第四章 散り時

 逸る気持ちを抑えて、待ちに待った放課後の時間。久々にクラスメイトの人と長く話したせいで疲労感は拭えないけれど、学校に居て溜息を一回も溢さなかったのは初めてだったと思う。居心地は悪くなかった。

 それにしてもあれだけ尻込みしてから話しかけたのに、嫌な顔をされないなんて意外だった。重いと思って力一杯に持ち上げた段ボールが空っぽだったような感覚。感謝するべきなのは分かっているけれど、その感想が真っ先に出るのは薄情だな。ホームルーム中に漂う退屈なBGMを聞き流しながら、自嘲気味に笑ってみる。

 やがてチャイムが鳴り響くと、朝から今の時間に至るまでに調べた情報をまとめたノートを脇にギュッと抱えて、起立、気を付け。ホームルームの終わりを意味する、当番の弾んだ声に続いた一斉の「さようなら」がスタートを切る空砲だった。教室に溢れる湧く声に背中を押されるように、駆け出す。

「メイ! ――有広さん、居ますか!!」

 目的の教室、その後ろの扉の縁を掴んで勢いを殺しつつ、戸を開け放ち。上半身だけを入室させて吠える。クラス中の見開いた視線が、私を向いた。教壇の前でプリントを読み上げている無精ひげの中年の先生も含めて。恥ずかしいけど、知らない。

「せ――、姫宮さん?」

 メイが、駆け寄ってくる。いつにもまして駆け足だった。久々に駆け寄る姿を見て、今日、初めての溜息を吐く。ほっとして――、

「せーちゃん、まだこっち、ホームルーム」

「あ、」 

 メイのムスっとした表情。かすれたような小声で囁かれてようやく気付いた。顔に熱い血が上って、いたたまれなさで、いっぱいになる。

「ごめんなさい!」 声を張り上げて、深く頭を下げる。それでも何か堪らなくって、もう一回。その態勢のまま、戸をバタンと閉める。恥ずかしいなんてものじゃなかった。

 戸を閉める寸前に、メイに「バカ」と一言だけの罵倒を食らったけれど、返す言葉もない。扉の向こうからは複数人の笑い声が聞こえる。メイの呆れた笑いも含めて。正直、逃げ出したかった。きっとしばらくこのクラスの人からは、しばらく後ろ指をさされるに違いない。メイにも、迷惑かけちゃったな。

 それでも逃げる訳にはいかなくって、メイのいる教室と廊下とを仕切る壁に背中を預けて、手持無沙汰に片足のつま先で床を何回も突ついた。脇に抱えていたノートを開いて、閉じてを繰り返して、廊下に増え始めた行き交う人々を目で次々と追った。まだ、かな。

 そのとき、ようやく背中越しに解散の号令が背中越しに聞こえる。足はすぐさま、さっきくぐり損ねた戸の前まで私を運んでくれたけれど、そこまででブレーキを掛ける。

 落ち着けと、深呼吸を一回、二回。すーは。落ち着いたかと胸に問いかけると、落ち着いたと、逸る気持ちで胸が応える。さあ行こう。

「有広さん、ちょっといい?」 相変わらず進みが速い足に連れられてメイの元へと向かう。私の声に振り向いたメイは、なんだかくたびれた顔をしていた。

 それもそのはずで、周りの目が一斉にこっちを向いている。からかうような目つきが大半だった。教卓で資料の端を整えている先生も、チラチラとこちらを覗いている。揃いも揃って。

「おかげで注目の的なんですけど。前は良かったけど、素に戻った今は割とキッツイよ? そもそもこういうの嫌いじゃなかったの?」

「それについては本当にごめん……。でも話があって」

 額に手を押し当てながら捲し立てるメイ。もう平謝りするしかなくって。何度も頭を上げる。頭上からはわざとらしい溜め息が聞こえた。

「分かった、聞く、聞くよ。でもここじゃヤダから、行こ?」

「う、うん」

 勢いよく鞄を背負ったメイは、私の腕を腕で絡ませると、早足で引っ張ってくれる。私は素直に従って、早足についていくけれど、速いうえに腕を取られて姿勢が悪くなる。

 おかげで傍から見れば引きずられる形になっていた。周囲の目つきは、先ほどの色をより濃くしている。メイの顔つきは余計険しくなっていたけれど、無言を貫いていた。

 しばらくなすがままにされていたけれど、階段を一つ上がって十五歩ほど歩くと解放される。メイは解いた腕で鞄の中から鍵を引っ張り出し、それで鍵穴をクルリと回す。かちゃりと、小気味のいい音が響いた。

「はいって?」 開かれた扉の向こう、促されるまま進む。そこは教室の半分程度の面積で、ホワイトボードの前にデスクが一つあり、椅子がその周囲に散乱としている部屋だった。それ以外は特に目立ったものはない。

「ここね、部室なの。殺風景でしょ? 使ってるのも、長らく私一人。あ、たまに先生がくるかな」

 独り言のように呟くと、メイは近場のクッションが置かれた椅子にボスンと腰かける。「座ったら?」と首をしゃくられたから、椅子を一つ引っ張ってきて、メイと隣り合うように、でも少し距離を取って腰かける。距離は、学校机一つ分くらい。

「あんなアグレッシブなせーちゃん初めてみた。私に会いに来るたびに、初めてが増えてく。知られるせーちゃんが増えていく」

 鼻から息を吐きだし、重い動作で鞄を机に放りだすメイの姿は何故か嬉しそう。だのにそれを隠すようにわざと難しい顔をしているようだった。視線は何も描かれていないホワイトボードにくぎ付けになっていた。

「違うよ。私もあんなこと初めてした。私、あんな子じゃない」

 だからって訳じゃないけれど、拳一個分くらい椅子を近づけて、首を横に振る。否定したかった。でもうまい言葉が思いつかなかった。メイに遠くに感じられていたら嫌なんだろうなって、自分のことながら他人事のように思う。

「じゃあ、私がせーちゃんを変えちゃったんだね」

 メイは、背もたれに寄りかかり、上半身を逸らして天井を仰ぐ。真上に左手を伸ばして、グー、パーと、手を握ったり、広げたり。冗談めかした口調でも、深読みしたくなる。何がメイにこうさせているのか。

 深くを潜るように思考を働かせると、躊躇いで圧迫されるような気持になる。知らない側面が、怖くて遠のかせたくなって、苦しい。問いかけを、諦めたくなる。メイはどうなんだろう。隣り合っているから向き合えないのが、目が合わないのが、今は特に辛い。

「話があるの。大事な話のための、大事な話」 なら今は考えを振り払う。ここで何もできなかったら、これから何ができるのかが本当に分からなくなってしまうから。

「なーに?」

「今日でも明日でもいいんだ。明後日でも、なんでも。とにかく、夕方に会いたい。我儘に付き合わせることになるけど……。それからのメイの何時間かを私に――、下さい」

「ふふ、なんで最後は敬語なの?」

「普通の言い方、『ちょうだい』くらいしか思いつかなかったんだよ。でもそれだと締まらないかなって思ったから」

「気取った言い回しにしようとするから、チグハグになるんだよ」

 チグハグとか、有広美鳴にだけは言われたくないな。正直そう言いたかったけれど、口には出さずに飲み込む。それを言ったら話が逸れると思うから、とにかく今は、答えが欲しい。

「とにかく、いい? それともダメ、かな? 帰りには暗くなっちゃうかもだけど、少し自転車で動くことになるけれど。なんか、不安定になっちゃうかもだけど、迷惑かけるかもしれないし――」

「ちょっとストップ。悪かったよ、話を逸らそうとして。でも色々考えてるから待って、三十秒くらい」

「分かった……」 そう言われると何も言えなくなる。一呼吸いれると確かに急かしすぎたかもなと、湧いて出た冷静さに諭されて反省する。落ち着くために、深呼吸。

 多少は胸の内が透いてからメイを見てみると、合わせた手のひらの側面に唇を寄せて、目を閉じていた。二つの人差し指同士が着いて離れてを繰り返して、リズムを刻んでいるみたいだった。考え込む時はこうするらしい。真剣な雰囲気が伝わって、目を引かれた。

「よし」 本当に三十秒ほどで口が開く。この時、やっと メイは私に向き合ってくれる。

「答えとしてはオーケー。いいよ、絶対付き合う。なんでも言ってよ、我がまま。日付も今日で良いよ」

「ほんと?」

「うん。その代わりって訳じゃないけど、その時に私が使っていい時間ってある?」

「あ、うん。勿論」

「そっか、良かった。……ちなみに詳細は聞いても? 流石に親にどこ出かけるかは言っときたい。聞いた後に答えを変える気はないからさ」

「そうだった。伝えるつもりだったけど、先走っちゃって。これにまとめてあるから、見て?」

 うっかりしてた。自嘲で顔が引きつるのを感じながら、ずっと抱えていたノートを開いて差し出す。メイは両手で賞でも貰うかのように受け取ると、「やっぱり」と言葉を溢して、目を光らせる。それもまた隠そうとしていたけれど、私は少しだけ安心してしまった。

「楽しみにしてるね。ちなみにどうやって調べたの?」

「津軽さんと木田さんっていうクラスメイト。前に二人で話してるの横目で聞いてたからさ、お願いして調べてもらったんだ。久々のインターネットだったから調べるの時間かかっちゃったけど、それでも付き合ってくれたから感謝だよ」

「ふーん。私以外に会話する相手いたんだね」

「まさか。孤立して以降、初めてまともに話したよ。……なんで微妙な顔してるの?」

「別に」

 不機嫌そうに尖らせるメイの心情が伺いきれなくって、困惑が溢れる。今だけに限ったことじゃない。今日引っ張ってこられてから今まで、ずっと元の距離感が掴めないでいた。話さなくなってからの時間は二週間もいかない位なのに、ここまで変わってしまうものなんだ。

 もしメイと同じ場所に進まなければ、もっと長く離れてしまうことになったら、それこそどうなってしまうのだろう。今ですら、こんな感じなのに。

「大丈夫だよ。ちゃんと、聞きたいこと、伝えたいこと、全部話すから」

 いつの間にか塞ぎかけていた瞼が、グッと持ち上がる。机一個分程度離れていたメイが目の前に居た。

「やっぱ察しがいいね、メイは」

「イヤだった……?」

「もう。あれはただの癇癪だから、あんまり気にしないで欲しい。たまに煩わしいけど、殆どはありがたいって思ってるから。踏み込まれないと、晴れない物って確かにあると思う」

「気にしない、か。善処するよ。結構ショッキングだったから、どうしてもね」

「ごめんなさい……」

「ああいや、責めてるわけじゃないから」

 手のひらこちらに向けて振って、否定のポーズ。別に責められたなんて思ってなくて、私が私を責めているんだけど。あの一言を気にしたままでいるの、きっと楽じゃないだろうに。それでも一緒に居てくれるから、恵まれすぎてる、怖いくらい。

「にしても手書きで地図とはね。時間かかっただろうに。一緒に行く前提だったら、住所だけあれば十分だったでしょ。私のスマホあれば分かるじゃん?」

「……それもそうだね。二人には悪いことしちゃったな」

 深みにはまりかけたところで、メイは私のノートの一部を指さして小首を傾げた。それは確かに結構な時間をかけて作った地図だった。落ち合う場所から目的地までを描いた地図。

「でもすっごく分かりやすい。曲がるところとか、分かりづらそうなとこ全部に目印になりそうなの書き込んでて」

「ああ、それね。地図アプリでさ、実際にそこを歩く視点で道を見られる機能があるじゃない? あれ、初めて知って、面白くなっちゃって、つい」

「長らくスマホ持ってないんだもんね。あ、なら、今度色々教えてあげるね?」

「ありがとう、助かる」

 それは、純粋に魅力的な提案だった。今日久々に触ったけれど、やっぱり機能がたくさんあって魅力的に思えた。持っていた時は当然すぎて、いちいちの感動の味が薄くなっていたのに。今存分に触れたのなら、それは途轍もなく濃いものになる確信があった。

 そう期待に胸を膨らませて、メイと久々につながる喜びを募らせていると、また感じる。視線。今ここには居ない誰かの視線。戒めるために、元のレールから自分を逸らさないために、腿の上に置いた手から生えている爪が勝手に、肌に食い込もうとする感触。

 このままじゃなくっていいのだろうか。薄情者の恩知らずにならないだろうか。確かに誰かを悲しませた過去の償いをしなくっていいだろうか。


 あの桜の景色に、戻れなくなってもいいのだろうか。


 連なる問いかけ。メイと深く繋がる前には当たり前に思えていた、私の大事だった価値と罪悪感。今、向いている道を進まないように、しがみ付こうとしている。償えと、取り戻せと、お前の幸せは違うはずだと。そう言われている気がした。

 誰に? ママに? 私に? 誰、誰。

 ――でも、不意に手を握られた。爪は浅く肌を掠めて遠のく。

「それは、やめて」

「……、ごめん」

 無意識だった、と思う。今は止められたけれど、私は自分でこれを止められなかった。これが嫌で、変わりたいと思ったのに。これじゃあ今日をやり切っても、変われるのか分からない。

「嫌だから、それ。今日からは見過ごさない、ようにしたい」

 握られた手から感じる圧力が、その言葉と共に強くなって、私は繋ぎ止められた気がした。熱さも、きっとメイから伝わる鼓動も、増していく。

 ああ、だから変わらなきゃいけない。自信がないとかできないとかじゃない。優しく撫でてくれる手のひらが、愛しいから。

「今日で最後にする。約束する」

 これからするのは、そのための決着。


◆◆◆


「十七時。いつもの分かれ道で待ってる」

 そう言って、途中まで同じ帰路を辿るくせにメイと一緒に帰らなかった私は、一旦の帰宅の後、赤と黒の混色に染まる世界の中にいた。

 風に揺れる裸の枝と共振したように体を揺らしながら、いつも彼女を見送る方向を遠く眺める。遠く先は闇に沈んでいた。

 脇にはママが普段使っている自転車。手首にはいつか来る試験の時に本領を見せるだろう腕時計。長針は、正解の角度より九十度程足りていない。

 手持無沙汰に二つのホッカイロを手で揉みながら、今か今かと待ち焦がれた。ダサいとか面白みがないとか言われるはずの私服。それを包み隠した厚くて大きめなダッフルコートを前にしても、冷気はお構いなしだ。

 そろそろ春が近いはずなのに。ブーツとタイツを纏った足なんかは特に寒い。何度も何度もつま先を地面にたたく動作を繰り返す。

 だけど帰ろうと思ったり、不快に思ったり、そういう気持ちは全く湧かなかった。あの子は私の暑苦しい何か。そんな気持ちになる必要はないんだろうって思った。その予感は目の前に映り始めたもので熱くなる胸が確かにしてくれる。大事にしたい気持ちが教えてくれる。

 ほら、来た。

「せーちゃん、お待たせ」

 羽織ったモッズコートをなびかせて、自転車に跨いで風を切って駆けてくる姿。内緒話が辛うじてできる距離まで近づくと、ブレーキが甘くかかった自転車から軽い動作でぴょんと降りて、あとは慣性に導かれて私の目の前へ。

「待ってた。早いね、メイ」

「そうでもないよ。もちょっと早く来るつもりだった。棒立ちで寒かったでしょ?」

「ううん、平気。ちょっと動いてたし、暖も取ってたから。はい、おすそ分け」

 手で揉むに揉んでいたカイロを柔らかそうな頬っぺたに押し付ける。冷気で赤くなっていたメイの頬の形はマシュマロのように従順に変わっていった。

「あったかいね。助かるよ」

 両手で包むようにカイロを受け取ったメイの表情が和んでいくのが分かる。このまま、笑顔に辿り着ければいいけれど。

「せーちゃんのお母さんは、いいの?」

「何が、いいの?」

「厳しい人だって聞いて、た、から……。ごめん」

 何気なく尋ねようとしてきたメイの語尾が沈み、勝手に気まずそうな顔をする。返答はできるだけ自然にしたつもりだったけれど、メイは察したんだろう。

 また、気を遣わせた。カイロを失った方の手を握りしめて、鼻からゆっくり息を吐く。ママの話、私がしないせいだから、メイが気にする必要はないんだ。少しでも普通に、話さなきゃ。

「勝手にしてって言ってたから、大丈夫。メイの方は?」

「私も、平気だよ。カメラ持って夜に飛び出すのはそう珍しい事でもないから」

「一人だと危なくない?」

「防犯グッズを装備することで許してもらってる。ブザーとかスプレーとかブザーとか」

 そう言ってボディチェックをするみたいに自分の体をまさぐり始める。ポケットを叩けばブザーと催涙スプレー。腰からもぶら下げているのもブザー。小さな肩掛けカバンに付けたストラップにもブザー。

「メイのことだからもっと武器らしいものを持ってるのかと」

「怖い思いをしたときに出来る行動なんてあんまりないからね。それに所詮、中学生の腕力だし。あと人気のないとこはお父さんについてってもらってるよ。心配した?」

「うん、心配した」

「そっか。嬉しい」

 そこまで言って、メイは目を細める。そのまま目を閉じると、カイロの熱を味わうように頬を擦りつけていた。ここで話は途切れる。唇から漏れた白い息は、途切れることなく暗い空へ昇るのに。

 白い息につられて見る赤黒い空には、少しずつだけど星が見えてくる。顔をわずかに上げて、見渡した。点と点を指でたどれば何かしらの画が見つかるかもしれない。

 でも、すぐにちょっとだけ後悔した。もう少し星座の名前を覚えておけばよかった。知っている星座でもどこかにあったなら、それを指さしてメイに教えてあげたのに。

 何も見つからないままに、一つ、また一つと、見える星は増えてきた気がした。それでも見える図形はなくって、話題を探すのを諦めた。

 ほんとはもう少しメイとここで喋っていたかったんだけどな。今のメイがしおらしすぎて、今の私が求めすぎて、出来なさそう。これからどうなるか分からないから、惜しい。惜しいけど、行かなくちゃ。

「いこっか、メイ」

「うん。場所は平気? 私が先行しよっか?」

「大丈夫、って言いたいとこだけど、しばらく外に出てなかったから不安かも。お願いできる?」

「わかった。案内は任せといてよ。でも迷ったらゴメン」

「いいよ、私がするよりは信頼できる」

 いこう、というメイの掛け声で、二人とも自転車にまたがって足をペダルにかけた。メイのは危うげなく前へと進み、私のは少し遅れて進みだす。蛇が這いずるかのように右へ左へ軌道を揺らしながら、なんとか倒れることなく、前を行くメイを追う。

「何年ぶり?」 前のメイは首を後ろに向ける。自転車の進行方向はぶれることなく、綺麗な軌跡を描いてる。何年振りというのは、自転車のことだろう。

「多分、五年、かな」

「それだけ空いてよく乗れるよ。運動神経いい?」

「分かんない。でも、もうちょっと、慣れるまで速度落としてくれると、助かる」

「了解。焦らないで安全第一でね? 暗いから余計に」

 ハンドルから上げた左手を大きく振って、動きでも肯定を示すと、蛇行する私の運転でも追いつけるスピードにまで下がった。前を行くメイの背中が近づいて、息をホッと吐く。落ち着いてしまったということは、出だしから遠のくメイを見て、私は慌てていたらしい。暗くても、前を行っていても、しっかりそこに居るはずなのにね。

 地面とメイばかり見ていた視線が、やっと上がる。闇が段々と深くなっていく中、人の営みを示す家や街灯の灯りからくる刺激が、ようやく目から脳にまで至る。川沿いの土手道を抜ければ、その光はより多彩になって、今よりもずっと足元も確かになった。

 目を見開いて、息を口から大きく吸って、感じる。夜って、こんなに澄んでいて明るかったんだ。

 道が、前を行く背中が、明らかになっていって、ペダルを踏む足やハンドルを握る手に迷いが減る。途端、自転車の進む奇跡は滑らかなものになって、前の背中がぐんと近づいた。メイはそれにすぐ気づいたらしい。速度を、私に合わせるように上げてきた。今はメイのモッズコートが翻るくらいに。

 ずっと、気にかけてくれてたんだ。

 さっきよりも、景色が早く、前から後ろへと流れていく。土手道を抜けた後は、橋を渡り、それからはあまり行き交いの少ない車道の脇を走って、次は、住宅街の傍を。次々と初めての景色が、あっという間に通り過ぎていく。呆気なくって、闇の中でおぼろげで、見惚れる暇もない。

 そんな世界でもメイだけは流されずに、ずっと目の前に居てくれる。何よりもハッキリした道標。いつも通りとはいかないけれど、あなたは私に触れてから、私の世界のどこかには必ずいてくれた。


 おかげで迷わずに、たどり着ける。

「……綺麗」

 立ち止まって見渡すと、果てまで続く桜色。私たちの住むところから20分ほど離れた一本の川。それを挟む岸と岸を彩るように並ぶのは、人の温かな光で照らされた、河津桜。春を待たずに開く、早咲きの桜。

 闇夜に紛れることなくたたずみ優雅にふるまうのは、間違いなく夜桜。写真でも記憶の中でもない。私たちの体を追い越した風に揺れて花弁は散り、枝は踊る。ただこの瞬間、一秒一秒を生きるのは、生の夜桜。

 思わず口が開く。ため息が零れる。あの時は肩越しに見た景色。今は自分の足で求められ、目に焼き付けられている。また見られるなんて、夢みたい。心のどこかで届かないと思っていた。だって、あの時は家族で来たから。家族とでしか見られないものだって、そんな気持ちがあったのかもしれない。

「久しぶりだ。実際に見るのは。本当に」

 あの時とは違う夜桜だけど、この存在感は、どこも同じように圧倒的なようだ。波を打ち荒れた川の水面の鏡にさえ、濃い桜色ははっきりと染み込んでいる。ここを通る誰もが、この存在を無視できない。きっと夜桜が持っている魔法なのかも。

「上流までライトアップされてるから、もっと奥も見てみよう? 今日は平日で人も少ないし、ゆっくり見られるよ」

 いつの間にか私の真横に立っていたメイは、川の上流に流し目を送っている。私はそれに従って、自転車から降りて、ハンドルを押していく。隣のメイと、歩幅を合わせて。

 土手の道は桜の傘に覆われていた。歩くとまるでアーチをくぐるような気分で桜の世界に浸れた。上にも右にも、左にも後ろにも、桜色。その中を進む。花弁の海を泳ぐ。息苦しくない海の中を。

「メイ、桜だよ、綺麗だよ」

「そうだね、綺麗だね」

「うん、うん」

 花弁がひらひらと舞って、自転車の籠に、メイの髪に注がれた。ついには私の袖や手のひらにも注がれた。染まる。この綺麗な世界に染まる。メイと、私と、桜と、同じ色。息が熱くなる。歓喜を叫びたくなる衝動に駆られる。飛び跳ねて回りたい。そうしないとはち切れてしまいそうな程の充足感。

「メイ、メイ、すごいね。世界いっぱい桜色っ」

「ふふ、そうだね」

「……! メイ!!」

 その瞬間、メイは笑った。だから叫んじゃった。跳ねちゃった。自転車はパタンと倒れて、でも構わずメイの頬に触れた。笑ってる時の頬の形だった。今日は、お姉さんみたいな、大人びた笑い方。すぐに困ったように眉を寄せちゃったけど、笑みを見た時の爆発的な想いは中々収まらない。

「ど、ど、ど、どうしたの?」

「今日ね、メイ、ずっと笑わなかったんだ。今まで一緒に居ると笑ってたのに。でもね、さっき笑ったの。笑った! やっとだ!」

「……そっか、私、せーちゃんの前だと笑ってたんだ。意識して笑ってなかったから、気づけなかった」

「だめな事?」

「ううん、嬉しい事。それはさておき、自転車、倒したままだと他の人の邪魔だよ?」

「あ、そうだ。ごめん、なんか堪らなくなって」

 言われて慌てて自転車を抱き起す。土を払いながら後ろを見ると、観光客だろうか、大学生くらいの男女が私たちを見て驚いた顔をしていた。

「ごめんなさい」 咄嗟に頭を下げると、気にしないでと微笑まれた。恥ずかしくなって、バツが悪くて、私はその二人に道の先を譲った。二人は軽く会釈をして、私たちを追い越していってくれる。

「この先ね、河原まで降りれるところがあるんだよ。人の流れも気にしないで済むと思う。下から眺める桜も、きっと気に入るよ」

 メイは通りすぎる二人を見送り終わると、とっておきのお話をするみたいに耳元でそう囁く。

「なら、そこで」 私は落ち着いた声を繕った。

 さっきの二人のおかげで、幾分か、酔いのような気分から覚めた。道を譲った二人に追いつかないように、さっきよりゆっくり、桜の海を掻き分けて進む。見上げるふりをして目線だけで隣を見る。メイは何を見て、どんな顔をしているのか。

 メイは、空を見上げていた。花弁の密度の小さいところに目を向けて、桜の隙間の暗い空を見上げているようだった。手元で、いつの間にか首にかけていたカメラを弄び、ファインダーを覗くこともなく、ただ瞳に夜を映そうとしていた。真剣というには柔らかく、憂いというには澄みすぎている瞳だった。

 メイの瞳を見ても、振る舞いを見ても、その気持ちは伺い知ることなんて、できそうもない。

 だから私も桜だけじゃなくて、夜空を見上げた。何もかもを吸い込みそうな夜の色と対照的に、ライトアップされて光輝く桜色。きっと青空の下だったのなら、桜はもっとさりげない存在に思えるのだろう。メイはこの対比に何を見ているのか。

「ここから降りられるよ」

 見上げていると、袖を引かれた。立ち止まると、メイが前方を指さす。その方向にはスロープと階段。先には薄暗くて見通しの悪い河原が続く。

 一歩分だけ多く前を進んだメイを追って、伝い降りるスロープの坂。押している自転車のハンドルを強く握って下りきると、ブーツ越しに石のゴツゴツした感覚が伝わった。

「足元、気を付けてね。走ると転ぶかも」

「こんなとこ走らないよ」

「えー、そう?」 メイはそれだけ言い終えるとすぐ、小走りで進み始めた。敷き詰められた石の凹凸で押している自転車が暴れるけど、お構いなしに、しっかりした足取りで進んだ。

 そして河原と川の境界のギリギリまでたどり着くと、比較的安定した場所に自転車を停める。私は呆れながらその過程を眺めた。

「ここが私の一番オススメのスポット。おいで?」

 暗い中で、手招きするシルエットが浮かぶ。メイとは違って私はゆっくりと前へ進んだ。メイの自転車の真横に自分の自転車を置いて、メイの傍らまで歩み寄る。

「川の向こう」

 メイは呟いた。私には目もくれずに、眩しいものを見るような眼差しで前を向いていた。私も、いわれた通りの方向を向いて、息を飲む。

 対岸にも照らされた桜が並んでいた。土手道を沿って並びたつ桜は一本の線のようだった。暗い場所から見上げているせいか、それとも闇を表面に貼りつけた川を越して見ているせいか、桜はまるで宙に漂うよう。

 今までの景色とは、全く違う。地面を這う闇と空を覆う闇に挟まれて漂う桜の線から感じるのは、圧倒的な存在感じゃない。暗闇の中に吸い込まれないよう輝こうとする儚さ。

 ああ、ここにしよう。

 視線が感じられない、振り切れていると自覚できるこの時間とこの場所にしよう。本当は帰り際に果たすつもりだった、メイがいなければ踏み出せないこの一歩を。

「こういう桜も好き?」

「うん。好き。すごくいい。……ねえ、メイ。あの、さ」

「言ってた『我がまま』ってやつ? 聞くよ。ここでなら何でも受け入れられそう」

「本当? 頼もしいな。勿体ぶるのもなんだから、先に話しておくね」

  先に言わないと、逃げてしまいそうだから。なんて、弱音は口にはしないけど。

 瞼を閉じる。深く一回だけ空気を体に取り込んで、吐き出して。冷たさが染みたせいか、気持ちには澄んだ色が混じった。

 大丈夫。心の中で一言だけ呟くと、瞼を開く。目の前のメイは、緊張でもしているのだろうか。僅かに顔をこわばらせていた。

「三つあるんだ」

 右の指を三本突き出して、メイに掲げる。

「最初。これは申し訳ないんだけど、電話を貸して欲しい。この景色を前に、ママと話したくって。

 次。ママと話し終えた私を見て、改めて考えて欲しい。私との、これからの付き合い方を。

 最後。私が決めた事、よかったら、聞いて欲しい。――以上、です」

 三つの指を立てていた手は、メイの前で握り拳になった。途中で逸らしてしまった視線を徐々に戻してメイの表情を窺うと、意外な物を見る目を向けられていた。思わず首が傾く。

「もっとないの?」 メイは言った。肝心なことが他にあるんじゃないか。そう言ってるように聞こえた。

「無いけど」 何を予想していたかは想像がつかなくって、素直な言葉を返す。メイは一瞬、頬を弛緩させたけど、俯いてから自らの頬を手のひらで挟み込むと。

「よし」 それから掛け声と共に顔を上げた。言葉の意味を問いたかったけれど、落ち着きを取り戻した表情を見て、疑問はお腹の底に落とし込む。

「全部承知したよ。せーちゃんには大事なことなんだろうから」

「ありがとう、メイ。いつも助けられてる」

「どういたしまして。といっても、お互い様なんだけどね。じゃあ、はい、スマホ」

 画面に何かの模様を描くように指を滑らせてから、メイは白いスマホを差し出してくれる。私は恐る恐る両手を伸ばして、しっかりと受け取った。画面はすでにダイヤルの画面へと変わっている。

 記憶の中の番号を思い起こして、打ち込んでいく。でも指は強張ってしまっていた。打ちこむのが難しく感じる。たった十桁の番号なのに。それでも打ち終えられて、あとは発信ボタンを押すだけになる。

「……離れていた方がいい?」

「一緒に居て欲しいな。今まで私がママのことを話さなかった分、ここで知って欲しい。私がどういう子供なのか」

「ああ、そういうことなんだ。うん、なら一緒に居る」

 メイはそう言いながらも、立ち位置を変えた。私と桜の景色の間に居たメイは、私の後ろに回ると立ち止まる。特等席を譲られた気持ちになった。ちょっとした、得の味。その些細さが、今の私にはありがたい。

 胸の真ん中を左の指先で軽くとんとんと叩く。顔を上げて、瞳いっぱいに今の桜を映す。ついに、発信ボタンに手をかける。右耳にスマホを当てると、無機質なコール音が響いた。一回。二回。三回。


『もしもし、どちら様ですか』


 ガチャリという音がした次に聞こえたのは、少し高めのママの声。

「清子です。姫宮清子。スマホを借りて、外から電話してます」

『……、なにか、した?』

 そういえば私からこうして話しかけるのは久々だった。どんな言葉遣いをしていたかすら、おぼろげだ。そして私の声を聴いた途端、ママの声色は変わった。落胆したようにも聞こえるような声の下がり方。そしてほんの少しだけの震えが伝わった。

『清子、なんなの』

 急かすような言の葉。なかなか話せない私に対して沸き立ってくる苛立ちを匂わせる。

 切り出したい言葉が、あるのに。どうして? 唇が結んだままで解けない。どうしよう、どうしよう。自分勝手に早くなる呼吸。決めたこともこなせないのかと責め苛む脳みそ。

 何も見えなくなって、でも視線だけは感じる。それでいいのかと問いかけるいつもの視線。さっきのママの声が頭の中でグチャグチャに溶け合って、次第に別の形に置き換わって、響いてくる。


 清子は、本当にこれでいいのね?

 

 これはただの幻聴。私が作り上げた幻。それは分かっていた。けれど躊躇う。私は何も言わない方がいいのだと。このままいつも通りでいようと。私の声が手を招いてくる。心臓が大きく震えた。身体のところどころが痺れた様に感覚が薄らぐ。だけど、だけど――。

 肩越しに、後ろを見た。メイはそこにいる。振り返った私を不安そうな顔で迎えてくれる。突然の約束に、訳の分からない我がまま。その全部を受け止めたうえで、まだ、私の何かを受け止めようとしてくれる。


 何かできることはある?


 唇の形だけで問いかけられる。願ってくれれば、あらゆることを叶えてみせる。そう言わんばかりの切実な響きがあった。声で問いかけられたわけじゃないのに、私の脳の奥にはしっかりと聞こえたんだ。

 ありがとう。でも、平気だよ。私はメイと心から楽しく過ごしたいんだ。メイと私以外の全てを心から追い出して、いつかひたすらに、二人の世界を歩きたい。やっと見つけた私の願い。

 これはそのための儀式だった。これだけはメイの力を借りたらいけない。あの頭から離れない思い出にメイが触れてしまったら、破れなくなっちゃうから。

 なら、やらなくちゃ。言うべきことは、多くないんだから。握りしめた拳の中は、春になりかけの冷気の中でも温かい。

「ママ。今ね、夜桜を見に来てるんだ。ねえ、覚えてる? 昔、パパと三人で眺めたよね。」

『そうだった? 知らない』

「……っ。小学校の頃だよ。そろそろ六年前になるかな。旅行帰りに行ったんだよ。温泉とか動物園とか見て回った帰りに、パパが思い立ったようにふらりと寄って。無計画だったからさ、私なんかすごく疲れちゃってて、寝ぼけたまま、背負われて連れまわされてた。思い出せない?」

『さあ? よく覚えてないけど』

「――。綺麗だったよ、夜桜。皆で見惚れたんだ。ママは美人さんなのに、あの時すっごく間の抜けた顔してたから、可愛くって笑っちゃた。ママも私とパパを見て笑ったし、パパも」

『ねえ、清子。それが何か関係あるの?』

「あの、あのね、写真撮るの上手な子がいるの。私の大事な人。ソメイヨシノじゃなくって河津桜だけどさ、夜桜の写真、きっと綺麗だから、一緒に見ない、かな? それで思い出してくれたなら、また皆で――」

『はぁ……。私はいい。よく分からないけれど、もしかして私が桜が好きとか勘違いして気を遣ったの? いいから。出かけるとか言ったと思えば、そんなこと。夕飯できてるから、帰ったら勝手にレンジで温めて食べて。ないと思うけど、他にして欲しいことはある?』

「……ないよ、何も」

『そう』

 ブツリ。ツ-ツー。

 なんの温かみもない電子音が、会話が終わったことを知らせる。スマホを握った腕を下ろして、対岸の桜を再び仰ぎ見る。

 なんだろうな。この気持ちは何だろう。思ってたのと、違う。私は、報われないあの時の思い出を破り捨てて、前に行きたかったのに。メイと、前に。

 それは今、確かに破り捨てられたはずだった。私の大事なものは何にもママの中に残っていないと認めてしまえたら、罪悪感から逃れられる。そう思ったから破ることにしたんだ。この薄々気づきながらも目を逸らしていた事実を。

 こんなことしても晴れやかな気持ちのはならないのは分かってた。それでも私は冷たい人間になって、冷ややかに諦めるつもりだった。もうメイ以外はどうでも良い。だから熱くなることなんてない。

 そのはずだったのに、なんだ、なんなんだ、この煮え滾る気持ちは、


「バカじゃないの、バッカじゃないの!? あの女、ほんっとダイッキライ。申し訳程度の親アピールも、今までさんざん価値観押し付けて全部捨てさせた挙句に今になって勝手にしろって。全部うざい、うざい、うざい。ふざっけんな!! 何にも覚えてない。『勘違い』? んなわけないだろ、桜が好きなのは私だ。お前に気遣った訳じゃない。私が、私が大事だっただけだ。分かって欲しかった。覚えていて、綺麗だった、また見たいって言ってくれれば……! 分かってる、これも押しつけだって。知ってたよ、なんにも、私たちとの思い出に、縋りたいくらい大事な物なんて、ママには、当然パパにだって、何にも残ってないって」


 息継ぎを忘れて、肺一杯に吐き出して叫んで、足りない、足りない。吸い込む、息を吸い込む。どこかにいってしまえ、嫌いな気持ちなんて、掻き出す言葉と一緒に。

「なんでなんにも、残ってないんだよぉぉぉぉ!!」

 お腹の底の煮えたものを、吠えて吠えて掻き出した。でも消えない。消えてくれない。一縷の望みもないって分かってたのに、もしかして私は期待していたの? ママがもう私を見てくれていないの、分かってたはずじゃんか。

 怒ってる。ママにもパパにも、怒ってしまう程に期待し続けていた自分自身にも。

「消えてよ。嫌いなんだよ。私の中からいなくなれ」

 息も絶え絶えになりながら、河原の石を蹴り上げる。だけど地面を抉りすぎて、躓き、バランスを崩した。暗闇の中で手を付いて倒れる中、蹴り上げられた少ない小石がカラカラと寂しく音を鳴らす。

 河原に付いた左手に石が刺さって痛かった。右手はスマホを庇ったせいで、不格好に捻られていて、こっちも痛かった。涙が出てきた。耐えられない痛みじゃない。でもこんなに簡単に泣けてしまって、自分がもうよく分からない。

「せーちゃん……」

 河原に倒れる私に、手を差し伸べてくれるのはメイ。でもその手を見て、衝撃を受ける。頭をトンカチで殴られたような衝撃。

 今の私を全て見られていた。実の親を口汚く罵る子供。

 傍から見たら、最低だろうな。見誤った。動けば前に進めると思ったのに。悪戯にママを困らせて、メイも無意味に引っ張ってしまって、あげくはこんな姿。

 その手をどんな表情で伸ばしているのか、想像したくもない。でもジっと手を見ていたら何かに気づいてしまう気がして、視線を伏せる。

「はぁ……」 頭上から溜息が一つ零れると、視線の外から手が引っ込む気配がした。ああ、やっぱり失望されたんだな。楽しかったのに、これから先にメイと一緒に過ごす未来を描いていたのに、ここで潰えるんだ。また、何かが零れていく。

「やだ……、メイ、行かないで」

 口から出してみると、なんて情けない言葉だろう。でも届かないよりはいい。そこにあったはずの手を追いかけて、縋るように腕を上げる。きっと今にも遠ざかっていくだろう背中を引き留めるためなら、足にだって組み付いてやるつもりだった。無理やりでもいいから、離れるなら引き留める。

 今までのように、諦めたくない、メイだけは。

「いや、どこにも行くつもりはないんだけど……」

 このまま遠ざかると思っていた背中は、見えなかった。顔を上げれば、背中の代わりに気まずそうに頭を掻いているメイがいる。てっきり、このまま逃げていくのかと思ってたのに。

 はぁ。メイはもう一度溜息を吐くと、体勢を崩したままの私の隣に座りこんだ。「つめたっ」なんて声を漏らしながら。ゴツゴツした床に座る瞬間に苦そうな顔を浮かべながら。

「どこかに行かれると思ったんだ?」

「だって、あんな汚いことを。親不孝者だって見損なわないの?」

「……誰でも少なからずは思う事あると思うけどね、そういうこと。私たちは子供だから」

「でも――」

「こんな言葉じゃ安心できないの、知ってる。最近の私の態度で余計不安にさせたと思うし。それは、ごめん。でも私はせーちゃんを見損なったりしない。安心してほしいんだ。せーちゃんが私をここに連れてきたように、私もせーちゃんと居る理由があるんだよ。少なくとも、私からは離れない」

 声色はどこか切実だった。励ましの想いも確かにあっただろうけど、それだけじゃない気がして。だから、信じられる気がした。分からない何かがメイにとっては大きくて、それが私の中にあるんだって思えるから。

 情けなさと汚さを晒した恥じらいが浮かぶ余裕もなく、安堵した。よかった、メイが、ここにいる。

「どこか痛い?」座って見下ろしてくるメイは問いかける。

「手が。でも平気」 目線を合わせたくって、転んだきり崩していた大勢を正す。お尻の下に、ひんやり、ごつごつした感触。これでメイと、同じ高さ。

「あ、スマホ。ありがとう、こんな事のために借りてごめんね」

「いいよ。怒った勢いでぶん投げられるんじゃないかって、ヒヤヒヤしてたけど」

「そんなこと、」

 しないよ、なんてはっきり断言はできなかった。自信の無さを見透かしたようにメイにニヤリと笑われて、私はなすすべもない。抵抗は肘で小突くだけに収めた。メイはくすぐったそうな顔をする。

「変なこと言っていい?」

「いいよ」 拒否する理由なんてなかった。

「もっと泣かなくっていいの? もっと怒らなくっていいの?」

 まるで空模様を聞くような口調だった。なんでもない事のように振舞うメイに、私は三回、瞬きを繰り返す。そういえば私は泣いていた。

「メイのことに必死過ぎて、頭から飛んでた。でも、どうだろうね。残ってるかな、苛立ちとか、泣きたい気持ちとか。一番大きいのは、開き直り切れない自分が嫌かなって気持ち。本当はすっぱり諦めるつもりだった。薄情者になって、そんな私でもこれから仲良くしてくれるか、メイに決めてもらうつもりでいた」

「まるで反対になっちゃったね」

「ほんとにそう。分かんなくなっちゃったな、自分がどうするべきなのか」

 いっぱい怒って、ちょっぴり泣いて、残ったものは多分、不安だった。メイだけを見ていくつもりだったのに、それが今も出来ていない自分を知って揺らいでいる。

 ママとはもう元に戻れない。パパに関してはとっくに諦められていた。はっきり言って二人のことはもう嫌いで、どうでもいいことだと、今は確かに思える。

 でも思い出のママは、好き。私を探してくれたママには今も申し訳なく感じている。桜の下に居たあの時も。あれは確かにあった出来事で、今も残っている感情。あの時のママだけには何かを報いたい。でなければ、罪悪感は拭えることはありえない。

 それが私の中でハッキリと見えた気持ちだった。でも、私はメイのことが大事。でもママには報いたい。でも――、でも――。

「何に迷ってる?」

「なんていうんだろ。今までは霧の中でどこにいけばいいんだろって感じだったんだ。今は分かれ道の前で悩んでる感覚。どっちに行っても、大切がある」

「その片方は私だね」

「合ってるけど、自分で言ってて恥ずかしくない?」

「うん。でも私は、それを望んじゃっていたから」

「……?」

 また、分からなくなる。今、どうしてメイが痛みに耐えるように表情を歪めたのか。ここは軽口を言い合って、いつかのいつも通りに笑い合うところだと確信していたのに。

「せーちゃんが何かを決める前に、切り出せてよかった。ずっとタイミングをつかみ損ねてたけど、今しかない気がする。せーちゃんには悪いけどね、お母さんのこともあるのに」

「どういう事?」

「おはなしがあるの。時間が欲しいって言ったでしょ?」

「覚えてるけど」

「それ、今ここで使う。じゃないとせーちゃんは決めちゃう。そういうとこまで来てる気がする」

「私でも分からないことが分かるの?」

「本人じゃないから分かることもあるよ。激流はいつか凪ぐもので、激流が迷い。奔流の中じゃ、先なんて見えないものだから。行きつく場所が決まる前に、凪ぐ前に、あなたが行きたい場所に行けるように頑張りたいって思ってる」

「……」

 メイがこんな言い回しをするのは、どんな時だったか。前に一回だけあった。なんとなく詩的な言い回し。あの時は自分を渡り鳥だって言ったっけ。

 おそらくだけど、分かった。メイが自身のことを考える時は、こういう思考に切り替わるんだ。これから語られるのはそういう事。

「だったら、話してよ。メイのことを」

 それならずっと聞きたかった。それが私にどんな影響を出すのか。メイは何を気にしているのか。それは知らないけれど、どんなことになったって、どんな状況だって、聞きたいと思う。

「せーちゃんも察しが良くなってきたね。私を見てくれてる。願ってたけど、やりづらいなぁ」 

 体育座りをしていたメイは、膝の間に顔を埋めた。こんな自分を見て欲しくない。そういう空気を纏っていた。そのままくぐもった溜息を吐くと、はっきりしない声で語り始める。私は耳を近づけた。

「『姫宮清子が気になった理由は一目ぼれ』。前にそう言ったじゃない? それは本当だけど、最初だけ。独りでいるあなたを見て、期待しちゃったことがあるんだ。隠してたこと」

 メイは右手を地面につけて、河原の小石を摘み上げて、手の中で弄ぶ。

「人の中にいて、私は上手くやれてたよ。自信ある。でも紛れても塗れても群れても、ずっと寂しかった。私がいなくても、誰かは誰かと楽しくなれる。私が消えても、この世界は他の楽しい誰かに溢れてる。それに気づいたら、家族ですらそうなんだろうなって。そう思って辛くなった」

 メイの手の中から小石が漏れて、からりと音を立てて転がった。メイはそれを拾い直して、また弄ぶ。

「だからね、なんというか、私は私だけになりたかった。『私』ってブランドが付いた、世界に唯一の私。替えがきかない存在。とんでもない下心。そしてあなたは、ついに私の理想とは少し違った形でそれを叶えてくれた。やっと掴んだ幸せ。」

 言葉とは逆に、メイは右手をパッと開いて、全ての石を手放した。まったく知らなかったメイの願いに、私は唾をごくりと飲み込む。

「分かった気になるなって突き放されて、やっと気づいたんだ。私は私のことばっかだって。恥ずかしかった。だけど退けなかった。でも結局受け入れられて、不相応にも思い通りに救われた。自分勝手を通したまま、お互いが『唯一』になってしまった気がした。手放せない。ならせめて今が続くように頑張ろうって思ったの」

 右手は宙をさまよって、止まる。宝石の入ったショーケースのガラスに触れるみたいに。私は何も言わず、その手の行方を見守った。お互いが『唯一』。その言葉を聞いて溢れた熱を抑えて、黙って相槌だけを打つ。

「だけど浮かれてたみたい。将来で悩んだあなたに言ったよね。『一緒に』って。悩ませて、正直すごく落ち込んだ。私がいなければ、もっとあなたは自由に道を選べたかもしれない。私が、私の気持ちが枷になってる。想像が膨らんで、怖くなって、逃げちゃった」

 やっと、私が知っているところまでたどり着いた。メイが私にしばらく会わなかった期間。その理由が、ポロリと零れる。徐々に途切れたあの時間の中で、メイは苦しんでいた。あの時の自分が思っていたことを考えると、脈が早まる。

「私は飛ぶことを忘れて、肩に留まって餌をねだるだけの卑しい鳥さんなんだ。最近だって、逃げたくせにあなたと桜を見ることを夢見て、ここにしばらく通い詰めてたんだよ。案内、できるようにって。そしたらそっちから誘ってくれて、嬉しくって、そうなる自分に呆れちゃった」

 アハハと乾いた笑いを浮かべると、顔を上げる。力の抜けた表情。だけど意外なことに、無理をしているとか、苦しそうだとか、そういった面影は見えなかった。

「あなたが天秤の片方のお皿に乗っけてるのは、こんな感じの人間。秘めておきたかったけど、いつか裏切られたって思われるのが怖かったんだ。私をいっぱい見てくれてるあなただから、気づかれる予感があったの。それと、決める前に、知らせるべきだと思った。

 ……以上だよ。ご清聴ありがとね」

 すっきりした。そう言って仰向けに転がる。今の表情は少し冷めていて、だけど自然で。だから分かったんだ。今までのメイは気持ちに火をくべてから私に会っていた。

 張り切って、虚勢を張って、自分が望んだ以上の結果に見合おうと頑張っていたんだ。最初の顔も、それから見せてくれた顔も、メイの本来じゃなかった。頑張ってた姿だったんだ。

 もう、疲れちゃったんだね。お疲れ様。もっと早く言ってくれればよかったのに。私は確かに幸せだったんだから。

「三つ目の我がまま、早く聞かせて? 寒くなってきちゃった」

 膝を擦りながらメイは言う。それ以外の会話は望んでいないことは伝わった。今の今で知ったことを考慮して早く決めろだなんて、自分勝手が過ぎるよ、メイ。

 だけど待つ時間は苦しいと思うから――。

「十、数えてよ。考える。メイのカウントだったら甘えられないから、お願い」

「そこはスパって決めて欲しかったけど、分かったよ。それで絶対応えてね、私に数えさせるんだから」

「分かってる」

「じゃあ、十」 

 ごめんね、これはちょっとした意地悪だ。

「九」 

 勝手にどう思われるか決めて、今まで何も話さなかったから、私は拗ねてるんだよ。

「八」 

 だから意地悪。メイはまた私のことを見透かした気になってる。それ自体は構わないけど、勝手に傷ついて、

「七」 

 勝手に確信して、死刑宣告が来ると思い込んでる。

「六」 

 取り乱さないように、諦めた振りをしてる。精一杯かっこつけてる。

「五」 

 余裕の皮をはぎ取りたかった。

「四」 

 死刑宣告が来るタイミングを自分で秒読みするなんて、居たたまれない気持ちでしょ。

「三」

 ほんとは十秒も要らないんだ。

「二」

 私の気持ちは、メイの話を聞いてる途中で決まっていたもの。

「一」


「ママが望んでた道を目指すよ。メイと一緒の高校には行かない」

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