンはタイヤだった。感想の引き出しに困る。
「わー、ありがと。引っ越し先の近くでいいお店知ってるから、私が遠出する予定があって都合があったら教えてあげるね。あんこが美味しい和菓子喫茶なの。車あればすぐ行ける。峠道の脇にあるんだー」
「あ、興味あります。いいですね、あんこ。いつか連れてってください」
「うんうん」
ストーブで温まる猫のような顔になる氷室さんを見て、私も和やかになりつつも、徐々にお別れの空気が近づいてくる。視線で何かを探りつつも、何も言えない空気。
「ごめんね、やっぱり最後に一つだけ聞いておきたいことが」
「へ、なんです?」
その空気の中で、氷室さんは唐突に目を逸らして、前髪を指で弄んだ。いきなりのことで私は怯みながら応えるけれど、言葉のキャッチボールは氷室さんの番でしばらく止まる。
焦った表情で言葉を探していた氷室さんだけど、その背中を押したのは、氷室さんからしてみればサイドミラーに映った後ろに続く他の車だった。それが降車スペースに近づいてくる。氷室さんは後方に一瞬目をやると、意を決したように目をギュッと閉じた。か細い声を、躊躇いがちに絞り出す。
「清子ちゃんのお母さんに私が言えたこと、何かあったかな……?」
ああ、そういうことか。
腑に落ちる。思えば当然なのだ。この気配り上手な人が、そこを気に病んでいない訳がない。そんな事にも気づかない程に、私はこの人に結構甘えていたんだ。今さらになってやっと分かった。
私の人生、思ったよりやることが多いらしい。私はこの人にも何か報いたいと思ってしまった。それは長い道のりで、私が報いたのは一人だけじゃないのに。でも今の人生は、眩しくて色鮮やかに思える。否定的な感情とか逃げの気持ちとか、お腹の中にはいっぱいあるにも関わらず。
いつかは恩返しができるといい。
「無かったと思います。でも私、今は結構楽しいです。だからお世話になりました」
今はありのままを話して、受けたものへの感謝を伝えるだけしかできないけれど。
「……うん、ごめん、最後にこんな事聞いちゃって。ありがとう。バイバイ。また会おうね」
「はい、また絶対」
綻んだ口元を確認出来て、私が深く頭を下げる。回りだす四つのタイヤ。顔を上げれば、少しずつ遠ざかっていく氷室さんの車の後ろ姿が見える。
「ありがとうございました!!」
精一杯叫んだら、まだ開いていた窓から腕が生えて、ブンブンと手を振られる。もう見えないだろうけど、私もブンブンと力いっぱい振り返す。
私が決めた道は、自分勝手に選んだ道。それを喜んでくれる人がいるのは、なんというか、認められた気分になる。充実も後悔もこれから得ていく中、とりあえずこの一歩目は間違ってなかったと思えた。
ほんとは車の消えていく方向をずっと見ていたい。でもふと見たら、あとから降車スペースに来た車の中で、和やかな表情でおじいちゃんおばあちゃんが私を見つめている。顔が沸騰する感覚。私は勢いよく頭を下げると、その場を後にした。
ふらふらと歩み、駅の中の待合室。そこのベンチに腰掛け、上半身を逸らして天井を見上げる。胸を張り古い空気を吐き出して、新しい空気を吸い込んだ。指先でスーツケースの取っ手を手繰る。引いては押してを繰り返す。
これから来るメイのことは、その時に嫌でも考えることになるからだろうか。今、思い浮かんだのは、氷室さんの問いに出てきたママのことだった。
遠くの学校で寮生活を始めることになった今でも、ママと私は相変わらず、ほぼ最低限の関わり合いしかしていない。スマホや引っ越し、進学なんかについては、私が言った全てに頷いて、オートマチックに了承してくれただけ。拒否もなければ嫌みもなく、その逆も当然なかった。
ママが急に態度を変えた理由は、未だはっきりとは分からない。聞くことも、探ることもしないでここまで来てしまった。その必要も感じなかったから。でもこういう転機だし、氷室さんのこともあって、思考が少しだけ偏る。
理由を考えると思い浮かぶのは、いくつかの断片。
私を怖がる表情。繕おうとする無表情。事務的に感じる会話。ある夜からなくなった、ママとパパとの通話。私に対する情を排そうしたような投げやりな言い方。とはいっても私のためにお金を使ってくれるし、ご飯も作ってくれる。……そこは今も感謝はしてるけど。
なんというか、母親という『機械』になろうとしているように感じた。骨と筋肉で動こうとする機械。でも血が通ってしまえば、どうしても生き物になってしまうのだろう。矛盾で歪になる。ひどく不安定。
きっと事情はあるのは分かってる。苦労だって。だけど何を説明されたって、言い訳をされたって、私は今のママと、そしてとっくに諦めたパパのことを嫌う。好きだったし、感謝だってしてるけど、嫌い。
改めて納得する。これが私の気持ち。
だけど今日が近づくにつれて、ほんの少し変化があった。朝食を食べ終えてすれ違う廊下で見たママの表情は、微かに晴れやかだった。私を見ることは決してなかったけれど、晴れやかで、安堵した様子。リビングにある棚の隅には旅行に関する雑誌が密かに突っ込まれていた。
ポッと浮かんだ探求はそこで止まる。特に変わる想いもなくて、考え直すこともない。これ以上は無意味だ。
手持ちぶさたになってくる。退屈。あと何分で来るんだろう。スマホを取り出して時間を見れば、メイから連絡が来てからおよそ十五分が経っている。少しだけ時間を潰す必要がありそうだ。
一昨日いれたSNSアプリを開いて、タイムラインを眺めると、取るに足らない情報ばかりが流れていく。メイの表のアカウントを見れば、三十分前で更新は止まっていた。
『寝過ごしたのなに、私なに』 メイの直近の呟きがこれ。呟きらしい呟きに噴き出しつつも、この呟きだけに思いを馳せて時間を潰すのは無理がある。……ちなみにメイの表のアカウント名は『鳴姫皐月(ナリヒメサツキ)』。漢字が好きなのかもしれない。
いつか見せられたメイの鍵付きのアカウントでも見られたら、退屈はしなさそうなのに。でも本人に承認を得ようとしたらブロックされた。顔を真っ赤にして、ものすごい剣幕で怒られた。あれは理不尽だと思う。もう、あれだけ晒しつくしたくせに。
思い出し笑いを一つ浮かべて、画面から目を外して肩を回す。町を歩いて過ぎる人を見渡せば、右の人はスマホを弄り、左もスマホを弄る。そんな時代だけれども、今さら私に現代人らしい振る舞いは出来ないらしい。そっとスマホをポケットに戻した。
代わりに逆のポケットから単語カードをまとめたリングを取り出す。つい最近に上限が千点満点の英語能力を図るテストなるものを知った私は、早速いくつか参考書を買って勉強し始めていた。時間を潰すなら、これが一番落ち着く。
新しい高校ではそういうテストも受けやすいと聞いている。そういうテストをこれからは積極的に受けて、証を築いていきたい。私の今のモチベーションは高くって、カードを捲る手に前よりも多めの力が入る。得たものを振るう先が分かっているのは、なんて気が楽なのだろう。
知ったばかりの単語で頭の中に短文を紡ぎながら、一つ、また一つと進めていき、全体の半分ほどが捲れた頃。人気の少ないこの駅の近くから音がする。
カラカラと自転車のタイヤの回る音。キツイキツイと嘆く聞きなれた声。私は荷物も単語カードも放り出して、駅の中から飛び出した。
「メイ!! 待たせすぎ!!」
見えた。駆けてくるメイの姿。汗だくで、呼吸を荒げて、目の下にクマを作って瀕死してる魚のような顔をしている。髪はボサボサだったし、いつも外ではしない部屋用の眼鏡をかけていた。本当に起きかけだったんだ。
「せー、せーちゃぁん」 息も絶え絶えになりながら叫ぶメイ。自転車を停めて私に歩み寄るメイに、私からも駆け寄った。ヨロヨロとしているメイを抱きとめて、背中を撫でる。メイの背の低さは、こういう時にありがたい。
「見送りに来ないんじゃなかったの? 引き留めちゃいそうだからって」
「確かに、言ったけど、見送れないの、やっぱり、ヤダもん」
「「笑って見送れないから、代わりに引っ越すまで毎日一緒に居て」って言ってなかった?」
「あんなの一緒に居るための言い訳だし。じゃあダメだったのっ!?」
「ううん。嬉しいよ。ありがとうね、メイ」
春休みを迎える前に、メイにそうお願いされてから、毎日私たちは一緒に居た。だから今日は我慢しようって思っていたのに。それができないのも分かっていたけれど。
居心地が悪そうに胸の中でモゾモゾと動くメイを感じていると、もう気軽に会えなくなるんだという実感が足を捉える、寂しくなる。でも同時に、嬉しかった。視線はもう、感じないから。合格が決まって以降は、全然。それが嬉しくって、毎日毎日飽きもせず感動していた。
一緒に居られる嬉しさと、一緒に居られなくなる寂しさが混ざる。大きな感情の渦。メイの熱さにしがみついて、流されないようにと、ギュッと。
「不安?」
「うん、不安。メイが来ちゃうから、寂しいの思い出しちゃった。行きたくなくなる」
「……なら、来て正解だったね。行かないで? 一緒にいて?」
胸の中で呼吸を一つ置いて、メイは言う。私はメイを抱く腕の片方を外し、自由な手でメイの背中を軽く叩く。
「それは無理。決めたから」
「……ふふ、良かった。残念」
メイは面白そうに笑い声を溢す。私は腕を解いた。解いて、一歩を退いたメイを見つめる。笑っていると思ったメイは、唇をギュッと固く結んでいた。
でもメイはすぐに笑顔を見せた。白い歯を見せて、私が見惚れた桜のように笑った。
『ママが望んでた道を目指すよ。メイと一緒の高校には行かない』
夜の河津桜の日。
私がメイにそう言い放った時の表情はよく覚えている。憑き物が落ちた様に顔を弛緩させて、だけどすぐに全てを失ったような顔をする。
私の胸の奥に、影が伸びて染みるような感覚。だけど振り払う。逸らしそうだった瞳を前に向けて、見たい全てをしっかりと私の世界に映す。
「メイは離れられたよ。私を思って離れてくれた。まだ飛べる鳥だよ、メイは。だから今は飛んでいて」
「……はっきり言っていいんだよ。『どこかに飛んでいけ』って」
「これからハッキリ言うんだから、せっかちにならないでよ」
逃げ出しそうなメイの手を捕まえて、引き寄せる。小さいメイの体は思った以上に軽くて、胸にストンと収まってしまった。そのままメイは体重を預けてくる。驚いて、でも受け入れた。小さなメイの肩を抱く。
「今はまだ私がメイを『唯一』に出来ないんだ。でも、私もそうなりたい。憧れるんだ、いいなって。だからそれができるまでは、まだ飛んでいて。
その間に私はママに報いるだけ報いてみる。ママが前に願っていたことをできるだけ叶えて、残ってるものを綺麗にしたい。そうしたらメイを『唯一』にできるから」
「せーちゃんは私でいいの? 待ってたら、一緒になれる?」
「うん、メイがいい。一緒になろう。約束する。その頃にはものすごく賢い私になってるはずだよ。それがママの願いだったから。そしたら自慢に思ってよ」
手の中で、メイは震えた。俯いて、顔を隠すように私の胸に頭を収める。ものすごく、熱い。鼓動が伝わって、共鳴を起こすように私の心臓も高まる。トクン、トクン。存在全部で震えていると、メイはゆっくりと声を上げる。
「……やだ。くさい、台詞がくさい。そんなこと言う人だと思わなかった」
「え!?」
予想外の声だった。うぬぼれていた訳じゃないつもりだった。でもこの状況で、メイ相手にそんなことを言われると思わなかった。素っ頓狂な声が思わず出る。
驚いた私をメイは押しのけて、一歩離れて背を向けた。どこかへ行ってしまう。私は咄嗟に手を伸ばすけれど、その必要もなかった。メイはクルリと私に向き直り、白い歯を見せて笑った。
「察して、見えた気になって、合わせて。望みが叶ってから全部がほとんど、結局は思い通りになって、幸せだった。すっごく悪いことに思えた。段々と押しつぶされそうだったんだ。自分の都合で捻じ曲げてるみたいで」
メイは腕を大きく広げる。羽のように、背中に映る対岸の夜桜を背負うように。
「でも今のせーちゃんは、とびっきりの予想外をくれた。私、すっごく嬉しい。
何を言ってもせーちゃんは、自分が決めたことをやるんだ。言っていいんだ、思ったこと」
風が吹いた。大きな風が。卒業式を終えて今ではすっかり背中まで伸びたメイの髪は、なびいて広がる。
「待ってる、せーちゃんが見惚れるもの、いっぱい撮って待ってる。あの時のせーちゃんみたいに感動させてあげるから、帰ってきて。私を選んで、絶対に、私だけを」
メイの連れてきた風に乗って、遠くの青空に桜の花びらが舞うのが見える。明るい空に桜色は溶けるように消えていった。
対岸の春 翠風 鶯歌 @ohkamidorikaze
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