#03:自覚する


「意識不明の重体って、言いましたよね。ええと、僕は何らかの事故に巻き込まれたのでしょうか」


 直近の記憶は本当に無い。聞いておくべきだろう。僕の問いに答えるように、頭上の白いスピーカーから「声」が降り落ちてくる。


――東名高速の上りを自動車で運転走行中、何らかの原因により外壁に激突したようです。


「それは居眠りとか飲酒とか……」


――アルコールは検出されず。事故当時の健康状態については調査中です。


「事故……ですよね」


――おそらくは。運転中に意識を失った可能性もあります。


 そうか。聞いたことはある。てんかんや睡眠障害が原因とか。自分に持病があるのかについての記憶は無いけれど。


「さくらさんは……その、僕の脳の状況なんかを調べたりするのでしょうか……」


 直球で聞いてみる。というかあまりに記憶が抜け落ちすぎていて駆け引きをする余裕が無い。ので、まずはできる限りの情報を引き出そうと試みる。それが正しいかどうかはおいおい考えていくこととして。


――そうです。脳の障害が……あ、いえ、その頭に強い衝撃があったのでそのあたり詳しく検査をしなければ、なんですね。


 ちょっとはぐらかした感……だけど、ずばりの「脳の障害」を僕は疑われているのだろう。急激に動かさなければ、その箇所に激痛は走らないことを学習した僕は、その、かろうじて動く左手で耳を掻く。ふりをして頭に感じる包帯を探ってみる。少しざらついた手触り。それは耳の上から頭全体にびっちり巻かれているようだ。


「事故があったのは……」


――8月7日の午後9時過ぎと見られています。


 となると、ひと月くらい、僕は眠り続けていたというのか。そんな長い間……いや、そのくらいのものなのだろうか。よくは分からないけど。


「事故った場所っていうのは……」


――大井松田IC手前でした。


 ……坂の下りでカーブのきつい……事故多発地点とか言われていたような。正にそこか。そんな記憶……というか知識というか。そういったものは比較的自然に頭に浮かぶものの。こと自分とのつながりとなると、まるで何も引っかからないし、繋がらない。いろいろな物の紙吹雪のような断片の中に胸の辺りまで埋まっているかのような感覚。


 交通事故で頭を強く打ち、記憶喪失となった。


 これが僕の今の現実。物語やドラマなんかで考えたら、極めてありがちな事なのかも知れないけど。


 いや、他ならぬ僕の身に起こったことだ。ありがちでは片づけられないだろ。でも、差し当ってしなければならないことは何だ?


 記憶を浚う。でも届くところに、手の触れられるところにある記憶の表面は、何だかつるつるとしているかのようで、僕を拒むかのようにただひんやりとそこにあるだけの感じ……何も教えてなんかやらないぞ……みたいな雰囲気。あくまでイメージだけど。


 つまり、うまく記憶にアクセス出来ない、といった状態だ。うぅぅん、もどかしい。


――柏木さん。つらそうですね?今日はこれまでにしましょうか。


 くしゃみが出そうで出ない、みたいな珍妙な顔をしていたのだろう、さくらさんが気遣ってそう言ってくれるが、ひとつ、これだけは聞いておかなくてはいけない。僕の散乱した記憶の中に残るたったひとつの、重要な一片。


「他の人たちは無事なんでしょうか? 一緒に乗ってた……」


 微かな記憶だけど、自分で運転していた感覚は残っている。そして助手席の誰かと話していたような気も。車内には僕含めておそらく三人いたはず……必死で記憶の欠片を繋ぎ合わせようと四苦八苦するものの、意識すればするほど、その記憶の断片は、断片の山の中に紛れ込み、どこかへ散らばっていってしまうような気がした。


 いや、ひとりだったかな……ひとりで運転している像も、何故か浮かんでくる。混濁……記憶の断片が引きちぎられるようにして、それがまた別の断片とくっついてしまうような……僕の頭の中はどんどん混沌としていってしまう。


何だ、この感覚は。しかし、そんな僕のあがきを止めるように、さくらさんは何かを口に出そうとして……


――………


 一瞬、いやそれ以上の沈黙。僕は悟った。そして記憶の断片にぼんやりとフォーカスが合ったような気がした。


同乗していただろう人、いや、「人」っていう表現では収まり切れない、僕の大切なはずの……


――残念ですが、ご家族の方は、事故当日にお亡くなりになりました。


 そういうことだ。僕の運転していた車に乗っていた……家族の命を僕は……僕が奪ってしまった。つまりは……そういうことだった。


 家族……父さん、母さん……ままならない記憶の断片をかき集めようとするけど、かき集めるという動きが、記憶の群れたちをかき混ぜてしまう、そして埋もれ散っていってしまう。


 家族の顔……それが思い出せない。像を結んでくれない。


 叫び出したくなるようなもどかしさに、僕は引き攣った顔面を、さらに硬直させることしか出来なかったわけで。


――今日はこれまでにしましょう。柏木さん、まずは体を休ませることです。


 僕はそれ以上言葉を出すことが出来なかった。呼吸も浅くなっている。さくらさんの声はそんな僕の背中を優しくなでさするかのような響きを持っていた。それに意識を委ねるようにして、息を意識的に大きく吸ったり吐いたりしてみた。表面上は……身体は落ち着いて来る。そして、


――また明日、お会いしましょう。おやすみなさい。


 やわらかな挨拶を最後に、さくらさんの声も途絶えた。僕は目を見開いたまま、白い壁を睨みつけるようにして、ただそこに座っていた。いろいろと、考えることが多かった。考えなければいけないことが多すぎた。


 無言で入ってきた看護師につかまり、ベッドに寝かせられる間も、僕は呆然と、何かを考えようと、ぐちゃぐちゃの頭の中で、何かを思い続けていた。



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