第三章 残るもの

 はぁぁぁぁ。

 声が漏れた隣を見てみると、最近は乾燥気味だと言っていた唇から出た息が、白い煙となって空へと昇り、消えていく。今日は厚い雲が空を覆っていたから、その息の行方を見失うのは容易かった。

「大きい溜息だったけど、なにかした?」

 冴えない顔つきで自転車を押す彼女の腕を、私はポケットに手を入れたまま肘で小突くと、肩をピクリと震わせる。立ち止まってこちらに向いた顔についている眉はハの字を描いていた。

「最近どんどん寒くなってるじゃない?」

「まあ、そうだね。それが?」

「寒さにお強い私だけどね、ついに今日、手がかじかみました。シャッター切りにくいよぉ……」

「なんだ、そういうこと」 私は鼻から一息ついた。吐いた息は、さっきのため息よりも早く霧散する。

「む、大したことないとか思ってる?」

「なにその面倒くさい反応。いや違うよ。ものすごく悪い類の悩みじゃないって分かって安心しただけ」

「あら、そうなんだ。せーちゃんは心配性だね」 

 清子。せーちゃん。私のことをあだ名で呼ぶようになった彼女は、冬になって肩まで伸びた髪の先を弄びながら、小さくはにかむ。髪が今くらいになってから見せるようになった、年相応の少女らしい笑い方。

 私はまだその笑みには慣れなくって、その表情を見る時は彼女の顔を真正面に捉えないようにしていた。

 そうしないと痛いのだ。彼女を知れば知るほど、感じられる色が増えた気持ちになって嬉しくなるのに、なぜか痛くなる。嬉しさに至るまでの道のりに、まるで罠でも仕掛けられているみたい。

「聞いても毎回はぐらかすけど、なんで時たま視線を逸らすのさ」

目を晒されるのがメイは不満らしい。こうなる時はいつも、視界の端の彼女は頬を少し膨らませて睨んでくる。私だって、好きで逸らしているわけではないのだけど。

「別にいいでしょ。悪い意味じゃないからほっといて」

「つめたいなー」

「そう感じるなら冬のせいだよ。ということで、はい、これ」

 理由はあれど気を悪くさせるのは申し訳ない。私はポケットに入れていたものを右手で摘み上げて手渡す。

「メイ、さっき言ってたでしょ? 手がかじかむって」

「え、カイロじゃん! 助かる! でもいいの? せーちゃんが寒くない?」 くたくたのホッカイロを両手で掬うように受け止めたまま、じっとこちらに瞳を向ける。変なところで律儀だなって思った。

「いいよ、私はそろそろ家だし。メイはどうせまた、どこか回ってくるんでしょ?」

「うん、そのつもり。なら貰っちゃうね。ありがと」

 受け取ったものを両手で包み込むように持つと、幸せそうに頬を緩ませる。今日は偶々持っていただけだけど、明日からは多目に持ち歩くようにしておこうか、忘れなければ。

「でも自転車押しながらだとぬくぬく出来ない……」

「あ、そっか。なら別れるまで私が押すよ。メイの方が帰り長いんだから、これくらいはさせて」

「えー? 申し訳ない気もするけど……」

「気にしないで。普段から鞄の分は楽させてもらってるし。これくらいは」 

 荷台に突き刺さった太ったカバンを指さす。置かせてもらっているおかげで、最近は肩の軋みから解放されていた。

「まあ、そういう事なら。でも面倒になったら言ってよね」

「わかった」 ハンドル部分を預けられて、おっかなびっくりと受け止める。しっかりと握った部分は生ぬるかった。前に力を掛けると、カラカラと音を立てて前へと進んでくれる。私はそれにつられるように歩みを始めた。少し遅れて、メイ――私が考えた有広美鳴の愛称――も私についてくる。


 こうして季節は廻り、新しい年を迎えてしばらく経ったけれど、私の生活は変わったり、変わらなかったり、元に戻ったり、まちまちだ。


 まず、変わったもの。

 時々だけどメイと一緒に休み時間を過ごしたり、時にはお昼を食べたりするようになったこと。今は私のお気に入りの土手沿いの道を二人で帰るなんて行為までしている。短くはない時間をかけて、私はメイに少しだけ絆された。

 最初はメイの人間関係を気にして遠慮する気持ちがあったけれど、内心を素直に話すとメイは頬を染めながらこう言った。

「せーちゃんは私に『友達がいる』って言ったけど、違うよ。私は色んなとこにいい顔してただけ。誰の友達でもあって、誰とも友達じゃなかったよ。渡り鳥ってやつだね。でも渡り鳥は、その場所がずっと心地いい場所になるんだったら、わざわざ移り渡ることなんてしないって思うんだ」

 顔を赤くするくらいなら、気取った言い方しなければいいのに。

 ぼそっと、そう溢してしまった時のメイの顔は面白かった。岸に打ち上げられたフグみたいだった。


 次に、変わらないもの。

 ママは相変わらず私と目を合わせてくれなかった。今も家では一人でご飯を食べるし、出かける時も帰るときも、そこにいるのは無音だった。これだけの時間がたっても慣れることなんてない。

 すれ違う時に顔を背けられると、私はひどく自分を責めたくなる。よく自分の存在意義について考え込んで眠れない時もある。ママが私に求めることに精一杯応えたいとは思っているけれど、ママが私に何を求めているのかが分からない。

 今も裏切り続けているんじゃないかという不安が、足元にずっと絡みついて仕方がなかった。


 最後に、元に戻ったもの。

 結局、メイと居る時間以外は以前と同じままだった。同じというと、ひたすら勉強に励んでいるだけの時間に戻っている。

 時間があれば単語カードを捲って、授業中は自分で定めた範囲に到達するまでひたすらテキストに向かい、時には氷室さんが与えた課題に取り組む。それにママが関わることはなくなったけれど、戻って、続けている。

 ママが私に願った幸せを追う努力を何かしらしていないと罪悪感に襲われそうだったし、もしかしたら続けるうちにまた前に戻れるんじゃないかという期待もあった。少なくとも、家で一人になる前くらいの関係には。

 でもこの生活に戻った一番大きな理由は、消去法なんだと思う。

 結局、今の私が持っているものは、スマホも雑誌も漫画もぬいぐるみもなく、参考書の類だけ。これをやる以外のことが、今の私には分からない。

 何もせずにただ過ごす日々に耐えられるほど、私は強くもない。今のママなら言えば何かを買い与えてくれたかもしれないけど、それができる図々しさもない。だからやるしかなかった。


 不変と可変が入り混じった世界を、私は今日も生きている。今日は帰ったら、氷室さんと勉強する時間が待っている。いつも通りと思い込める時間が続く、続く。


「今年は雪がないから、寂しさが目立つよねぇ」

 私が少し先のことを考えていると、メイは吐息を溢すように呟いた。視線の先には、遠くそびえたつ山々の群れ。葉の色の一切がなく彩に欠けたそれは、花の添えられていない剣山のよう。寂しいと称するメイの気持ちは何となく汲み取れる。

「春が、待ち遠しいねぇ」

 懐からカメラを取り出し、掲げたと思ったら、パシャリ。特にアングルやカメラの設定を練ることもなかった一枚の写真は、出来栄えが確認されることはなかった。そのままストレージの中へと埋もれ消えていくのだろう。

 何か言及しようかとも思ったけれど、メイは子供っぽくない表情をしている時に私が何か言うとよく不満そうな顔をする。だからやめておく。ふざけたい時ならそうしたけれど、今はそういう気分じゃなかった。

 浸りたい気分は同じ気がしたから、そのままで。その後は特に会話をすることもなかった。

 耳を澄ませば、川の流れが生むコポコポとした音。枯れ木に割かれた風のヒュウヒュウという音。そして私たちが立てる足音や自転車の音。

 それらだけを耳の中に反響させて歩き、私のポケットの中のカイロの余熱が完全に冷め切った頃になると、目の前に岐路が現れる。私が帰る道と、メイが帰る道。私はメイを見つめて立ち止まる。

「帰れるかい?」 肩を軽く押されてよろめいた私の手から自転車のハンドルを奪ったメイは、からかうように悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「帰れるよ。だからここでバイバイ」 迷惑な表情に見えるように、眉間にしわを寄せて私は答える。早く行けと手を払う動作をすると、メイは困ったように片目だけを細めながら肩を竦めた。それから思い付いたように手のひらの上に拳を乗せる。

「そだ、ホッカイロのお礼」 薄っぺらい鞄に手を突っ込んだと思ったら、取り出した一枚の紙を私に握らせてきた。

「見せようと思ってたんだけど忘れてた。好きでしょ? 動物。猫とった」

 渡されたのは写真だ。メイは上手く撮れた物があるとき、たまにこうやって現像して渡してくれる。メイはこう言ったけど、忘れていたんじゃなくって、多分、勿体ぶってタイミングを逃していたのだと思う。

 窺うように向けられる瞳に促されるまま見てみると、神社の境内で戯れている数匹の猫がいた。至近距離で写されているのに、不思議なことに撮り手のことなど気にしていない様子だった。猫の写真は、これで四枚目。

「相変わらず上手いね、猫撮るの。うん、可愛い。自然体で好き」

「えへへ、気に入ってくれて嬉しい。その顔撮っていい?」

 メイは口角を指で持ち上げながら、からかうように言う。おかげで自分が今どんな顔をしているのか自覚が出来た。唇をギュッと結んで首を横に振る。

「あら残念。まあいいや。引き留めてごめんね。ばいばーい、また明日」

「ごめんは余計。うん、また明日」

 それだけ言えばお別れは済んで、メイは別の道を進んでいく。私も習うように進んで、だけど二十歩ほど歩いて、振り返ってみる。メイは振り返らず進んでいた。でも、進んでいる距離は私よりも断然短い。

 ああ、良かった。なんとなく安心してしまう。写真を抱くように胸に置いてみると、ホッカイロの熱を思い出す。

 でも一瞬だけ思ってしまうのだ。どうしてこの熱が私に優しい熱なのだろうと。痛みをくれる程に熱くなくていいのかと。

 臆病に駆られた私は、メイが完全に見えなくなったところで、自分の頭に自分の拳を落とした。


 家に帰って私を出迎えるのは、いつも通りの無音。返ってこないと知りながらもあげた「ただいま」の声は、家の中にしみ込んで消えた。

 自室に上がって暖房をつけると、さっき貰った写真を机の上の秘密の場所に忍ばせる。そのあとは前に氷室さんが来た時に渡された英語のテキストの確認に臨んだ。今日は氷室さんが来る日だったので、来た時に疑問に思ったところや間違った場所の理由を説明ができるよう、シミュレーションしておく。

 それが済むと、冷蔵庫から持ってきていたお茶を二つの紙コップのうちの片方に注いで飲み干し、新たに作った単語カードの束を捲って時間を待つ。七枚目の熟語まで目を通したところで、下の階からピンポーンとシンプルな電子音が聞こえた。私は紙コップとペットボトルを机の隅に追いやる。

 しばらくすれば足音が下へと下り、ガチャリと扉の開く音。私はその間にもう一度英語のテキストに目を通す。一分もしないうちに戸を叩かれたので、いつも通り招きいれるための言葉をあげると控えめに戸は開いた。

「こ、こんにちはー?」

「こんにちは、氷室さん。お待ちしてました」 相変わらず音を殺すように入ってきた氷室さんへ、空きの椅子をずいと押し出す。遠慮がちに腰を沈めた氷室さんは、目を伏せながら、自分の左右の指と指を絡めたり合わせたりしていた。

「どうしたんですか?」 思わず尋ねる。ママと私の関係が変わってからも氷室さんは相変わらず気弱だったけれど、今日は特段戸惑っている様子だったから。いつもよりもアクションが多い。

「あぁ、えっとねぇ……」 元々小さい言葉をさらに小さく、その語尾はさらにさらに小さくして、氷室さんはモジモジとする。

「ごめんね。本当だったらもっと早くに聞くべきだったんだ。でも自分で言うまで待つべきなのかなって思って、言えなくって。でもそれって私が逃げてただけなのかもだけどぉ」

「えっと?」

「あ、えっと、つまり……、清子ちゃんは、どこの高校に行くつもりなのかっていう事を、私、聞けなくって。――ごめんなさい」

 擦り切れそうな声から出されたのは、聞きなれない文字の並びだった。だからすぐに聞き直す。「なんて、言いました?」

「んと、清子ちゃんの、進路のこと! ……です」 

 はっきりと言おうとして力んだらしい。声のボリューム調整を狂わせた氷室さんの言葉は、今度はよく耳に届く。私の、進路。

「言い訳だけど、うちのところ、こういう進学のお話が今まであまりなかったからテンプレートも指示もなくって。所詮、ローカルの小さいところだから……。でも私なりに考えて、今まで渡した問題の中にちょくちょくね、有名高の難問は結構混ぜてて、どこでも対応はできるようにって考えてはいたんだけどぉ」

 氷室さんは懺悔でもするように、手を合わせたまま言葉を続ける。

「一つ言っておきたいのは、今すぐ決める必要はないっていう事。清子ちゃんは初見の問題でもいい割合で解けてるから、大丈夫な筈なんだ。だから今すぐ行く高校の対策問題に取り組むとかってことじゃなくって」

「……」

「あのね、私、聞きこうか迷っちゃってたの。いつ聞くべきなのかも。でも、この間、先生やってる友達と相談したら、怒られちゃった。なんのために、今のところに就いたんだって。……これは私事だった。ごめん、関係ないや」

 氷室さんは自嘲気味に笑みを溢す。その表情に、私の口の端がピクリと震えた。気を遣わせて、悩ませていたのか、私は。勉強のことならいざ知らず、それ以上のことで。

「私のことはさておき、お母様には改めてさっき聞いてみたんだ。具体的な学校はあるのかなって」

「ママは、なんて」

「好きなところに行けって。最初はとにかく難関校って言ってたのに、今はそう。もっと聞こうとしたら、あしらわれちゃった」

「そう、ですか」

 本当は、もっと言うべきことはあるんだと思う。謝罪なり、お礼なり、これからの私の選択なり。でも今の私には発言の選択をする余裕はなかった。

 私は甘く見ていたのだ、氷室さんの存在と役割を。それを慮ることができなくって、必要以上の負担をかけてしまった。

 それに、勉強の意味すら分かっていなかった。何も考えずに、思考停止で機械のように筆を動かして、情報をただ頭に入れていた。それだけしていれば許されるとでも思っていたんだろうか、私は。

 その結果がこれだった。意識すらしていなかった当たり前のことが、脳みその容量を食いつぶす。冷静な判断ができそうにもなかった。手の平の中が、まともにペンも握れない位に、汗で濡れている。

「清子ちゃんにとって、難しい話のなのは分かるんだ。でも、ゆっくりでいいから考えてみて? 決まったら、基礎は高いレベルで身についてる清子ちゃんなら、今後の勉強はかなり楽になってくるはず。もし断片的にでも理想ができたなら、話してくれれば調べて希望に沿う学校も探すから、気軽に言って?」

「……はい」

「うん。じゃあ、今日はこの話はおしまい。まだ始めたばっかだけど、少し休憩しよっか?」

 こくり。ついには話す気力もなくなって、私は小さく頷くだけで応える。傍から見たら私の不愛想だっただろう反応に、氷室さんは申し訳なさそうに、ごめんねと呟いた。


「今日は、長文問題だけにしぼってみよう」

 カップ一杯分のお茶を一口ずつ飲み、空にし終えると、氷室さんは手を合わせながらそう言った。私から特に否定する素振りがないのを確認すると、氷室さんは最近やけに分厚くなってきた大きいショルダーバッグを開いて、いくつかあるファイルの中のプリントをつまみ上げる。

 それらを悩まし気な声をあげながら目を通し、それが終わると数枚のプリントは両手を添えて差し出された。私も同じように両手で丁寧に受け取る。

「いつも通り、大問1個ずつを十五分目安で解いてみよう。終わったら見直して、解説。あとは確認で和訳していく流れで。大丈夫かな?」

「分かりました」

「よし、じゃあ始めて」

 ピッと、氷室さんが気に入っているらしいトマト型のストップウォッチから電子音が鳴る。それと同時に私はペンを執った。

 そのあとは氷室さんが言った流れを四回繰り返して、特に大きな問題はなく今日の時間は終わる。

 少し気になったのが、今回の長文はどれもジョークの利いた笑い話から引用した英文が用いられていたことだった。そのうちの一つはすれ違っているのに何故か話が噛み合ってしまって、最後にやっと間違いに気づいた二人がお互いを馬鹿にしながら笑い合って終わるといったもの。

 きっとこれも氷室さんなりの気遣いなんだろう。ありがたい気持ちでいっぱいだった。  

 でも、だからこそ不安なのだ。その気遣いに応えられる選択を私が掴めるのだろうかと。私のこれからについて、早く答えを出すべきなのに、今の私にはその回答の糸口すら掴める気がしなかった。


◆◆◆


「わわ、ちょ、ストップストップ」

 高い声が鼓膜を叩いたと思ったら、いきなり首が絞められる感覚に襲われた。思わずゴホゴホと咳き込む。どうやら後ろから制服の襟首を掴まれたらしい。

「メイ……?」 恨めしい気持ちで後ろを振り返ると、慌てた様子のメイがたじろいだ。

「悪かったよぉ、強くやりすぎた……。いや、でもせーちゃんも悪いんだよ? このままだとゴロゴロ転がって冬の川へダイブだったよ」

 メイが首をしゃくるから、私は自分の進行予定だった方向へと向き直る。一歩先には土手の側面の坂。私は反射的に運んでいたメイの自転車を引いた。反射と言っても、ずいぶんと反応の遅い反射だけど。

「ごめん、落とすところだった」

「んあ? いやいや、自転車は良いよ。丈夫だし、もし壊れても足で走ればいいし。せーちゃんが落ちなくて何より。もし落ちてたら私も一緒に落ちようかと思った」

「ふふ、なにそれ? 何の意味があるの」 当たり前のように一緒に落ちる宣言をしたメイの発言が面白くって、こんな冗談も言えるのかと口元を手で隠して笑う。でも、メイはしばらく固まったあと、首を傾げ始めた。

「……? えぇー、あれ、なんでこんなこと言ったんだろ? まあでもやっぱり落ちるよ。落ちたい。意味なんてなくても落ちたい」

「なにそれ怖いんだけど。『冗談』って言うのかと思った」

「ひどい。その反応ちょいと傷つく。――まあ何にせよ、せーちゃんが落ちなかったら何も起きずに済む話だかんね。気を付けて?」

「う、うん」 

 言いたいことはまだあったけれど、今回は素直に頷くだけにしておく。メイの理解しがたい部分が見られて、正直もう少し掘り起こしたい気持ちではあった。

 でもことの発端は私で、メイはただ純粋に気を遣ってくれただけ。彼女の不思議を探る機会は今じゃないだろう。

「にしてもだよ」

「ん?」 

 珍しく唇を尖らせて、怪訝な視線を向けるメイ。私はその視線を瞳で受け止める。いつもなら見つめ返すと一瞬だけ目が泳ぐのだけど、今回は動じなかった。その一方で、唇は一瞬、躊躇いの間を結ぶ。

「……あのさ、最近ボーっとしすぎじゃない? 二週間前くらいから傾向はあったけど、ここ数日は特にひどい」

「そうでも、ないと思うけど」

「そっか。それでも深く聞くのは、せーちゃん的に合ってる? 間違い? どうした方がいいとか、ある?」

 瞳の色は、不安の色に変わる。声にならない問いがあった。私はまた何か見透かした気になっていないか。そういった問いが。

 頼りがいがあるから、忘れていた。彼女は辛抱強いけれど、繊細でもある。本音を言えば、この悩みはメイに打ち明けるべきではないと感じていた。だって私の問題だから。

 けれど隠すのが下手な私がこの悩みを秘めていても、メイの不安を煽るだけ。

「ごめん、メイ。迷惑じゃないなら、もう一回聞いて欲しい。『なにかあった?』って」

「迷惑じゃないよ。なにかあった?」

 こんな変なお願いを間髪入れずに返してくれるとは思わなくって、つい呆気にとられる。相変わらず考えてしまう。どうして私なんかの傍にいるのか。世界でも救いに行った方がいいと思う。

「進路に、悩んでる」

「進路。どこの高校に行くかってこと?」

「うん。馬鹿らしいかもしれないけど、悩んでる、ずっと」

「そうなんだ」 メイは少し顎を引いて、言葉を探すように視線を左右に振る。「なにか、気がかりでもあるの?」

「それすらないよ。私には思い浮かぶ選択肢が――」

「じゃあ、私と一緒に居てよ。近くの公立いくから、一緒に行こ? 私とせーちゃんの成績ならひゃくぱー受かるよ」

 食い気味に言う。その瞳には期待が浮かんでいた。でも次の瞬間になぜか潜めた眉が、引きつった口の端が、その瞳をくすませる。

 メイと、同じ学校へ行く。すぐに浮かびそうな選択肢すら思い浮かんでいなかった自分が意外で、信じられなかった。中学に入る前は、人間関係を優先してママを裏切るくらいのことをした私の癖に。

 すぐに、頷けなかった。頭にチラつくのは、ママの顔だった。

「『いいよ』とは言ってくれないんだね」

「……ごめん。嫌って訳じゃないんだけど」 表情から深刻そうな要素を消したメイの意図が分からなくって、誤魔化すように謝罪を口にした。

「いやいや責めてないよ!?」 メイは目を大きく開いて首をブンブンと横に振る。

「唐突だけどさ、せーちゃんは、私にあんまり自分のことを話さないようにしてるよね。お母さんのこととか、勉強してる理由とか」

「頼りないとかじゃ、ないよ?」 確かにその通りだった。私自身のことはあまりメイには話していない。

「そう。『力になりたいから話して?』って言ったら、話す?」

「それは、ごめん。でもこれも私の問題だから、メイが悪い訳じゃない」

 本音だった。今よりももっと、甘えてしまいそうで怖かっただけだった。そうなった時に、私はママに対して何を言ってしまうのかが分からなくて、躊躇っていた。

「きっと本当にそう思ってくれてるんだよね。それでも話せないのは、後ろめたいものとか、悪いなぁって気持ちとか、いっぱいグルグルしてるんだと思う。……あ、これも分かった気になってる発言、かな?」

「気にしないで。どうしてそう思ったの?」 

「まあ、弟の表情と似てるんだ。自分の体調で周りを振り回してたのが申し訳なくて辛かったって言ってた時に、こんな顔してた」

「そうなんだ」 何となく、共感が出来た。共感ができると、自分の中の想いが少し分かった気になれる。私のは、メイが話すような罪悪感だけでは、ないのだろうけど。メイは苦い顔をしながら、話を続ける。

「そういう時って、避けたがるんだ、色んなことを。吐くのが嫌で食べなかったように、世話がされるのが嫌で家出をしたように。確かにあるはずの前に進む選択肢が、自分を許す気持ちが出てこないの」

 話を一旦止めて息を大きく吸い込むと、メイは柏手を唐突に打った。パン。小気味のいい音が、少しの風圧を伴って響く。大きな音を出すつもりではなかったようで、メイは一瞬だけ目を丸くする。

「ま、話は戻るけどね。べつに、私と来てくれないと嫌だっ! なんて言うつもりじゃなかったんだよ。まずはこういう選択肢もあるんだって、伝えたかっただけ」

 さっきとは打って変わって、おどけたような声だった。手を遊ばせながら言葉を弾ませるメイは、大体いつもの明るいメイだった。

「よく吟味してみて。それで私と一緒に来てくれるなら嬉しい。でも引っかかることがあるのなら、徹底的にその気持ちと向き合ってみたら、何か見つかるんじゃない? 気持ちってあやふやだから、何かと照らし合わせないと見えないもんだよ」

 グイっと、伸びをしながら、こちらを窺われる。答えを待っていた。でも私はメイの言葉に、私はまだ具体的な光は見えないでいる。何かは見つかりそうな気がしたけれど、それは遠くて。

 だから返事を詰まらせていたのだけど、メイは何度も何度もしつこく瞬きを送ってくる。分かりやすい催促だった。

「分かった。やってみるよ」

 とりあえず絞り出せたのは、この程度の解答。それでもメイは満足そうに頷いて、頑張ってとエールを送ってくれる。

 ここまで話すと、ちょうど別れ道に差し掛かった。今日の二人の時間は、もうおしまい。

「バイバイ」「また明日」

 いつもの文言を交わして、別々の帰路へと付いていく。そしていつも通り、何歩か進んでから振り返る。その瞬間、ひと際強い風が吹いた。風を切る、裸の木の枝は、高い音を鳴らす。

 メイは一歩も動かずに私を見つめていた。立ち尽くして、小さく開かれた唇が動くのが微かに見える。乾燥のせいか、唇は少し血が滲んでいた。

 メイの代わりに、私の血が流れればいいのに。私は意味も無く唇を噛んだ。


『じゃあ、私と一緒に居てよ。近くの公立いくから、一緒に行こ?』

 帰ってからずっと、頭の中で反響させているのはメイの言葉。

 温まり切った炬燵に足を入れて、小さな丼の中でじゃれ合ううどんを箸で摘みながらも、その言葉を繰り返す。外は不気味なほどに風の叩きつける音がしているけれど、その中でもより鮮明にメイの声は脳裏に描けた。

 言葉を思い浮かべるほど、あの時のメイの表情が、明るく、暗く、移ろっていく。今は口の端を微かにあげ、目を眩しそうに細めていた。

 あの時にどんな顔をしていたのか、もう正確には思い出せないんだろう。メイが何を思っていたのかも、私には。

 もう届かない彼女の気持ちに想いを馳せながらも、未来のことを描く。

 メイと一緒の学校に行くことは、素直に、確かに、魅力的だと思えた。

 きっと高校にあれば嫌いな数学も複雑さを増すのだろう。でもメイは数学が大好きで、そんなメイに教わりながら勉強できればきっと楽しい。

 数学以外なら私が教えられるから、メイが困った時はその顔をいつでも晴らせる。大学受験にもなったら、今よりも勉強する必要はあるだろうから、今よりもっと力になれる。

 今は幸せが大きすぎて許容出来ないけれど、その頃になれば帰りだけじゃなくて、一緒に学校に行くことも出来るかもしれない。そうしたらいつもの別れ道が出会う場所にもなる。別れ際の名残惜しさの味も、何か変わる予感がする。

 もしかしたら、今よりも時間が自由に扱えて、同じ部活に入れるかも。スマホとかも買い直してもらって、夜には少しだけ電話して、「おやすみ」と「また朝にね」を言い合えたらーー、

『ごめんなさい、ダメなママでごめんなさい』

 でも、そんな未来は、許されていいのだろうか。

『ねえ、清子。ママって、なんなんだろうね』

 私にかけられた時間は、お金は、想いは全部、私が幸せになるため。私がママの望む幸せに至るため。それを無下にして、メイを選んでいいのだろうか。

 好きにしていい。確かにそう言われた。だけどその言葉を免罪符にして、誰かの築いてくれた何かを無下して救われるのは、誰もいない。少なくとも私は、目を怖がって生きて行かなきゃいけない。

 メイとの未来を描く中でも、ずっと後ろに感じていた。視線を、恨めしい気持ちを。そして幸せを感じる度に、罪悪感に苛まれる。

 本当にこれでよかったの?

 問いかける視線が消えない。ずっと消えない。私が安易に大きな幸せに飛びついたら、鋭い視線は私を殺す確信があった。

 その問いにまで思考が行きついたところで、今までうどんを摘まんでいた筈の箸が空を掴んだ。いつのまにか食べ終えていたことに気が付くと、それを言い訳に、視界に今だけを映す。

 たとえどんな道を選んだとしても、勉強することはきっと間違いではない。これは逃げじゃない。

 そう自分に言い聞かせながら食器を洗い終えた後、私はそそくさと自室に戻る。私が部屋の戸を閉めた途端、廊下から戸が開く音が聞こえた。ママとは毎回こうやって入れ替えで夕飯を取っている。

 今この時も、ママは何を思っているのだろう。仮に私が公立に行きたいと言い出したら、元の生活に戻りたいと言ったら、ママは何を思ってしまうんだろうか。

 私を怒鳴りつけて叩いてくれるんだろうか。それなら、それでいい。強くダメだと言われたら、私は多分、メイとの道を諦められる。これだけ色々な物をかけてくれたのだから、応えるのは当然だと自分に言い聞かせられる。メイも、きっと納得してくれる。

 でも、もし泣いてしまったら。また自分だからダメなのかと、私がしてきたことは丸っきり無意味だったのかと。そう、思わせてしまったら、今よりも遠くにママが行ってしまう気がした。もとに戻る可能性すら見いだせないくらい遠くに。その可能性があるのなら、ママに自分の道について言える訳がなかった。

 だから私はペンを握る。少なくとも今はまだ、これだけをしていれば悪くなることはない。

 目の前に並ぶ複数の幾何学な図形。問う必要性が不明な箇所に置かれた「X」と称される角度。数学は嫌いだ。でも、今はその嫌いがありがたい。嫌なことをしているという自己陶酔に近い感情が、現実逃避の苦さをオブラートのように包んでくれる気がした。

 おかげで寝るまでの三時間、いつもなら入れる二回の休憩もなく問題に取り組める。筆が止まることはなかった。

 学校に持ち込む参考書を鞄にしまい、明日の準備を済ませると見直しに取り掛かる。成否を付けてみると、お世辞にも少ないと言えない数のバツのマークが付く。取るに足りないミスばかりで、途中からバツを付けるのすら馬鹿らしくなる。もう、いい。投げやりにテキストを閉じた。パン。小気味のいい音が鳴った。


◆◆◆


 メイに提示された未来も、それ以外の道も満足に見られないまま、時間はやっぱりいつも通りに過ぎていく。世界はいつも通りを振舞う。

「このモデルの子、可愛いー!」

「もう少しで見ごろになるみたいだって。ニュースで言ってた」

「ぎゃはは、田中ほんまコンビニの髭のおっさんの物まねうまいわぁ!!」

 教室の隅ではなんでもない会話でも楽しんで見せる人たち。少し先の話に花を咲かせる人たち。何かに繋がる訳でもない悪ふざけで口を開けて笑って見せる人たち。概ね、いつも通り。

 私が中学受験に手を抜いた時のように。家出をして見つけてもらった時のように。数学でひどい点数を取った時のように。メイが私を求めてくれた時のように。私の何かが変わる瞬間は確かにあって、これからもきっと決定的に思える何かは起こるはず。

 なのに目の前に流れる世界は、空に浮かぶ雲の模様ほどの変化しか見せてくれない。一秒の時間で秒針は丁度六度しか進まない。

 だから何かが起きるのが、まるでおかしな事のように思えてしまう。もっと見える景色や聞こえる会話、時間の流れが変わってくれたのなら、変化はもっと受け入れやすくなるのに。

「メイ……」

 でも、彼女は、彼女だけは、変わらない世界の中で唯一変わってくれる。今の私には彼女がいる。これからの未来を選べなくっても、今だけは彼女との時間を求めても許されるはずだから。

 いつもなら私からメイに会いにいくことはなかった。受け身でいたかった。自分から彼女に会いに行くのは、後ろめたくて、胃に熱湯を注がれるような痛みが走る。

 それと知りながらも、未だに手が付けられていない現国のテキストを開きっぱなしにして席を発つ。二限目後の休み時間。メイのクラスはさっきまで歴史をやっていた筈。メイはいつも「歴史は面白みが分からなくって退屈」だと言っていたけれど、居眠りでもして寝ぼけ眼だったりするのだろうか。

 この選択は正しいのか。いつの間にお腹のあたりを掻き毟っていた爪を外して、脳裏に浮かぶ問いかける目を振り払うように駆けて、二つ隣のクラスへと向かう。後ろのドアから覗き見て、窓際の後ろの席で一人退屈そうにしているメイの姿を見つけた。

 足音を殺すようにゆっくりと寄って、その背中の真後ろまでたどり着く。メイは気づかない。歴史の教科書を下敷きに、机に突っ伏しながら、退屈そうにあくびをしている。これが一人の時のメイなんだ。

 背中に手のひらをかざして、近づけて、でも触れる前にやめる。手を自分の胸元に戻して、唾を飲み込む。

「メイ」 他の人には聞こえない程度の声で耳元に囁くと、メイは肩を跳ねさせた。しばらくキョロキョロと辺りを見渡して私を見つけるまで、約四秒。目が合ったメイの目は、大きく見開かれていた。次の瞬間には眼を逸らされたけど。その理由は、いつもの照れではないから訝しく感じる。

「せーちゃん……? ――じゃなくって姫宮さん。なに、珍しいというか、レアというか」

「そう、だね。私からいくのは、初めてだね」

「うん、初めてだ。何か、よう?」

「あの――」

 そこまで言ったところで、言葉に詰まる。私は、何を言いに来たのだろう。いや、何か言いに来たんじゃない。私はただ、私のために変わってくれる世界を見に来ただけだった。

 たった今気づく。それはただの我がままだと。甘えだと。

 何かをするべきじゃなかったんだ。脳裏の視線が私を戒める。痛みが走る。本当のことが言えないまま、でも繕う言葉も言えないままに、唇を迷わせていると、不意に右の手が引かれた。同時に痛みが離れた。

「私が悪い?」 私の右手を両手で包んだメイは問う。

「え、」

「私が昨日あんなこと言っちゃったから、困ってる?」

「あんなこと……?」 怯えているような震えが、取られた手から伝わってくる。動揺した。どうしてメイは、震えている?

「その、先のこと。昨日、私が言った」

「あ……。ち、違う。困ってる訳じゃないよ」

 謝られるような言葉は思い付かなくって、すぐに応え損ねてしまう。何に、メイが震える必要があるのか、訳が分からなかった。訳が分からないまま、とにかく首を横に振る。メイは、何も悪くないと。

 だけどその間が決定的だったかもしれない。私が応えきる前に、メイの震えは収まって、いつも通り子供っぽく振舞い始める。

「ならいいんだ。んでんで? そんなこんなしてる間に、あと一分で次の授業だよ? この一分をどうしよう」

「さっきのは――」

「いやもういいっていいって。せっかく来てくれたんだし、ツーショットでもする? 初のマイクラスってことで」

「なにか、おかしいよ、有広さん」

「まあね。せーちゃんが会いに来てくれたから舞い上がってるんだよ」

「メイ」

 たった数秒の間にすり抜けたメイの感情は、もう、遠いところに行っていた。いつも通りは当たり前なのに、それが酷く冷たく感じるのは、メイのせいか私のせいか。

 どちらにしても、私が望んだ画はここにはなかった。

 私が無言を貫くと、メイも流石に何も言えなくなって、クラスの喧騒の狭間に綺麗な無音が生まれる。そうしている間にチャイムが鳴って、ここに留まれなくなった私は、後ろ髪をひかれながらも自分の教室を目指す。

「ひめ――、せーちゃん」 出口に手をかけたところで、パタパタと足音がした。振り向くと、メイは駆けて寄ってきていた。

「私は、せーちゃんを困らせたいわけじゃないんだ。それだけは、知っておいて。分からなくても、理解しなくてもいいから」

 それだけ言うと、返事をすることを許さないと言わんばかりに背中を押される。それで教室から出ると、扉をバタンと閉められた。

 求めた現実とはあまりにかけ離れたものに、私は何を思えばいいのか分からないまま、メイのいる場所に背中を向けて立ち尽くす。

ご丁寧に扉を閉めなくたって、戻ったりなんか出来ないよ。察しがいいんだから、それくらい分かるでしょ。

 右手を左の手で持ち上げて、顔に寄せて、深呼吸を一回。目の端には、メイのクラスで授業をする現国の女教師が見えた。前の扉に手をかける彼女に向って軽く会釈をすると、私は今度こそ、ゆっくりと教室へ向かった。


 うわの空で過ごす学校生活。不意にでたクシャミに現実へ引き戻されると、いつのまにかテキストは脇にどかされていて、目の前にはお盆に乗せられた給食、対面には座りかけていたメイがいた。なんだか、にやけてる。

「クシャミ、初めてみた。『クチッ』だって。可愛いね。その勢いで何を排出しきれるのか疑問なんだけど。スッキリするの?」

「うるさい」

 クシャミの音と動作の物まねをしつつドシンと腰を下ろすメイに、お腹の奥が熱くなる。悩みの種の本人が、こうもなんでもなく話しかけてくるのに呆気にとられたかった。けれどその暇もなく人を揶揄うなんて、嫌がらせか。

「もう、一緒に食べられないかと思った」 だから、本音を吐く。動揺させたかった。追い打ちのように扉を閉めたこの子に、私の気持ちを思い知って欲しかった。

「そっかぁ」 目の前の頬が緩む。それも束の間。メイは自分の頬を両手で挟むように叩いた。頬に熱が灯る。

「ちょっとね、伝えることがあるの」

「またふざけた質問なら聞きたくない」

「違うよ。違う。帰りのこと」 メイは反射的に手で否定の素振りを見せた。そして深呼吸を一回挟むと、遠慮がちに話す。


「しばらくの間、一緒に帰れなくなってもいい?」


 突然石のように固くなった自分の首をなんとか頷かせると、私の時間はしばらく吹き飛んだ。


 ところでメイは写真部だ。

「今の三年生が卒業しちゃうとね、部員が私だけになっちゃうんだー」

 時たま、落ち着いた声でその話題を取り出すことがある。

「最初は新しいスマホの写真が綺麗で凄くって、はしゃいで、勢いで始めて。部活の現状を知って、まずは告知だと突っ走った結果が、まあ、せーちゃんとの邂逅だったんだよ。我ながらあの時はテンションおかしかったなぁ。結果オーライだけど」

 感情を押し殺したように、だけど、はにかむ。声を繕うのは照れ隠しだってバレバレだった。私もどんな顔をしているか分かったもんじゃないから、ツッコみも揶揄いもないまま、その話題は夏の夜の涼風のように流れていくのが常。

「今じゃ、部のために撮る方がおまけだけどね」

「おまけ、おまけね」

「仕方ないじゃん。……目的が変わっちゃったんだもん。それはさておき、何、その面倒そうな図形の問題! 解いていい? 面白そう!」

 いつかはそう言っていたメイは、今日、こう言った。

「写真部の存続のためにね、ちょっと頑張らなきゃって。となると春が勝負じゃない? 新入生が入ってくる春が。だから放課後は駆けまわって、インス――、じゃなくって、アピールできそうなの探そうかなって」

 これ見よがしにカメラを取り出して、主張するように胸の間で弄ぶメイの目は右に、左に、ソワソワと揺れていた。

「だから、しばらくはそっちに専念しようかと。ごめんね?」

 嘘だろう。そう、感じてしまう。このタイミングで、意味深な素振りを見せて、ただそれだけだと思う方がどうかしている。だけど――、

『いつも鬱陶しかったのに、分かった気になってた訳?』

 いつかそう怒ったのは私で、メイは未だにそれを気にしている。言った私が嘘だと決めつける訳にはいかなかった。見送るしかなかった。嘘なんて確証もないし、本当に写真部に尽くしたいのかもしれないし。それにメイの行動に口出しする権利なんて、私にはない。何も言っちゃいけない。

 もし離れてしまうのなら、私にできることは、いつも通り、それに慣れることだけだ。

 久々の独りの帰り道を、トボトボと私は歩いている。隣に、暑苦しいアイツはいない。周りには同じく下校をする生徒が溢れていて、私はそれが嫌いだった。一人でいることが惨めに思えて辛かった。今だって、嫌い。

 だけど今日は、群れている人の流れに従って歩いた。最近は毎日のように歩いていたお気に入りの土手沿いの道は使わずに、通学路とされてる道を通った。せいぜい綺麗には見えない水が流れる溝とか、地元の年配の方々が趣味でされている小さな畑とかしか見どころのない、この道を。

 歩けば歩くほど、人の密度は減っていく。周りを満たしていた喧騒は、空白に塗れていく。

 十分も歩けばもう、前を少し離れたところに、知らない女の子の二人組が歩いているくらいだった。ちんまりしたポニーテールの背の高い子と、長くて真っすぐな髪の女の子。

 何気なく二人を遠目から眺めると、会話の中身までは聞こえなかったけれど、二人ともにこやかに言葉を交わしていた。からかうように肩をぶつけ合って、スマホの画面を見せあって、楽しそうだった。

 私とメイも、周りから見ればこうだったのだろうか。瞬きを三回。改めて二人を見ると、私とアイツがそこにいる気がした。私の頭の中では、今だって。メイ。

 この生活もきっと、ママが皆を追い払った時みたいに当たり前に思えるから。大丈夫。大丈夫。

 口に当てた手のひらの中で呟いて、呟いた。夢中になっていると、いつの間にか目の前の二人は消えていた。ため息が出る。寒さで白い煙が上がる。だから私は駆けだした。

 ――別に、その当たり前に慣れた訳じゃないのにね。

 

 次の日。いつも通りお昼にはメイは来てくれた。いつもよりも来る時間が遅いけれど、あとは普通だった。話して、じゃれて、お別れするだけ。この時間があるなら良いと思った。帰りは一人で帰った。


 次の日にもお昼には会えた。来るのはやっぱり遅いけれど。待ち遠しくって、話が聞きたくって、いっぱい話しかけた。途中からメイが居心地悪そうに膝を揺すっていたから、自重した。もっと話したかったけど、応えてくれるだけいい。帰りは一人で帰った。


 また次の日。今日の昼も来るのが遅かった。また居心地悪くさせるのも悪いから、私からは何も話しかけなかった。メイも特に何も話さなかった。今日のメイはずっと窓の外を見ていて、目が合わなかった。来てくれるだけいい。帰りは一人で帰った。


「私といて楽しい?」

 その次の日。私が給食を食べ終える時にやっと来たメイが、会って早々にそう尋ねてきた。私はすぐさま頷いたけれど、メイは奥歯を噛みしめたような不安げな顔をした。それからは五分だけ一緒にいられた。会話はなかったけれど、五分だけでも会えるならいい。帰りは一人で帰った。


 次の日はメイと会わなかった。

 次も、次の日も。この日もメイと。この日も、この日も、この日も。メイ。メイ。

 私から会いに行く選択肢もあったはずなのに、出来ない。私から会ったあの日からこれは始まったんだ。だからもう私からは会いに行けない。もっと離れてしまったら、苦しい、嫌だ。

 だけど、メイは言っていたから。『しばらく一緒に帰れなくてもいい?』って。「しばらく」なんでしょ。じゃあいつか、また帰れるよね。だから、いいんだ。いいの、いい。

 慣れるとか、思ってたくせに、何を。どうせ、ずっと一緒なんてありえない。知ってる筈。私の道は。どうせママが。

 ――、

 あれ、一体何が私とメイを引き離すのだろう。

もういい。考えるだけ無駄だと思う。どちらにせよずっと一緒になんて、期待しても叶わない。早くこれが普通だと思えるようにならなければ。

 それでも同時に抱いてしまう、希望と諦めを、どうしても。何度もその二つから目を逸らしてきたおかげで、メイと会わなくなってから数学の参考書が丸々一冊分終えてしまったぐらいに。

 でもどんなに嫌いなものがくれる苦さで目を逸らしたところで、それが目の前にある限り、動けない私はまたそれを見ることになる。どれだけ水に深く、浅く、潜ったところで、いつかはまた水上に酸素を求めなければならないように。


 どうせ見るなら、綺麗な物が見たい。

 この時はなんとなく縋る気持ちだった。何の助けにもならないと分かっていながらも、目の前にあるものに縋らざるを得ない、激流の中の心境。

 食べ終えた夕飯のグラタンやスープの重みを胃の中に感じる。食後の気怠さが気怠さの靄が頭に降りかかる。その最中でも、息継ぎのために体をベッドから引き剥がし、机の引き出しまでにじり寄る。

 辿り着く机。上に整列する参考書の右から三番目のケース付きの一冊。引き出して、逆さにして、中身がノートをクッションにしてポスンと落ちる。ケースの厚さに合わない参考書が二冊と、大事な一冊。つまるところ、カサ増しのための本と、大事なメイから貰ったアルバムが出てきた。


『お近づきの印。指輪みたいなもんだと思ってよ』

『おもっ。例えのせいで気持ちが一気に重くなってくるんだけど』

『えへへ、三冊買うとお小遣い一か月分にあたるよ』

『有広さん、数字が逆じゃない? ……本当に貰っていいの?』

『貰って欲しい。姫宮さんの手の中でページが埋まっていったら嬉しいなって』


 遠慮したい気持ちはあったけれど、私が一番苦手な笑顔で押し切られて受け取ったメイのアルバム。一ページに三枚ずつ写真が入るその小さなアルバムはもう二十ページ近く写真で埋まっていた。全部、メイから貰った写真。

 最初を飾るのは保健室で見せられた夜の写真。それからは顔がドアップの三毛猫の写真だったり、川の流れと小石とカエルを写した一枚だったり、苔と木漏れ日とビー玉を捉えたものだったり、様々だ。ページをパラパラと捲りながらベッドの上まで戻り、転がる。

 寝そべりながらもページを捲って、捲って、長い寄り道をして、やっと目的の一枚を目に映す。今まで写真は連続したページに収められていたけれど、その一枚だけは離れたところに収められていた。一番後ろのページの最後のポケットに、あまり目立ちたくないみたいに、ポツンと。私が入れた訳ではなく、渡された時から写真はそこにあった。

 それはえらくピントが合っていなくって、暗くて、荒い。ぼんやりとした闇と人工光の中に、霞んで映る桜色。夜桜。

 目が乾くまで眺め、目の表面が痛んだから目を閉じる。それから浮かべるのは幼い記憶。鮮烈で暴力的な美しさを魅せる桜の前で見た、家族の記憶。

 もしあの頃に戻れたら、私は躊躇いなくメイの元に行けただろうか。思い描く、その『もしも』を、瞼を深く閉じて、アルバムごと夜桜を抱きしめて。ずっと、ずっと。

 家族を脇に、誰の視線も気にせず、メイと桜を仰ぎ見て、他愛のない長話をする夢を、


「……ん」

 瞼を閉じられたまま、思考が少しだけ覚醒して気づく。ベッドの傍に人の気配がしている。止まったまま、きっと私を見下ろしている。仰向けに寝ていた体を勢いよく起こして、カーテン越しの光に目をくらませながら瞼を開けた。ママがいた。

 そうだ、あのまま私は寝て――。慌てて胸の中のアルバムを被っていた毛布に隠そうとした。でも手元には、なかった。必死に探す。きょろきょろと。でも手の届く範囲には見つからない。

 そもそも、私は毛布を被っていただろうか……? ゾクリと、鳥肌が立つ。もしかして

「ママ!! あれは大事な物なの。メイから貰った――」

「……メイ?」 

「あ、」

 失言、だったかもしれない。一瞬時が止まった錯覚があった。ダメだ。そんなこと言ったら、また――。

「数学! 数学教えてもらってて私より数学出来る子なんだ。ちゃんと点数安定してきたのその子のおかげなのだから大丈夫なの問題ないの」

 必死に言い訳を探した。ママが邪険にしなさそうな言い訳。ママが考える幸せに繁がってるから、勘弁してほしい。そういう懇願。

「その子と一緒にいて、私は頭良くなったよ、いいでしょ、大丈夫でしょ。お願い」

 命乞いをする気分ってこんな感じなんだろう。ぐらつくベッドの上で正座をしてから、頭を下げた。擦りつけた。何を請うているのかもよく分からなくなってきた。でも、メイに関するものだけは何も奪わないで。

「あっち」

 感情を殺した声に、私は顔を上げた。ママの人差し指は机の上を向いていた。そちらを向けば、机の上には大事なアルバムが置いてあった。私はすぐ立ち上がる。立ち上がって机まで向かう。

 その急な動作に、ママは言葉にならない声を漏らして後ずさった。その反応が信じられなくって、立ち止まってママの表情を見る。ひどく怯えた目をしていた。

「清子の好きにしていいの。できるだけ、もう関わらない」

 顔の筋肉をほとんど動かさずに言った言葉に秘められた意味は見通せない。頭の中で反芻して吟味して、でもその隙にママは背を向けて部屋を出て行こうとした。

「本当にいいの?」 咄嗟だった。

「どんな学校にいってもいいの? 誰かといてもいいの? ママが言ってたことから離れて、本当にいいの?」

 叫ぶつもりはなかった。でも声が荒げてしまう。ママは背中越しに一言だけ呟いて、廊下へと出て行った。

「好きに、して」

 投げ捨てるように言われた一言だった。私はそれをどう受け取っていいのか分からない。

 好きにしろ? 開き直れる訳がない。出来る訳がない。叫びたかった、無責任だと。でも歯を軋ませて、口を閉じる。

 無責任という言葉を、きっかけの私が言えるのか。

 戒める。唇を噛み、舌の上で鉄を味わう。全部、咄嗟の行動だった。痛みで我に返って唇を指先でなぞると、指先は赤で染まる。

 ――ああ、やっぱりこれなんだ、私を止めているのは。

 漠然と掴んでいた輪郭が、はっきりした気持ちだった。避けていた部分に触れられたから得られる実感だった。

 自分がどうしたいか、分かってる。その希望にたどり着くための道筋を私は選べずにいただけだ。踏ん切りがつかなかった。今みたいに、刷り込まれた罪悪感が、縋りたい思い出が、私を邪魔する。

 このままを続けなくって本当にいいのか。かつてのママの願いを、唱えた幸せを、ないがしろにしていいのか。言うとおりに動いていれば保てたかもしれない思い出の中の家族の形。それに止めを刺した私は、責任を取らなくって良いのか。あの頃を取り戻すための努力をしなくっていいのか。

 足を棒にして、立ち止まる。積み重なった枷が動く意思を確実に削いでいた。例え暗かった足元が照らされても、輪郭がぼやけていた私を縛るものが消える訳でも、壊れる訳でもない。

 それでも、届くものはあった。気持ちが暗い方へと沈んでいく中、無意識に手に取っていた、机に置かれていたアルバム。ママを意識していた筈なのに、無意識に胸中に収めていた。

「このままは、だめ」

 表紙に手のひらを当てて、中身に想いを馳せる。ゆっくりと息を吸い込むと、春の陽気を吸い込むような安らぎがある。そして感じる、罪悪感と執着の茨に巻き付かれて傷ついても、膨らんでしまう気持ち。これも、避けていた部分に触れられたから得られる実感。

「このままはだめ」

 二回、呟く。自分の中に想いが芽生え始めた気がした。それはまだ、決心や決意ほどの強い想いではないけれど、確かに育ち始めた。

 感じたなら、動いて、変わりたい。足が止まってしまう前に、早く。気持ちに急かされてアルバムを通学鞄の中に丁寧に詰め込むと、パジャマを古い皮のように脱ぎ捨てて、制服に腕を通す。

 会いに行こう、会いたい人に会うために。

 会いに行こう、諦めて変わるために。


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