第二章 不変の世界に残されて
登下校で見られる木々の葉に彩が増し、鋭かった日差しも肌に優しくなった秋の中頃。先週に中間試験があったこと以外、私の日常は特に変わりなかった。ママが課す課題の量も家庭教師の頻度も、有広さんが定期的に絡んでくるもの相変わらず。苦手な数学に関しては解く速度が自覚できるほど上がったのは悪くない小さな変化だった。
それで気を抜いていたのかもしれない。
「今回の数学の一位は有広。二位は笠村。えーっと三位、姫宮と西川か。頑張っ――、おいおい、姫宮以外全部あっちのクラスじゃねえか。ちゃんと勉強しろよ。平均こっちのクラスの方が低いぞ。何回も言うように世界は数式で表せる。超便利。数式を学ぶことで科学はおろか、芸術分野だって――」
いつもだったら自力で見直しを早々に終わらせて、ママや氷室さんに課せられた課題をやっていただろうテスト返しの時間。今回もそうなると確信していた。実際他の教科はそうしていた。テストの出来だって悪くないと思っていた。分からないところなんて、何もなかった。
だのに、どうして、このテストの点数は満点から二割も引かれている。
勿論すぐに見直した。無精髭を生やしたオジサンのくだらないご高説なんて無視して、マルがつけられなかった信じられない問題を凝視する。三問構成の『大問5』が全てバツを付けられていて、最後の大問である二問構成の『大問6』、その最後の一問にもバツが付いていた。どちらも図形の一角の角度を求める問題だった。
式は合っている。引っかかったところなんてない。課題で飽きるほど見てきた問題形式で、あまりにも拍子抜けだった。簡単すぎて早々に眠ったくらいだった。
なのになんで。どうして。おかしい。何かの間違いだ。
手の中の汗で答案用紙を湿らせながらも、自分が羅列した式を目で追っていく。やっぱり式の立て方は合っている。『学校で教えたやり方じゃない』なんてバカみたいな理論をかざしてバツを付ける先生でもないはず。
だったら、なぜ。つけられているのはバツだけで、どこが間違ったのかなんて書いてくれていないのが憎い。
訳が分からず一字一句改めて見直し始める。三回目にして、ようやくその間違いは見つかった。なんてことない間違いだった。問題文にある数字を、自分が式を立てる時に写し間違えていたのだ。
最初からそれで間違ったために、あとの問題も連動して間違ってしまっていた。『大問6』も似た類の間違いだった。自分で自分の目を疑う。
グシャ。左の手の中で音が鳴る。醜い答案用紙がいつの間にか握りつぶされていた。このまま手のひらの中で縮こまって消えてなくなればいいのに。それは出来ないって知っている。持ち帰ってママに見せなくてはいけないのだから、潰してはいけない。
強張った左手を、右手でゆっくり解して答案から引き剥がす。幸い破れることはなかった。これならまだ状態については言い訳がつく。言い訳は付くけれど、点数についてはどうしようもない。
やっぱり数学なんて嫌いだ。考えや覚えていた知識があっていても、こういう間違いが起こる。キライキライ、ダイキライ。
「いやこれだって役に立たないって思うだろ? でもそうでもないんだな。たとえばよ、ほら、最近流行りのDIY。あれだって角度の計算できるとめっちゃ捗るからな。中学レベルの知識で家だって出来ちまうかもしれねえ。すげえだろ数学」
未だに無意味な数学の意義をクドクドと説く声が、黒板を引っ掻き回す音より不快に聞こえる。うざったい。耳を右肩と左手で塞いで、机に忍ばせていた現代文のテキストを抜き出して開き、視線を落とす。空欄に答えをねじ込んでいく。
私は解ける、学校レベルより遥かに上の問題だって難なく。ここ最近で高校卒業までの漢字や諺だって覚えきった。出てきそうな俳句だって、興味なんて湧かなかったけど何回も唱えるようにして頭に叩き込んだ。こんなの皆は解けないでしょ。私は解ける、解けるから。ママ、私、頑張ってるよ、大丈夫だから、違うの、違うから――。
一体何があったんだっけ。六限目の数学の時間から今に至るまでの記憶があまりない。
気が付けば目の前にはママの冷え切った瞳。少し下を見ると握り潰されていた答案用紙。ママの唇は今も動いているけれど、何を言っているか分からなかった。音としては聞こえるけれど、言語として頭の中に入ってこない。
私の口の中はカラカラだった。それでも壊れたCDプレイヤーのように、私の口からは同じ言葉が漏れていた。「ごめんなさい」
時には頭が強く揺れる。時には鼓膜を破らんとするくらいの怒号が鳴る。さっき手を掛けられた半袖から覗く二の腕の皮には手形がくっきり残っていた。足に、力が入らなくって立ち上がれない。多分体は痛みを感じていた。でもどうでもいい。そんなことより、謝らないと。
何度も同じ言葉を漏らしていると、乾きが喉の奥まで達してきた。声もついには掠れてくる。もう言葉になっているかすら危うい。だけど繰り返す。繰り返すけれど、もう言葉にならなくなってきた。だけど繰り返す。だけどもう声も出ない。無様にも咳き込んでしまった。
ごめんなさい。ちゃんと謝れなくって。
そう言いたかった。でもやっぱりもう声が出ない。せめて伝われと、口の形だけで言葉を編む。編み上げる。
するとどうしてだろう。私に降りかかるものが、止んだ。
ゾクリと、悪寒がする。どうしようもない悪寒。鳥肌が全身を走って、その気持ちの悪さに胸を抱く。この凪のような静けさが望んでいない物だと思いたかった。でもいくら待っても、痛みや怒号はこなくって。
しとり。立てずにいる私の目の前に、カーペットがシミを作る。しとり。そのシミは増えていく。そのシミは徐々に近づいて、地に着いていた私の手の甲に落ちた。
熱い。予想もしていなかった刺激。反射的に見上げてしまった。気づいてしまった。
ママは、泣いていた。
「ご――、ちあ……うの、ま、ま!」
ママは悪くないんだよ。だから泣かなくっていいんだよ。叫んだ。でも掠れた声じゃ届かない。ならどうする。分かんない。とにかく伝えなきゃ。手を付いて膝を立てる。でも足が痺れて膝が曲がった。転げた。天井が目の前に広がる。泣いているママの顔が嫌というほど映る。
「ねえ、清子。ママって、なんなんだろうね」
それが今日やっと私の耳に入った言葉だった。綺麗な顔を汚く醜く濡らしたママはそれだけ言うと、私をすり抜けて扉の向こうに消えていく。
待って。手を伸ばす。歩み寄ろうとする。でも気持ちも手も体も、何一つだって届かない。静かに閉められた扉を見て、体は完全に地面に伏した。
ママが泣かないようにって頑張ってきたつもりだったんだよ。いっぱい我慢して、勉強してきたつもりだったんだよ。でも、償いのために積み上げてきたこの一年と少しの時間は無駄だったのかな。せめてママだけでも、思い出の笑顔に戻ればいいってした努力は無意味だったのかな。
だとしたら私は何をやっていたんだろう。
不意に胸の中がひりついた。口や喉に張り付いていた乾きが胸の中にまで達したのかもしれない。何か飲めばなくなるだろうか。なら早く潤したい。今はちょっと疲れたから、少し休んだら水を飲もう。そしたらきっと話せるから、そしたらちゃんと謝って、怒ってもらおう。私が悪いんだって、言ってもらおう。
再び目を開けた時、私の世界は少しだけ変わっていた。
自室の床で寝転がっていた体を起こしてまず知覚したのは、ありったけの気怠さと依然として残る喉の渇き。
脳みそを軋ませる強い耳鳴りに不快感を覚えながら、よろよろと洗面台までの十歩を踏み出す。蛇口を捻れば生ぬるい水を出すと、両手で掬って何度も口に運んだ。何度飲んでも喉が渇くので、もう潤すのは諦めて、顔を洗った。少しだけ期待したけれど、すっきりした気持ちにはならなかった。
けれど、感覚にかかる靄は少し晴れたらしい。ここでようやく鼻腔に届くカレーの香りに気がついた。さっきのことがあっても、ママは料理を作ってくれる。ママを泣かせた私なんかのために。
もう一回、謝ろう。そう思って階段を静かに下り、キッチンに続く扉を恐る恐ると開ける。大きめの鍋に火をかけているママの丸まった背中がそこにあった。
「ママ」
ごめんなさい。性懲りもなくそう言葉を続けようとした瞬間、ママの肩は跳ね上がった。ドアノブから静電気でも走ったかのような反応だった。そのあとは何事もなかったように鍋に向かったけれど、その反応を見た私の足はどうしてか、それ以上ママに近づくことをやめてしまった。
「ママは――」
私に背を向けたまま、ママは呟く。
「清子に幸せになって欲しいのよ。本当に、幸せに。勉強して良い学校に行って、パパやお姉ちゃんのようになることが幸せだって信じてる。きっと自由で、なんでもできて、幸せに決まってるわ。私は叶えられなかったけど、清子は叶えて欲しくって」
グツグツと煮える鍋の音が妙に耳に届く。気を抜くとママの声はその音にかき消されそうで、私は注意深く耳を傾けた。
「でも、ママじゃ清子を幸せにできないのかな。ねえ、清子。私は、ダメ?」
「ママは、ママは正しいよ。ダメじゃないよ。私がダメだっただけだよ。ママは悪くないよ」
今度は言葉になっている声をあげられた。良かった。手を止めたママを見て、安堵する。しっかり届いている筈、私の言葉。
だから怒ってよ。怒鳴りつけて。私を見て。背中を向けたまんまじゃ、ママの声、よく聞こえないよ。
次のママの行動を、私は瞬きを堪えて待ち望んだ。網膜の表面が乾いて、痺れるような痛みが走っても、その瞬間を見逃すまいと目を見開いて待った。
目が乾きの痛みに耐えかねて、音も感情もなく涙を沸かせる頃になって、ようやくママは動いた。
鍋の火を止めて、ようやくその場から動いたと思ったら、部屋の脇にある食器棚からお皿を出し、お米をよそい、カレーをかける。それを終えるとリビングのテーブルにカレーとスーパーで買ってきたであろうパックのサラダと、そしてスプーンとマグカップを並べて、元の立ち位置に戻る。
その間で、一度として私を見ることはなかった。そしてこれからも。
「清子は良い子ね」
届いたのは涙ぐんだ声だった。深く俯きながら私の方向を見たと思ったら、私の横をすり抜ける。
今日から一人でご飯を食べて。ママは湿った声でそう告げると、あとはか弱い足音を立てて階段を上って行く。かける言葉が思い付かなかった薄情な私は、振り返ることもなくその足音を見送った。
誰もいない食卓を見つめると、カレー皿からモクモクと湯気が立っているのが見えた。こんな時に呑気に図太くご飯を食べようなんて思えなかったけれど、とりあえず食卓に着くことにする。
カレーは、ママの得意料理だった。コンプレックスの対象であるママの姉やパパに『おいしい』と言ってもらえたのが嬉しかったと時折話すのをよく覚えていた。ママのカレーは私も大好きだった。いくつかバリエーションはあるのだけど、今日は夏野菜がふんだんに使われたカレーだった。
ママの得意を無下にしたら、ママはどう思うのか。
木製のスプーンで白米にカレーを絡めて口に運ぶ。気落ちしても、何かを失っても、素直においしいと感じられる私はやっぱり薄情なのだろう。胃はキリキリするけれど、それでも手は止まらなかった。
食べ進めると、段々と耳が寂しくなる。ママの話はあまり好きではなかったけれど、いつも当たり前にあったから、落ち着かない。
視線を遠くに落とせば、テーブルの対岸にテレビのリモコンを見つける。手を伸ばして電源ボタンを押すとテレビがついた。チャンネルは公共放送のそれだった。画面右上のテロップには『高齢社会における医療の在り方について』と書かれていて、それぞれの有識者たちが大きく身振り手振りをし、声を張り上げて討論していた。
パパがいたらきっと、神妙な顔を浮かべて持論を話し始めただろう。こういう討論番組を見た時はいつもそう。昔はママも私もそれに聞き入って、感心の感嘆を二人一緒に漏らしたものだった。
今はテーブルの上座にも、私の向かい側にも、誰一人座っていないけれど。
冷たいお茶で口の中を一旦ゆすいでから、リモコンでテレビの電源をオフにする。そのままテーブルの向こう側に投げて視界から消す。リモコンは向こうの座布団に落ちてくれようで、ボスンという音を返してくれる。暗くなったテレビの画面は鏡のように私一人だけを映した。
無音の中で食べ進めてしばらくすれば、ようやくお皿の中が空になる。随分と長い時間をかけてしまった。勉強の時間が少なくなってしまわないだろうか。そう思ったのだけれど、置時計の針はいつもと変わらない時間を示していた。
手を合わせて、小さく会釈をする。「ごちそうさまでした」
食べ終わったら、勉強をしなければ。流し台にお皿を置いて水に浸けてから、二階の自室へと足を進める。その途中でママの部屋の前を通ると、閉じられた扉の隙間から暗闇が漏れていた。
『そう? 頑張り屋さんね』
テキストに向かおうとする私をにこやかに笑って見送るママの姿は、ない。
◆◆◆
真っ暗闇の中で響いた無機質な金属音のアラームが鼓膜を激しく揺らす。遠くに聞こえていたそれは意識の覚醒と共に近くに聞こえてくる。ジリジリ、ジリジリ。やがてその騒がしさに耐えきれなくなって、重く鈍い上半身を起こし、枕もとの鬱陶しい目覚まし時計の頭を叩いた。それで静寂が訪れる。
眠い目を擦ってあくびを一つする。固くなっている肩を左右で三回ずつぐるりと回し、それから天井に腕を上げて伸びをした。また、あくびが一つ出た。
着替えてからリビングに向かうと、一階の玄関をモップ掛けしているママの背中を見かけた。
「……おはよう」 開き切らない口を動かして声をあげる。
「ご飯、置いてあるから。食べなさい」 ママは一旦手を止めた。でもこちらを見ることもなくすぐに作業を再開する。
朝の気怠さに隠れていた喪失感が、浮き彫りになった。昨日の出来事は一晩越したことで消える類のものではないらしい。予感はしていた。同時に少しだけ期待していた、元通りになることを。たった今それは裏切られたけれど。
私が悪い癖に、裏切られたって、何?
自らの太ももに爪を立てて、掻きむしる。痛かった。痛みたかった。痛めつけたかった。指先に何か湿った感触。持ち上げた指先からは鉄の匂いがした。
何をやっているんだろう、私は。
形の掴めない罪悪感は、ようやく私をこの場から動かしてくれる。足は食卓に向いた。今日はトーストと目玉焼き、ホウレンソウのお浸し。脇にはケチャップやマーガリンが置いてあった。いつも通りの朝食だった。ママがテーブルの対岸にいないこと以外は。
きっとこれからずっとそうなのだろう。だから、慣れなければ。私の部屋がきれいになった時のように。
ポケットを叩くと単語カードが見つかった。おもむろに手に取って、ぺらぺらと捲る。『make out』『make up』『make up one's mind』、捲るたびに『make』を使った熟語が現れる。それぞれの意味を思い浮かべては答え合わせのためにその裏側を捲る。それを努めて続けると、自分勝手な寂しさが少し紛れた気がして、ようやく朝食に手を付けられた。
無音に見送られていった学校は、何も変わらない。
私にやたらと構う中年男。くだらない話で盛り上がるクラスメイト。分かり切った事実ばかりを語るつまらない授業。エトセトラ。何にも、変わらない。
変わらないはずなのに、何かが違う。妙に、いらいらする。手持無沙汰にペンを回して、白紙のノートの端を折って、でもそれで収まるものがある訳もない。
ふと教壇の上の壁掛け時計を見上げてみると、秒針の針が、ぎこちなく見える。……一秒。……二秒。時間の流れが、遅い。動く秒針の遅さに気を取られて、ようやく気付く。私が、何もしていないことに。
いつもなら、何をしていたっけ。
ああ、そっか。思い出す。ママの課題。毎日朝になると言われるのだ。今日はどの参考書の何ページから何ページまでをやれとか。氷室さんから貰ったプリントをこなせとか。そして、寝る前にそれが終わっているかどうか確認させられる。
今までずっとそうだった。単語に関する課題なんかは、ランダムで単語カードを読み上げて、意味やあてはまる単語を聞かれるんだ。
今日は、なんだっけ。氷室さんが来るのは明日だから、追加されたプリントはない。前のものはもう終わってる。じゃあ、参考書を。
黒板にチョークを打ち付ける誰かの音を聞き流して、その重みにもようやく慣れた、太っているカバンを手繰る。中を開いて重なったいくつかの参考書に指を伸ばし、思い出した。課題なんてないこと。
ドク、ドク。急に耳に雑音が走った。心臓の音。私の心臓の音。湧いて出たのは、灰。不安の色。
感情を自覚してしまうと、止まらなくなる。どうしよう。どうしよう。私はこの時間をどう過ごしたらいい。休憩の時間は。お昼ご飯は。帰るまで、何をしていたらいい。勝手にやっていいのだろうか、言われてもいないのに。
こんなに時間の進みが遅いだなんて私は知らなかった。何もせずにただ過ごすなんて、不可能だ。今だって一秒一秒が遠いのに、それがあと七時間弱も続く。気が狂いそうになる。ありえない。
そう言えばポケットの中の単語カードがあった。取りだして急いで捲る。それでしばらくの間は良かった。でもすぐに一周した。朝に見てしまった分、未読の部分なんて少なかった。でももう一周した。したのだけれど、先が見えてしまった。これだけで消費できる時間の限界を知ってしまった。
そうなると、一度湧いた不安は紛らわすことなんか出来なくなった。
もういい。終われ。終われ。頭の中をその三文字でいっぱいにする。目を閉じてみる。それでも教室で起きる大なり小なりの騒音が耳障りで、ただただ時間を流すことに専念させてくれなかった。むしろこういう時に限っていつもは気にならなかったもの、気にしないようにしていたものがよく聞こえる。
右では私がかつて買っていたファッション雑誌の話がひそひそと囁かれていた。最近出るようになったモデルの子に対して薄っぺらな『可愛い』の評価を付けたり、今の流行はレトロだのヴィンテージだのと喚いたり。
いつもならただの黄色い声だと聞き流すようにしていたはずなのに、今は中身まで聞こえる。どうせ外に遊びにも行けない私には無縁のお話だというのに。
そもそも私たち中学生は制服で大半の時間を過ごすのに、そんなことに時間とお金を割いて、くだらない、くだらない。内包してる意味が統一していないどころか、意味すらこもってるかも分からない『可愛い』を連呼してなんの意味があるのか。
左では誰かのいびきの音がした。それと一緒に悪戯を算段する声が二つ、三つ。
寝るのなら静かに寝ていればいいのに。悪戯するくらいなら起こして欲しかった。そろそろ高校生だというのに。働きたい子なんて再来年にはもう社会に出られる年齢だというのに、こんな公の場で何を画策しているのか。バカみたい。
真正面からは相変わらず中年男が淡々と歴史の流れを説明している。あの男が教鞭を握っているのが単純に不快だった。
目を閉じていたらダメだと思った。そうするから聴覚が鋭敏になる。ゆっくり目を開けると、鋭い日差しが網膜に入って眩しくて目がチカチカした。数秒してそれにも慣れると、ありふれた何でもない現実が再び広がった。
でも聞こえるものは何も変わらない。目を閉じる前の世界とも、何も変わらない。
教室にはここまで騒音が満ち満ちていただろうか。私はこんな環境でどうやって我関せずと机に向かっていられたんだろう。苛立ちで奥歯が勝手に噛みしめられる。
何もしていない訳にはいかなくって、ノートを広げてペンを執る。だけど今の私には向かうものがない。それでも思いつくままに文字を書き、その行為に必死になろうとした。
『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』『終われ』
こんなことに必死になったところで、聞こえるものは防げられない。だからと言って激流に流された時、助からないと分かっていても、目の前に現れた藁に手を伸ばさない訳にはいかなかった。
ノートの半分ほどが黒で埋まった頃に、学校は終わった。「あっという間」とか「気がついたら」とか、そういった感想が浮かべばよかった。でも無意味なことに励んだ私には、等身大よりも長い時間が流れた。何があったか。どういう事を思ってそれを受け流したか。一つ一つよく覚えている。
疲弊していた。小指の付け根は黒鉛で真っ黒になっていたし、手首の神経からは電気でも流されているかのような痛みが走っている。ノートに書き続けた文字は、最後のあたりには凡そ文字とは言えないものになっていた。
それでも学校は終わった。だから私は早く帰らなければならない。
役割が分からなくなった参考書の詰まったただ重いだけの鞄を背負って、放課後で沸き立つ喧騒をかき分けて帰路を目指す。中年男の声が後ろから聞こえた気がしたけれど、知らない。こんなところから一刻も早く立ち去りたかった私は進む速度を速めていく。
「姫宮さーん!」 下駄箱で靴に履き替えていると聞きなれた音がする。一字一句がはっきりと聞こえる快活な声と駆け足の音。振り返らなくっても誰かなんてすぐに分かった。
私はそそくさと上履きをしまい、靴を放り投げ、ヒールカップを踵で踏みつけながら履く。うまく足がはまらない状態のまま、足を素早く前へ前へと進めた。
今は特に、あの子には追い付かれたくなかった。
でも私の気なんて知らずに、あの子は、有広さんは、私を追い越して、そして振り向く。いつもの笑顔を見せつけられる。
「今日もちょっとお話したいなって。ダメ?」
悪戯好きな子供っぽく白い歯を覗かせて尋ねる彼女を、私は追い越す。重い鞄が肩を軋ませるけれど、懸命に足を動かして、できる限り速く駆ける。
「ま、まってよ」
「私は、早く帰るの!!!」
駆けだした私に軽々と追いついた有広さんの手が私の肩にかかって、咄嗟に振り払った。顔が熱かった。吐き出した怒号で喉が痛む。後悔する。
「そっか。じゃあ、またね」
あっさりと受け容れて、手を振り、すぐ背中を向けて駆けていく背中を見て、一気に熱が引いた気がした。
こんなに強く言わなくたって、あの子は、有広さんは、嫌だと言えばすぐに帰ってくれただろう。それにこの激情はただの八つ当たりでしかない。有広さんは私の憤りにも不安にも、何一つだって関わっていないのだ。
その後悔も、やってしまった以上はもう遅かった。私よりも真っすぐ早く駆けていける有広さんに届かせられる言葉なんか分からない。
はあ。溜息を一つ。やりきれない心の痛みを軋む肩の痛みに混ぜて、全部の苦痛は私の非力のせいにして、今はただ帰ることにした。
「ただいま」
いつもよりも軽く感じた玄関のドアを蹴飛ばすように入って、声を張り上げる。廊下の奥では人の動く気配とテレビから流れているであろう何かのBGMが聞こえた。でも、その音はすぐに消えた。
靴を履いたまま私はただ立っていたけれど、待てどもまてども、出迎えにための足音もなければ『おかえり』の声が廊下に響くこともない。
「ただいま」 同じ言葉を繰り返す。その時、ようやく足音が聞こえた。私は落ちかけていた首の角度を上げて、廊下を眺めた。でも人影が見えることもない。それは当然で、足音は階段から聞こえ、やがてバタンと扉が閉められる音がしたから。ママは自分の部屋に入ったのだ。
今日は、いつもママが言っていた時間よりもちょっと早く帰れたんだけどな。
もう何も発する言葉は思い浮かばなくって、脱いだ靴をママの靴の隣に並べてからは真っすぐ自室へ向かった。無駄な物がない、綺麗な自室へ。
床に鞄を転がすとドスンと鈍い音がする。口を閉め忘れたみたいで、参考書の群れが転がされた勢いに載って漏れて散らばった。それらを拾い上げて机の上へと広げたけれど、少し眺めた後、鞄にしまい直す。
参考書が机の上にないと、この部屋でやれることなんて本当に何もなくなる。改めてそれを思い知らされたあと、閃くことが一つあった。
今度は国語の教科書だけを引っ張り出す。学校ではまだ触れていない後ろのページにある作品の冒頭のページを見つけられると、そのままベッドに横たわって触れた物語の文字に視線を這わす。
教科書だったら問題集の文と違って問題を解くことを気にしなくて良いから気楽だと思った。その気楽さは確かな物だったらしく、思いのほか没頭できたらしい。
「清子、ご飯できたから」
物語の山場が過ぎたページを捲ったところで、部屋の外からママの声が遠目に聞こえる。枕もとの目覚まし時計を見てみると、教科書を手に取ってから短針が二周半もしていた。
「うん、いまいくね」
閉じた教科書を鞄に突っ込んでから、駆け足で階段を下り、ママがいるだろうキッチンへと急ぐ。駆けつけるとママは俯きながら食卓を飾っていた。並んでいるのは一人分のご飯。メニューは昨日に引き続きカレーだった。
「ママ」 呼びかけると、今回もママは手を止めてくれる。
「あのね、課題、なんだけど」
「もう口出しはしないから、清子が好きなようにやっていいのよ。もし何か必要になったら言ってくれればいいからね」
顔は見えないけれど穏やかな口調だった。その穏やかさがどこから出てきたものか分からなくって、気味が悪かった。
「他に何かある?」
呼びかけられる声に、私は首を振った。でもママにそれは伝わらなくって、言葉で伝え直す。「なにもない」
「そう。じゃあ、ママは行くね」
話はそこで終わって、ママは私と料理を残して自分の部屋へと上がっていった。どうあがいても、今日は昨日の、地続きの世界なんだと改めて思い知る。
今回はテレビのリモコンに手を伸ばすことなく、終始無音の部屋でカラカラと、皿とスプーンが接触する音だけを響かせ、美味しいと思えてしまうカレーを口に含み続けた。考えるのは、食べ終えてからのこと。
ママはああ言ったけれど、私の好きなようにって何だろう。私は何を好きでやりたいんだろう。
ずっと悩んだけれど、その疑問は食べ終えても眠くなっても、解消することなんてなかった。
何かを求めるように、眠る直前に閉じられたママの部屋の前までいってみる。ドアへと伸びる私の右の手の甲。でも、ノックなんてできなかった。私の左手が手首を握ってそれを止めた。結局、何も言えずに引き返す。
そういえば昨日から、いや最近だろうか。ママのケータイの着信音も、電話を通して誰かと話す声も聞いた覚えがない。
でもそれはどうでもいい疑問。気になった振りをして悩みから目を逸らし、解消する気もないまま、ベッドに横たわった。
次の日も、世界は当然そのままだった。一人で朝ごはんを食べて、無音に見送られ、学校ではいつも通りの時間が流れる。そんな世界で一日過ごして分かったことは、新たに失ったものの輪郭の形だった。
私がなくしたものは基準なのかもしれない。今までは言いつけを守れば、ママを悲しませないで済むと思っていた。でも今はどうだろう。何をすれば悲しませずに済むのか、何を間違えば悲しませてしまうのか。それが分からない。一体、何に縋ればいいのか。
先の見えない急な角度の階段を、手すりもなく下っているような感覚。皆は、一体どうしているのだろう。何を支えに進んでいる。
辺りを見渡せば授業中だというのに、行動は十人十色で、でもどいつもこいつも呑気な顔をしている。昨日と同じような話を楽しそうに話し、くだらない悪戯に熱を燃やし、腑抜けた顔でいびきをかく。
誰一人として生きづらさなんてまるで感じさせてくれなかった。それが酷く辛い。
見せつけられている気分だ、私の不完全さを。
そもそも私のママが求めるものなんか、周りを見たって分かる訳がない。そんな事すら分からずに無意味に周りを見渡して、バカみたい。バカみたい。
でも周りを見ても分からないのなら、私は何をどうやって探せばいい。
必死に考えても、何も浮かばないまま。だけど相変わらず周りは呑気にふるまい、楽しそうな音を出し、日常を過ごしている。目についてしまう。見せつけられてしまう。
早く終わって、視界から消えてくれればいいのに。だけどそうやって過ぎても、私はまた学校に行き、この時間を過ごす。変わらない、私が何かを持っていないままじゃ、何も。
分かってしまう。
昨日は時間の先に何か光があると思えたのに、今はそれがない。秒針が進みきっても、ママは何も言い付けてはくれず、周りは当たり前のように生きられる姿を見せつけ続ける。私は変わらず基準が分からないまま、先の見えない下り階段で立ち止まるしかない。
――瞬間、咄嗟に口元を抑えた。喉元はひりついていて、口の中には酸味と辛味と苦味に黒いインクを混ぜたような味が広がる。胃液が込み上げてきたらしい。
何とか飲み込み、口を押えたまま息をすると、ツンとした匂いが通りぬける。その匂いがまた吐き気を誘ったのか、体が小さく跳ねた。何となく分かる。我慢はあまり利きそうもない。
「たいちょう、わるいので、ほけんしつ、いってきます」
手を挙げてなんとかそれだけ告げてみると、黒板に向かっていた女の人が振り向いて目を丸くした。比較的若い人だからか、こういう事態は慣れていないらしい。
「すこしやすめば、なおるから、いえにれんらくとか、いいです」
声を絞り出し終えて、あとは前のめりになりながら足早に扉の向こうを目指す。空気がざわついた。後ろからかかる声が聞こえた。でも構っていられなかった。
今はただ、楽になりたい。それが一時的なものでしかないとしても。
教室から逃げ出して数分の時が流れたと思う。私は今、狭くて白い保健室の一角に居た。
物理的には軽くなったはずなのに、朝よりも重く感じる体を整ったベッドの上に沈めて、あくびを一つする。首の筋肉が千切れそうなくらい張りつめて不快だった。鼻腔へと逆流した胃液や固形物のせいで、鼻をかんでもかんでも、痛みや異物感が消えない。
先生にはすぐに横になるなと言われたけれど、今すぐにでも横になって眠りたかった。全ての感覚に付きまとう気怠さを遮断して楽になりたかった。でも仕方なしに肩を壁に寄せてできるだけ重力に抗わない体勢を探す。
呆けていると、口の中の不味さが私の中で主張を強くした。手渡されていたスポーツドリンクのキャップを回して開けて、一口、また一口と口に含む。生ぬるい液体が口の中の不味いものと一緒に体の中へと落ちていくのが感じられた。少しだけ、落ち着く。
そういえば、保健室なんて初めて利用した気がする。それもそうだ。今の生活になる前から私は外で遊ぶ子ではなかった。体育でも張り切る子でもなければ、誰かに突っかかられてケガをさせられることもない。体調不良になることは何回かあったけれど、その場合は大抵悪化しきる前に早退を選んでいた。あの時はそれも気軽に選べた。
手のひらに収まるほどの小さな余裕は掴めたらしい。過去を想起すると、この状況が新鮮に思えた。開き切らない瞼の隙間から見える世界を覗き見る。
掃除や整頓が行き届いていそうな、付けたてのシワ以外はない白いベッド。ベッドの周囲を仕切って一人の空間を作ってくれるカーテンの壁。カーテン越しに見えるさっきから動く様子のない保健の先生の人影。
見えるのはそれくらいの、シンプルな場所。それに私は不思議と安心感を覚えた。何より時計の形も人の声もないのが、今は何より安らいだ。
開いているらしい窓から風が吹き、カーテンの裾が揺れる、揺れる。単調な動きに瞳はつられ、視界は動き、やがては首と体もその揺れと同じリズムを小さく刻む。
心地の良い空間だった。赤ちゃん時代の記憶なんてないけれど、ゆりかごの中というのはこんな感じなのだろう。段々と、狭まっていた視界は、閉じて、眠く――。
それから、どれくらい経ったのだろう。
何か夢を見たような、今も夢の中にいるような、曖昧な感覚の中にいる。ふわふわと浮いてしまっているような気がして、だけど体は空を飛ぶことなく転がっている。頬に感じる枕の柔らかさがその証拠。もしかしたら私にのしかかる重力だけが適度にサボっているのかもしれない。
覚醒しない頭をのんびりと回していると、かすかな衣擦れの音を小さな耳が拾った。下ろしていた瞼の幕を、ゆっくりと持ち上げる。
「あ、ごめんね? 起こしちゃった?」
目の前には可愛らしい童顔があった。好奇心の旺盛さをありありと表したまん丸の目があった。数秒目が合ったかと思えば、何故だか嬉しそうに目を細め、ほんのりと口角を上げる有広さんがいた。
「おはよう、姫宮さん。気分はどう?」
こんな笑い方もするんだ。柔らかくって、温かみがあって、でも何かを含んでいるような笑い方。いつもが熱をありったけに含んだ陽だまりなら、今は木漏れ日だ。枝葉が遮ってくれる分、思いっきり空を仰げる。目を逸らさず見つめていられる。
そうしていたら、幼い太陽は顔を真っ赤にして顔を背けた。両手で口元を覆って、鼻を小さく鳴らす。
「えっと、なに? 私の顔がどうかした?」
「……なんでも」
見慣れない態度に、なんだか胸の奥をくすぐられた気分になる。不快ではないけれど、居心地が悪い感じ。動ける状況だったなら、今すぐ足早にこの場から去っていた。今は動けないから、仕方なく逃げるのは諦めてあげたけど。
それにしても、いつまでも照れたような顔をしないで欲しい。こっちまで恥ずかしくなる。
いや、無言で相手の顔を見つめる私もどうかしていた。だけど仕方ないではないか。起きたてて、上手く頭が働かなかったんだから。じゃなかったら、いつものようにあしらっていた。隙を突かれただけ。私はそんなに悪くない。
――そもそもだ。
「なんでここに居るんですか? 休み時間?」
「いや、三限の真っ最中よ。姫宮さんのクラス、二限は移動教室だったでしょ? 休み時間にね、いつも通りボッチで取り残されてるところに突撃しようと思ったら、いないんだもん。んで、クラスの人に聞いたの。そしたら保健室って言うからさー。飛んできて……、そのままステイっ!」
「ボッチ……。あ、先生は?」
「ん? どの? 保健の先生はなら三年生の保健の授業にいってる時間だよ。私の心配ならそれは平気。しおらしくモジモジして体調不良を訴えたらゴーサインでたからね。許可は得たよ! 姫宮さんのとこは今日の当番のノッポ君が先生に報告してたらしいから、それも大丈夫!」
「そ、そう」
思った以上にこの子は小賢しいのかもしれない。休み時間の間に突撃と確認とお芝居を済ませてこちらに来る手際に感心する。それをちょっとした悪戯を語るようにピースしながら笑っているのがまた厄介な雰囲気がある。というか口数がいつもより多い。照れ隠しだろうか。
しかしまあ、なら叫んで摘み出してもらうことは出来なさそう。段々と戻ってきたいつもの暑苦しさを感じ、眉間にしわを寄せて、溜息を一つわざとらしく溢してみる。あまり懐に入ってきてほしくなかったから、できれば早く帰って欲しい思いだった。昨日のこともあって、気まずいし。
「あ、喋りすぎちゃったか。うるさくして、ごめんね?」
私の態度に、有広さんは目を伏せ、手の平を合わせて謝った。膝を擦りむいたばかりの子供のような顔だった。口を閉じたまま首を横に振ると、有広さんは安心したように胸を撫で下ろす。
「でもごめん。ちょっと舞い上がってたみたい。多分吐いちゃったんでしょ? 飲んだ方がいいよ、多目に」
有広さんが枕もとにあったペットボトルのキャップを捻って開けると、私の目の前に飲み口を持ってくる。受け取ってから口を付けて喉を三回鳴らし終えると、大きく息が漏れた。
「あら、いい飲みっぷり。良かった、飲む元気があって。横になっちゃったから胃のあたり荒れてると思うよ。まだ暑いけど、冷たいものとかは控えた方がいいかもね、刺激になるから」
有広さんは私の手からペットボトルを奪うと、キャップを戻して枕もとに再び置く。妙に甲斐甲斐しい様子に気を取られていたけれど――、
「私、吐いたなんて言ってないです」
「ちょっと酸っぱい匂いがする」
「……」
口元を手で覆い、息を吐く。確かに、少しだけそれの匂いがした。すぐさまスポーツドリンクを再び手に取り、口をゆすぐ。目の端の有広さんは微かに笑った。
「弟がね、体弱かったんだ。それで割とげーげー吐いたのよ。一時なんて吐くのが嫌で食べたくないって箸を投げたこともあってねぇ。それで点滴が外せなかった。見てて痛ましかったなぁ」
懐かしむ口調でどこか遠くを見つめながら、有広さんはどこからか持ってきたポーチを漁り、その中の物の一つを私に放り投げた。「はい、飴ちゃん」
咄嗟に受け止めたそれを顔に近づけると、銀色の小袋にミント飴と書かれていた。有広さんに視線を送ると首をしゃくられる。「口、不味いでしょ? すっきりするよ多少は」
ありがとうございます。小さく呟いて口の中へと小袋から出した飴を放り込む。舌の上から中心に清涼感が駆け回り、鼻にまで抜けていった。また口を覆って息を吐きだすと、さわやかなミントの匂いが溢れる。
「ありがとうございます」
「ふふ、お礼、二回も貰っちゃったー! どういたしましてっ」
歯を見せて笑う、いつもの表情。私は口を結んで視線を逸らすと、有広さんは小さく笑い声を溢した。いつもよりも、楽しげだった。
「何かいい事でもあったんですか……?」 我慢できずに尋ねる。その訳を知りたくて。
「んー? 姫宮さんと話せてるから」
「いや、今日に限ったことじゃないですよね、それは。今日は特にその、表情が豊かです」
「あらそう? でも今日に限ったことだよっ。今までで一番長く話せてるもん。今もナウも更新中。すっごく嬉しいなぁっ」
体を左右に揺らしながら、有広さんは弾んだ声で応えた。でも慌てて口を塞ぎ、不格好に頬をこわばらせて難しい顔を浮かべようとしていた。普段はそんな表情をしないのは、口の端がピクピクと震えていることからよく分かった。
「どうしたんですか?」 慣れていない表情の不細工さに笑いを堪えながらだったので、くぐもった声が出る。
「姫宮さん疲れてるのに舞い上がっちゃったから、戒め」
「そういう……。いいですよ、別に、いつも通りで」
本人としては罪悪感で一杯なのだろう。それを笑うのは忍びなくって、でも顔は面白くって、だからとりあえずやめて欲しかった。その程度の思いで言っただけなのに、
「ほんと? ありがと!」 はじけるように笑うから、バツが悪くなった。タオルケットを手繰り寄せて胸に抱く。
「いつまで、居る気ですか?」
「分かんない。でもよかったら、次のチャイムが鳴るまで、いい? 姫宮さんは忙しいから、こんな機会、もうないかも」
口調はそのままでも、指を弄びながら少し顎を引く姿に、違和感を覚える。「もうない」なんて消極的な言葉を、彼女が使っただろうか。
「昨日のこと、気にしてますか……?」
薄情にも、私にとっては思い付きに近い発言だったと思う。でも当たりだった。有広さんは目を泳がせ始めた。
戸惑いの表情に私は冷たくも、有広さんだって傷つくのかと感心に似た感情が湧いてしまう。それが信じられなかった。昨日、あの時は確かに、後悔に駆られたはず。なのに、すっかりその気持ちを忘れているなんて。
戒めるようにタオルケットの裏で静かに膝を毟った。どうして他人の痛みに、こんなにも鈍感になっていた。冷たい私だから、周りに誰もいなくなる。そして今回も。
「気にしてないよ」 だけどその影は離れず、むしろ近づいてきた。
「嘘ですよ」
「ごめん、嘘。見栄張った。正直ちょっと怖かった。でも平気、いいのそれは。自業自得。そんでもって逆に聞いていい?」
「何ですか?」 捲し立てるように言葉を続けるから、謝る暇もなくて、そう答えるのがやっとだった。
「ほんと、なんてことない質問だけど、私のこと嫌い、かなーって?」
両手の平を見せながら、とぼけたような態度で有広さんはその質問を口にする。
「私ね、結構察しがいいつもり。弟が病弱であんまし喋ってくんなかったし、その弟の体調でお母さんやお父さんの機嫌もめっちゃ変わんのよ。あ、同情してほしいとかじゃなくってね。
そういう訳で言わなくっても察しろって状況が多くて、その中でも上手くやれて来たつもりってこと言いたかった。実際外でも衝突なんてなかったし」
「それが、何ですか?」
「姫宮さんのことも空気は察してたつもりだった。けど昨日は上手くそれができなかった。踏み入りすぎた。自分でもよく分かんないんだ、ツンケンしてたのは気づいてたくせに、なんであんなことしちゃったのかなって。今まではギリギリ大丈夫なラインを弁えてきたつもりだったんだ。だから昨日は私がゴメン」
手を合わせて深く頭を下げる有広さん。私はその姿に、凍るような痛みと煮えるような音を感じた。息が、少し荒くなる。
「それでね。昨日、間違えて、不安になった。もしかして今までずっと距離を誤ってたのかもって。姫宮さんに対して、もしかしたらずっと私は冷静じゃいられてなかったのかもって。だから聞きたいの。嫌ってないかって。聞くべきじゃないのは分かってるけど、確認がしたくって」
どうかな。相変わらずとぼけた様に首をかしげる有広さんを見て、やっと分かった。
「正しい距離なんて、私が一番知りたいよ」
むかついてるんだ、私は。今までの自分の私の態度を棚に上げて、私はいっちょ前にむかついてるんだ、この目の前の女に、今まですべて見通してたみたいに語るその言葉に。
「何がギリギリなラインだよ。私はずっと嫌いだよ有広さんのこと。いつも鬱陶しかったのに、分かった気になってた訳? 大丈夫だって? 嫌われてないって? ふざけるのもいい加減にして。私はずっと一人なんだ。それに慣れたかったのに、そこに飛び込んでくるから怖かったよ、変わっちゃう気がして!」
「ちょ、ちょっと、なんで怒ってるの……?」
とぼけた表情に、影が落ちる。でも私の口は止まらない。
「分かんない。でもすっごくムカついた。もしかして一人ぼっちの私がちょろそうだからって弄ぼうとしてた? 引っ掛けて反応を見て楽しんでた? それとも自分のその自慢の察しの良さを安全に検証する的だったの私は? だったら残念、結果はこうだよ」
なんで私はこんなに怒りを露にしてるんだろう。なぜか、他人事だった。自分の中にここまでの感情があるとは思えなかったから、頭が追い付いていない。有広さんなんか、暑苦しい何か程度の認識のはずだったのに。
「ち、違うよ! そんなんじゃ」
「何が違うのさ!」 どうせ反射的な薄っぺらい言い訳が来るだろうと、私は吠えた。そんなのは聞きたくないって、私は思ってるみたいだった。
考えを否定するように、有広さんは力強く首を横に振る。泣きそうな顔で後ずさったくせに、それだけは力強かった。
「嫌われてないだろうって、奢っていたのは確かだよ、言われてやっと分かった。たしかにそうだね。それは、本当にごめん。侮ってたのかもしれない。私が、浅はかだった、本当にごめん」
「だったら何が違うの」
「姫宮さんのこと、弄ぼうとか、的とか、思ったことない! ただ仲良くなりたかったの。一目ぼれだって言っていい! ……多分、その言葉が一番しっくりくる、気がする。だから何が何でも近づきたかった」
「信じられない」
「ほんとなの! 嬉しかったの。今思えば出すのも恥ずかしい下手な写真をジッと見つめてくれて、真剣な顔で綺麗とまで言ってくれたこと。あれで私は、ほんとに写真にハマって。あれまで勢いでやってて、本当に熱心にやろうと思えたの、初めてで。めっちゃ日記に書きなぐったくらいに、嬉しかったんだから」
「嘘だよ、あの時、とぼけてたもん」
「あれは、その、……照れ隠し。スッゴク、ドキドキしてたんだ。本当。――なら、そうだ。日記、付けてるの。見てみてよ。偽れるもんじゃないって、見ればわかると思うから」
「見せて」
どうでもいいはずなのに、どうしてそんな言葉が出たのか。自分でもよく分からなかった。でも渇きを潤すために水がいるようのと、同じような感覚な気がした。いつの間にか喉は渇いていた。
「……他のとこ見ないでね」
覚束ない動作でスマホを取り出してから、ゆっくりと画面に指を滑らせて数十秒。はい、と手渡される。手元が少し濡れていて滑りそうになったけど、落とさずに済んだ。
画面を覗けば青い鳥がアイコンのSNSと思わるものが表示されている。アカウント名は『暁』。アイコンの隣には鍵のマークが据え置かれている。
どうやらSNSの非公開アカウントを日記代わりにしているようだった。繋がっている人がいないのを見てすぐに理解する。暁は、再翻訳から発想したのだろう。有広美鳴。ミメイ。未明。Dawn。暁。
このセンスは、今まで子供っぽく振舞っていた彼女に似つかわしくない物に思えた。でも目の前にいる今の彼女ならば腑に落ちた。
「……見た?」
「まだ」
「早く、見て」
躊躇うくらいなら、どうしてこんなことをするのか。催促されたとおりに眼下に綴られる文に目を落とす。
『こんな写真だけど確かに喜んでくれた人がいた。私の写真なんかであんな焦がれた表情をしてくれるなんて、嬉しい、嬉しい。でも欲が出ちゃった。来年の桜が訪れる時までに、もっとうまくなる。こんな荒い写真でも喜んでくれたなら、もっときれいな物を見せたらどうなるんだろう』
『次見せる時までに友達にもなりたいな。断られちゃったけど、諦めない。気難しそうな人だったけど、私だから大丈夫。にしても初対面であのテンションは不味ったなぁ。あれが第一印象になっちゃう。どうしよ……。いやもう貫くか。頑張れ明日からの私』
二回にわたって投稿された文章の上部に示された日付は、確かに初めて会った時に近い日付を示していたと思う。正確な日付なんて覚えてないから、近いだろうとしか言えないけど。日付はアプリが自動で表記するものだから確かに偽れるものじゃないだろう。
あの時に見た、あどけない表情と描かれた言葉が、重なった気がした。でも、首を振って払う。重なったから、なんだというのか。どうせ、何をしたって、何も手に入らない。諦めなきゃいけない。
「もう見た?、」
「見たよ。でも」
言い淀む間に、スマホは奪い取られる。その顔は今すぐ声を上げて泣き出しそうなくらいに真っ赤だった。
「まだ、うさんくさいかな……?」
「……」
鼻をすすりながら傾げた小首。思わず、優しい言葉を掛けたくなるけれど飲み込んで、あしらうための疑いを吐く。
「私にここまで思われる価値ない。ずっと付きまとって、分かってるはずじゃん。愛想無くって、狭量で、つまんない。たとえ最初でそう思ったとしても、それは、褪せるよ」
「褪せない、褪せないよ。今もあの時の熱が残ったままで、それを原動力に頑張ってるつもり」
俯いて胸を抱く仕草。少し離れているのに熱がありったけ詰まったのが分かる息を大きく吐き出したと思うと、またスマホを取り出して、指を滑らせる。数秒操作を続けると、再び画面をこちらに向けた。
「これがね、姫宮さんと出会う前の写真」
見せられたのは、真っ暗闇の中でぼんやりとした灯りが点々とした写真だった。何を映しているのか全く分からない。
私が言葉を思い付く前にスマホは引っ込められて、再び有広さんはスマホを操作してまた画面を見せてくる。
「こっちが、つい先週に撮ったやつ。弟に手伝ってもらったんだ。撮ったのはスマホじゃなくって、買ってもらった高感度に強いカメラでね」
次に見せられたのは、星空が煌めく夜空の下に停めた自転車の脇で立つ人影が見上げているような写真だった。思わず、手が伸びる。指が触れると、画面が揺れ動いた。
感嘆が漏れた。言葉を失う。表現を探すためじゃない。言葉を探す労力を見るために割きたいと思える写真だった。一秒を引き延ばして見ていたい一枚。単純に綺麗に夜空が映っているだけでなく、連続した時間を切り取ったようなドラマ性があった。
「どう?」
「……すごくキレイ。動き出しそうだと思った」
「ほんと? 良かったぁ、嬉しい!」
別に、私の価値を認めて欲しかった訳じゃない。ただ何も価値がない私の価値を問うて、困らせて、離れて欲しかっただけなのに。
「次の春に夜桜を見せたくって、雑誌買って勉強してるんだ。いいカメラもさ、勉強をね、頑張って買ってもらった。それに姫宮さんが会って難しい顔をするたびに、待ち遠しいの。浮かないその表情に花が咲くの、とっても楽しみで。ずっとあの時の熱を保たせてくれたから、努力できてるんだよ。私をここまで動かした姫宮さんに価値がないなんて、違うよ」
さっきまで泣き出しそうだったくせに、今は全く違う顔をしてる。まるで道端で拾った綺麗な石ころが入った宝箱を見せつけるような表情。楽しげで、みつけた自分が誇らしいと言うように胸を張っている。鼻が、頬が、赤いままなのが、また目を引いた。
「それに気難しさもさ、必要以上に気を遣ってないって分かって、落ち着くの。何かに一生懸命なのも、見ててずっと伝わって、いつか力になりたいなって思っちゃって。きっと姫宮さんが愛想無いとか、つまんないとか、狭量とか、そう自分で言ってた部分、私はどうしようもなく好きなんだ。魅力的」
その言葉に私は絆されたのかな。浮かれたのかな。ここで何を応えても手を伸ばしても、何かを得られるかなんて思えない。それは分かってるのに、そんな気持ちを振り切った気持ちが私の前を駆けていく。
「有広さんにイライラしたのは、」
駆けた気持ちが言葉をここまでは紡いだ。だけどそこまで言ったくせに、全部は言い切ってくれなくって、私は自力で相応しい言葉を探した。
でもそれはすぐに見つかる。探した言葉は近場にあった。手の中にひっそりと忍んでいた。
「嫉妬したんだと思う」
「嫉妬?」
「うん。私は今ね、凄く欲しいの。こうすれば上手くやれる。この距離なら平気で、これなら誤り。そういう物差しが凄く欲しくって、目の前でチラつかされた気分になった」
「でも、……嫌い、なんでしょ? だったらそんな物差しに妬むことなんて――」
「合ってたよ。有広さんが判断して保ってた距離感、私には正解だった。だからすごく期待しちゃってたし、心地よかったんだと思う。だから鬱陶しくって、嫌いになりたかった」
「そ、そうなんだ……。なら私は、どうしたら良かったかな? 合っててもダメなら」
「分かんないよ。それだけしてくれた有広さんに、何が足りないかなんて。私は、私がどうすればいいのかすら分からない。ここのところは特に、目まぐるしくって全然分かんなくって。だから全部が私の問題。ごめんなさい」
駆けた気持ちに甘えて進んでも、結局、私はここで止まる。昨日と同じで、『分からない』。ここまで向き合って言葉を沢山くれた有広さんに対して、私がかけられる言葉はなんてつまらないのか。言いたい言葉は出てきたくせに、応えるための言葉はどこを見渡しても存在しなかった。
「そっか。じゃあ、もし分かったら教えて欲しい、かな」
それでも、有広美鳴は微笑む。私が渡したつまらない答えを、肯定するように、価値のあるものだと訴えるように。
「それまで私は、いつも通りに姫宮さんに会いに来るから。それはいいかな? 大変な時だろうから、落ち着いたらでいいんだ。そんな時に私のこと考えさせて悪いけど、私が姫宮さんのために出来ること、なんでもいいから教えてよ。大きい事でも、小さい事でもいいから」
こくり。間髪を入れず、私は頷く。もう、応えることに、躊躇いは消えていた。
なら約束と、有広さんが差し出した右の小指。私は従順に同じ手の小指を絡める。熱いくらいに温かくって、小さい小指だった。数秒だけ交差した後、ゆっくりと解き、有広さんは満足そうに鼻を鳴らした。
「ん。ありがと! じゃあ今日は戻るね? また明日、会いに行くから」
熱かった小指は遠ざかって、見えなくなる。背中を向けた有広さんは、扉に向かって一歩を踏み出した。その瞬間に湧いて出てきたのは、さっきも感じた渇きに似た何か。
「せめてチャイムが鳴るまでは、一緒に。もっと早く慣れたいんだ、目まぐるしい世界に。早く、落ち着きたいから」
咄嗟に有広さんを制服の裾を、ベッドから身を乗り出して掴んだ私。多分、取って付けた言い訳を並べただけだと思う。言いたいことが言えなかった羞恥の熱を秘めて、何かが届いて欲しいと、大きくて小さい背中を見上げると、
「うん、分かった。居るよ、ここに」
掴んでいた裾の代わりに自分の手を差し出して、離れないように結んでくれる。振り返って見えた表情は、頼りなさそう。頬が緩み切っていて、ものすごく間抜けだった。
「チャイムまで、何か話そうか?」
緩んだままの表情で私を見て、体を小さく揺らす。そんな姿が面白くって、
「なら、さっきの日記の他のところについて」 少し、意地悪をしたくなった。
「あー、えっと、そういえば見せたい写真、他にもあるんだけど」
「逸らすんですね。ヤバいんですか?」
「いやぁ? ぜんっぜんヤバくないけど? でもどうせ同じヤバくないのなら、私の写真を見ようよ」
「そう。……分かりました。じゃあ写真、見たいです」
「その『妥協してあげます』みたいな間がちょっと不服なんだけど」
「ふふ、ごめんごめん。見せて欲しいです、有広さんの写真。すごく気になる」
「もう……。まありょーかい。じゃ、まずこれ。夏休み中に一人でぶらついてた時のなんだけど――
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