#43:昇華する
一日いちにちが、何の思わせぶりなところも無く、するりするりと過ぎていく。
リハビリを今まで以上に真面目に真剣に、それに没頭することで、頭の中にどんどん沸いてきてしまう様々なことを吟味せずに昇華させていく。そうすることでしか、今の「自分」を保つことなんか、出来そうもなかった。右膝に刺すような激痛が、左脇腹に感じる重い鈍痛が、僕の頭をゆだらせ埋め締め付けてくる思考を逆に霧散させてその刺激を和らげてくれているかのようであり。それに、体を充分に回復させ、以前通りに……前のように動かせるようにしておくことが。
……これからの「対峙」には必要不可欠なことと思うから。
そんなどこか力点を置き違えたかのような努力の日々は瞬く間に過ぎていき、あれよあれよと言う間も無いまま、「10がつ14か」まで、残すところあと一日まで迫っていたわけであって。
10月13日。僕はまた、朝食後のきついリハビリを終えて、自分の病室まで戻ってきたところだ。痛みもそうだけど、今まで使わずにいたところがガチガチに硬くなっているようで、正座あとの痺れに痺れまくったような、足首をあらぬ方向に曲げてしまうという失態を幾度となく演じながらも、僕は少しづつ「歩く」という動作を再び得ようとしている。
「……」
松葉杖があれば歩けるのか? の問いに対しては、メイビーイエス。ただ、右手はまだ満足に物を掴むことが出来ないので、左の杖を前方に突き刺し、次いでそこに体を引き付けるようにして両脚揃えて移動、そしてその後のバランスが崩れてしまうのを、右の松葉杖で何とか支えると。そんなくらいが精一杯なのだけれど。でも、それでいい。
「決行」の場所は、おそらく「波打ち際」になるだろう。足元は砂浜のはずだ。松葉杖での砂浜が歩きやすいのか、にくいのかは予想できないけど、これで、さくらさんの顔を、同じくらいの高さで見ながら、話すことが出来るはず。せめて……僕が生きる「今」が果敢なく崩れ去るその瞬間くらいは、好きな人の、好きだった人の顔を見ていたい。
面と向かって話せるか、だって? それはまた別の話だ。でも、あれから数々の「記憶」の断片を手に入れた僕は、シンヤの言葉に想起され、ふと思った「ある事柄」が、おそらくは真実なんだろうことを、確信するに至っていた。だから、最後。最後くらいは、出来るはずだ。そうだろ? 僕。
「僕が僕に失望する時」を、さくらさんが運んで来る、とシンヤは言っていた。失望だけなら儲けものだよ。失望すら、感じられない状態に、僕は陥ってしまう可能性もあるわけで。
「10がつ3 0にち さくらさんを いえにまね くふた りでなべをかこ んでよどおしい ろんなことをはなし あった」
「11が つ21にちさ くらさんのたんじょうびぼ くはほそ みのうでどけ いをおくっ たすごくよ ろこんでくれた」
「12がつ 19にち さくらさんのごり ょうしんにあうぼ くのことはあまりきにいってく れなかったみたいだ けれどこ こからがんばっ ていく」
必死でかき集めた、のたうつ文字を何度読み返しても、それに付随する何ひとつも思い出せなかった。それは僕が記憶を失っているからか? いや、そうじゃない。
柏木恵一が過去に体験し、「日記」として記したもの。それが「予言」。いや、「予言と思い込んでいたもの」だ。なぜ、体が自動的にそれを再び「複写」するのか? 「僕」という者の意識が途絶えた時に、それは開始される。それは何故か。いきついた答えはこれだ。
「僕」は「記憶を失った柏木恵一」では無かった。
何かに追い詰められた柏木恵一が、閉ざした心の奥底で作り上げた、記憶を持たない、虚ろな人格に過ぎなかった。いや、もっと薄い……人格の表層……と言ったらいいだろうか、そこに居座った、それが「僕」だ。そして、
「僕」がにおいにより昏倒した時にだけ、本物の柏木恵一が少し顔を見せ、「予言」というメッセージを残す。
誰かに、助けられたいという意思はありながら、でも自分からは行動を起こそうとしない、そんな根っこのところは弱い人間なんだろう、「柏木恵一」は。
そしてきっと本当の「柏木恵一」が本当の、その「人格」を取り戻したのなら、僕は消える。
さくらさんは、僕の記憶を取り戻そうとしているんじゃない。本当の柏木恵一を取り戻そうとしているんだ。
「僕」がニセモノの柏木恵一であることは見抜かれている。見抜こうと、毎日二回も、あの「会話」を続けていたのだろう。脈拍とか、脳波とかを測りながら。
そして、過去の楽しかった日々をトレースすれば、底に眠っている本物が目覚め、甦ると考えているのではないだろうか。だから「予言」通りに事は運んだ。いや、運ばされたんだろう。さくらさんの、巧みな誘導によって。
そう。要は、僕は邪魔者でしかないわけだ。偽物、借りものの「柏木恵一」。
……だったら消してもらえばいい。他ならぬ、最愛のひとに。
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