浸潤される夏

秋寺緋色(空衒ヒイロ)

    


 夏がきた。


 ぼくらにとって忘れられない夏が――


     ☆


 奇妙な現象のはじまりがいつからだったのか、実はもう、よくおぼえていない。


 例えば、梅雨明け間もないころに立ち話をしていた近所の主婦たち――

 彼女たちの何気ない会話からだったかもしれない。


「お散歩お疲れさま。あれっ!? その犬――?」


 ひとりが子連れの母親に声をかける。最後は声をひそめて、

「――死んだって言ってなかった……?」


 子連れの母親のほうも困ったように小声で、

「しっ! 黙っててやって。死んだ犬が生きていたと思いこんでいるから。そのほうがいいの」


「そっくりな犬ね。買ったの?」


「それがねー、ウチの家にひょこっとやってきたのよ。あのコ、首輪もついてなくて」


「ええと、同じビーグル犬だったわよね?」


「もうね。何から何まで死んだ犬にそっくりなの。見た目だけじゃなくて。散歩のコースやご飯をねだる方法、おトイレの場所も躾けないでもわかってた。名前も『トビー』って言ったら反応するし、本当に死んだ犬が帰ってきたのかも……けーたろうくん、トビーのリードはしっかり持って! じゃあ、また今度ゆっくり話しましょ」


 そう言って、犬を連れた親子は立ち去ってゆくのだった――


     ☆


 近所にある旧商店街はシャッターのおりている店舗が多かったが、ここにきてその閉店数がさらに増えていた。

 しかも百年近く営業していた老舗すら数軒、店を畳んでいる。

 急速に活気が無くなってきた印象だ。

 ネットショッピング全盛の時代。一旦客足が遠のいてしまえば、もはややってゆけないのだろう。

 ぼくはそのさびれ具合を横目で見ながら、会社帰りの道を歩いてゆく。

 夕方といえど、夏の日差しはまだまだ盛んだ。


御津倉みつくらさん! 金目キンメだよ。今日は金目が入ってる。買ってかない?」


 ぼくに声をかけてきたのは、なじみの魚屋のご主人。

 奥さんを数年前に亡くされて気落ちしていたらしいけど、何とか立ち直り、今はこうして一日中、威勢の良い声を張りあげている。息子さんたちは余所よその町で暮らしているらしい。


「じゃあ、きのいいヤツをひとつ」


「あっ! ヤだねー! ウチのはぜ~んぶ、きイイんだからっ!! 知ってんでしょっ!?」


 代金を払って金目鯛の入ったビニール袋を受け取る。今日は煮つけにしよう。決めた。

 かく言う、ぼくも男やもめだ。

 三十過ぎで子供もいないので親たちは嫁をもらえ、再婚しろ、とうるさいが、到底そんな気になれない。

 病室で手を取り「あたしが死んだら――」なんて妻が言い出すものだから、ぼくは傲然ごうぜんと「独身貴族にあこがれていたから、これからは気兼ねなく悠々自適に暮らすよ」と言い放ったら、それ以上は何も言わなくなった。

 果たして、どういう気持ちで何を言おうとしたのかは彼女に訊けずじまい。その二日後には亡くなってしまったから。


 家にたどり着く。

 たったひとりの、悠々自適な独身貴族が根城にするは、妻と暮らした一軒家だ。

 家に帰るとすぐ、明かりを点け、リモコンをさがし、テレビを点ける。

 地方ニュース。今日は真夏日だった。ただ、今年は冷夏かも――とかなんとか。

 ろくすっぽ聞いてない。ぼくは料理にかかる。

 こちらに背を向けて咲いているヒマワリが窓から一瞬見えた。

 陽を浴びた、あざやかな黄色。

 あれを初めて植えたのは、たしか彼女だったな……

 懐かしい。だが彼女との思い出が増えることはもうない。

 何より、ともに過ごした年月よりも多くの日々を、ぼくはひとりで費やしてきたのだ。

 食事。掃除。洗濯。毎日のゴミ出しに近所づきあい。日常生活のあれやこれも――もう慣れた。いっぱしの専門家だ。どんなもんだい!


「何せ独身貴族さまだからなっ!」


 思考を口に出して言う必要なんて、ない。意志の疎通を図る相手なんか、どこにもいないんだから。分かってる。分かってるのに、どうしようもなく言葉をつぶやいてしまう。


 君のいない世界には――

 いつまでたっても慣れることができないんだ……


     ☆


〈うまかったな、昨日のキンメ……〉


 翌日の、帰り道――

 旧商店街。

 ひと言お礼を言わねばと魚屋の御主人を目でさがす。

 だが魚屋にはシャッターが下りている。

 それどころか閉店を告げる貼り紙まであった。


『お客様へ

 この地に店を構え三十有余年、皆様には大変お世話になりました。この御恩は終生忘れません。ありがとうございました。そして急な閉店、心よりお詫び申し上げます。

 店主』


 ぼくは呆気にとられた。

 昨日、元気に商売っ気たっぷりに魚を売っていた人間が、翌日には店を閉めるという――そんなことってあるのだろうか?

 強い違和感をおぼえた。

 おぼえたがどうも仕様がない。

 旧商店街にあった活気が、またひとつ消えてしまったのだ。

 彼女とよく一緒に買い物にきた頃とは随分変わってきている。町の風景は風化し、欠落してゆくのだった。

 よく話していた近所さんたち、旧商店街の人たちも何人か亡くなったり、引っ越していなくなっている。


 ねぇ……

 キミが亡くなってから、周囲の状況は少しずつ変わっているよ。

 ぼくたちを取り巻いていた世界も少しずつ死滅してゆく。とまらないよ。取り戻せない。滅んでゆくんだ。

 ぼくらはみんな、そうやって緩慢かんまんなる死を受け入れてゆくのだろうか?


     ☆


 その日の夜――

 彼女の夢を見た。

 結婚して間もないころの、ふたり。

 彼女が生きていたら当たり前に過ごしていた――そんなありきたりな一日の夢。

 ぼくと彼女は他愛もないことで喧嘩をしてしまう。

 家を飛び出し、ぼくは車でどこかへ行ってしまう。

 彼女は家のなかで泣いている。


〈何やってんだ……やめてくれ! ふたりとも喧嘩なんかするな! しないでくれっ!! 君たちが一緒にいられる時間は――!!〉


 ぼくは目を覚ました。

 泣いていた。

 さびしかった。

 そして、彼女と喧嘩をしていたころの自分が、途轍とてつもなくうらやましかった。


     ☆


「じゃあ、そちらをもうひとついただけます――?」


 最初にぼくを打ちのめしたのは、その声だった。


 めったにない平日休み。

 旧商店街からは離れたところにある、少し広めの八百屋。

 その店先で――ぼくの時間が静止した。

 驚きが最初で、理由はあとからついてきた。

 ただ――

 理由が追いついても、驚きは驚きのままだったのだけれど。


「夏はトマトにお塩を少々。あとは――」


「〈――キリリと冷えたビールがあればいい〉」


 彼女の独り言と、ぼくの心のつぶやきがぴったり重なった。

 ぼくはその場に立ち尽くしてしまう。

 彼女は代金を支払っている。


「そういえば奥さん――どこかで……」


 店の軒下、夏の濃い陰のなか、不意に疑問を口にする八百屋の主人へ、

「ずいぶん久しぶりに寄ったから、お釣りはいいわ――次、サービスして。ほら、あっち。お客さまがお見えよ」

 そう言ってその場を離れる。

 きびすを返してこちらに、ぼくのほうへと歩いてくる彼女。

 手に提げたビニール袋には赤くて丸いものが何個かけていた。

 ぼくに話しかけてくる。


「ついつい買いすぎちゃった――ダメね、無計画で。ちょっと重いから持ってくれる?」

「……」


 ぼくは黙ってビニール袋を受け取った。

 結構ずっしりと重かった。


 いろんな疑問が心のなかで湧きあがってくる。

 だが集約するとふたつの種類にまとまる。


〈君は誰なんだ?〉


 ――そして、


〈ぼくは正気か?〉


 彼女は夏が生みだした陽炎みたいなもの? そして、ぼくはといえば夏の熱気に頭をヤられてる――そういうことなんだろうか?

 いいや。そもそも、ぼくがぼくの妻のマボロシをただただ見ているだけかもしれない。だって――


 彼女は二年前、すでに亡くなっているんだから……


 だが、彼女は彼女そのものだ。

 妻じゃないと、ひとまずぼくは頭で否定した。

 でも、心は肯定している。肯定したがっている。

 歩きかた。肩の動き。笑う仕草。

 どう見ても彼女だ。

 そう……

 笑うと目が細まって瞳が消えるんだった――おんなじだ……

 いやいや。違う違う。

 現実にそんなこと、起こりうるはずがないじゃないか!

 彼女は妻なんかじゃない。

 じゃあ、これは現実じゃないのか?

 やっぱりぼくは頭が怪訝おかしくなってしまったのだろうか?

 ――とりとめなく、とめどなく、堂々巡りだ。


 ああ、そうか……分かった! 分かったぞっ!! 彼女は妻の――そっくりさんかっ!? いや、妹? いや、双子?

 ……なわけないな……

 そんな話、彼女から聞いたことない……


「ねぇ、ハルくん」

「――!?」


 彼女がぼくの名を呼んだ。

 不意うちで、瞬時に感情がたかぶる。

 目の前が少しボヤけてしまう。


 もう二度と彼女がぼくの名を呼ぶことはない――


 あきらめきれないことを無理にあきらめていた。

 でも、あきらめようとしても決してあきらめられないことだった。


 もう一度、彼女にぼくの名前を呼んでほしい――


 その願いが突然、叶ってしまった。


「どこ行くの? 家、こっちだよ?」

「うん……」


 動揺して、思わず帰り道を間違えそうになるぼく。彼女はそんなぼくを、家への最短ルートへとうながす。


〈状況証拠はそろってきている――彼女は限りなくぼくの妻である可能性が高い。いや、たぶん――〉


「はぁー! あっついねー。ただいま~!」

「……」


 とうとうふたりで家まで帰り着いてしまった。

 無言のぼくに、


「……何?」

「いや、あの……おかえり……麻里マリィ……」

「うん。ただいま、ハルくん」


 その日――

 ぼくたちふたりは、以前一緒に暮らしていたときと同じように過ごした。


 彼女はやはり、彼女だった――


 彼女以外の誰でもなかった――


     ☆


 翌日、会社ではいつも通りの手順で午前中の仕事を終えた。

 ホワイトボードにある「御津倉」の横に赤で「営業廻り。直帰」と書き、ことさら大げさにあいさつをして意気揚々、営業しまくって成績を伸ばしますよ~、ぼくはっ!――と言わんばかりに、がったんごっとん騒々しく物音を立てながら会社を出た。

 小者の小芝居――我ながら呆れる。しかし、今日は容赦してもらいたい。昨日妻が――麻里が帰ってきたところなのだ。


〈また、いなくならないよなぁ……?〉


 そんな不安の一石が心の中、大きな波紋を幾重にも拡げてゆく。

 いても立ってもいられなくなる。

 帰ろう! そうだ、家に帰ろう! 帰ります!


 ぼくは最寄り駅へと急ぐ。

 わき目もふらず、急げ急げ。麻里の所に帰るんだっ!!


 なのに――

 ぼくはツイてなかった。

 彼を偶然、見かけてしまったのだ。

 彼が女性と連れだって歩いてゆくのを目撃してしまった。

 どういうわけか、少し胸騒ぎがした。

 つきとめたいと思う。

 どうしてなのか。

 彼は――


 魚屋のご主人はどうして急に仕事をやめ、忽然といなくなったのか――? 


     ☆


 彼の名を呼ぶ。

 振り返り、ぼくを認め、彼はバツの悪そうな顔になった。

 間違いない。魚屋のご主人だ。

 立ち去ろうとするのを、ぼくは追いかける。

 あきらめ、彼は立ち止まった。一緒にいた女性を背中に隠す。

「キンメ、美味しかったですよ」

 ぼくの言葉に、ご主人は曖昧に笑う。

「やっぱり煮付けが最高でした」

 依然何も言わないので、ぼくは話題を変えた。

「ところで、そちらの女の方は?」

 彼の顔つきが変わった。視線を下に落とす。

 女はご主人の影に隠れた。

「恋人さんですか? スミに置けませんねぇ~」

 軽口を言うぼくを彼女は睨みつけ、

らぬ詮索はするな! お前も彼女と一緒にいたくばな!!」

「さ、早苗さなえ。お前、何もそんな言い方しなくても……」

 彼女? 彼女とは誰のことだ? まさか、麻里のことなのか?

 それと早苗? 聞き覚えがある名前だ……

 今度はこちらが言葉に窮していると、魚屋のご主人は「あの……」と、話しだした。

「御津倉さん、後生ですから怒らないで聞いてくれますか?」

「どうしてぼくが怒るんです? 聞きます。そして怒ったりなんかしませんよ」

 すると安堵したのか、ご主人は最近彼の身に起きた出来事を語りだした。


「実はこいつ――早苗は私の妻なんですよ……とっくの昔に死んだはずなんですがね……」


     ☆


「怒らないで聞いてください。そんなバカな! ――って、おっしゃりたいのは分かりますよ。でもね。本当です。本当なんだ。死んだはずの妻なんですよ!」


 何ということだ。

 ぼくだけじゃなかったんだ!

 ここにも死んだはずの妻が生き返った人物がいた。ぼくとご主人――いや、ぼくら以外にもいるのだろうか?


「それにね。私だけじゃない。知ってるでしょ、高木さん? あの人だって急に引っ越したけど、引っ越す前に、亡くなったはずの旦那さんと歩いているところを何人か見てんです。見たその人たちも、何らかの理由で引っ越していなくなってますけどね――」


 おそらくその人たちも『かえって』きたのだろう……愛すべき家族が。

 でもそれを周囲に知られるわけにはいかない。

 そうなると自分たちのことを知る人間が誰もいない町へ行くしかない。

 引っ越すしかない。

 最近、急速に町から人がいなくなっている気がしたけれど――これが理由なのかもしれない。


「申し訳ありやせんが、御津倉さん。私たちのことは見逃しちゃあ、くれませんかね? 私も老い先の短い身。このまま静かに妻と過ごしたいんです。お願いします! 後生ですから!」


 何度も頭を下げ下げ去ってゆく魚屋のご主人。

 傍らから鋭い視線を投げかけてくる、亡き妻。


 ふたりを見送りながら、ぼくはこれからのことを考えていた。


 ひとまず、麻里と話をしよう。


 家路を急いだ。


     ☆


 家の玄関ドアを開けると、とてもいい匂いがした。

 麻里が夕食を作っている。

 ぼくは思わずその場にくずれそうになる。


『要らぬ詮索はするな! お前も彼女と一緒にいたくばな!!』


 魚屋の妻の言葉。

 今からぼくがやろうとしていることは、明らかに「要らぬ詮索」に該当するだろう。

 麻里と一緒にいたければ詮索はしないほうがいい。

 そうだ。

 やるべきことは詮索ではない。引っ越しだ。

 誰も麻里が死んだことなんか知らない、ぼくらのことを知らない、それこそ誰にも詮索されないで済む町をさがそう。そこでひっそりとふたりで暮らそう。

 もういい。もういいじゃないか。

 もう彼女を、麻里を失いたくない。

 一度失ったんだ。

 二度も失いたくない!


 ――だけど。


 魚屋の妻に感じた、あの違和感の正体は何なんだろう?


 それによって、どれだけの善良な人たちが騙されているのだろう?


〈ぼくはどうすべきなんだろう……?〉


「お帰りなさい」


「ただいま。あの、麻里……」


「ん? 何?」


「話がある。大切な話だ」


「晩御飯のあとでもいい? 冷めちゃうし――」


「いや、ごめん。早目がいいんだ」


「もう~、冷めちゃうのにぃ~! 何? 急いでよ!」


 ぼくは今日の出来事――魚屋夫婦と会って見聞きしたことをすべて彼女に話して聞かせた。

 そして――こう切り出した。この問いから始めるしかなかった。


「麻里、君は一体誰なんだ?」


 沈黙のあと、彼女は答える。


「誰って……あなたの――」


「ぼくの妻――御津倉麻里は二年前、すでに亡くなっている。臨終にも立ち会っているし、お葬式もだした。火葬場で骨だってひろってる。確実に死んでいるんだ。でも、君は麻里だ。顔つき、体つき、匂い、記憶、言葉遣い、服の好みや生活習慣にいたるまで。完全に生きていた頃の麻里とおんなじだ。どういうことなんだ? 君は死んだんじゃないのか? 生き返ったのか?」


 先ほどよりも長い沈黙が続く。ぼくは彼女の言葉を待った。


「そうね。じゃあ、とりあえず今のあたしの状況を少しずつ話すわね…… ん~、まず、そう言われてみると、あたしは死んでいるのかもしれないな、ってこと。最後の記憶は曖昧だけど病院のベッドだった気がする。そこから空白があって、気づいたら八百屋さんでトマト買ってたし。あとは昨日からの記憶しかない。家に帰ってきて、鍋とかいろいろ配置が変わってて料理作るのが大変。テレビ見たら、何だか言ってること分かんなくて、カレンダーには二年後の日付。どういうこと? 誰か説明してって思うわ。でも――」


 彼女は最後にこう加えた。


「でも、晴くんが思うとおり『要らぬ詮索』したらいいって思う。好きにしていいんだよ」


『――そこは『要らぬ詮索』はしないでって言ってもらわないと、ね――』


 部屋のなかで、白い炎が燃えあがった。瞬間、爆発するように大きくなり、そしてぼくと同じくらいの背丈になって静かに安定した。不思議と熱さを感じない。


『やれやれ。どれだけ精神幻影攻撃の精度をあげても、必ずイレギュラーが現れる。そして我々の邪魔をする』


 麻里が悲鳴をあげてぼくに駆け寄る。彼女を背にかくまう。

 声は直接脳内に響いてくるみたいだ。


『君はさしずめ、この星の守り人――といったところか。なかなか強靭な精神だ。我々の精神攻撃を物ともせぬどころか、打ち破り、自由に操るとはな。そこにいる君の奥方は我々のコントロールを完全に離脱している。我々の作り出した幻影に君の心が投影されている。もはや完全に本物だよ。君が出会った魚屋の妻とは全然別物だ』


 ぼくは首を巡らし麻里を見た。彼女もぼくを見あげる。

 白い炎は言葉を続ける。


『我々は君たちから見れば宇宙人。他の星からやってきた侵略者なんだろう。ただ超絶的な破壊兵器で星をひとつ木っ端微塵する――そんなやり方はしない。我々の目指すは溶融と合一。宇宙空間を埋め尽くす、超越的生命体の形成だ。そのためにこの星の生命体――多様性のある生物の遺伝子が必要だ。人間には静かに列の最後に並んで待ってもらいたいだけなんだ。我々にちょっかいをかけないでほしい』


 炎が揺らめく。


『それと今回、事前テストとしてこの町を限定的に選んだ。精神幻影攻撃をこの町の住人全員に行った。それにより、死別した家族との再会――このテーマで人の動きは殆ど制御できるとの結果を得た。だが、イレギュラーも生じる。君だよ、御津倉くん。君だけには精神幻影攻撃が効かなかった。じゃあ、もう死んでもらうしかないな――とはならないんだ。生物の多様性はそのイレギュラーな部分をも取り入れなければ完成しない。むしろ君は取り除くことができない重要な成分なんだ』


 白い炎はひと呼吸置き――


『――御津倉晴、我々を受け入れるんだ。君はひとこと、受け入れる、と言えばいい。それで交渉は成立だ。我々は君を精神的に手に入れることができ、君は君の心を投影した完全なる奥方とずっと暮らしてゆける。どうだね?』


 麻里がぼくの腕にすがりついた。


「ダメよ、晴くん。自分の気持ちを偽ってはダメ。あなたは自分だけが幸せだったらいい――なんて考えない人。だからあたしはあなたを好きになったの。晴くん、しっかりしてっ!! みんなを助けてあげて!」


 ぼくは決断することができなかった。妻の言うとおり、このままでは遠からずこの星は侵略されてしまうだろう。誰も気づかず、巧妙に。

 別にいいじゃないか。ぼくは麻里と暮らしてゆける。ひとりぼっちの生活に戻らなくてもいいのだ。

 もう二度と、彼女を失いたくないっ!!


 だが、彼女はぼくに正しいことをしろと言い募る。


「晴くん、晴くん! 晴くんっ!! あたしは晴くんの妻です。魚屋の奥さんみたいなニセモノじゃない。あなたのことが大好きで、いつもココにいます」


 と、ぼくの胸を指さした。そして泣きながら、


「だから、晴くんもニセモノにならないでっ!!」


 泣き顔の彼女を見ながら、ぼくは自分の叫び声を、自ら信じられない思いで聞いた――


「ぼくは否定するっ!! お前たちなんか受け入れるものかっ!!」


 一瞬――


 一瞬だった。


 一瞬ですべては取り去られていた。


 あとには、何も残ってはいなかった。


     ☆


 麻里はいなくなり、ぼくはまたひとりきりになった。


 後悔する感情すら奪い去られてしまったようだった。 


     ☆


 夏がきた。


 ――そして、終わる。


 ぼくらにとって忘れられない夏が。


 ぼくらにとって忘れてしまいたい夏が。




〈了〉

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浸潤される夏 秋寺緋色(空衒ヒイロ) @yasunisiyama9999

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