#51:霧散する


 波音が強まってきていた。風も、僕の心中を象徴するかのように、流れを不規則に変えながら、なぶるように身体に吹き付けてくる。そして、


 隣で僕を心配そうに見つめてくるさくらさんの視線を、ずっと左頬に感じている。


 シンヤの姿はもちろん彼女には視認できるわけもなく、先ほど虚空に向けて叫びはなってしまった僕の姿は、事情を察していたとしても、とても正気には思えないだろうけど。


 でも、この「交渉」を成立させなければ、「柏木恵一」は、間違った道を歩むことになってしまうだろう。


 同じ意識を共有するシンヤなら、その事を、わかってくれるはずと思っていたけれど。


 ―ニセモノくん。いい加減、肚を決めたらどうだ。


 シンヤの姿は、いまや「真っ黒な光」がうごめいているかのような、不気味なシルエットにその容貌を変えていた。焚火のような、自然に不規則に揺らめいてみせながら。


 そして、僕と結合し、「柏木恵一」に不都合な「記憶」は奥底に押し込めたままの「人型」になろうとしている、そのことの決意は揺るがないようだった。何故だ。


 ―「不都合な記憶」はキミとボクにとっても「不都合」なものなわけさぁ。だから封じたままにしておく。封じなければ、柏木恵一も、ボクも、キミだって……生きてはいけないんだよ。


 諭すような感じで、シンヤが僕に語り掛けてきた。傲岸さも、人を食ったような態度も無かった。諦めを含んだかのような、そんな静かな声色だった。しかし、態度はあくまで頑ななままだ。


 シンヤは、今のままでは、絶対に覆らない。揺らがない何かがある。拠り所のような、何かが。


 ―キミに記憶が無いのは、何故だかわかるかい?


 シンヤの投げかけてくる言葉が、思わせぶりなニュアンスを含んだかのように感じた。何を言いたいんだ? 僕に記憶が無いのは、僕がつくられた人格だからじゃあないのか?


 ―キミ自体が、『切り取られた記憶』そのものだからだ。つくられた人格というのとは、そうだな、少し違ったな。元から、柏木恵一の中にあったものだ。


 ……わからない。どういうことなんだ。僕の認識していることは、一体、何だって言うんだよ。


 ―柏木恵一は巧妙だよ。『葬り去りたい記憶』だけ切り取ってしまうと、かえってそこだけが目立ってしまうから、そしてその目立つ記憶の断片を探りあてられてしまうから、ぼやかしたんだ。キミという、付随する人格ごと、隠すべき記憶を切り取った。その上で、鍵をかけた。そして、『記憶の断片』をまき散らした。キミを惑わし、行動させ、そして納得させるために。


 わからない。シンヤの言っている逐一が、全然理解できないぞ。頭が、頭が思考の摩擦で火を噴きそうだ。


 ―キミは『25歳』の、たった『一か月』の記憶を有するだけの、人格の、残骸だ。


 「残骸」。僕は、自分という存在が、たった一言のその言葉で、何故かとてつもなく軽いものと感じられてしまい、それこそ、宙に浮いてしまいそうな、そんな覚束ない感覚に襲われてしまう。


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