#01:再開する
ここは、どこだろう。
――おはようございます。
「……」
――気分はいかがですか。
「……」
声が聴こえる。
糸のように細い視界の隙間から見えるのは、白い壁。白い……部屋。窓は右手の方にひとつ。対する左側にはこれまた白い扉があった。でも見覚えの無い部屋。
目やにでくっついていた瞼はなかなか割り開かれずに、顔面の筋肉をけっこう引きつらせてみるも、あと少しのところで中途半端に固まったままだ。反射的に動かそうとした右手は全く反応をしてくれず、なら、と思って持ち上げようとした左腕には、関節にふとん針でも刺したような痛みが走って、僕は天を仰いだままの姿勢で、ぐううと呻き声を漏らしてしまう。
強張り程度にしか動きのままならない身体の力を諦めて抜くと、軽く左右に目だけを動かして周囲を確認してみる。僕の他にはこの部屋には誰もいないようだ。しんとした、完全な静寂ではないが、静謐な感じがこの八畳くらいの空間には満たされているように感じた。じゃあこの「声」はどこから?
――思い出せましたか。
思い出す。何をだろう。
と言うか、どこから、何で、みたいな疑問が霧散してしまうかのような、何と言うか安心する声だ……降りかかってくるかのような声。おそらくは僕に語りかけてきているだろうその声はやわらかな女性のもの。しかしその質問の意図はよくわからない。
周りには消毒薬だろうか? それ系の薬品っぽい匂いが漂っている。酒か何かで前後不覚になってこの、おそらく病院と思われるところに運び込まれてきた? そうなんだろうか。と、
――あなたはかなりの間、眠りつづけていました。
またも降り落ちるかのような「声」。目線を苦労してその方へと振り向けてみる。僕の真正面は真っ白な壁だが、上の方に小さな四角い箱状のものが取り付けられている。どうやら「声」はそこからこの部屋に放たれてきているようだ。スピーカー……顔の見えない相手の声に戸惑いつつも、僕はその相手の出方を伺う。
何か普通では無い雰囲気。うかつな行動は取らない方がいい。何かしでかしてしまったとして……それでも自分から積極的に話したりすることが得策とは思えない。僕は咄嗟に目を細め、眠たげな表情でぼんやりとしてみるけど。
――意識が戻ってきたのがつい先ほど。まだわけがわからないのも無理はないでしょう。でも安心してください。私たちは決してあなたに害を加えるつもりも、不利益なことを与えるつもりもありません。だから……眠そうなふりとかはしなくてもいいわ。コミュニケーションを取りましょう。
最後の方の言葉は何か少し親しげで、少し笑いを含んだように聞こえた。向こうからは見られている、僕の姿が。そして僕の下手な演技も見切られている。
「あ、あの。ここはどこですか。僕はいったい……」
顔が少し紅潮するのを感じながらも、僕はこういった状況に置かれたら万人がそう問うであろう、ありきたりな質問をしようとしてしまうけど。何と言うか、この期に及んでも僕はまだ「自分」というものを必要以上に出すのは危険だなどと思っている。というか、頭の中がごちゃごちゃしすぎていて、何にもまとまっていない状態だ。すべての思考がふわふわとしている感じ。とりあえずは現況の把握をしようと、そんな言葉を紡ぎ出す。
――ここは神奈川の英心会病院。あなたはここで治療を受けていました。
やはり「病院」なんだ、ここは。そして、話すごとに女性の声がややくだけた感じになってきているのがわかった。それはそれで親近感を覚えてやや和んでしまう単純な僕だが、いやそれよりも「治療」……僕はいったい……? 一向に焦点を結ばない自分の思考具合に少し苛立ちすら感じてきた僕だったが、
――頭蓋骨陥没、そして肋骨三本、に加えて右腕と両足首の骨が折れている状態で運ばれてきたあなたは、意識不明の重体でした。
「声」はいきなり物騒な言葉でそう切り出す。
「意識不明の重体」。ニュースではよく耳にする言葉である分、我が身としての実感は薄い。しかし、だんだんと自覚されてきたこの身体のままならなさ、部分部分に感じる身体の奥が軋むような熱い痛み。そしてようやく気付いたことだけど、僕は車椅子に座っていた。いや座らされていた、か。前開きの短い水色の薄いガウンのようなものを身につけている。入院患者が着させられるものだ。腰から下は動かそうにもどうともぴくりともしない。右腕は指の第二関節辺りから肘の少し上まで包帯がみっちり巻いてあるのが見えた。こちらも自分の意思通りに動きそうな気配は無い。
――いちばん危惧された頭の……脳の状態ですけど、治療は概ねうまくいったようです。こうしてあなたとお話しできるようになったのですから。
声はそう言うが、ちょっと待って欲しい。
……記憶が無い。
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