#52:終着する
僕は記憶。僕は記憶に付随する人格の残骸。
……そんなことあるわけ、……あるわけ、……あるのか?
虚脱感と共に、僕の意識というものも、この身体から抜け落ちていってしまいそうになる。駄目だ、消滅してしまいそうだ。
-柏木さん、ご加減はいかがですか?
そんな支離滅裂状態の僕の意識に、清浄な風が吹き込んできたように感じた。いつか、病室で交わした、そんな何気ない会話。白い病室を思い出す。記憶。僕にあるほんの少しの、でも大切な記憶。
……僕には、彼女がいる。彼女を残して、無責任に消え去ることなんて出来るわけがない。何を、うだうだ考えていたんだ、この僕は。
意識がはっきりとしてくる。
視線だけを動かして、左の方向にいるその人の顔を見つめる。心配そうな、何か声を掛けたがっているかのような、そんな顔つきだ。大丈夫、僕はもう大丈夫。
思い出せ、思い出せるところだけでいい。記憶が無い?
……あるじゃないか、この一か月間の、かけがえの無い「記憶」たちが。
―記憶が抜けている……全て? ……いや、全部ではない。自分の名前は? わかる。
-今がいつ、何年かわかるかしら。
―2009年ですよね。今は
-今は2009年の9月14日。あなたの名前は思い出せますか?
―ええ。柏木恵一。25歳
-正解。
―家族は無事なんでしょうか?一緒に乗ってた……
-残念ですが、事故当日にお亡くなりになりました。
事故の昏睡から目覚めた日、彼女と交わした会話の群れが思い出されてくる。
そこに一点、違和感を覚える事柄がある。その事を考えると、やはり、彼女は、僕に嘘をついていたということに、思考は行きついてしまうのだけれど。
でも僕は、なぜ彼女が嘘をついたのか、その理由も、だんだんと分かってきてしまっていた。
それが最善だと、判断したから。
つまり、僕の置かれた状況を、あの瞬間、咄嗟に把握し、「今の僕に合わせた」嘘をついた。それが、あまりにも的確で、迅速な対応だったから、僕は違和感を抱かなかったんだ。
彼女は僕の正体を最初から見抜いていた。
当たり前かも。「本物」とは明らかに違う中身じゃないかよ。
柏木恵一が作り出した疑似人格、……違う。
柏木恵一の25歳の時の記憶の残骸、……それも違う。
記憶を失った柏木恵一。やはり、僕はそれだった。
こんな複雑なことになったのは、記憶を失う直前に僕……「柏木恵一」が行った「行動」が、過去の出来事をトレースしたものだったから。
そのことが、記憶を失った僕に、更なる混迷と、取り違えを起こさせた。
記憶の大部分を失って、かろうじて残った記憶も、時間軸をシフトして、違うところにうまいこと嵌まってしまったから、そこから抜け出せなくなってしまっていたんだ。
つまり間違った記憶だけを持った、記憶喪失者だ、僕は。
シンヤはそこから現れた、「先の記憶」の残骸。シンヤの持つ記憶を取り戻せれば、五月雨式に「前の記憶」もシフトされ、僕は甦るのだろう、「本物の柏木恵一」として。本当の、悔悟する「記憶」を有した、「柏木恵一」として。
―それで、いいのか、柏木恵一。
シンヤの声が、そう頭の中で問いかけてくる。シンヤにも僕の思考は伝わっていた。伝わって、そして理解してくれたんだろう。いいか、悪いか、それはもう分からない。
―全てを取り戻した時、ボクらは生きられるのだろうか。また……
言い淀むシンヤの「声」を遮り、僕は言った。
「……未遂に終わったのは、さくらさんの思し召しかもね。だったら、生きさせよう。もう『彼』は、ひとり思い悩んで、追い詰められた最悪な精神状態の彼ではないはず。それに僕もシンヤも、さくらさんも、めぐみもいる。ひとりじゃ、ないから。だから大丈夫。彼は大丈夫」
隣にいた、さくらさん……いや、佐倉めぐみの目が見開かれる。
ありがとう。キミがしてくれた献身を、僕は「元」に戻っても忘れないようにするよ。
……だから安心して戻ろう。「柏木恵一」に。
左腕を真っすぐに伸ばすと、そこにシンヤの虚像だった「黒い光」が集まってくるように見えた。
脳を震わす、キュルキュルの轟音と共に、僕は頭に、脳に、ぶん回されるかのような激しい力を感じて倒れ込む。
……そして、闇が訪れた。
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