#42:決意する


 その後、ひとり取り残された屋上からどのようにして自室に戻ったかは記憶に無い。記憶がほぼ無い僕が覚えていないのだから、おそらく相当なショックを受けていたんだろう、と思う。ともかく車椅子を無意識に転がして、僕は帰ってきていた。


「……」


 部屋の扉を閉める。何となく、閉めたい気分だったから。


 ロックをかけた車椅子から、左腕と右ひじをのろのろと動かして、自分のベッドに移動し、うずくまったような姿勢のまま、僕はしばらく動くことが出来なかった。


 ……しっかりと考えることも出来そうになかった。


 僕は誰だ。お前は誰だ。そして……あなたは。


 もはや、僕は誰かの手の内で踊らされているということを、はっきり自覚しなければならないところまで来ていた。


 自分にとっての「切り札」「道標」みたいに思っていた「予言」も「予知夢」も、過去が生みだした、上っ面だけの抜け殻だった。


 さくらさんは、僕の恋人だった人。そして記憶を失った僕に、過去の出来事をトレースするかのように行動して、記憶を取り戻させようとしている。そういうことなのか? たぶん……そういうことなんだろう。


 シンヤは僕の恋敵。さくらさんから僕を遠ざけようとしている? そういう風に考えたのだけど……いや、であれば、僕の記憶を取り戻させなければいいのでは? 


 ここが引っかかって、それ以上、思考が前に進まない。僕に記憶を取り戻させた上で、真っ向から勝負を挑もうとしている? いや、記憶を取り戻した僕でも勝負にはならないと端から考えている? まあ確かに、奴の方が人間として、男として、一枚上手な感はずっと感じているけど。悲しいことに。


 うん……シンヤのことは後回しにしよう。どうせしばらくは会わないのだし。


 さくらさん。……初めて、この病室で言葉を交わした「記憶」を引っ張り出す。


 ―こんにちは。

 ―気分はいかがですか。


 僕は覚悟を決めなければいけなかった。「今」を破壊する決断を……しなければならなかった。


「10がつ14か」。その日を境に、僕を取り巻く小さな世界は、変わるはずだ。


 変わって……終わる、のかも知れない。それでも、さくらさんの考えが薄々ながらも分かってしまった以上、このまま呑気に踊り続けることは、もはや僕には出来そうになかった。


 あと二週間弱。その日までにやることは二つ。


 ひとつはリハビリに精を出すということ。車椅子と併用でも構わないから、何とか松葉杖で少しは歩けるくらいで臨みたい。大事な……対峙になると思うから。


 もうひとつは、シンヤの言っていた「ショック療法」。つまり様々なにおいをわざと嗅いで、「過去」のピースを集めまくるということだ。手持ちの札は多ければ多いほどいい。それが例え、何の力も持たない、カス札のようなものであっても。


 まずは身近な「花」のにおいから始めよう。病院の売店にも見舞い用の花は売っているし、外の、隣接した公園までだったら、ひとりでの外出許可も出そうだ。そこで花をいくつか失敬して、自室で嗅いで意識を飛ばし、「過去」を得る。


 何だ、単純じゃないか。単純で簡単な作業だ。仰向けになって、ふっと鼻で笑ってみる。視界がぼやけてくるのが分かるが、構わず僕は瞼を閉じて、ついでに意識も閉じようと試みる。傷跡をなぞるようにして、何かが流れ落ちるのを感じながら。


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