#02:回答する


 記憶が抜けている……全て? ……いや、全部ではない。自分の名前は? わかる。


 僕の名前は柏木かしわぎ恵一けいいち、字面も浮かぶ。ただ、ことここに至るまでの経過やら事情やらが飛んでいる。思い出そうとするも、何をどうやって思い出すか、その手続きの取り方すら、すこんと抜けている感じだ。脳が……まともに働かない。それでも無理して考えようとすると、頭の右側辺りが熱を持ってむずがゆく、左側が逆に冷え切って鳥肌が立つ、みたいな、何とも言えない状態に落とし込まれてしまう。そんな中、


――今がいつ、何年かわかるかしら。


 降り落ちてくる声のトーンが微妙に変わったのが僕には感じられた。試す質問だ。僕が記憶をどれだけ保っているのか。それをこの声の主は確かめようとしている。


 この女性は医者か。僕がどれだけ正常かを確かめようと、あるいはどれだけ異常かを見極めようとしているのではないか。平静を可能な限り装いつつも、僕は頭蓋骨の裏側を、内側から掻き毟らんばかりの勢いで、記憶の沼の底をさらって、何かを見つけ出そうと四苦八苦を続ける。


「……」


 しかし、いきなり「今は何年」という質問は、かなりヘビーな記憶喪失を疑っているのでは。ここで間違えると、ややこしいことになりそうな気がした。


 ただ未だ気にかかるのは、こちらの情報をすべて出してもいいのかということ。直近の記憶があやふやな今、相手が本当に信頼できる人物かどうかをこちらも見定めなければいけない。


「すいません、まだ頭が朦朧としたような感じで……長い間、寝ていたって言いましたよね。そうなるとどこまで正確はわからないですけど、僕の記憶が確かなら……」


 完全に確かでは無いが。ひとまず「正常ではある」ことをかましておいた方がいい、と思った。


「2009年ですよね。今は」


 この結論に至るまで、キインと鋭い音が鳴るんじゃないかほどに脳細胞をフルで回転させ、自分の中の記憶を探っていた。


 2008年の北京オリンピック。これは記憶にある。北島康介の二冠。フェンシング太田の銀。そして村上春樹の「1Q84」。これが2009年に発売されたのを僕は知っている。なぜか。


 僕が生まれた日は5月29日。「1Q84」は2009年5月29日発売。25歳の誕生日。それが記憶に残っていた。


――……


 「声」が沈黙する。あれっ、間違えた? 確かに2009年までの記憶があるからといって現在が2009年だということにはならないか。それ以降という可能性もある。でも2009年から先の出来事は自分の身に何か起きただろうことはおろか、社会とか、世界での出来事ですらも、何も思い浮かばない。それを……失っているということなのだろうか。


 やばいやばいと、あれこれ考えていると、


――正解。


 笑いを含んだような、しかし優しさを感じる口調で声は答えた。僕は思わず自分の口から吐息が自然に出てきていたのを感じる。よかった。いや、いいのかどうかは分からないけど、それでも自分の記憶がほんの少し、戻ってきているのも感じられている。


――今は2009年の9月14日。あなたの名前は思い出せますか?


「ええ。柏木恵一。25歳」


 今度は自信を持って言い切った。これは確実。そしてここで白を切ってもしょうがないとの判断。向こうにも僕の素性はある程度わかっているはずだし。であればここは事実を告げるでいいだろう。


――正解。


 また少しの間があった気がした。間違えたか。いやそんなはずはないと思うけど。声のトーンはやわらかいままだ。気のせいか。


――柏木恵一さん。わたしは「さくら」と申します。よろしくお願いします。


 僕の逡巡を尻目に、声が自らのことを初めて語った。


 「さくら」……さん。春の薄桃色の花のイメージは、声から受けるイメージに合っているのかあっていないのかちょっと分からない。声はやわらかな感じだが、話す言葉には何というかクールな知的さを感じるわけで……でも初めて、僕はこのスピーカーの先にいる人のイメージが、うすぼんやりとだけど垣間見えたような気がした。


「さくらさんは医師のかた……なのでしょうか」


 だがまだ信用していいかはわからない。僕は当たり障りのなさそうな質問を続けることにした。


――精神科医の……なりたてです。特別にあなたの担当を任されています。


 「特別」というのが何か引っかかる。そして「精神科医」……僕の頭には何かしらの疑いがかけられていると思って間違いないだろう。でもそれは一体どういったことなんだ。


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