対岸の春

翠風 鶯歌

序章 思い出になる

 家族との思い出を振り返ると、必ず浮かぶ光景がある。

 それは夜桜。 目を閉じてみれば、いつでも瞼の裏に描ける鮮明な画。

 紺色の蓋で閉じられた空の下。眩しいくらいに光るスポットライトに照らされ、川に沿って並ぶ桜色が乱舞する。緩やかな川の水面の鏡は、紺と桜色とをそのままに映していた。

 視界いっぱいに広がる、暴力的なまでの美しさ。鮮烈な色と、圧倒的な存在感。

 あの時は二泊三日の旅行帰りだったか。疲れ果ててパパに背負われた私は、肩越しで色づく世界を見つめた。微睡み《まどろみ》の中にいたはずなのに、眠気すら忘れて、ひたすらに見惚れた。 

 それは家族全員が同じだったみたい。しばらく立ち尽くした後に、お互いの顔を見て笑い合った。背負われていたからパパの顔は分からなかったけど、ママは整った綺麗な顔をこれでもかというほど緩ませていて、間抜けだった。可愛くて、面白かった。

 お互いが面白い顔をして、それがおかしくって笑ったんだ。

 これが家族で見た、最後の笑顔の思い出。


 そして五年ぶりに、私は再び夜桜を見ることになる。

 桜の木に緑が萌える季節だった。放課後になって沸き立った喧騒に背を向けて歩く、学校の廊下。目に入る、壁にかかった何枚もの写真の中の一枚。

それはピントが全然合っていなくって、暗くて、荒くって。それでも――

「キレイ……」

 思い出が、溢れて止まらなかった。

 ツルツルとした写真の表面を右の人差し指でなぞって、世界に触れる。思い出の中に戻れるような気がして、嬉しくて。でも入れることはなくって、それが切なくって。

 早く、帰らなきゃいけないのに。でもあの時のように夜桜は、私の目を奪って離さない。


「あ、写真に興味がおありですかっ!?」

 

 そんな時だった。後ろから快活な声が轟いたのは。

振り返ると、肩までもない癖のついた髪を揺らして、ドタドタと駆け寄ってくる少女がいた。

「あ、これ、分かりますか? 夜桜を撮ったつもりなんですけど、いやあ、夜景の撮り方なんて分かんなくって。だけどどうしても綺麗だったから収めたかったんですよー。何か淡いものを感じてくれればと!」

 目の前に立つと同時に、棒立ちの私の手を取って、温かい両手で包みこむ。その幼そうな顔を見ると、まん丸く開いた瞳に、好奇心と私の顔をありったけに映していた。彼女の瞳の中の私は、訳が分からないといった顔で、首を捻っていた。

「で、どう思いましたか? これ」

 体ごと首を傾けて尋ねる彼女に、私は答える。記憶の中の景色を呼び起こす、この写真を見ながら。

 綺麗、ですけど。

 出てきたのは自分でも意外なくらいか細い声だった。

「……」

 届いていたか心配になる。彼女はそのまま唇をキュッと結んで、押し黙ってしまったから。再び言葉を捻り出そうかと、俯いていくつかの逡巡を挟む。そしてやっぱり伝え直そうと、顔を上げた時だった。

「――やったっ」

 呟くような大きさで、でも確かな熱を持った言葉が、彼女の結ばれていた唇から漏れていた。

「ごめん、すっごく嬉しい。どうしようどうしよう」

 唇から白い歯を覗かせて子供っぽく笑ったと思ったら、その場でぴょんぴょんと跳ねだした。包まれていた私の手が、動きに引かれて揺れる。手の脈から伝わる鼓動に揺れる。彼女の歓喜が肌で伝わる。

「あのあの、良かったらなんだけど、……なんですけど!」

 グッと、鼻息が触れるくらいに眼前まで彼女は顔を近づける。そして赤々と頬を染めながら、今までのどの声よりもはっきりした声で、告げてくれた。


「写真部、入っていただけたりしませんか!? それとお友達になってください!」


 少しの間をおいて、私はゆっくり首を横に振った。


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