第一章 ここにある下らないもの

「夏休みを明けて間もないのは分かるが、そろそろ気を引き締めろー? 来年は高校受験だってあるんだからな。明日から授業だから、教科書も忘れずに」

 話教壇に立つ白髪交じりの中年の男は、自分の顎を軽く触りながら黒板を手の甲でコンコンと鳴らす。するとタイミング良く学校のチャイムが鳴り響いた。

「じゃあ今日は終わり。当番、号令」

 きりーつれー、さよーなら。

 なで肩をした今日の当番が、誰もが気を付けをする暇もないままに覇気のない号令を発する。その瞬間、これまでヒソヒソと話していた声の主たちは、マイクでも握ったようにそのボリュームを上げた。

 そんなに待ち遠しかったか、放課後が。

 ざわめき立つクラスを目だけで見渡す。他の女子たちはいくつかのグループを作っては、それぞれの塊で思い思いの話をしていた。ファッション雑誌を開いて黄色い声を上げるとこもあれば、教室の隅に集まってはお互いの指の爪を見せあって、心にもない褒め言葉を吐き合っているとこもある。

 男子たちは下ネタを披露しては大口を開けて笑い合ったり、部活の予定を話し合いながら体操着を振り回して教室を出て行ったり。

 皆が皆、群れて話して笑っていた。私を除いて楽しそうに。だけど私に群れるのは人のいない空白の隙間だけ。亀裂でもあるかのように、近くには何もない。


『清子はあなたたちと違って、勉強して良い高校に行くの。この子の時間を奪ったら許しませんから』


 冬休み明けで久々に味わう疎外感に、思い出す母の怒号。唐突に乗り込んできたと思ったら、その台詞を吐き捨てて私の手を引いて帰ったのは、去年の晩春くらいだったか。窓の向こうに見える木の枝にしがみ付いていた桜の花弁は、訪れた沈黙とともに風に舞っていた。

 その一言で、私の人間関係は全て台無しにされた。その残滓は今でも消えることはない。おかげでそれ以降は、ほとんど一人だ。揃いも揃って薄情すぎる。

 ――いや、ただ単に私に魅力がなかっただけか。

 はあ。溜息を一つ。沈む気持ちに甘えて、このまま席に根でも生やして植物と化していたいところ。でも何をしても私がママの娘なのは変わらない。どうあがいても、帰らなければいけないのだ、早々に。

 今日学校では一度も触れることのなかった参考書がぎっしりと詰まったリュックサックを肩にかけて席を発つと、膝の関節がピシリと小さな悲鳴を上げる。重たい背中が進むなと訴えるように後ろへ力を掛ける。

 それでも、早く帰らなければ。

 ゆっくり小さく歩みを築いて、喧騒に背を向けて、進む。

「おお、姫宮。勉強は捗っているか?」

 私が教室の扉に手を掛けた時、声がかかる。中年の男の声。担任の先生。ぎこちない動きで声の方向に向き直ると、にこやかな顔が見えてくる。この人の癖のようで、今も顎を指先で撫でていた。

「たくさん勉強して良いところへ行ってくれよ。他の先生方も、みんなお前に期待してるからな」

 中年男の唇がいつのまにか潤っていることに気づく。舌なめずりをした跡だろう。

この男は、私の進学の成功を自分の手柄のように語る気でいるのだ。それを証拠に私が学年で一位を取るたびに、廊下の途中で他の先生方にそれを声高に語っている。私の教え子は云々で、故に立派な功績を残すとかなんとか。

 何もしていないくせして、偉そうに。

「頑張ります」 立った鳥肌を隠すように腕を抱いて呟くと、男は満足したように頷いた。

 さようなら。

 小さく会釈してから、さっきよりも早い足取りで外へと向かう。背中に掛けられた「頑張れよ」の声に、すぐさま耳を塞いだ。

 

 塞げるだけ、眼を逸らせるだけ、まだ学校は楽で苦しい。


◆◆◆


 校門を抜けてマダラに歩く生徒の群れを追い越して歩く、一か月ぶりの帰り道。

 ハーフスリーブから覗く白い肌に突き刺さる日差しが痛く感じる。登校時は曇りだったからまだ楽だったのに。肩にかかる鞄の重みも相まって気分は余計に沈み込む。ずっと家から出られなかったせいもあって、落ちた体力が息を荒げさせる。

 家から歩いて五分程度の平坦な道。家まではあと一〇分。にも拘らず、やけに険しく感じてしまうのがひたすらに情けない。胃のあたりが痛むのを感じて胸を右手で摩る。でも歩みは止めない。止められない。

 息も絶え絶えになりながらも進んでいると、通学路と土手道の分かれ目にたどり着く。そこで私は帰路の最中で初めて足を止める。土手道を見渡すと、相変わらずここは人気が少なくって、土手の斜面に茂っている草花が風に揺れていた。

 以前なら平日の楽しみとして歩いていた、少し遠回りの川沿いの土手道。通学路から外れていたり、この道の使うと大抵の人が遠回りになったりすることから、基本的にはここは誰も通らない。

 それが私にとって魅力的だった。どこを通っても一人な私だけど、人がいなければ孤独を知らしめられることはない。

 加えて、猫やサギ、カルガモたちが道を横切るのをよく見られるのも、ここを通るのが好きな理由の一つでもある。近づけば逃げてしまうのだけれど。

 魅力と安寧に出会うため、夏休み以前なら平日の楽しみとして歩いていたこの道。でも今日は歩く余裕はなさそうだ。帰りが遅くなる。落ちた体力と足を止めさせようとする魅力に、私は帰るのをやめてしまうかもしれない。

 引力を感じる向きから視線を逸らして、空を仰ぎ見て大きく深呼吸を一回。止めていた足を生徒の群れが通る通学路へと向け直し、私は再び歩みを進めた。


 覚束ない足取りをしばらく進めた後、再び止めて見上げるのは住宅街の一角にある青が目立つ一戸建てだった。玄関に立てかけてあるのは『姫宮』の木札で、つまりはここが我が家である。

 左手の可愛げのない腕時計の長針を見つめると、予定よりも一〇分ほど下校に時間がかかっているのが分かった。ため息交じりで玄関の取っ手を引いて中へと入ると、目の前の廊下の向こうからダンッダンと荒っぽい足音が響く。

「ただいま、ママ。遅くなってごめんなさい」 

 足音から怒気を察して早々と謝罪を口にする。その相手は勿論、私のママだった。靴を脱ぐのも後にして頭を下げると、頭上からは秘めきれない苛立ちを匂わせる声がした。

「あのね、分かってる? 家庭教師の先生が来るまでに食べ終えて復習しなくちゃいけないって。久しぶりの学校で忘れちゃった?」

 ごめんなさい。私はさらに頭を下げた。声を、湿らせながら。肯定しても否定しても、理由を述べたって、ママには関係ないのは今まででよく分かっていた。

「ごめ――」

 ゴツン。三回目を繰り返そうとすると、頭に衝撃。ママのげんこつだった。疲弊していた足のせいで体幹は大きく揺らいで、私は堪らず壁に背中を預ける。

「さっきからそればかり! 他に何かないの!?」

 秘める気すらなくなった、ただの怒号が鼓膜を揺らした。壁に背を付けたまま見上げると、端正な顔立ちは真っ赤になって、青筋が走っていた。

 せっかく綺麗なのに。だからママの顔は見たくない。

「ごめんなさい」 湧いて出た哀しさを目頭に込めて涙を溢れさせて、四回目の謝罪を呟く。するとママは後ずさった。

「ちがう違うの。私はただ、清子が少しでも良い道を進めるように……」

 駄々をこねる子供みたいに首をふるふると振るわせるママを見ると、口の中に酸っぱいものが込み上げて、喉がひりつく。それでも痛みを無視して愛想笑いを浮かべると、ママの肩は少し力が抜けたように見えた。

「清子は、分かってくれるのよね。私なんかよりもずっと賢い。絶対ママのお姉ちゃんよりも良いところ行って、パパと同じくらい頭を良くなれるわ」

 膝立ちになって手招きするママに誘われ胸に飛び込むと、内臓を圧迫されるくらいに抱きしめられる。

「あなたは、幸せになって。それとお帰りなさい」

 背中に温もりが何度か滑ると、ママは立ち上がって廊下の奥の台所へと消えていく。


 まるで自分が不幸みたいに言わないでよ。


 そう思うけれど、止めを刺した私に言える訳がない。これを言ったらきっと、二度とあの思い出には戻れない。裏切ってしまう。いつものように拳をギュッと握りしめてから、靴を脱いだ私は二回の自室に牛の歩みで逃げ込んだ。


 コンコン。

 昼食を食べ終えて、自室の南側にデスクの上で既視感を覚える現代文の問題を解き進めていると、控えめなノック音が聞こえる。

「どうぞ」声を上げると、声の主は重たそうに木の戸を引いた。

「あ、その、こんにちは……」

 足は踏み入れず、眠たそうなタレ目が特徴の顔だけを覗かせたのは、家庭教師のお姉さんだ。名前は氷室由紀。中学に進学して一か月くらいから私の先生をしている。だからそろそろ一年半の付き合い。

「入っていいですよ?」 隣の空いた椅子に座るよう手で促すと、ようやく抜き足気味に入ってくれる。背は高い彼女だけど背中を常に丸めているので、あまり高さを感じない。

「えっと、今日もよろしくね?」

「はい、よろしくお願いします」 テキストで埋まっていた机を片付けている間に、氷室さんはスカートの裾を抑えてゆっくりと腰を下ろす。

「今日は現国……、って分かってるよね。簡単?」

「簡単とはいきませんけど、なんとか」

「そっか、それは良かったよ。得意だもんねぇ」

「得意、なんですかね。でも好きではあります。唯一お話に触れられる場所ですから。にしても……、学校でやってる範囲が馬鹿らしくなっちゃいます」

「あはは。まあレベルの高い高校は私でもたまに頭捻るとこはあるからねぇ」

 夏休みを終えて中学の範囲が一通り終わった今、三日前にある高校の入試問題をまとめたテキストに触れていた。その中でも真っ先に始めさせられたのが現代文。

『このレベルでも出来なくないって思ってくれたらいいなって。他の教科は覚えることがそこそこあるけど、現文は別だから。諺とか漢字はさておいてね』

 というのが現代文から手を付けることを勧めた訳らしい。

 氷室さんの言う通り、他の教科――理科、古典、数学、社会――は断片的にわかる程度だった。概要に覚えはあるが、こんなに詳細にやった記憶はないといったところ。一方で現代文は解ける。他の教科から始めていたら気が滅入っていたかもしれない。

「自習の時は時間決めて解いてた?」

「いいえ。とりあえず解けるまでやってました」

「なら、今日は時間を決めて解いてみようか。最初から一気は疲れちゃうから、とりあえず大問一個を一五分程度で――」

 コンコン。

 言葉の最中にノック音が響くと、私は背中をピンと伸ばし、氷室さんは肩をびくりと震わせた。少しの間を置いて淀みなく戸が開かれると、現れたのはママだった。

「冷たいお茶、いれてきたの。いかがかしら?」

「あ、っひゃい! ありがとうごじゃいまふ……」

 器用に片手でお茶の入ったコップが二つ置かれたお盆を持って戸を開けたママの元へ、氷室さんは急くように歩み寄る。そして溢さないように丁寧にお盆ごと受け取ると、これまた丁寧に深くお辞儀をした。

「娘は大丈夫そうですか?」

「あ、はい。大丈夫だと、思います」

「『思います』?」

 不安げな言葉の一部を、語気を強めてオウム返しするママに、氷室さんは首を大きく横に振る。ブンブンと振る。「大丈夫です!! 予定より順調なくらいです!!」

「なら良かった。氷室さんは信頼していますから」

「はいぃ……」

「じゃあお邪魔しちゃいけないから、ママは行くわね。清子は頑張るのよ」

「うん、分かってる」

 そこまで話すとママは引き返していった。氷室さんは胸を撫でおろしてほっと息を吐いている。首を大きく振ったおかげで少し乱れた髪が気の毒だった。

 この通り、氷室さんはママが苦手だ。単純な相性もあるのだろうけれど、それ以前に出だしが悪かった。

 氷室さんは私に付いた二人目の家庭教師だった。小学校の頃についていた前の家庭教師は、私が進学の際にママに罵倒を浴びせられた挙句に辞めさせられた。

 きっとその話が耳に入っていたのだろう。思えば最初から世紀末をさまようかのように怯えていた気がする。それに今どきの中学生らしいものが何ひとつない、私の殺風景な部屋に察するものがあったのかもしれない。

 一方で、ママは氷室さんのことは気に入っていたりする。教え方は上手で結果を出しているのもそうだけど、一見して人畜無害そうな彼女はきっと、ママの持つコンプレックスを刺激しないのだ。

「えっと、やろうか……?」

「はい、そうですね。一五分、ですよね」

「うん。でも最初は解き切ることを考えないで良いからね? 一五分ってこんなものだって分かってくれたら、それでいいから」

 じゃあ始めて? トマトの形をしたストップウォッチを片手に握った氷室さんがスイッチを押すと、ピッと無機質な電子音が響く。私はペンを片手に、問題文へと視線を滑らせた。

 考えて、読んで、ペンを回して。そうして解答を埋めながら、思考はぼんやりと他のことを思い描いていた。

 私はマルを増やす努力をして、一体どこへ向かうのだろう。

 いい高校なんかには興味はまるでない。体裁を得たいわけでもないし、何か学びたいことも特にはなかった。

 それでもこうして問題を解くのは、強いて言うなら罪悪感を埋めるためくらいだと思う。ママにかつて向けた無邪気な裏切りを償うために、とにかくやろう。それだけ。他に、特にない。

 そしてそれだけの行為は、どこにも私を運んではくれない。

 そもそも、ファッション雑誌も好きな小説も、スマホも友達も無くした今、勉強しかできることはないのだ。だったら考えるだけ無駄なんだ。

ふう。

 問題の七割を終えたところで、ピピピという音が耳に届いた。

「じゃあおしまい。早速答え合わせをしてくけれど、何か引っかかったことがあったら何でもいいから教えて? 納得を得るのが一番大事だから」

 ――なら私はこのままでいいの?

 言葉が喉元まで出かかった。でも出さない。出せる訳がない。

もう温くなったお茶を喉に流し込んでから、できるだけハッキリと別の言葉を答える。


「今は、特にないです」


◆◆◆


 数時間の家庭教師を終えるとちょうど夕飯になる。二人分のご飯を乗せたやけに広く感じたけれどテーブルを挟んでママと向き合いながら、私は機械的にお箸を動かす。今日のご飯は夏らしく素麺だった。

「ママのお姉ちゃんは英語がすごくってね。私が毎日何時間勉強しても、お姉ちゃんは何もせずに私を追い抜いていくの。周りにはいつも言われたわ。姉に比べて妹は、って」

 二人きりで食事をするようになって大体二年半。こうなってからママは決まってする話がある。

「パパは私なんかより頭がいいから、私と話してるとイライラしちゃうんでしょうね。お医者さんの世界の方が同じくらい頭がいい人ばっかだから居心地がいいのよね、きっと。ごめんね、パパが帰ってこなくなっちゃって。ごめんね」

 それは、自分の頭がいかに悪いかと語るコンプレックスの話。毎日毎日同じような話を聞かされて、その度に私は今日初めて聞いたような表情を作って相槌を打つ。そうしないといけない。そうしなければ、ママが悲しむ。

 そしてその話は毎回のように、こう収束する。

「清子は頭を良くしていってね。頭がよくなれば、お姉ちゃんみたく自由に、パパみたいに立派な仕事に就けるから」

 麺を啜り飲み込んだ後に、私はこくこくと頷いて言う。「うん、分かった」

「清子は物分かりがよくって偉いわ。大丈夫よ。中学は失敗しちゃったけど、今のまま行けばきっといい学校にいけるからね」

 ママの話がいつもの決まり文句に帰結すると、それ以降は言葉が発せられることはなくなる。聞こえるのは過ぎて行こうとする夏に必死にしがみ付く蝉の声と、一定のリズムを奏でる食事の音だけ。

 ホッとする。今日も、ママを泣かせずに済んだ。

 目を伏せながらも行儀よく箸を動かすママの右奥に目を見やると、そこには電源の付いてないテレビがある。目を凝らすと液晶の黒がぼんやりと人影を映していた。暗く狭い枠の中、窮屈そうに手を動かすように見える二つの人影が。


「じゃあ勉強するから」

 息苦しい食事を終えてリビングに向かって声をかけると、ママは嬉しそうに笑う。「そう? 頑張り屋さんね」

 ママの声を背に、駆け足気味に階段を上がる。その途中でママのケータイから無機質な着信音が鳴るのが聞こえた。階段の途中で耳を澄ませると、ママが弾んだ声で私の名前を唱える。多分、相手はパパだ。

 でもママは話しているうちに声を段々と荒くしていく。私の息も段々と詰まってくる。海の底へと潜った後のような気怠さが私を襲う。限界がきて、私は逃げるように、空気を求めるように、自分の部屋に飛び込んで、その勢いのままベッドへと体を沈めた。

 仰向けになって、目を閉じ、しばらく息を整える。脈の音が耳から遠のいてからゆっくりと目を開けると、私の部屋の様相が視界に広がった。空の本棚と裸のコルクボードが目に入ってくる。

『こんな物があるから勉強に集中できないのよ』

 中学に進学して間もなくしてからママに全てを捨てられて短くない時間が流れた。でも未だにこの部屋には慣れない。夜桜の写真が入った大事なアルバムも、七歳の頃に上野の動物園でパパに買ってもらったパンダのぬいぐるみも、もうとっくに灰になっていると思うと顔が熱くなってくる。

 夏休みの間はまだ耐えられた。諦めて過ごせばよかったから、まだ気が楽だった。でも久々の学校がいけない。見せつけてくれた、私にないものを。

 群れて知性を感じられない会話して、それでも楽しそうに笑い合う。馬鹿みたいに、気ままに伸び伸びと羽を広げる。

 私は、あれでよかったんだ。

 久々に疎外感を覚えてしまったおかげで、疑念と怒りが湧いていく。


 こんなに必死になって、勉強する意味はあるの? みんなと同じようにしたかったのに、ママのせいで――。

 

 今すぐママの元に向かって、そう怒鳴りつけたい。でも私の歯が唇に噛みついて叶わなかった。

「私が悪い。ママは悪くない。私が悪い。私が悪い。私がいい子にすれば、ママだけでも」

 薄いタオルケットに身をくるんで、自分に言い聞かせる。ママがこうなってしまったのは私の責任だから、ママを恨むなんて筋違いなのだ。

 

 私が中学受験で手を抜かなければ、ママがこうなることもなかった。


 あの時の私は友達とまだ一緒に居たくて、それが叶わなくなりそうな私立中学への進学を良く思っていなかった。サボるのは許してくれそうになかったけど、しっかり受験して、それで落ちたら納得してくれるだろうと考えていた。

 この頃から良い学校に行くことこそが私の幸せだと言っていたのはよく覚えてる。でも落ちたら仕方ないと言ってくれるという確信があった。

 全て甘い考えだった。

 パパが小学五年生の頃から全くと言っていいほど帰らなくなって、ママのコンプレックスは段々と熱を増していたらしい。察しが悪い幼かった私は、その熱源に燃料を撒いてしまったのだった。

 パパは元々研究好きで、地方の大学病院で自分の研究分野に深く取り組める設備があると聞いてそちらに向かってしまった。でもその研究は上手くいってなかったみたい。夜中、涙を浮かべて崩れていたママの片手に握られた携帯のスピーカーから罵倒する声が聞こえていたのをよく覚えていた。

 それを覚えていたはずなのに、私は自分の欲に走った。


『やっぱり私が悪かったの!? 馬鹿な私と一緒に居たから……! ねえ何とか言ってよ、ねえ、清子、清子』


 中学に落ちた私はしばらく責められ続けた。毎日毎日、顔を合わせる度に。だけど中学に行けば友達がいて、それでまだ耐えられたのに、思い出から離れて行く現実から目を逸らせたのに。それも一か月も持たなかった。


『清子はあなたたちと違って、勉強して良い高校に行くの。この子の時間を奪ったら許しませんから』


 学校に現れて私の関係を壊したママに連れられて家に帰ると、私の部屋は綺麗になっていた。

「何でこんなことするの!? ママなんてダイッキライ!!」 

 この時は愚かにも反発した。勢いあまって家出もした。私はそれを今でも後悔している。決定的な一手だった。

 家出した翌日の雨降る夜だった。どこかで脱げたらしくサンダルを片足だけ履いていたママが傘も差さずに公園をふらふらと彷徨い、私の名前を枯れた声で呼び続ける。その姿を穴がいくつも開いたドームの遊具の中で見ていた私は、耐えきれなくなってママの元に歩み寄った。

 私を見つけたママは、弱々しく私の頭を殴りつけた。痛くはなかったけれど驚きで尻もちをついていたら、綺麗な顔をグチャグチャにして泣き始めたママに抱きしめられた。

『ママがパパに見捨てられたから、ママがお姉ちゃんじゃないから、清子が勉強したがらないのよね。ごめんなさい、ダメなママでごめんなさい』

 この時を境に、私から反抗の意思はほとんど消えた。私が失ったものなんて大したことないものだと思えた。思い出から遠ざかる現実は目を逸らすことを許してくれないとも、

 私が言うことを聞いていれば、ママはこんな悲しまずに済んだのに。罪悪感ばかりが頭の中を木霊して離れなくなった。ママの綺麗な顔を歪ませ切ってしまったのは私なのだ。私はママを支える最後の柱だったのに。

 それでも私はまだ子供で、その償いに徹底はできなくって、周りがどうしようもなく妬ましくなる。筋違いにも被害者を気取って、ママに当たってしまいたくなる。家族なのに。私の中に今も残る素敵な思い出を作った、今、唯一、触れられる家族なのに。

「うああああああああああああああああ……っ!!」

 だから叫ぶ。枕に顔を押し付けて、肺の空気を絞りだして、思いっきり。感情の濁流に理不尽も不満も身勝手な嫉妬も、全部押し付けて吐き出す。息が続かなくなって、視界がチカチカと明滅するまで、それをずっと続ける。

 はあ、はあ。息が上がると、枕から顔を外してそのままギュッと抱き着いた。パンダのぬいぐるみが捨てられていて良かったと思う。無垢な黒の双眸が私を覗いていたのなら、このみっともない行動なんて出来やしなかっただろうから。

「勉強、しなきゃな」

 戸の横にかけられた壁掛け時計を見ると、ママが決めた寝る時間までは一時間と少しある。その時間になるとママが私の様子を見に来る。ママ自身が言いつけた課題が済んだかどうかを、確認をしに。その時に勉強していないと確実に追及が飛んでくる。

 机に向かおうとベッドから出て立ち上がろうとすると、カクンと膝が重力に屈して乗り手の失った自転車のように倒れてしまった。咄嗟に腕が動いてどこかを痛めることはなかったが、驚きで心臓は伸縮を大きくする。

 すう、はあ。深呼吸を繰り返し、心臓を落ち着かせると、明滅していた視界が段々とクリアになってくる。それと同時に不意の気怠さが体を蝕んだ。それでやっと自覚する。久々の学校や感情の揺さぶりで、私は疲れていたのだと。

「それでも、あと一時間だから」

 這いずって向かう勉強机。その脇に鎮座する椅子はこんなにも高い位置にあっただろうか。上半身を絡ませて何とか椅子に腰を落ち着かせると、氷室さんから渡された課題のプリントを机の隅からつまみ上げて、向き合う。現代文の問題だった。

 暗くなる視界の中、問題に目を通す。綴られた文字の羅列には、血の繋がりのない集団が徐々に『家族』と呼べるようなまとまりになっていく過程が映っている。

 私はその文字列に、可愛げのない鉛筆をぶっ刺した。


◆◆◆


 教壇の上では若い女教師が背伸びをして、黒板にチョークを滑らせている。そうして描かれるのは各年毎に起こった主な出来事の数々。目の端でそれらから情報に未知のものがないことを確認すると私は手元の参考書に視線を落とし直した。

 今日から授業が本格的に始まったが、クラスメイトたちは休み気分が抜けないのだろう。クラスの各地から抑えても抑えきれない話し声が響きあっていた。この先生の授業はいつも話し声が絶えないが、今日は特段そのボリュームは大きい。おかげで集中しやすかった。

 勉強を強要する圧力の小ささ。私だけがまともな勉強に取り組んでいるという薄っぺらい驕り。その二つが問題を解く速度をいつもより早くさせる。これならママにいつも課せられる課題も早々に終わりそう。社会の時間ではあるけれど、せっかく集中できそうなんだ。嫌いな数学を捗らせて貰おう。

 何故に義務教育で教えさせるのか意義が不明なグラフの数々と睨めっこをしながら、記憶の中にある公式を引き出していること数問目。不意に鳴ったチャイムと共にクラスの騒めきが強くなる。ああ、お昼の時間か。

「あ、ええ、授業、終わりまーー」 おどおどとした様子で先生が終わりの合図を告げる前に、今日の当番の腕白そうな男子が号令を早々とかけてこの授業は終わりを迎えた。

 長い休みを挟んでも変わらない扱いに思うことがあったようで、うな垂れながら先生は教壇から去っていく。私が思うのもなんだけれど、気の毒だ。でも彼女の哀愁が漂っている後ろ姿に気づく人なんていないらしい。クラスのみんなは仲の良いもの同士で群がろうと机をくっつけたり椅子を運んだりでせかせかとしている。

 当然、私には対岸の出来事。窓際の席で頬杖を付きながらその光景を眺めるけど、段々と胃のあたりが熱くなってきた。胸の辺りをトントンと軽く叩き、眼を逸らして大きく深呼吸。でもすぐには無くならなくって、気を紛らわすためにリングでまとめてある英単語が書かれた単語カードをめくり続けた。

「姫宮のはここに置いておくぞ」

リングに付けられたカード一周する頃になると、中年男が猫なで声をだしてお盆に乗せられた給食を机にゆっくりと置いた。この中年男は私の成績が実を結んだ頃から私を特別扱いしてきているけれど、一学期の半分もこれならば流石に慣れる。元々孤立している私だから、これ以上何があるということもない。

  ゆっくりと会釈を返すと下卑た笑いを浮かべて中年男は教卓へと帰っていく。湧いた嫌悪感に嘆息を溢して箸に手を付けると、周りの女子からはヒソヒソと同情の声が聞こえてきた。

 まったく、ありがたいことで。

 盛られたサラダを大きく掬い口の中へと運ぶけれど、入りきれずに口元を汚した。


 マイペースに淡々と食を進めていく間に周りからは一グループ、一グループと人が消えていく。そしてその度に窓の外から響く喧騒が強くなっていく。今もボールを抱えた男子たちが騒ぎ立てながら扉の向こうへと消えていった。

 他の学校は知らないけれど、うちは食べ終えた人から昼休みということになっている。おかげさまで遊びたがりの方々は競うように早食いに勤しんでいた。お疲れ様だ。

 その中で私は最後まで食べている。どうせ早く食べ終えてもあまり意味はないから。喧騒の聞こえる窓の向こうをぼんやり眺め、口元に牛乳に挿したストローに息を送る。パックの中から響くブクブクという音で出来るだけ耳を満たそうとする。これで外からの音は大抵消えてくれる。

 そう、思っていた。でも消えない音があった。

「ひっめみっやさーん!」

 それは快活な声。ドタドタと忙しなく聞こえる駆け足。学校で唯一、何の思惑もなく私自身へと向かってくる無垢な音。

「また、来たんですか」

 私はこれが苦手だった。有広美鳴ありひろみめい。五年ぶりに夜桜を見たあの日から、私に時たま纏わりつく、暑苦しい何か。

「また来たよっ。といっても一ヶ月ぶりだけどねっ」

「自分のクラスに帰ってくださいよ……」

 心からそう思う。じゃなければまだ教室に残っているクラスメイトの視線がこちらに突き刺さってしまうから。しがみついてくる暑苦しい塊を引き剥がして睨みつけると、子供っぽく頬を膨らませて「ぶー」と効果音を声に出す。

「休み明けの今でも、まだまだそんな事を言う? 夏休みに姫宮さんに合えなくって寂しさこじらせてたこの私に?」

「休み明けの今でも関係ないです。ほっといてくだっさい」

「またまたツレないなー。いつになったらしっかりお話してくれるの?」

「知りません」

 明後日の方向を向いて再びストローに口を付けると、有広さんは私の視界の中心にすかさず回り込む。また別の方向へと顔を向けると、有広さんは跳ねるような動きでまた回り込んでくる。それを二、三回ほど繰り返したあとで、私はわざとらしく大きな溜息を吐いた。

「あらどしたの? 悩み事?」 ずいっと近づけられる童顔。可愛らしくキョロリと覗く瞳の中に私のしかめた顔が映り込む。

「どうして私に構うんですか……」

「どうしてって――」 顎に人差し指を当て、丸い黒目はクルリと動かすこと数秒。バカみたいに口をぽっかりと開けると、手のひらの上に拳を打ち付けてポンと音を鳴らした。

「アタシ何回も言ってるじゃん! 姫宮さんがアタシに熱意をメラメラとくれたからだって」

「何回聞いてもよく分からないし。友達いるんだからそっち行ってくださいよ」

「なーんでーっ! 姫宮さん、『目立つからやめて』って言ってたじゃん? だから夏休みはズーッと考えて、こうして人の目が少ない時を見計らってきてみたんだよ? 昨日はタイミングなくってめっちゃモヤモヤした! え、なに、これでもダメ?」

「なんで接触自体を自粛する考えが湧かないんですか……」

「だって仲良くなりたいんだもん」

「……」

 もう、言葉も出ない。頭が痛くなってきた。相手をするのはやめて、牛乳を飲み干してパックを潰した。牛乳を嚥下する私の喉元を興味深く見てくるから、視線がくすぐったかった。

 この子は暇があれば私にこうして突っかかってくる。何度あしらっても、出方を変えて、頻度を変えて、何度も何度も。昨日は来なかったから諦めたと思っていたのに。

「あ、食べ終わったんなら片付けたげるね」 視線に耐えかねて顔を伏せていると、眼の端からお盆が消えていた。遠慮の声を掛けようと顔を上げる頃にはもう手の届かないところに居て、遠慮するのを諦めた。 

 そういえば有広さんが移動に『歩行』を用いるのは見たことがない。いっつも駆けている。

 ちなみに給食の最終的な片づけは、昼休み終わる直前に遊びから帰ったその日の当番たちがこなしていく。そのため、こんなにセカセカと片付けなくても問題は何もないのだけど。

 さておき、やっと離れてくれた有広さんの後姿を目の端で捉えながら、私は再び単語カードを取り出してパラパラと捲る。別に熱心に勉強をしたい訳じゃないけれど、勉強をしているポーズを取っていないと落ち着かないのだ。何もせずにいたら、何かを取り溢してまたママを悲しませるかもしれないから。

 カードを三つほど捲ると、駆け足が近づいてくる。特に反応はせず、机に肘をついてまたカードを捲る。足音がやむと机の向かい側に有広さんはしゃがみこみ、縁に顎を載せて、無言のまま上目遣いを向けてきた。それも無視してカードを捲り続けるけれど、変わらず有広さんは無言を貫く。でも視線を向けることはやめない。

「……何?」

「ん? 見てるだけ。邪魔しちゃ悪いかなって」

「つまらないでしょ」

「そうでもないよ? とってもエンタメってるよ?」

 有広さんは唇から白い歯を覗かせて笑った。子供っぽい笑みだ。初めて会った頃から変わらない表情。告げたもの全てが心からの言葉だと訴えてくるようだった。私は視界を細くする。真昼の太陽を見上げるように。

 分からない。どうしてなのだろう。何もしてあげられないのに、どうしてそんなに楽しそうにしてくれるのか。分からない。考えたくもない。

「もしかして、邪魔?」 いつの間にか止まっていた私の手を凝視して、有広さんは尋ねる。さっきとは打って変わって、花瓶を割って叱られた猫のような表情を浮かべていた。多分これを見たら、大半の人が罪悪感に駆られると思う。かくいう私もつい首を横に振った。振りかけた。

「……邪魔」

 でも、寸で止めた。出来るだけ感情を出さないよう、努めて淡々とその言葉を紡ぐ。有広さんはチラリと後方を見てから、特に気にした様子もなく言った。「そっか、残念」

 スカートの裾を抑えて勢いよく立ち上がると、腕を天井に上げて伸びをする。ふわぁ、と気の抜けた声を漏らしたら、くるりと背を向けて扉に向けて駆けて行った。

「また来るからー!」

 扉を越えた辺りで振り返って、腕をブンブンと振る有広さん。その様子をずっと目で追ってしまっている自分に気づいて、慌てて単語カードに視線を向け直す。どうせさっきから一つだって頭の中には入ってはいないのだけれど、逃げ道を自分で用意しなければ視線を吸われてしまいそうだった。

 視界の端から完全に暑苦しいのが去ったことを確認できると、途端に何か欠けたような感覚が頭を犯す。それは、ぬいぐるみやアルバムを捨てられた時と近い感覚。それよりはずっと小さいけれど、無視ができない程には確かに胸を締め付けた。

 単語カードを投げ出して机に突っ伏してみると、ついつい大きな嘆息が零れる。休みの前はこんなに疲れなかったのに。久々だったせいか、今まで築けていた壁は脆くなってしまったのかもしれない。おかげで懐まで入り込まれてしまった気がする。

堪ったもんじゃない。私の孤独を侵さないで欲しい。ずっと足元に絡みついている寂しさが這い上がってきてしまう。足を、とられてしまう。

 懲りずにまた嘆息を溢すと、頭上からチャイムが響いた。視線だけを上にあげて黒板の上の壁掛け時計を見る。昼休み終了の五分前だった。もしかしたら別れ際に有広さんが後ろを見たのは、時間を確認するためだったのかもしれない。ならきっと、また何か勝手に反省したうえで私にまた絡んでくるのだろうか。

 瞼を伏せて想像する。今後はどんな風に私の元にやってくるのか。

前の学期では下駄箱に恋文風の手紙を忍ばせて呼び出してきたこともあったっけ。あの時は廊下の影に隠れて私の反応を窺っていたから、丁寧に本人へ突き返してあげた。あとは移動教室の帰り掛けに私が一人のところを見計らったのか、待ち伏せしてきたこともあった。

 毎回が五分にも満たない邂逅だったし、まともに話してあげた事なんか一回もない。にも拘らず、有広さんはいつも楽しそうだった。ママの一声で関わりを諦められてしまう程度の価値しかない私相手に、いつも楽しそうだった。

 夏休みを挟んでてっきり諦めてくれたと思っていたのに。ひどい。

 手を伸ばしたくなるまでに、お願いだからどうか遠くへ離れてよ。ママに見つかったら、きっとまた失ってしまうのだろうから。

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