#41:瓦解する


「……味方って……なぜ、僕なんかの味方をするんです? 何かあなたに益があるとでも?」


 風が強くなってきた。この病棟は七階建て。その屋上ともなると、周りの住宅とか建物をほぼほぼ見渡せる高さなのだけれど、その分、吹きすさぶ空気の流れも脈打つかのように体を叩いて来る。


 下着の上に薄いカーディガンのような上着を羽織っただけの僕は、ぞわりと駆け上がってくる肌寒さも感じている。それが外からもたらされているものなのか、内から湧き出てきているものなのかは分からないけど。


 秋の訪れ。季節が巡ることは知識として当然知っている。ただ、それら巡り巡る季節のどこにも、僕がいたという記憶が無いだけだ。


 記憶を取り戻したいか? イエスかノーなら、イエスだ。他ならぬ自分の記憶……それは自分と世界を結びつける重要なものであると思っているから。


 記憶。記憶とはつまるところ、何なんだろう……「自分」をかたち作るもの? それを失くした者は、もはや「自分」を保つことが出来なくなるとか、そういうことなのか? 今の自分を鑑みる。頼りない足場とは思うけど、まだ自分は「自分」のまま、ここに立っている。


 まだ、やれることはあるはずだ。


 だけど何故、目の前のこの男は、他人の記憶を呼び覚まそうとしてくるのだろう。それはやはり、怪しいとしか言いようがないわけであって。


「……キミは、何かを隠している。自分の行動の指針となりうべき、何かを」


 !! ……いきなり来た。こいつも直球だ。


 僕の「予言」「予知夢」の存在を……おぼろげながら掴んでいるような言い方。シンヤのこちらに振り向けた顔は、いつもの余裕をかました不遜なものだったけど、間近で見るそれは、何故か懐かしいような、それでいて何かが違うような、もどかしい違和感を持って、僕の脳裏に迫ってくる。誰なんだ、本当に。


「……なぜ映画館に行った? 記憶を『音響』によって取り戻そうとしただぁ? ボクをなめてもらっちゃあ困る」


 くっくと笑いながら、シンヤは今度は腕を組んだ姿勢で柵に寄り掛かり、遠くに見える海岸線を眺めながら、続けた。


「……キミが記憶を取り戻せる『きっかけ』、それは『におい』によってしか想起しない。見ていたよ。キミが映画館で昏倒する前の不自然な『咳込み』。あの時、マスクの下の鼻クリップをずらすか何かして、マスクに染み込ませていた何かしらの『におい』を吸い込んだんだろう? 佐倉めぐみは騙せても、このボクにはキミの心理が事細かに分かってしまうんだよぉ。キミがどんなに隠そうと、欺こうとしても、それは無駄だ」


 背中ごしに掛けられた言葉に、僕は言葉を失う。


 見られていた。シンヤのことは、開演前に、さくらさんから身を隠すように消えたから、もうあの場にはいないものと決めつけていた。


 戻ってきていたんだ、暗闇に乗じて。僕らが映画に集中している最中にでも。そして子細に観察していたというわけだ。自分の「策」に没頭するあまり、脇がすかすかに緩んでいた僕を。


「……においで記憶が甦るのはおそらくそうなんだろう。それは確かなんだろうけど、しかしプラスアルファがある。いや、あるはずと踏んでいるんだがねえ、柏木恵一クン」


 軽薄そうな、それでいて重みのある、そんな矛盾を孕んだ独特のよく通る低音で、シンヤはそう続ける。こいつは「予言」の自動書記のことを言っている。僕が持つ唯一の切り札。だが何故それに感づいた?


「大森の映画館、そしてこんどは江の島にドライブだぁ? それはキミが、記憶を失う前に、あの女とよく出掛けていたところだろうが。ああ? とっくに記憶が戻ってて、ひょっとしたらわざとやってるのかと初めは疑ってしまったが、どうやらそうではなさそうだ。ならば、君を誘う何かがあるはずと考えた。あるんだろう? 過去を知る何かが?」


 何だと? 前に僕がよく行っていた? いや、それよりさくらさんと僕がよく出掛けていただと? 記憶を失う前、つまり過去に? 過去? どういうことだ。どういうことだと……いうんだ。


 「予言」では無かった? 「予知夢」では無かった? あれは全て過去の出来事? だとしたら……だとしたらどういうことだ? やはりさくらさんが、僕を、騙しているということに……ならないか? そしてシンヤはその「過去」を知っている? 過去の僕とさくらさんのことを知っている?


「……まあ、佐倉めぐみもよくやる。知っていて、キミに過去の『追体験』をやらせようとしているってわけだぁ。ま、それで記憶が甦ると、彼女は考えているのかも知れないけどねえ。どの道、佐倉めぐみには気を付けろ。何を企んでいるかは分からんが、彼女はいつか、キミがキミに失望するときを運んで来る気がしてならない。これは忠告だぁ。せいぜい、頭の隅にでも置いといてくれ」


 後頭部から頭頂を通って、おでこの辺りが冷え切っていくかのような感覚を覚える。


 さくらさんと僕は、あの「予知夢」で見たような関係、だった、のか? 既に「過去」においては。


 では何故、それを隠す? これまで予言に関わることが全てうまく行っていたように思えたのは、さくらさんが、そうなるように巧みに誘導していったからなのか?


 なぜ。僕の知らない「記憶」には、さくらさんがいると、そういうことなのだろうか。そうだとしたら、この……「この今」は何なんだ。


 思考はもつれ、脳を締めあげてくる。頭が……頭の中が熱い。


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